忘れ貝

【忘れ貝】

 
 四日。楫(かぢ)取り、「けふ、風(かぜ)雲のけしきはなはだ悪(あ)し」と言ひて、船いださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この楫取りは、日もえ測(はか)らぬかたゐなりけり。この泊(とまり)の浜には、くさぐさのうるはしき貝・石など多かり。かかれば、ただ昔の人をのみ恋ひつつ、船なる人のよめる、
 
  寄する波うちも寄せなむわが恋ふる人忘れ貝降りて拾はむ
 
と言へれば、ある人の耐へずして、船の心やりによめる、
 
  忘れ貝拾ひしもせじ白珠(しらたま)を恋ふるをだにも形見と思はむ
 
となむ言へる。女児(をんなご)のためには、親幼くなりぬべし。「珠ならずもありけむを」と人言はむや。されども、「死し子、顔よかりき」と言ふやうもあり。なほ同じ所に日を経(ふ)ることを嘆きて、ある女のよめる歌、
 
  手を漬(ひ)てて寒さも知らぬ泉にぞくむとはなしに日ごろ経にける
 
(現代語訳)
 
 四日。船頭は、「今日は風や雲のようすがひどく悪い」と言って、船を出さずじまいになった。それなのに、一日中波も風も立たない。この船頭は、天気も予測できない役立たずであることよ。この泊の浜には、いろいろの美しい貝や石などがたくさんある。それだから、ただ死んだ女の子のことばかりを恋しがり、船にいる人が詠んで、
 <打ち寄せる波よ、どうか忘れ貝を打ち寄せておくれ、死んだあの子を忘れるために浜に降りて拾うから。>
と言ったので、ある人がこらえきれなくなって船旅の気晴らしに詠んで、
 <忘れ貝は拾うまい。せめてあの子のような白珠を恋しく思い、それだけでもあの子の形見と思おう。>
と言った。死んだ女の子に対しては、親は子どものようになってしまうようだ。「珠ほどでもなかっただろうに」と、人は言うだろうか。それでも、「死んだ子は、顔がよかった」(当時のことわざ?)と言うこともある。やはり、同じ場所で日を過ごすことを嘆いて、ある女が詠んだ歌、
 <手をつけても冷たさを感じられない泉、その和泉の国で、水をくむでもなく日を過ごしてしまった。>
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