平の将門113

 毒 杯

 
 
 藤原不死人は、前々から、まず興世王を手なずけ、玄明や、そのほか、目ぼしい諸将を、悉《ことごと》く、自分の説く所に、抱きこんでいた。
 要するに、不死人の使命は、将門を立てて、天下の大乱に、突入させることにある。
 その混乱に乗じて、彼がつねに気脈を通じている藤原純友が、海上から摂津《せつつ》に上陸しようという計画である。
 もちろん、彼らは、累代の摂関家と、一連の朝廷貴族に、うらみはあるが、それを以て、朝廷をどうしようという考えはない。目企《もくろ》むところは、革命にはちがいないが、摂関政治への私怨であり、その改革であった。
 ところが、将門には、そんな気もちは、毛頭もない。彼はただ郷土の平和の中で、凡々たる幸福の子でありたいだけなのである。しかし、事々に、その小なる願いも妨げられて来たのだった。——事ここに到ってもまだ彼は、恋々として、桔梗を想い、酒に悲しみ、なろう事なら、このまま、酔い死なんとさえしているふうに見える。
 ——かくては、と三人は眼まぜを交わして、(一国を奪るも、八州を奪るも、乱を問わるる公責は同じですぞ)
 という前提を以て、将門に、こうすすめたのである。
「このさい、唯一の策は、権力を拡大することです。たとえ問罪の軍が、中央から下って来ても、われに、十万の兵も恐れぬ強大な結束があれば、どうする事もできません。かえって、公卿共の方から妥協してくることでしょう。力です、武力です。——一刻も早く、坂東八国を掌管して、善政を布き、諸民を手なずけてしまうに限ります」
「そうか。……いや、おれも、死を待っているわけにはゆかぬ」
 将門は、ついに、毒杯を仰飲《あ お》った。
 ふたたび、馬上の人となって、十二月十一日、豊田の館《たち》を発向し、下野の国府へ攻めて行ったのが、彼として、今や公然たる叛軍の旗を挙げた第一歩だった。
——各、龍ノ如キ馬ニ騎《ノ》リ、士卒雲ノ如ク、コレニ従フ。
 とは「将門記」の描写である。大陸的な誇張であることはいうまでもない。しかし、この頃の相馬殿の勢威は、そんな風にいっても、おかしくない程、いわば破竹《はちく》の勢いであったろうとは想像できる。
 坂東占領の挙は、将門としては、窮余の一策であり、常陸侵入の暴挙を、それで埋め合わせようとしたものだった。けれど、死中に活路を得ようとした彼の意図は、客観的には、
(いよいよ、将門大乱を謀る)
 という大旋風の序曲となってしまったことはいうまでもない。
 下野の国府へ、軍勢が着くと、一戦を交じえる者もなく、勅司藤原公雅《きみまさ》、大中臣定行《おおなかとみのさだゆき》などが、門を出て、地上に伏し、将門を再拝したといわれている。
 それを見ても、相馬軍の勢威と、そして、将門のうごきが、いかに四隣を恐怖させたものかわかる。
 その月十五日には、もう彼の大兵は、上野へ侵攻していた。
 ここでも、ほとんど、抵抗はなかった。
 介ノ藤原尚範《なおのり》は、国庁の印を、使いを以て、将門の陣へ送り、自分は妻子をつれて、風のように都へ逃げのぼった。
 行くところ、まるで草木もなびく勢いである。そして国司は国庁の印を捧げて、彼の軍馬を迎えるのだ。その領民はいうまでもない。
 彼は、だんだん八州の大将軍のような気になった。これは悪い気もちではない。しかも彼は、乱暴を働かない。一時は、逃げ惑った領民も、彼を礼拝した。
 将門は、また、国司たちの都へ帰りたいと乞う者には、兵を付けて、その家族を守らせ、信濃路の境まで、いちいちこれを送らせた程である。
 武蔵、相模の国司などは、
“——コノ風聞ニ依ツテ、諸国ノ長官、魚ノ如ク飛ビ、鳥ノ如ク驚キ、将門ノ軍到ラザルニ、早クモ皆、上洛シ去ル”
 と古記に見えるとおり、ほとんど、八州の官衙は、空き家になってしまったらしい。
 まさに、無人の境を行くようなものだったろう。こうして、坂東八国の掌握は、難なく、その年のうちに成ってしまった。
 将門の部下は、威風堂々と、豊田に帰った。
 そして、その凱旋と、八国掌管の祝典を、大宝郷《だいほうごう》の大宝八幡の社前で開いたのは、明けて、天慶三年の一月、将門が三十八歳となった新年の事である。
 この日に、彼はまた、はからずも大酔のあとで、生涯の大失態を演じてしまった。
 失態といえば、弱冠の帰郷以来、将門の生活は、ほとんど、次から次へ、失態の連続ばかりやって来たようなものだが、この日の失態だけは、取返しのつかないものとなった。終生、いや千年の後までも、そのために、彼としては所謂《いわれ》のない、そして拭いようもない憎しみをこの国の人々から受けてしまうものとなった。
 なぜならば、彼は、肚ぐろい一分子と、酔狂な周囲の者から、無理に、天皇にされてしまったからである。
 
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