猫の事件10

 遠い夜

 
 
ショートショート三題噺・出題者=松島トモ子
題=茗荷《みようが》
  電話帳
  あやつり人形
 
 冷たい雨の降る夜だった。
 小料理屋のカウンター。女が一人で酒を汲んでいる。
 テレビでよく見かける顔。三十を過ぎているのだろうが、表情は華やかで、充分に美しい。
「久美さんはあんまり週刊誌になんか噂が載《の》りませんね」
 板前が包丁の音を響かせながら声をかけた。店にはもうほかに客の姿もない。
「ああ、そうね」
 女は曖昧《あいまい》な声で答える。
「男なんか卒業ですか」
「そうでもないけど、いそがしくて」
「いそがしくても、やる人は結構やっているんでしょ」
「そうねえ。まめな人もいるから……。私も昔は少しくらいやったのかしら。ウフフ」
 女は残りの酒を口に運びながら少し笑った。
「昔ったって……まだ現役でしょうが」
 板前は茗荷《みようが》を刻んで小鉢に盛り、鰹《かつお》ぶしをかけて差し出す。
「好きな人が現われれば、いつだってやるわよ」
「いくらでもいるでしょうに」
「そう簡単にはいかないわ。夢中にならなきゃつまんないし、夢中になったら毎日が大変よ。今のまんまでいいの。結構楽しくやってんだから。惚れたの、はれたのって四六時中ドキドキしてたんじゃ、身が持たないわ」
「なるほどね」
 板前は適当な相槌《あいづち》を打つ。
「これ、茗荷? 今が旬《しゆん》なの? おいしい」
「温室栽培ですがね。酔ったあとは、さっぱりしていいでしょ」
 女は箸をななめに使いながら薄色の香りを口に運んだ。
「でも茗荷って、あんまりたくさん食べると忘れっぽくなるんですって?」
「さあ、どうですかね。落語にはありますけど」
「あ、ほんと?」
「宿屋の主人がお客からお金を預かるんですよ、たしか。それを忘れさせようとして茗荷をたくさん食べさせるんですけどね」
「ええ……?」
「ところがお客のほうは宿賃を払うのを忘れちまって。そんな話じゃなかったですか」
「聞いたことあるみたい」
「ありますよ。有名な話だから」
「お銚子、もう一本いただこうかしら」
「どうぞ」
 話が途切れ、薬缶《やかん》だけがかすかな声をあげている。
 外の通りを足音があわただしく駈けて行った。ハイヒールの響きかしら?
 ——いつかもこんな夜があったわ——
 女はぼんやりと思い出す。茗荷の香りが遠い日の記憶を胸に運んで来る。
 
 そう、あれは……初めて主役を務《つと》めた舞台が大好評で、数人の仲間と一緒に六本木のスナックで祝盃をあげた夜だった。洋風の店なのに奇妙に和食のメニューがあって、茗荷スライスなどが出る。
 気分は最高に浮き立っていた。舞台に立つ者には�一夜にして世界が変る�ときがあるんだとか。あの夜がそうだったのかもしれない。飲むほどに酔うほどに、
「あ、いけねえ。大事な電話を忘れていた」
 だれかが大きな声をあげた。
 ——あら、私も忘れていた——
 一瞬、得体の知れない不安がフッと脳裏をよぎった。
 ——せめて彼に電話くらいかけてあげなくちゃあ——
 五日ほど前�彼�から手紙が届いた。
�舞台は好調のようですね。陰ながら成功を祈っております。こちらは相変らず|※《うだつ》があがりません……。いたずらに年を取っているうちに、また年の瀬がやって来ます。そう、何年目かの十二月。あなたはもう忘れてしまったでしょうけれど……あの冷たい夜が僕にとってどれほど暖かい夜であったか。肌のぬくもりを昨日の出来事のように思い出すことができます……。あなたの声が聞きたい。声さえ聞けば立ち直れるような気がします。電話でかまわない。たった一言でかまわない。あなたの声がほしい。どうか忘れずに……。十九日から旅に出ます�
 短い手紙だったが、不思議に息苦しい気配が漲《みなぎ》っていた。
 ——今夜は十八日——
 彼は手紙を投函してからずっと待ち続けていたのではあるまいか。
 電話をかけようと思ったが、驚いたことに電話番号が思い出せない。昔はなによりもよく記憶していた番号だったのに。
 あわてて電話帳を捜したが、スナックには備えてなかった。
「ちょっと出て来るわ」
「どこへ行く? いい男に会いに行くんだろ」
「ちがうわよ。すぐに戻って来るわ」
 声を振り切って外に出た。冷たい雨が落ちていた。あちらの電話ボックス、こちらの赤電話、ハイヒールで雨の道を走った。電話帳は喫茶店にも見当たらない。一〇四番にかけてみたが、いっこうに通じない。
 あきらめてスナックへ戻った。
「もう少し飲めよ。強いんじゃないか」
「ええ」
 飲んでいても不安が小骨のように喉にささっている。
 仲間と別れたあとでタクシーを飛ばす気になったのは、なぜだったろう。
 ——あのときスナックに電話帳があったら——
 何度か思い返したことだった。
 
「どうしました?」
 板前がまな板を洗いながら尋ねた。
「この店にも……電話帳、ないわね」
「どこかへかけるんですか」
「ううん、いいの。どうしてどこの店にも置いてないのかしら」
「かさ張るからでしょ。せまい店じゃね。一〇四に聞きましょうか」
「いいのよ。べつに今いるわけじゃないから。昔ね、電話帳がなかったばっかりに……」
「はあ?」
「どうしてもかけなきゃ駄目な電話を忘れちゃったの。そのときも茗荷を食べていたわ」
「まさか」
「本当よ。茗荷って効くみたい。物忘れをするのかしら。遅くなってから電話の人のところへタクシーを走らせたわ」
「相手は男ですね」
「かもね。昔、住んでたところだから道はよく知っていたの」
「いい話じゃないですか。昔、一緒に暮らしていた男のところへ急に思い出してフラッと訪ねて行くなんて」
「そんなんじゃなかったわ。電話番号も思い出せないくらい忘れていたんだから」
「なるほど」
「ただ一声かけてあげれば、役に立つような気がして……。彼、あんまり仕事がうまくいっていないみたいだったし」
 女の視線がどこか遠いところを捜している。
「喜んだでしょう?」
 女は板前の言った言葉の意味がよくわからないように眼をあげた。女の表情がかすかに強張《こわば》っている。
「変なものね。電話帳があればそれでよかったのに」
「…………」
「アパートの脇に大きな公孫樹《いちよう》の木があったの。もう葉っぱなんかすっかり落ちてしまって。だから暗かったけど、よく見えたわ。彼がその木のところで……」
「待ってたんですね」
「ええ……。待っていたのかもしれないわね。板さん、見たことないでしょ?」
「なにを?」
「あやつり人形」
「あやつり人形?」
「そう。頼りないものね。人間の体なんか。風に吹かれて……雨に打たれて、糸で引くみたいに揺れていたわ」
 板前の手が止まった。
 女は思う。一緒に暮らしたアパート。ままごとみたいな生活。苦しい時代を、たがいに疵《きず》をなめあうようにして生きていたっけ。あれからもう何年たったのかしら。
「その人が初めての方ですか」
 板前が細い声で尋ねた。
 女はうつむいたまま小さく首を振り、次に顔をあげたときにはもういつもながらの人気稼業の微笑に戻っていた。
「忘れちゃったわ、みんな。茗荷って本当に効くみたい。とてもおいしかった」
 席を立って格子戸《こうしど》を開けた。
 外は雨。今夜はみぞれに変るかもしれない。
 
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