楽しい古事記08

 悲劇の人

   ——ヤマトタケル伝説
 
 
 朝、起きて食事もとらずに家を出た。目的地は横須賀の先。走水《はしりみず》……。
 そんなに急がなくてもよいのだが、若い頃、取材に行くときは、たいていそうだった。一人で朝早く出発する。あの頃は夢中で頑張っていた。わけもなくなつかしい。
 ——やるぞ——
 そんな気分が込み上げてくる。今日の予定を反芻《はんすう》する。どこかの駅で急行電車なんかを待つことになるだろう。朝食はそのときに食べればよい。立ち食いの軽食も、昔はしょっちゅうだった。
 持ち物は資料となる本一冊、ガイドブック、地図、取材ノート、カメラ、そして私の場合はテープ・レコーダが欠かせない。現地を踏んで感じたことを吹き込む。取材ノートのほうが補助的である。カメラも、それほど繁くは使わない。
 大切なのは言葉だ。作家は、使うときも言葉で書くわけだから、仕入れるときも言葉が大切だ。極端な話、取材した海の青さを目が忘れても、それを表現する言葉が残っていれば、それでよい。
 だからテープ・レコーダに口を寄せ、目につくこと思い浮かぶことを、トロトロと呟《つぶや》いて残す。手で書くよりもはるかにたくさんの情報が記録できるし、揺れる車の中でも、暗闇でも、作業に支障がない。取材を終えてから、たとえば旅の宿などでテープを聞きながら記憶を取り戻し、あらためて取材ノートを作成することが多い。
 今日は宿泊を必要とする旅にはなるまい。
 ——わざわざ足を運んで、その甲斐《かい》があるかな——
 と、懸念がないわけではない。
 おそらく入手できる情報はたいしたものではあるまい。だが、とにかく現場に立ってみる。それが重要だ。心に浮かび上がってくるものがあれば、しめたものだ。ものを書く仕事には妄想に近いイマジネーションが役に立つことがある。労力を惜しんではなるまい。
 渋谷から横浜に出て京浜急行へ乗り換えた。予測通り軽食を頬張る時間があった。ホット・ドッグとコーヒー。ソーセージのほかにカマンベールのチーズが挟んである。ちょっと贅沢《ぜいたく》。
 列車はトンネルの多い軌道を走る。堀ノ内という駅で久里浜方面行きと浦賀方面行きとに分かれる。
 浦賀で降りた。
 タクシーを拾った。年輩の運転手に、
「地元のかたですか」
 土地勘のない人は困る。
「ええ、もちろん」
 走り出すと、すぐに港が広がっている。浦賀ドックは今も健在らしい。
 訪ねるスポットは走水《はしりみず》神社と御所ヶ崎。普通の観光客なら近在の名所・観音崎へと赴くらしいが、私のほうは古事記、古事記、ヤマトタケルとオトタチバナヒメの悲話である。
 十分ほど走って走水神社に着いた。祭神はまさしく 日本武尊《やまとたけるのみこと》(古事記では倭健命《ヤマトタケルノミコト》)と弟橘媛命《おとたちばなひめのみこと》の二|柱《はしら》である。
 大きな神社ではない。繁みの深い小山を背後に置いて長い階段、そして神殿。階段の右手に航海の安全を祈る舵《かじ》の碑が建ち、左手にはなにやら読みにくい文字を刻んだ石碑がある。舵の碑は、大きな舵が縦に伸び、オトタチバナヒメらしい古代の女性が掌《てのひら》を合わせて祈っているレリーフだ。石碑のほうは、オトタチバナヒメが発し、ヤマトタケルが答えたであろう問答が流れるような筆致で刻まれている。
 そのさらに右手に包丁塚。これは走水の住人がヤマトタケルに料理を献上し、ほめられて大伴黒主《おおとものくろぬし》という名を賜った、その故事に因《ちな》んで包丁に感謝し鳥獣魚介類の霊を慰めるために昭和四十八年に造られたもの、とか。大伴黒主と記されているのを見て、
 ——えっ、時代がちがうんじゃない——
 と訝《いぶか》ったが、これは当然のことながら平安朝初期の歌人とは別人だろう。あれは六歌仙の一人。ヤマトタケルの時代は特定がむつかしいけれど、とにかくもっと古い。
 神殿の前で二礼二拍一礼、型通りに参拝して、左手の細道に入ると、そこに三メートルほどの石盤を立てた歌碑があった。東郷平八郎、乃木希典《のぎまれすけ》等の建立とあるから、すごい。大日本帝国陸海軍の大物二人である。刻まれている歌は、
 
  さねさし 相模《さがむ》の小野に 燃ゆる火の
  火中《ほなか》に立ちて 問ひし君はも
 
 と、オトタチバナヒメの最期の吟詠と伝えられるものだ。
 さねさしは高い山がそびえていること。だから歌の大意は、高い山のそびえている相模の国の野原で、燃えさかる火の中に立って私に呼びかけてくださったあなたよ、である。今、お別れするときになって、初めてお会いしたときのことが思い出されてなりません、とは書いてないけれど、そういう心境であったろう。
 ここまで書いて来て……若い読者のあいだから、
「わからんなあ、ヤマトタケルって、だれだっけ」
 と聞こえてきそうな気もするが、それはタクシーでもう少し走って御所ヶ崎に着いてから……。
 御所ヶ崎は走水港の左手に突き出した岬で、漁港の施設を通り抜け、低い防波堤を越えると、貝殻だらけの海岸と岩礁が広がっている。
 そもそもここは三浦半島の東側の突端、東京港の出入口だ。沖を望むと、大きな船が次々に通って行く。あいにくの曇天だが、晴れた日には、対岸の房総半島が水平線上に輪を描くように大きく伸びているんだとか。太古はここから上総《かずさ》へ渡り、さらに東北地方へと入るのが主要な道筋であった。
 第十二代景行天皇の皇子ヤマトタケルは天皇より東国の征伐を命じられ、いくつかの戦ののち、この三浦半島から房総半島へと向かうコースを採ろうとしたが、海が大荒れに荒れて船を進ませることができない。天気がよければ上総の半島がすっかり見渡せるほどの狭い海である。これより先、ヤマトタケルは、
「こんな海、ひとっ飛びで渡れるぜ」
 と、甘く見て呟いたらしい。古事記にはないけれど日本書紀にはそう書いてある。海神がプライドを傷つけられて波を荒げたのだ。ヤマトタケルにとって、この東方征伐は絶対に果たさねばならない使命なのだ。どうしても海を鎮めなければならない。
「どうしようか」
「どうしましょう」
 ここで登場するのがヤマトタケルの愛妻オトタチバナヒメである。
 古来、海の嵐は海神の怒りであり、これを慰撫《いぶ》するには女人を人身御供《ひとみごくう》に捧《ささ》げるのが一番と、洋の東西を問わず人類はよく似た俗信を保持している。
 ヤマトタケルの困惑をかたわらで見ていたオトタチバナヒメは、
「私が海へ入りましょう。あなたは、りっぱに使命を果たして天皇へご報告してください」
 菅《すげ》の畳八枚、皮の畳八枚、絹地の畳八枚を海の上に広げて、その上に坐《ざ》して入水した。最期に詠んだ歌が走水神社の裏山に刻まれて建っているものだ。
 波は静まり、ヤマトタケルは海上を走るがごとく船を進めて対岸に渡った。この地を走水と呼ぶのはこのためである。
 私が訪ねた御所ヶ崎は、信じようと信じまいと、とにかくこの出来事のゆかりの地である。岬に近い海岸に貸しボートの小屋があり、そこの主人らしい老爺《ろうや》が、
「あそこに低い柱みたいなもんが立っているのが皇《すめら》島、その手前で波をかぶっているのが姥《うば》島」
 と教えてくれた。
 なるほど岸から二百メートルほど離れたところに柱を立てた岩がある。ヤマトタケルがそこから船出をした岩島だとか。柱は記念碑のようなものらしい。
「御座《ござ》島って、どれですか」
 私がガイドブックの記事を確かめると、
「あの、こっちの海岸。島って言うけど、今は陸続きだね。あそこで別れを惜しんだあとオトタチバナヒメが飛び込んで死んだんだ。乳母たちが流されて行くヒメを追いかけながら飛び込んだのが姥島」
 見て来たことのようにわかりやすく説明してくれた。
 私が漁業組合の施設の前を抜けて岬の先端に出たのは、この知識を得た後である。
 ——このへんかな——
 長い年月の間に地形は相当に変わっているだろう。扁平《へんぺい》の岩が小広い平面を作っているあたりを勝手に御座島とした。しかるべき座所を置けば今生《こんじよう》の別れを告げあう宴《うたげ》の席くらいにはなるだろう。今は船虫がしきりに走っている。そこから少し離れた海っぺり、海面から二メートルほどの位置を入水の場とこれも勝手に決めた。オトタチバナヒメが海に入り、波に流され、乳母たちがオロオロと岩礁を伝って行けば姥島に到る。
 その先にある皇島は……これはどういうことなのか。そこからヤマトタケルが船出をした島という伝承だが、これは付近に群がる岩礁の中では一番遠い岩島である。海が荒れているときに、あんなところに船を舫《もや》っておくはずがない。波が静まり、皇島のむこうで船ぞろえをして勇躍船出らしい、という情況を推測してみた。
 古事記に話を戻して……出港ののち七日たってオトタチバナヒメの櫛《くし》が岬の海岸に流れ着いた。これを埋めて御陵にしたらしい。明治の初め頃まで、このあたりに橘神社があったと言う。
 一方、ヤマトタケルのほうは冠を村人に与え、これを石櫃《せきひつ》に入れて祀《まつ》ったのが走水神社。橘神社もここに合祀《ごうし》された、という歴史らしい。
 上総に渡ったヤマトタケルは、はびこる賊たちを平定し、足柄《あしがら》付近の坂下まで来て一休み。三浦半島から房総半島へ渡って、それから次に箱根に近い足柄地方とは、少し地図的な判断が狂っているような気もするけれど、そのことについては後で触れるとして、足柄の坂下で乾飯《ほしいい》の弁当を食べていると、まっ白い鹿が現われた。蒜《ひる》と書いてあるから、にんにくのような強い匂いを持つ野草らしいが、食べ残しの蒜で鹿の目を叩《たた》くと鹿がコロンと死んでしまう。それから坂の上に登って、三度叫んで嘆くのだが……このくだりもよくわからない。白い鹿は神の化身かもしれないので、それを殺したことを嘆いたようにも読めるけれど、やっぱり坂の上から海が見えたのではあるまいか。走水とは異なる相模《さがみ》湾だろうけれど、
「吾嬬《あづま》はや」
 つまり「ああ、わが妻よ」とオトタチバナヒメを偲《しの》んで悲しんだ、と読むのが適切だろう。この地方を�東《あずま》�と呼ぶのは、このせいである。
 
 ヤマトタケルは古代神話の中で、ひときわ知名度の高い英雄である。人気も高い。力強く、愛情深く、エピソードに富み、そして悲劇的な最期を遂げている。
 父親の景行天皇は実在したらしいが、古事記に見る限り帝紀風の記述が多く、つまり、だれを妻としてだれをもうけたか、その子孫はだれか、系図的な記述ばかり多く、エピソードは乏しい。このくだりはもっぱら息子のヤマトタケルの活躍で占められている。
 ヤマトタケルは若いときから乱暴者で、あるとき景行天皇が、
「お前の兄さんは、どうして朝夕の食事にちゃんと顔を出さないのだ? お前が行って、諭してやりなさい」
 と命じた。
 兄の名は大碓《おおうす》、ヤマトタケルの若い頃の名は小碓《おうす》。同じ母から生まれた兄弟が都合五人いたが、この名前からも察せられるようにオオウスとオウスは年も近く、一緒に育てられていたのではあるまいか。
 朝夕、父である天皇と同じ席について食事をとるのは恭順を示す大切な作法であった。オオウスはなにが気に入らないのか、姿を見せない。
 天皇がオウスに命じてから五日たってもやっぱり兄皇子が現われないので、
「まだ諭さないのか」
 と弟皇子を詰《なじ》れば、
「いえ、諭しました」
「どう諭した?」
「朝早く兄さんが厠《かわや》に入ったとき、私は待っていて掴《つか》まえ、手足を折って、こもに包んで投げ捨てました」
 と、まことに手荒い。天皇としては、
 ——こいつは危険人物。そばにいると、ろくなことが起きないぞ——
 そう思ったのにちがいない。
「西のほうにクマソタケルの二兄弟がいる。この連中が服従しないで困っている。征伐してくれ」
 と、熊襲《くまそ》地方への遠征を命じた。
 現在の熊本、鹿児島地方であろうか。
 それまでのヤマトタケルは髪を額のところで結い、少年の髪形であったが、叔母《おば》のヤマトヒメに頼んで衣裳《いしよう》を借り、剣を懐に隠してクマソタケルの領地へ入った。
 折しも敵は家を新築し、軍勢が三重に囲んで守り固めている。町では新築の祝いをするため食物を集めて支度に忙しい。ヤマトタケルはなにげなく付近に行って祝宴のときを待った。
 髪を少女のように結い直し、叔母から借りた衣裳で女装し、すっかり少女に化けてしまう。給仕の女たちに混じって新築の家へ入ると、クマソタケルの兄弟は、
「かわいい娘だ、こっちに来い」
 と、近くに呼び、盛んに手拍子をとってうち興ずる。
 宴もまっ盛り。頃やよし。ヤマトタケルは懐中から剣を抜き出し、まず兄のほうから襟を取り胸を刺し通す。おそれて逃げ出す弟を階段のところまで追って行って、背の皮を掴んで尻《しり》からブスリと貫いた。
「待ってくれ。そのまま、そのまま。刀を動かさないで。あなたはだれだ?」
 念のため申しそえれば、短剣《どす》というものは刺しただけでは致命傷になりにくい。一瞬、筋肉が収縮し出血を抑える。無理に抜くと、かえってよくない。古事記は説明してないけれど、やくざはみな知っている。クマソタケル弟もいくつかの修羅場をくぐって、この鉄則に通じていたのだろう。深手を負い、死ぬのは仕方ないが、だれに殺されたのか、冥土《めいど》のみやげに聞いておきたい。ヤマトタケルがきっぱりと答えた。
「私はオオタラシヒコオシロワケの天皇の御子《みこ》で、ヤマトオグナと申す。お前たち兄弟が服従しないので、はるばる征伐に来たのだ」
 先に〈辛酉《しんゆう》にご用心〉で記したが、このオオタラシ……が景行天皇の名前。ヤマトオグナというのはヤマトタケルの別名。みずから名のったくらいだから、これがそのときのヤマトタケルの名前で……それがなぜヤマトタケルになったかと言えば、クマソタケル弟は苦しい息の下で、
「なるほど、なるほど。よくわかりました。西のかたでは私たち兄弟ほど強い者はいません。しかし天皇のいらっしゃる倭《やまと》の国なら、私たちより強い者がいてもなんの不思議もありません。あなたに御名を献上いたします。これからは倭の勇者、ヤマトタケルと称賛いたしましょう」
 言い終えると、さながら熟した瓜《うり》が枝から落ちるように、クマソタケル弟は命を裂き取られてしまった。このときからヤマトタケルとなったわけである。
 使命を果たしたヤマトタケルは帰り道で山の神、河の神、はたまた海峡の神まで、逆らう者をみな平定して天皇のおわす都へと向かった。
 
 出雲の国にも立ち寄った。
 イズモタケルがのさばっていたからである。すでにおわかりのようにタケルとは猛《たけ》き者、勇者のことである。倭で強ければヤマトタケル、出雲で強ければイズモタケルなのだ。
 ヤマトタケルは初めからイズモタケルを討つつもりだったが、最初は、
「初めまして。お元気?」
 とかなんとか調子よく接して親しい仲となる。
 いちいの木で密《ひそ》かに贋《にせ》の刀を作り、つまり形は刀だが、ただの木刀で、抜くことのできないものを作ったところで、近くの河で二人仲よく水浴びをして、
「刀を換えっこしよう」
 ヤマトタケルは先に水から上がって告げた。
「いいとも」
 イズモタケルは後から上がって来て、贋の刀を佩《は》く。そのうえで、
「おい、一勝負やるか」
「いいとも」
 イズモタケルの刀は抜けない。ヤマトタケルはやすやすと取り換えた刀を抜いて相手を殺してしまう。
 まあ、まあ、まあ、先の女装といい、今度の刀の交換といい、武士道的倫理が問われる時代ではなかったのだ。悪者を討つのなら騙《だま》し討ちも結構。このあとヤマトタケルはいいご機嫌で、
 
  やつめさすイズモタケルがさあ、
  腰につけた刀はさあ、
  葛《かずら》いっぱいで、中身はない
  おかしいね
 
 と歌った。やつめさすは出雲にかかる枕詞《まくらことば》である。
 武士道のルールは守らずとも歌道のルールはちゃんと守っている。このように出雲を平定して都に帰り、天皇に報告した。
 
「よくやった」
 くらいの褒め言葉はあっただろうが、引き続いて、
「今度は東のほうへ行ってくれ。悪い神や服従しない賊どもがはびこっている」
 と、休むいとまもなく東征の命令が下った。
 吉備《きび》の臣《おみ》の先祖に当たるミスキトモミミタケヒコを供として与え、柊《ひいらぎ》の長い矛を授けてくれたが、ヤマトタケルとしては釈然としない。
 伊勢神宮に参拝した。
 叔母のヤマトヒメ(西征の折、女の衣裳を調えてくれた人だ)は、この神社に奉仕する女であったが、ヤマトタケルは今度もまた長い旅を前にして、この叔母に会って訴えた。
「父上は私に�死ね�と望んでいらっしゃるらしい。西の悪者を退治して帰ったばかりなのに、続いて東方征伐だ。いろいろ考え合わせると、私が早く死ねばいいと思っていらっしゃるんです」
 父に忠実な暴れん坊も、それとなく気づくことがあったのだ。
 この推測は正確だったろう。ヤマトタケルの悲劇はまさにこの一点にあったと言ってよい。父を敬愛し、たくさんの賊を平定して天皇に尽くしたにもかかわらず、彼は父に愛されなかったのである。涙ながらに訴えるヤマトタケルに、ヤマトヒメは、みごとな刀と袋を渡した。
 この刀が悩ましい。古事記も日本書紀も草薙《くさなぎ》の剣《つるぎ》と記しているが……すなわち、はるか昔、スサノオの命が大蛇《おろち》を退治したとき尻尾《しつぽ》から現われた、あの刀、三種の神器《じんぎ》の一つとして珍重されている名刀だが、あのときもこのときも草薙の剣とは呼ばれていなかったはずである。幼い日吉丸を豊臣秀吉と呼ぶのがおかしいと同様にヘンテコなことなのだが、それは後で述べる。もう一つの名称、天叢雲《あめのむらくも》の剣と呼ぶほうがよいだろう。
 が、いずれにせよ、その神器の一つが、なぜ伊勢神宮にあったのか、なぜヤマトタケルが持参することになったのか、おとぎ話として読むぶんには、
 ——やっぱり、凄《すご》い刀を持って行ったほうが逆賊退治には、いいんじゃないの——
 ですむけれど、学問的には若干問題があるらしい。そのことについても、後で触れよう。
 もう一つのプレゼント、袋のほうは、
「もし緊急のことがあったら、この袋の口をお開けなさい」
 というしろものであった。
 ヤマトタケルは尾張の国に向かい、ミヤズヒメの家へ入った。しかるべき豪族の娘であったろう。結婚をするつもりだったが、
 ——結婚は東征のあと、帰り道でよい——
 と、婚約だけして東国に進攻し、逆らう賊を次々に平らげた。相模の国まで来ると、そこの国造《くにのみやつこ》が、
「野の中に大きな沼があります。その沼の神がひどい暴れ神で」
 と言うので、ヤマトタケルが草を分けて入って行くと、これが国造の計略で、四方から火をかけられた。
 ——謀られたか——
 ヤマトタケルが叔母《おば》からもらった袋を開けると、中から火打ち石。
 ——そうか——
 周囲の草を、これも叔母から預かった刀でなぎ払い、火打ち石でこちらも草に火をつける。身のまわりから燃えるものをなくし、こちらの火気で寄せて来る火を追いやる、という物理学。めでたく難を逃れ、国造たち一党をことごとく殺して焼いた。草をなぎ払った刀だから草薙の剣なのだ。これがこの刀の命名の由来で、そうであるならば、これより以前に草薙であるはずがない。そして焼き払った野原が焼津《やきず》。現在の静岡県|焼津《やいづ》市で、ヤマトタケルを祀《まつ》る焼津神社がある。境内にはヤマトタケルの銅像が建っているはずだ。
 次にヤマトタケルは三浦半島に入り、走水に到って今回の冒頭に記した海浜でオトタチバナヒメの入水が起きる。ヒメが最期に詠んだ歌の中に�燃えさかる火の中に立って私に呼びかけてくださったあなたよ�という文句があったけれど、あれは焼津の事件のことだろう。二人は焼津で知りあったにちがいない。
 そう言えば、ヤマトタケルは尾張の国に婚約者ミヤズヒメを残して来たはず。オトタチバナヒメとしては、
 ——あちらのヒメ様とは婚約をなさったかもしれないけど、愛の深さでは、私、負けないわよ——
 と、これが入水の心理的動機だったのかもしれない、と、これは小説家の妄想である。
 足柄から甲斐《かい》へと移り、
 
  新治《にひばり》 筑波《つくば》を過ぎて 幾夜か宿《ね》つる
 
 と詠めば、かたわらで火をたいていた老人が、
 
  かがなべて 夜には九夜《ここのよ》 日には十日を
 
 と返した。これがわが国の連歌の始まりなんだとか。新治は地名、かがなべては、並べ立ててくらいの意味で、どちらもさほどの名歌とは思えない。だが、ヤマトタケルは老人の当意即妙をめでて吾妻《あずま》の国の国造に命じた。
 それから信濃を経て尾張へ。ミヤズヒメがお待ちかね。ミヤズヒメが大盃《たいはい》を捧《ささ》げて、
「お帰りなさいませ」
 すり寄る衣裳《いしよう》を見れば、うちかけのすそにメンゼスの血が滲《にじ》んでいる。それを見てヤマトタケルが、
 
  ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》
  夜空を切り渡る白鳥の姿
  そのように美しい
  そのように細い
  あなたの腕を
  抱こうと思い、寝ようと思い
  だが、うちかけのすそに
  月が出ている
 
 と詠ずれば、ミヤズヒメが返して、
 
  高く輝く太陽の御子よ、わが大君よ
  あらたまの年が来て過ぎ行けば
  あらたまの月もまた来て過ぎて行く
  ほんと、ほんと、あなたを待ちかねているうちに
  私の着るうちかけのすそにも
  月が出ました
 
 と歌った。ヤマトタケルはこの地で結婚し、草薙の剣をミヤズヒメのもとに残して伊吹《いぶき》山の神を従えるために出発する。刀を残したこと、これがポイントだ。
 このあたりからヤマトタケルの健康が急速に悪化したふしがある。それともなにかの神の怒りなのだろうか。伊吹山へは「山の神を素手で退治してやる」と豪語して登ったが、途中で白い猪に出会い、
「不思議な猪だ。神の使いかな。まあ、今は殺さず、帰りに始末してやれ」
 と、あなどったが、これは神の使いではなく、山の神そのものであった。ヤマトタケルは失神させられ、清水のほとりでようやく回復する。さらに進んで、
「心ではいつも空を飛んで行くと思っているが、今は足がたぎたぎしくて歩くこともままならない」
 と言い、杖《つえ》をついてゆっくりと歩くようになる。このあたりヤマトタケルの行動にともない、たぎたぎしく(足を引きずって)歩いたから、その地を当芸《たぎ》と言うとか、杖をついたから杖衝《つえつき》坂と呼ぶとか、地名縁起がいくつか記されているのだが、それは省略。関心のあるかたは原文を参照あれ。
 一本松のところで食事をし、刀を忘れたのに、その刀がそのままなくならずにあったのに感動して、
 
  尾張ももう近い
  尾津の埼《さき》の一本松よ
  お前が人間ならば
  刀を佩《は》かせ、衣を着せてやろうに
  わが友、一本松よ
 
 と歌った。歩くたびに足が三重に曲がったように痛む。そこで、その地を三重だなんて……省略、省略。また進んで、大和が近い。鈴鹿《すずか》で詠んだ歌は名歌の一つ、原文通りに紹介すれば、
 
  倭《やまと》は 国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山|隠《ごも》れる 倭し 美《うるは》し
 
 である。大和の国はすばらしい。青垣のように重なりあう山々、その山に包まれた大和は本当に美しい、くらいの意味だが、調子はおだやかに、素朴に響いてくる。
 もう死期も近い。次々に歌を詠み、その一つを現代語風になおせば、
 
  ああ、生命の満ち満ちている人たちよ
  あなたたちは大和の平群《へぐり》山の
  熊樫《くまかし》の葉を、青々とした葉を
  頭に飾って、かんざしにせよ
 
 と、これは故国を思い、生命力|溢《あふ》れる人たちをことほいでいるのだ。次は短いから(五七七の片歌という)原文のままで、
 
  はしけやし 吾家《わぎへ》の方よ 雲居起ち来《く》も
 
 なつかしいわが家のほうから雲が立ち流れて来る、と詠んでいるのだ。�倭は国のまほろば�からこの片歌までの三つは、日本書紀では(ほんの少し異なっているが)景行天皇の作とされている。注目すべきポイントである。
 ヤマトタケルの最期の歌は(これも原文のまま)
 
  嬢子《をとめ》の 床の辺《べ》に
  吾《わ》が置きし つるぎの大刀《たち》
  その大刀はや
 
 と、自分の太刀をなつかしがっている。
 悲報はすぐに都に伝えられた。ヤマトタケルの妻や子が馳《は》せ参じ、御陵を造り、泣きながら歌を詠んだ。ヤマトタケルは大きな白鳥となって海辺へ飛んで行く。妻子たちは足の痛さも忘れて、あとを追い、慟哭《どうこく》の歌を叫ぶ。さらに海に入って恋い歌い、白鳥が岩場に憩うのを見てまた歌を詠んだ。このときの歌四首は(古事記成立の頃のことだろうが)天皇の葬儀のときに歌われているものだ、とか。
 ヤマトタケルが化した白鳥は河内の国の志幾《しき》(現在の柏原《かしわら》市に当たる)まで飛び、そこに白鳥の御陵が造営された。だが、ここからも、また白鳥が飛び立つ。白鳥と化してもヤマトタケルは諸国をめぐって逆賊の平定を考えている、ということだろうか。有力者の先祖を説明する二行があるが、割愛。以上がヤマトタケルの生涯である。
 
 これほど丁寧にヤマトタケルの生涯をたどっておきながら、次のひとことを言うのは�二階に上げて梯子《はしご》を取る�のたとえのよう、筆者としては申しわけないのだが……ヤマトタケルは実在しなかった、という説が有力だ。これは古事記の成立に関わる本質的な問題だから、いかんともしがたい。
 すでに一、二度述べたように古事記という書物は、大和《やまと》朝廷がいかに正統なものか、後追いの形で作られた史書である。七世紀の後半、第四十代天武天皇の頃に発案され、当時の英知を集めて第四十三代元明天皇の和銅五年(七一二)に成立したものである。大和地方に基盤をすえた朝廷が、ずっと古い時代に……つまり第十二代景行天皇の頃に、東西にはびこる逆賊を平定し、すでに中央集権的な国家を成立させていたことを伝えるためにヤマトタケルなる英雄を創り出し、文字通り東奔西走させた、と大筋を判断するのが適切のようである。遠征のコースや事実のありように矛盾があるのは当然の帰着であろう。
 確かにヤマトタケルの遠征と似たような征伐がないでもなかった。だが、それはずっと古事記成立のときに近い時代の出来事であり、関わった人物も異なっている。一人でもない。ありていに言えば、長い期間にわたり、いろいろな人がおこなった遠征をヤマトタケルに集約し、フィクションも交え、一つの英雄|譚《たん》が成立した、ということである。五世紀の応神《おうじん》天皇から雄略《ゆうりやく》天皇に至る頃の伝承が中核をなしているようだ。三浦半島から房総半島、そこから足柄山へ……べつべつの人物の、べつべつの話ならちっとも不思議はない。
 伝承をまとめあげるに当たって、いくつかの政略的狙いが籠《こ》められたのは言うまでもない。大和朝廷の偉大さを訴えることは本来の大目的であり、それはヤマトタケルの物語の随所にうかがうことができる。景行天皇には絶対服従、天皇の命により征伐を完遂するという信条は事実上少しも揺らいでいない。そして、それが神の意志であることも、さりげなく示されている。
 スサノオの命《みこと》以来の神器《じんぎ》である刀剣(すなわち草薙の剣)で草を払ったからこそ火の囲いを逃れることができたのであり、これを持たずに伊吹山へ登ったときは明白に神の加護を失っている。大神と天皇の意思による遠征であることが示され、だからこそ成功したのだ。刀剣と火打ち石を入れた袋が伊勢神宮から貸与されていることは、この神社と朝廷の結びつき、そして、古事記成立の頃の伊勢神宮の権力伸張と関わっているだろう。ヤマトタケルが持参した刀は三種の神器の一つではなく、草をなぎ倒した、その魔力ゆえに神刀として保存されたもの、天叢雲と草薙と二振りあったという説もある。
 しかし、古事記はさまざまな伝承の集大成に当たって、まだしも素朴であった。原話に引かれるところがあった。逆に言えば、モチーフの徹底が甘かった。これは日本書紀との比較において言うのである。古事記も日本書紀も大和朝廷の正統性を誇示するために編まれたことは同一だが、その度合は後者のほうが深い。ずっと徹底している。古事記のほうが伝説の匂いを強く残している。
 ヤマトタケルの物語は、その顕著な例であり、古事記のほうが寄せ集めであることを繁く露呈しているし、原話の雰囲気を残している。先にも触れたようにヤマトタケルの詠んだ歌が景行天皇の詠んだ歌となっているくだりは、いろいろ推測を生む部分だ。
 それよりもなによりも古事記のヤマトタケルは天皇に忠誠を尽くしているが、その一方で人間としての感情もあらわにしている。西征から帰ったばかりなのに東征を命じられ、
 ——天皇は自分の死を望んでいるのではないか——
 正確に見抜いておおいに悩んでいる。日本書紀のヤマトタケルは、まったくこの種の疑いを持たず、朝敵退治に喜んで出発する。いまわの情況も古事記のヤマトタケルは歌を詠み、女性と刀に思いを残して死んでいく。あわれさが滲《にじ》んでいる。日本書紀には歌がなく、このヤマトタケルは命なんか惜しくない、ただ天皇にお会いできないのが悲しい、と型通り忠節な将軍として死んでいくのだ。古事記ではヤマトタケルの死を聞いて天皇がどう思ったか、なんの記述もない。もともと�死ねばいい�と考えていたのなら、なくて当然、そこに矛盾はない。このくだりはもっぱらヤマトタケルの妻子の嘆きで占められている。日本書紀では天皇は夜も眠られず食も味わえないほど嘆き、ヤマトタケルをあつく葬っている。トーンは完全に異なっている。大和朝廷の偉大さを訴えるためには古事記のほうも、
 ——天皇がもっとヤマトタケルに優しいほうがいいんじゃないの——
 という気がしないでもないけれど、やはり当時の伝承が……ヤマトタケルに集約された原話の武人たちの悲しみが伝承に反映され、ヤマトタケルの悲劇に影を残したのだろう。ヤマトタケルの伝承が各地に残っているのも、その成立の経緯を考えれば納得のいくことである。エピソードは諸国から集められ、白鳥となって諸国へ飛び帰って行ったわけである。
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