決められた以外のせりふ79

 文学座演出部

 
 文学座演出部には甚だ特色のある演出家が揃っている。
 戌井市郎は生粋の劇場人である。舞台の“寸法”を呑み込み、芝居の“間《ま》”を心得、俳優の持味や色を生かし、小道具に演技をさせる。さまざまな演劇の要素を万遍なく揉みほぐし、手順よく混ぜ合せて、なだらかに纏め上げる。ルイ・ジュヴェによれば、演出家とは、一種のマッサージ師なのである。稽古中、彼が会心の笑みを洩らし、目を細め顎《あご》を引いて、こまかく頷く時、俳優たる僕は実にのびのびした朗らかな気分になる。
 長岡輝子は詩人でもあり女優でもある。演出に当っては、独自の感情のリズムに一切を託しつつ戯曲と俳優との混沌《カオス》に身を投じ、慎重極まる模索とおどろくべき果断とを重ねながら、詩的なニュアンスに満ちた雰囲気を創造する。稽古中、じれったくなると身振り手振りで説明した後、手巾を握りしめ、切なげに“分るでしょ?”と言う。こういう時、僕は何かに祈りたいような気分に襲われる。再びジュヴェによれば、演出家とは一種の霊媒なのである。
 あとの三人はずっと後輩である。従って、アトリエの仕事に打ち込んでいる。
 加藤道夫は戯曲の文体の尊重を説き、俳優の内的生命の充実を説き、演劇における魂の昂揚を説きつつ悠々たる演出を進める。「なよたけ」の作家の演出は何よりも先に倫理的演出である。僕もまた“永遠の今”が身内を流れるのを感じる。三たび、ジュヴェは言う、演出家は一種の求道者なのである。
 矢代静一は反写実の旗を掲げて、単純明快な様式化の効果を狙う。笑劇を愛し、モリエールを愛し、心から愉しげに、感覚的なデフォルマシオンの世界に沈湎《ちんめん》する。見ているとちょいとからかってやりたくなる位である。四たびジュヴェによれば、演出家とは一種の恋人なのである。
 自分の事は書き難いものだ。まあいい。ジュヴェによれば、演出家とはあらゆる定見・注釈にこだわらない人間のことだそうである。
                                     ——一九五二年三月 文学座パンフレット——
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