紀貫之について

【紀貫之について】

 
 平安時代の歌人、三十六歌仙のひとり。望行の子。紀氏は本来武人の家系だが、貫之のころには多くの歌人を輩出、藤原敏行、兼覧王などが知られている。御書所預,内膳典膳,少内記,大内記,美濃介,右京亮,玄蕃頭,木工権頭などを歴任。従五位上。
 寛平年間(889~98年)の是貞親王家歌合や寛平御時后宮歌合に出詠して歌界にデビュー。延喜5年(905年)、醍醐天皇の命を受け、友則らと共に最初の勅撰集『古今和歌集』を編纂するにおよんで、一躍歌壇的地位を築いた。この編纂作業では,わが国初の本格的歌論書ともいうべき仮名序を自ら草するなど、終始リーダーシップを発揮。また、集中第1位の102首もの自作歌を選入して、理知的、分析的な古今歌風の形成に大きく関与した。
 このころから歌人としての声望はとみに高まり,以後、多くの権門貴紳から屏風歌制作の注文が相次いだ。屏風歌の数の多さは当時の一流歌人としての証であり、これらは晩年自ら編んだ『貫之集』の前半部に500首を超える一大屏風歌歌群となって残されている。
 延長8年(930年)、土佐守に任ぜられたが、赴任直前に醍醐天皇より命が下り、再び歌集を編むこととなった。『新撰和歌』4巻である。ただし、これは任地で編纂中に天皇が崩じたため、惜しくも勅撰集とはならなかった。ほかにも宇多天皇、藤原兼輔など貫之を主に支えていた人々が次々と他界し失意の内に任を終えた貫之は,承平4年(934年)帰京の途に就く。
 この折の船旅を一行のさる女性に仮託して綴ったのが『土佐日記』であり,仮名で記された日記文学の創始として,のちの女流文学隆盛を招来するきっかけとなった。 貫之の業績は韻文、散文両分野にわたり真に多大なものがあるが,ことに国風文化の台頭期にあって,たえず文学上の新しい方法を模索し、開拓していったその精神は,大いに讃えられてよい。
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