決められた以外のせりふ22

ピーター・ブルックの稽古場

 
 
 パリへ着いたのが、四月八日である。
 花祭りの日にパリへ着いたからといって、別にどうということもないが、今度の旅行中この国では、演劇研究の外国人学生としての待遇を受けることになっている。四月八日は、始業式にふさわしい。
 オルリー空港に、ジャン・メルキュール、中村雄二郎の両氏が出迎えて下さる。両氏とも旧知の間柄だが、中村氏の漆黒の口髭はいよいよ濃いのに、フランスの演出家の半白の髪はひときわその白さを増している。
「ヤマは元気かね? この間、キョーコが来たよ。電話がかかって来て、出たら、キョーコさ。東京からと思ったら、モンパルナスからだと言う。驚いたの何の」
 メルキュール氏は、相変らず活力に溢れていて、車を運転しながらも、話しつづける。私は、東京の氏のドン・ジュアンを演じた山崎努や、ドーヌ・エルヴィールを演じた岸田今日子の無事息災を伝えるが、その言葉は、たちまち氏の新しい質問の洪水に呑み込まれてしまう……。
 
 ホテルに入る。手紙が待っていた。東京の鈴木力衞氏からである。
 ——ジャン・ルイ・バロー氏から来信があって、英・仏・米・日四カ国の俳優の合同公演を、パリで六月に行いたい由である。日本からは、男優二名、女優一名の参加を希望する由。会場は国立調度博物館、演目は「テンペスト」に基づく即興劇。もし興味があれば、バロー氏に会って欲しい。
 鈴木氏の手紙は、委曲を尽していたが、鈴木氏に宛てたバロー氏の勧誘の手紙は、十分に委曲を尽しているとは言い難いのではないかと推察した。
 とにかく、これだけでは、見当のつけようがない。多少とも見当のつくのは、バロー氏の考えている日本の役者とは、能や狂言や歌舞伎の役者であって、新劇役者ではあるまいということだ。氏は地平線の彼方から日本の役者を招こうとしているが、それはつまり、西欧の演劇的地平線の彼方から、という意味であるに違いない。
 第一、四カ国の役者が一緒に芝居をすると、言葉はどうなるのか。即興劇には興味は大いにあるが、いずれにしても私に勤まる仕事とはとうてい思えない。
 しかし、バロー氏には会っておいたほうがよさそうである。その後、話が具体的に進んでいるかも知れないし、両氏の情報交換を円滑にするために、いくらかの役に立つことが出来るかも知れない。
 明日、早速オデオン座へ行ってみよう、などと思案しながら、時計を見ると、午後の七時である。パリの劇場は九時開演の所が多いと、先ほど中村氏から聞かされた。とすると、楽屋入りは七時半か、八時か。今からでも間に合う。と思うと矢も楯もたまらない。つまりは、パリの町が、パリの芝居が早く見たいのである。
 憂鬱な、不機嫌な顔をしたジャン・ルイ・バローが、ゆっくりと楽屋の階段を登ってくる。黒のコート、オレンジの絹のマフラー。じろりとこちらを見る。
 挨拶をすると、ようやく思い出したらしく、微笑する。
「ああ、君か。憶えている。君だな」
 名前は忘れているに違いない。日本へ来た時も、こちらが何度繰返して名乗っても、バロー氏は覚えなかった。アクタガワと正確に発音するのさえひどく難儀な様子であった。「アキタガワか?」と言うから、「アクタガワです」と答えると、憮然とした表情になり、横を向いてしまったりしたものだ。覚えているわけがない。
 鈴木氏の手紙の件を切り出すと、
「ああ、そうなんだ。それについては近い内に話をしよう。君のアドレスを秘書に渡しておいてくれ給え。君、一人か?」
 私がその即興劇に参加するためにわざわざ東京から来たものと思ったらしい。バロー氏も、メルキュール氏のようにせき込んで、早口で話す。片言のフランス語の相手をしていると、いらいらしてくるのであろう。再会を約して客席へ廻る。当夜の演目はポール・クローデル作の「黄金の頭」で、アラン・キュニーが大熱演をしていた。
 
 数日後、バロー氏を楽屋に訪問する。
 二重の、軽い革張りの扉。厚い紅い絨毯《じゆうたん》。部屋は十五、六畳ほどもあろうか。大きな書物机。寝椅子。壁には仮面、剣。師シャルル・デュランの写真とマドレーヌ・ルノーの写真が並んでいる。
 先客がある。黒い服を着た小肥りの、血色のよい、中年の紳士である。びんに残った髪も白く、この部屋の主より老けて見える。青い眼が、じっとこちらを見る。素顔のチャーリー・チャップリンを思わせる風貌である。
 バロー氏が来て、言う。
「ピーター・ブルックだ」
 私の名前は発音しにくいから、
「こちら、日本の役者」
 まあ、それでいいわけである。
 名刺を差出し、挨拶をすませた後、バロー氏が、ブルック氏と私とに、こもごもに説明をする。
 今度の公演のプロデューサーはバローであり、演出家はブルックである。俳優はイギリス・フランス各十人、アメリカ五人、日本三人の予定である。せりふは各自、自国語を用いる。公演のタイトルは「即興と選択」、一応「テンペスト」を台本とするが、まだ決定したわけではない。すべてはブルックの頭の中にあり、私には分らぬ。鈴木との連絡はついたが、日本の俳優はまだ到着していない。この男は偶然旅行者として来合せた役者である。私は鈴木からいい返事が来ることを期待している……
 私はブルック氏にマイケル・ベントール氏の話をする。数年前、私たちの劇団はベントール氏を招いて、「ロミオとジュリエット」を上演したことがある。
「ああ、その話は知っている。君の劇団ですか」
 と、ブルック氏は興味を催したらしく、こちらを見ながら、
「あの東京のベンソールのロミオはあまり良くなかったという話を聞いたことがある。入りはどうでした?」
 ひどく心配そうに訊ねる。Bentholをベンソールと発音する。私の名前の正しい発音はベントールだと、当のベントール氏は言っていた。とするとこれは福田恆存《つねあり》氏を、福田恆存《こうぞん》と呼ぶようなものか。
「東京のロミオは興行的には大成功でした。藝術的には、十分に成功したとは言えません。何故かというと、私たち役者が演出家の意図を十分に実現し得なかったからです。ベントールさんの演出は、日本では非常に高く評価されました」
 ありのままを言う。
「そう。そりゃ良かった。君はどの役を演《や》りました?」
「序詞役と、薬屋を」
「ああ、薬屋ね……小さいけれども面白い役だ」
「病後だったので、大きい役はまだ無理だったのです」
 余計なことを言った。
 ふと気がつくと、バロー氏がめずらしい上機嫌の笑顔を見せて、私たちの話を聞いている。
 日本の役者が初対面のブルック氏と、具体的な共通の話題を持ち、曲りなりにも話の通じることに、安心したのかも知れない。
「どうです、君も一緒にやる気はありませんか?」
 ブルック氏が言う。青い眼が微笑している。やる気がないこともないが、何分こちらには見たいもの、行きたいところが沢山ある。公演は六月だということだが、その頃にはイギリスにいるはずである。
「残念ですが」
「それじゃ、日本の俳優が来たら、また一緒に会いましょう。暇を見て、稽古を手伝って下さい」
 
 日本から劇団四季の笈田勝弘君と、文学座の若林彰君とが来る。若林君は私同様旅行中の身で、参加するためには、スケジュールの上でかなりの無理をしなければならぬ模様である。
 利光哲夫氏が通訳として参加する。
 ある日呼ばれて、またバロー氏の楽屋へ行く。
 ブルック氏の左右に、二人の青年がいる。
 一人は肥って背の高いイギリス人である。頬から顎へかけて、みごとな髯を蓄えてはいるが、色白で、あどけない眼をしている。これはブルック氏の主宰するロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに所属するジョージ・リーヴズという演出家で、体に似合わぬ小さな声で、静かにものを言う。
 もう一人は、反対に痩せた小柄なスペイン人で、素早く動く眼と手を持っている。早口でしゃべり、笑い、耳を傾け、またしゃべる。これは、パリの若手演出家の三羽烏の一人、ヴィクトル・ガルシアで、リーヴズと共に、ブルック氏の演出助手をつとめるらしい。今シーズンは、アラバルの「自動車の墓場」を出して、やたらに評判が高い。もう一人、ニューヨークのオフ・ブロードウェイで「アメリカばんざい」という芝居を演出して大当りを取っているジョー・チャイキンが加わる予定だが、ヨーロッパ巡業中で未到着だという。
 この日は笈田君と若林君との面接の後、台本についての相談が始まった。リーヴズ君の説明によると、一応「テンペスト」と、ゲルドロードのいくつかの戯曲が候補に上っているが、他にもっと適当なものはないかと物色中なのだと言う。
「日本の小説なんですが」と、ガルシア君が私たちのほうをちらりちらりと見ながら、ブルック氏に言う。
「水の中に棲んでいる怪物の話でね、というよりその怪物の国へ行った男の話なんです。その作者は青年時代に自殺したんだそうですが」
「題は何と言うの?」とブルック氏。
「それがねえ、ちょっと思い出せないんです。その怪物の名前なんですけれどね。あなた、知りませんか、ムッシュー……」
 と私のほうを振り向いたガルシア君が口ごもると、
「アクタガワ」
 間髪を入れずに正確な発音でブルック氏が答える。バロー氏とは大分違う。
「河童でしょう」と私。
「ああ、そうだ。カッパだ」
「聞いたことがある。英訳があるはずだ」とブルック氏。
 にやにや笑って聞いていた利光氏が、私を指しながら、この人はその作者の息子だ、と言うと、ブルック氏もガルシア君もリーヴズ君も、一瞬ぽかんとし、ああと軽い溜息のような声を出し、私の顔を、まじまじと眺める。私は何だか、自分が河童になったような気がして、目を伏せる。
 
 この日、ブルック氏は計画の内容をはじめて私たちに明らかにした。調度博物館というのは、タピストリーの展示場で、新館が落成したため、目下のところ、空屋の状態になっている。会場は、その二階の大広間である。
 大広間に、四つの小舞台を作る。各舞台は、通路で結ばれる。
 俳優たちはAの舞台からBの舞台へ、さらにCの舞台へと、演技をしながら移動する。二つの舞台の劇が、相呼応する場合もあるだろうし、同時に四つの舞台で演技をする場合もあるだろう。観客は回転椅子に坐っていて、自由に自分の舞台を選ぶことが出来る。
 話を聞いているうちに、私はだんだん、自分が、この演出家に魅惑されつつあるのを感じていた。
 話す声は、静かで、ゆっくりしている。歯切れがよく、声の抑揚は微妙である。言葉が一つ一つ、よく考えられ、選ばれて、語られるためである。あるいは、そのように語られていることを示すためである。青い、表情の豊かな眼がじっと一人の顔に注がれ、次の顔に移る。それが、ふと自分の内部の声に耳を澄ます眼になる。言葉が途切れる。手がゆっくりと上り、指が動く。それはある想念を喚起しようとする際の無意識の動きのようにも見え、あるイメージを明確にするための意識的な動きのようにも見える。聞えない旋律と、見えない動きとを暗示するように、ある時は花を摘み取るように、ある時は翻る鳥のように、ある時は水中の小石を探るように、ある時は幼児の頬に触れるように、指が、掌が動く。そして、新しい言葉が生れてくる。
 ブルック氏は一種の親和力を具えた演出家で、話を聞いていると、この人と一緒に未知の演劇的空間へ飛立つことは、この上ない楽しみだという気がしてくる。学者肌、役者気質、詩人型、教師風、批評家的、棟梁式と、演出家にもいろいろなタイプがあるが、ブルック氏は強いて分類すれば司祭流、教祖流の演出家であろうか。
 
 やがて、稽古が始まる。
 調度博物館の二階の大広間に、四カ国の役者たちが集まってくる。
 イギリスの役者は、殆どみな、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー系の人たちで、言わばブルック氏の子飼いの連中ばかりである。フランスは混成的で、バロー劇団の役者もいれば、デルフィーヌ・セイリーグやサミイ・フレイのように、映画で日本にもお馴染の連中も加わっている。アメリカは主としてオープン・シアター系の役者諸君だが、何といっても異色は笈田君で、浴衣《ゆかた》に袴《はかま》といういでたちだから、トレーニング・シャツやタイツ姿の西洋の役者衆が目を丸くするのも無理はない。
 役者を三組に分けて、ブルック氏と、ガルシア君と、リーヴズ君がそれぞれ指導する。ブルック氏は、役者たちにせりふを言うことを禁じた。声あるいは音は出してもよいが、意味のある言葉を言ってはいけないのである。役者は、いわば言葉を持つ以前の人類、原始人の如きものに還元させられてしまうわけである。
 ブルック氏は、初めにこんな説明をする。
 ——われわれの即興劇の原則は二つある。一つは、けっして人に見せようとしないこと、説明しようとしないことだ。二つは、行動を先にし、感情を後にすること。ある行動によって感情が生じる、その感情が次の行動を呼び起すのだが、最初に来るものは、そして常に先立つものは行動である。行動によって生じた感情は、変質させたり、抑制したりしてはいけない。最後まで突き進めること。
 それから始まった即興劇の数々は、まことにおどろくべきものであった。ある日は、役者たちは、火・風・土・木・水のいずれかになることを要求される。眼をつぶり、思い思いの姿勢で、彼らが自分たちを火あるいは風であると感じられるようになるまで、ブルック氏はじっと待っている。二十分ほど経つと、そろそろ動き出す者が出てくる。幽《かす》かな呟きのようなものを洩らす者もある。ゆるやかに身もだえする者もある。やがて、手探りで歩く者、泳ぐような身振りをする者、歌うように声を出す者が多くなり、ある者は他の者を捉えようとし、捉えられた者は逃れようとしてすさまじい唸り声をあげ、盲目の群れは収拾のつかない混乱に陥ってゆく。その激しい二時間の惑乱と狂気の果てに、役者たちは疲労し、床に横たわり、即興劇を始める前と同じように静かになってしまう。想像力の炎の消え鎮まるのを待って、ブルック氏がそっと声を掛ける。
「終った。さあ、今、どんなことが君に起ったのか、聞かせてくれ給え」
 こういう催眠術師のようなやり方で、ブルック氏は、役者の心の無意識の領域に眠っているものを揺り動かし、眼ざめさせ、拡大させようとしているらしい。言葉と行動の、理性と感情の、精神と肉体の分離以前の状態、暗い混沌《こんとん》とした、血まみれの内臓のような魂を呼び起そうとしているらしい。
 リーヴズ君の説明によると、こういう方法を最初に思いついたのは、ポーランドの演出家グロトフスキーで、彼はこの手法を用いて旧約聖書をそのまま上演したそうである。ブルック氏は、グロトフスキーから強い影響を受けた由で、その最初の成果が、四年間のロング・ランとなったポール・スコフィールド主演の「リア王」だったという。
 つづいてペーター・ヴァイス作「マラー〓サド」の勝利が来る。
 グロトフスキーの立場、あるいはブルック氏の立場は、つまるところ、反文学の立場であると言えるだろう。演劇の自立性を極度に押し進めようとする立場である。
 フランスでそういう立場を取ったのは、アントナン・アルトーである。アルトーはフランス演劇の主流からははずれていた人だが、バロー氏やブルック氏がその影響を受けているせいもあって、この頃はブレヒトと並んで、世界的に名声が高い。
 
 しかし、ブルック氏の演出の反文学の立場が、シェイクスピアの文学、あるいはぺーター・ヴァイスの文学と結びついた時に、圧倒的な、革命的な成果をあげ得たという事実は、何となく、象徴的な出来事のように思える。
 昨年五月、パリには学生革命が起った。ブルック氏は一座を引き連れて、ロンドンへ移り、自身のプロデュースによって、「テンペスト」を上演した。私はそのロンドンの稽古の途中で帰国したために、上演を見ることが出来なかった。動乱中のフランスの役者は、ユニオンの規定によって、参加できなかった。ブルック氏は、「テンペスト」の原作中、不可欠のせりふは十行であるとして、他は全部抹殺したという。笈田君は、エーリエルの役を勤めて、大好評を博したそうである。
                                                       —一九六九年九月 海——
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