贋食物誌74

     74 鱈(たら)

 
 
 戦争末期から五年間以上、米の飯を茶碗で食べたことがない。つまり、ドンブリ盛り切り一杯だけなのである。
 戦後の二年間は、下宿ずまいで外食券食堂に通っていた。私鉄の駅のそばの店だったから、大学へ通うときの行き帰りには便利だった。しかし、外出をしないで本など読んでいるときには、ドブ川沿いの道を一日に二回は歩かなくてはならない。往復一時間以上かかる、栄養失調で体力のない身には億劫《おつくう》だった。
 こういう食堂の客にはもともと女はすくなかったが、美人にはその期間に一人しか会ったことがない。
 生れてからこれまで、一度も私は未知の女に街で声をかけたことがない。このときには、その女があまりに魅力的だったので、一緒に飯をくっている友人をそそのかした。この男は、行きずりの女に声をかけるのに馴れていて、それが特技といえた。
 その男が声をかけて、三人一緒に近くの喫茶店でお茶を飲み、べつの日にその友人をほったらかして二人だけでデートしたことがあった。
 このほかはオヤとおもう女を見たことがなかったので「金がなくなると女は不美人になるものなのか」と、長いあいだ不審におもっていた。
 ところが先日、ある友人がその疑問を一挙に解決してくれた。
「金がなくても美人ならば、どんな時代にも、うまいものを食べられる境遇になることができる」
 という。
 聞いてみれば当り前のことで、そういえば、その美人は一緒にいる男の影響でコミュニストらしかった。
 そのころは、オカズも配給制で、ラジオがまるで株式市況のように放送する。
『A区第1班、スケソウダラ、第2班、スケソウダラ。B区第1班、スケソウダラ……』
 どこまでもスケソウダラつづきであり、これをタネにした社会|諷刺《ふうし》のコントができたりしていた。
 このときの鱈は、切身が水浸しになったようにグジャグジャになって、当時でも情けなくなるほどマズかった。タラは本来は旨いもので、子供のころ岡山の祖父から、ときどき註文がくる。市場で売っているタラの糟漬《かすづけ》を送れ、という。
 そのころの岡山市では、タラは売っていなかったようである。瀬戸内海の旨い魚を食い倦きると、たまにはこういうものが食べたくなるのか、と子供ごころに印象的であった。
 いま調べてみると、スケソウダラという言い方もあやまりではないが、正式にはスケトウダラ(介党鱈)ということが分かった。身のうまいのはマダラのほうだが、タラコはこのスケトウダラの卵だということを、はじめて知った。
 タラという「魚」へんに「雪」という文字は、きれいな形をしている。
 初雪の後に取れる魚なので、「鱈」と書くのだそうだし、またその切身も白くつややかだ。
 しかし、そのころ配給のスケソウダラは、茶色っぽくて世間一般の食べ物の色合いと同じであった。冠水《かんすい》芋というのも配給になって、これは水浸しになった畠で取れたイモである。いまなら捨てる筈のもので、ぐみぐみして甚だマズい。この二つが、当時のマズイもの番付の東西の横綱といえよう。
 タラは大食で、「鱈腹食べる」というのはそこから出ているそうだが、この魚を沢山食べることは食物不足の時代にも不可能だった。
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