殿さまの日

 ふわりと高く飛びはね、ふわりと地面におり立ち、ふたたび飛びはねる。そんな夢を殿さまは見ている。|天《てん》|狗《ぐ》の術を身につけたようだなと思いながら、あちこち飛びまわりつづける。そのうち、いつしか霧のなかへと迷いこむ。霧のなかで飛びはねるのも、また面白い。景色がまるで見えないので、ちょうどからだが宙に浮いたままのようだ。ふわふわと白さのなかをただよいつづけている。しかし、不意に不安に襲われる。さっきから地面をけっていない。地面がなくなったのか。まさか、そんなことが。いい気になって霧のなかを進みすぎ、がけのあることに気がつかなかったのか。限りなく落ちてゆく。支えのなくなった恐怖。落ちる、落ちる。ああ……。

 その驚きで、殿さまは目ざめる。朝の六時。夏だったら六時の起床が慣例だが、冬は七時となっている。まだ一時間ほど寝床にいられる。そばに時計があるわけでもないのだが、なんとなくそれがわかるのだ。寒い。敷ぶとん三枚、かけぶとん二枚。しかし、ここは北国。きびしい寒さはいたるところにあるのだ。殿さまは足をのばし、湯たんぽをさぐる。陶器製のにお湯を入れたもので、かすかにぬくもりが残っている。あたりはほのかに明るい。そとは晴天で、うすくつもった雪に東の空の明るさが反映しているのだろう。きょうも寒い一日となりそうだ。
 ここは城のなかの奥御殿。つまり殿さまの私邸。奥御殿と呼ぶ一画のなかには女たちばかりのいる|中奥《ちゅうおく》の|棟《むね》もあるが、ここはそうでないほうの寝室。一日おきに、ここへとまるのとむこうへとまるのとを、くりかえすことにしている。べつに意味も理由もないのだが、いつのまにかそんな慣習ができてしまったのだ。
 殿さまはかすかに目を開いて、つぎの間を見る。あいだのふすまはあけっぱなし。そのむこうに小姓が二人すわっている。いずれも三十歳ぐらいの家臣、不寝番だ。わたしが寝ているあいだ、彼らは起きてすわりつづけ。わたしは夜ねるのが仕事、彼らは夜おきているのが仕事。そういうことになっているのだ。彼らの前には、わたしの刀が布の上にのせておいてある。もし不意の侵入者があれば、彼らはわたしを起して刀を差し出し、同時に侵入者と戦うことになっている。この泰平の時代にそんなことが起るとは思えないが、絶無とも断言はできない。だからこそ、彼らはそこにいなければならないのだ。
 あの小姓たち、わたしがぐっすり眠っている夜中に、わたしの刀をそっと抜いてみたいと思わないかな。思わないだろうな。ひとりだったらそんな気にならないとも限らないだろうが、つねに二人一組ときまっている。冗談にせよ、そんな提案をしたら、もうひとりにとっちめられる。そして|禄《ろく》を召しあげられ、家族は食っていけなくなる。わかりきったことだ。だから、そんなばかげたことの頭に浮ぶわけがない。
 武士は罪三族におよぶのが原則。なにかしでかしたら、当人はもちろん、少なくともその息子も処罰される。だから、身のまわりの世話をする小姓の役は、妻子のある家臣に限るのだ。元服前の感情の不安定な少年などに任せるわけにはいかない。異性がわりに美少年を連れて出陣した戦国時代とはちがうのだ。
 寝がえりをうつと、|枕《まくら》にのせてある紙が、ごわごわと|肌《はだ》に当る。殿さまは過去のことを回想する。
 ……わたしは先代の側室の子として、この城でうまれた。しかし、そのころのことは、ほとんどおぼえていない。赤っぽい花のことが心の片すみに残っているだけだが、それも確実なことではない。わたしは三歳になると江戸へ移され、ずっとそこの屋敷で育てられた。父の正室を母上とあがめて育った。おっとりとしていて気品のある母上。当り前のことだが、父上の正室はわたしの正式の母上。ほかに母のあるわけがない。母上もわたしをやさしくかわいがってくれた。父の子は、母上にとっても正式の子。わたしは家系を伝える存在なのだ。
 わたしの父は、国もとのこの城で一年をすごし、つぎの一年は江戸ですごす。そのくりかえしだった。わたしは、父とは一年おきにしか会えなかった。しかし、幼時において、母上とわたしは同じ屋敷のなかでずっといっしょに暮した。だからわたしは、母上に対して、より多くの愛を感じている。
 四歳の正月から、わたしは漢字を習わせられた。やせた老人がわたしの前に漢字ばかりの本を開き、声を出しながら細い棒で一字一字をさし示した。それにつづけて、わたしも同じことをやった。どんな意味なのかまるでわからず、なにかの遊びかと思い、最初のうちは面白かった。だが、その単調さに、まもなくいやけがさした。といって、ほかにはなんの面白いこともなく、わたしはそれをつづけた。いつのまにか、いやでもなく面白くもないという、日課のひとつになっていった。そして、ある日、気がついてみると、わたしは漢字をけっこうおぼえこんでいた。床の間の掛軸の字をなにげなく声を出して読み、母上がとても喜んでくれたことをおぼえている。
 そのうち、同年輩の遊び相手の男の子が、何人かできた。六歳のころだったか、また原因がなんであったかも忘れてしまったが、そのなかの一人に対し、心から腹を立てたことがあった。わたしが正しいのだ、このままほってはおけない。わたしは負けるのを覚悟で、そいつにむかっていった。純粋そのものだった。しかし、わたしはなんの抵抗も受けなかった。その時のむなしい気分は、しばらくわたしの心を占めつづけた。その気分を持てあまし、つぎにわたしは、こんどは理由もなく遊び相手の一人をいじめてみた。やはり同じ。わたしは抵抗を受けなかった。雲をなぐっているようだった。そんなことを何回かこころみ、それから、わたしは二度とやらなくなった。わたしは彼らとちがうのだ。その意識が心のなかに定着した。いかにむなしくても、どうしようもないことだった。
 七歳のころから、わたしは武術を習わせられた。それは技術の習得であり、また自分との勝負だった。他人と勝負を争うことは、わたしには不可能なのだ。そのためわたしは、武術のなかで弓をとくに好んだ。的はわたしに対して、なんの遠慮もしない。そこがわたしの気に入った。しかしやがて、武術の先生はわたしに対し、ひとつのことにばかり熱中するのはよろしくありませんと言った。わたしは心のなかをのぞかれたような気がして、恥ずかしさを感じた。
 十歳になった時、江戸屋敷のなかで、わたしは母上とべつな棟で生活するようになった。といっても、いつでも会うことはでき、さびしくはなかった。それに、身のまわりの世話を女たちにやられるより、男たちにやってもらうほうがすがすがしかった。子供あつかいから抜け出せた気分だった。うすぐらいなか、くすんだ金色、おしろいの白さ、きぬずれの音、女たちのにおい、そういったものとわたしは別れた。
 おめみえは十三歳の時だった。江戸城へ行き、将軍に拝謁し、家の後継者であることを登録する儀式。その前後は、わけもなく緊張させられた。江戸屋敷にいる家臣たちは、何回となくわたしに言った。おかしな振舞いをすると、お家の評判にかかわるという。しかしわたしは、おかしな振舞いとはどういうものなのか、まるでわからなかった。それを質問すると、家臣は困った表情になった。
 そんなふうに盛り上った緊張は、当日わたしが盛装をし、行列を従え、乗り物にのり前後をかつがれて動き出した時、最高潮に達した。江戸城で将軍の前に出たのだが、なにもおぼえていない。教えられた通りにやりおおすことだけに、わたしの心は費やされた。
 終ったあと、家臣たちは喜びあっていた。父上に万一のことがあっても、これで、あとつぎがないのを理由におとりつぶしになる心配がなくなったと。父の死を話題に喜びあう光景は奇妙だったが、わたしはもっとべつなことを感じていた。われわれの上にある将軍という強大なものの存在を、はじめて肌で知ったのだ。それまでは頭で知っていただけだったが……。
 十七歳の時、わたしは結婚をした。相手は五歳としうえだった。|譜《ふ》|代《だい》大名の息女。この縁談を成立させるため、江戸の家臣たちは幕府の役人たちにいろいろと運動をした。その正式の許可がおりた時、家臣たちはまたも喜びあった。これによって、お家や藩になにかやっかいなことが起っても、その姻戚の力で穏便におさめてもらえるのだという。わたしもそれはいいことだろうと思った。なにごとによらず、家臣たちのうれしがるのを見るのは、たのしいことだ。しかし、それと同時に、わたしの|外《と》|様《ざま》大名という家柄と、あの強大な存在につながる譜代大名の家柄、そのあいだにある越えられないみぞを、あらためて感じさせられた。
 江戸屋敷のなかに、新しく建物がつくられ、妻がそこへ移ってきた。披露宴がおこなわれ、わたしははじめて妻を見た。気品があったが、どことなくひよわな感じもした。大切にあつかわなければならないなと、わたしは思った。みにくい顔の女でなくてよかった。しかし、みにくかったとしても、わたしはべつに落胆しなかったろう。人を美醜で区別すべきでないことは、それまでに教えこまれていた。また、結婚とはお家安泰のための行事なのだ。
 十日ほどたった。妻が実家から連れてきて身辺のことの指揮を一切まかせている女に、わたしは、今晩あたり妻と寝室をともにしたいがどうだろうかと聞いた。すると女は、おからだにあまり無理をさせてはいけないのではないかと答えた。話をするだけならどうだろうと聞くと、それならけっこうでしょう、のちほど用意がととのったらご連絡しますとのことだった。
 その夜、わたしははじめて妻の建物に入った。すべて新しく、ふすまの絵も美しかった。ゆらめく灯のほの明るさのなかに、女たちが何人もいた。いいかおりの香がたいてあった。そのなかで、わたしは妻とはじめて言葉をかわした。お菓子を食べ、お茶を飲み、天候のことを少しだけ話しあった。
 それからひと月ほどして、わたしははじめて寝室をともにした。しかし、寝床をともにしたわけではなかった。妻は気が進まないと言った。わけを聞くと、かつて妻の姉がとついだ先で出産し、そのあとまもなく死んでしまったことを話した。そのことはわたしも知っていたが、出産による死を妻がそうもこわがっているとまでは気づかなかった。妻は、ここへとついだからには、お家のために死ぬ覚悟はできている、だが出産で死ぬのは気が進まないと言った。わたしとしても、そんなことで妻に死なれては、せっかくの譜代大名とのつながりが薄れ、家のためにならないと思った。わたしたちはその夜、べつべつの寝具で寝た。それらの会話は、半ば開いたふすまのむこうで、不寝番である二人の中年の侍女たちが聞いていた。当然のことなので、わたしたちはなんとも思わなかった。もしそばにだれもいなかったら、妻もわたしもその不安におびえ、どちらからともなく抱きあっていただろう。だが、そんなことはありえないのだ。
 わたしは時どき妻の部屋を訪れるようになった。さまざまな話をするようになった。あるとき妻は、侍女のひとりを側室にしたらどうかと提案した。しかしわたしは、父も健在だし、わたしもこの通りだし、あとつぎの心配はまだ早すぎるのではないかと答えた。妻は早く子供が欲しいような表情だった。変化のない日々の連続を、いくらか持てあましているようだった。
 二十歳のとき、父が死んだ。国もとから江戸屋敷にそのしらせがもたらされた。その前から、父の重態は知っていた。だが、あととりであるわたしは、母上も同様だが、江戸を出て見舞いに行くことはできなかった。それがきまりであり、きまりは個人的感情に優先する。個人的事情で武士が戦陣からはなれることをみとめたら、建物の土台石を取り除くのと同じではないか。
 悲報に接して、わたしは悲しみをあらわさなかった。あたりをはばからず取り乱すのは武将のすることではないし、それだけの心がまえはできていた。感情を形容すれば、それは厳粛の一語につきた。また、悲しみにひたるよりも、わたしに急に加わった重荷に慣れる努力のほうに忙しかった。国もとからの報告は、すべてわたしに対してなされるようになった。
 一定の月日がたつと、わたしは江戸城に行き、将軍に拝謁し、相続の手続きをした。わたしは任官し、位をたまわった。任官とは“なんとかのかみ”という称号だが、その地名についての知識は、わたしにはまったくなかった。一生のあいだ、そこを訪れることはないだろう。この称号は京都の朝廷から、将軍を経てたまわるものだそうだ。任官の手続きの時、将軍は威儀を正した。わたしは将軍の上の存在をおぼろげながら感じた……。
 
 ここまで回想した時、廊下を時を告げてまわる係が通りすぎてゆく。殿さまはそれを耳にする。起きるべき時刻。寝床から出ねばならない。出たくないとの思いが心をかすめるが、かすめるだけ。気分が悪いわけではないのだから、病気と称するわけにもいかない。そんなわがままをやったら、だれも冬のあいだ寝床から出なくなる。
 枕もとの鈴に手をのばし、それを振る。その音で二人の小姓が入ってきて言う。おめざめでございますか。ああ、と答える。意味のない会話ではない。病気の時は気分がすぐれぬと答えるのだし、湯に入りたい時はその用意をと答えるのだ。きょうはそのどちらでもないという指示。寒い朝は湯に入らぬほうがいい。かぜをひくおそれがあるからだ。それにしても、湯というものは、なぜ朝に入ることになっているのだろう。夜の眠る前に入りたいものだな。しかし、きまりはきまりだ。なにかわけがあるのだろう。あくまで夜に入りたいと主張してみれば、まわりの者が困り、その困り方のようすから、なぜだめなのかの理由を知ることはできるだろう。しかし、たかが湯だ。そんなにまでして、きまりを乱してたしかめてみるものでもない。
 殿さまは便所に行き、戻ってきて、つぎの間の座敷に行く。不寝番の小姓が交代し、かわって、お湯の入ったうるし塗りのたらいを持った小姓が入ってくる。それで殿さまは顔を洗う。そばでは、もう一人の小姓が手ぬぐいをひろげて待っている。つぎに歯をみがく。|総《ふさ》|楊《よう》|子《じ》という、木の先端をたたいてくだき、ふさのようにしたもので。
 かみゆい係の小姓がやってきて、さかやきをそり、髪をゆいあげてくれる。鋭い刃物がわたしに最も近づくのは、さかやきをかみそりでそる時ぐらいだろうな。そう考えてみただけ。小姓がかみそりで切りつけてくるなど、起りえないことだ。
 ひげの部分は、小さなはさみで刈りとってくれる。国もとなので、略式ですませるのだ。江戸にいたり、公式の場合にはそうもいかない。本来なら鼻の下のひげはかみそりを当て、あごのひげは毛抜きで抜かねばならない。もみあげからあごにかけては、かぶとのひもの当る部分。濃くなるとひもが結びにくいので、かみそりを当てないことになっている。武士のたしなみというものだ。夜に湯へ入れないのも、武士のたしなみになにか関連があるのだろうな。
 それが終ると、殿さまはしばらく座敷の中央に立ちつづける。小姓たちがねまきをぬがせ、着がえの一切をやってくれる。この、すっかりはだかになる一瞬は、火鉢がそばにあるとはいえ、さすがに寒さがこたえる。それにしても小姓たち、わたしのはだかは見あきたろうな。なにしろ、わたしのはだかについては、わたし自身よりかず多く見ているわけだ。しかし、けさがたの夢については、彼らも知るまい。だからといって、べつにとくいがることもなにもないが。殿さまは夢の話をしてみようかと思うが、口には出さない。なにか言えば、小姓は答えねばならず、とまどうにちがいない。そんなことで困らせるべきではない。家臣を困らせて楽しむ性格と思われてはならない。裏になにか意味のある言葉なのかと、あとまで悩ませても気の毒だ。もともと、なんの意味もないことで。
 たらいなどの道具の片づけがすむと、医者がそばへやってきて、殿さまに舌を出させてながめ、つぎに脈をみる。五日に一度の慣習だ。医者は、どこかご気分の悪いところはと言う。どこもないと答えると、さようでございましょう、三十五歳でいらっしゃるが、どうみても二十五歳の若さで、健康そのものですとおせじを言う。おせじを言う武士はいいものでないが、医者にはいくらかおせじのあったほうがいい。医者がぶあいそうだったら、脈だって早くなってしまうのではなかろうか。
 祖先の霊をまつってある仏間へ行き、礼拝をする。ほんのわずかな時間ですませる。時間をかけたから効果があるというものでもあるまい。といって、いいかげんな気持ちではない。手を合わせ息をつめる無我のうちに、安泰への祈りをこめる。天候の安泰、領内の安泰、幕府との関係の安泰、将軍に対する安泰。それらへの期待を、祈りの形で出さずにはいられないのだ。祖先の霊も、わかりすぎるぐらいわかってくれているだろう。礼拝に時間をかけると、もっとくだらないことまで祈りたくなり、よくないのだ。
 八時。殿さまは食事のための座敷へ移る。だが、料理がさっと運ばれてくるわけではない。いちおう、つぎの間に控えている毒見役の前に運ばれ、そこで点検をうける。その係はきちんとすわり、ひととおり|箸《はし》をつけ、しかつめらしく自分の口に入れている。たしかに口に入れたかどうか、それをみとどける小姓もそばにいる。
 殿さまはそれを見ながら思う。毒見役はどんな気分であの仕事をやっているのだろう。なにも考えず事務的にやっているのだろうな。そのたびごとに、万一の場合を心に浮べたりしていたら、気が疲れてどうにもなるまい。戦場で死ぬのならはなばなしさがあるが、毒見で倒れるのはぱっとしないな。任務をまっとうした点では同じなのに。しかし、毒見役がその仕事で死んだ例など、聞いたことがない。だからといって、あの役を廃止したら、お家騒動の芽を持つ藩では、たちまち毒殺が発生するわけだろう。いつもは廃止し、お家騒動の傾向がみえた時にだけ置くというわけにもいかないだろうし。役職とはふしぎなものだ。夜に湯へ入れないのも、役職と関連した理由からだろうか。
 やっと、食事が殿さまの前にくる。うめぼし、大根のみそ汁、とうふの煮たもの、めし。どれもすっかりぬるくなっている。しかし、子供のころからずっとそうで、殿さまはそういうものと思いこんでおり、なんということもない。料理とは、ぬるくつめたいものなのだ。
 ごはんをよそってくれる小姓にむかって、殿さまは、家族は元気かと話しかけ、おかげさまでとの答えがかえってくる。ここは奥御殿、私的な場所で公的なことに関する会話をすべきではない。藩中のうわさ話を聞き出そうとしても、答えはえられないだろう。武士とは他人のうわさ話などしないものなのだ。第一、そんなことがはじまったら、混乱のもととなる。小姓を通じて殿さまへ告げ口をしたほうが得だとなると、他人の中傷がわたしめがけて集中し、それをめぐって城内で切り合いがはじまり、たちまち幕府によっておとりつぶしだ。
 食事のあと、殿さまは庭を散歩すると言う。小姓がはきものをそろえ、刀をささげてついてくる。空は晴れあがり、うっすらとつもった雪が美しく輝いている。歩くと足もとの雪が、きゅっと音をたてる。空気のなかには、鋭い寒さの粒がいっぱいに含まれているようだ。遠くの峠も、白いいろどりをおびている。しかし、寒さもいまが絶頂だろう。まもなく梅の花の季節となり、それがすぎると、あの峠を越えて|参《さん》|勤《きん》|交《こう》|代《たい》で江戸へ出発しなければならない。
 江戸との往復は、これまでで何回ぐらいになっただろうか。二十歳で相続し、いまは三十五歳。年に一回、江戸への旅か国もとへの旅をやっている。だから、江戸への街道を通ったのは、十五回ぐらいになるわけだな。まったく、参勤交代は大変な行事だ。数百人のお供をつれ、何日も何日も旅をしなければならない。宿場と宿場とのあいだは、馬に乗ったり時には歩いたりもできるが、宿場に入る時と出る時は、わたしは乗り物におさまり、お供の者たちは列を正し、堂々たるところを示さねばならない。まさに見世物。見物する側にとっては、さぞ楽しいことだろう。それに、宿場にはかなりの金が落ちるのだし。
 しかし、わたしにとっては少しも面白くない。道はきまっていて、変更は許されない。いつも同じ道を通るだけ。どこにどんな山があり、どんな森があるかなど、すっかりおぼえてしまっている。しかし、山のむこう森のむこうがどうなっているかとなると、まるでわからない。これからの一生のあいだにも、それを見る機会はないだろう。
 ただ、途中で桜の花を見物できることだけが、唯一の楽しみだ。日程がきちんときまっているので、いつも同じところで満開にであう。あれはきれいだ。桜のながめは江戸からの帰途のほうがいい。花の咲くのを追って北へ進む形になるので、長いあいだ満開を楽しめる。楽しみといえば、それぐらいなものだな。行列とともに移動するだけのこと。胸のときめくような事件にぶつかる可能性もない。もっとも、そんなのにであっても困るわけだが。
 ……しかし、最初の一回だけはべつだった。父のあとをつぎ、この土地へお国入りした時のことだ。三歳までここで育ったというものの、まるで記憶には残っていない。はじめて訪れる土地といってよかった。もちろん、江戸屋敷において、家臣たちから国もとの話を、いろいろと聞いてはいた。わたしも理解すべく努力した。しかし、それはあくまで理屈の上のこと。具体的な風景を頭のなかに浮び上らせるのは不可能だった。未知の国への旅。国もとへむかう途中、わたしは地図とまわりの景色とを見くらべつづけだった。
 国もとが近づくにつれ、わたしの息苦しさは高まる一方だった。領主の地位についたからには、なにか思い切った方策を断行し、目をみはるような向上をもたらしたい。やらねばならぬことだ。その意欲はふくれつづけるのだが、すぐに、その基礎となる能力への疑念がわき、自信のとぼしさに気づくのだった。父のやった以上のことが、簡単にできるはずがない。おそらく、なんにもできないのではないか。その二種の感情が激しく交代し、旅の疲れとあいまって、わたしはいつしかふるえていたものだった。
 そして、旅が終りに近づき、峠を越えた。わたしは思わず声を出し、乗り物をとめさせ、道に立った。領地のすべてが一望のもとに見わたせた。まず、天守閣が目に入った。石垣の上の白い壁、かわらの屋根。それが三重にそびえていた。かわいらしかった。それまでのわたしは、城といえば江戸城しか知らず、それが基準となっていたのだ。この城がかわいらしいのか、江戸城がとほうもなく大きすぎるのか、その判断はすぐにはつけられなかった。
 家臣のひとりがわたしに説明してくれた。天守閣をとりかこんで内堀がございましょう。そこに御殿があり、これからのおすまいでございます。さらに、その外側に外堀がございましょう。内堀の外、外堀の内の一帯が家臣たちの住居でございます。そして、外堀のまわりの町並みが城下町でございます。
 城下町のそとには田や畑がひろがっていた。川が流れている。作物にみのりをもたらす川であることが、すぐにわかった。川のそばに森があり、そのなかに神社があった。いま立っているところの山すそには、寺院が見えた。新緑の季節。すべてが美しかった。これがわが藩、十万石あまりの土地なのだ。
 わたしは江戸屋敷の妻のことを思った。これを見せてやりたいものだと。しかし、それは許されないことなのだ。大名の正室は江戸から出ることができない。それが自由だったら、幕府の人質としての意味がなくなってしまう。もっとも、当主が死んだあとはべつだ。だから亡父の正室、わたしの母上はここへ来ることが可能だ。しかし、もうとしだし、いまさら国もとを見ようという気もないらしい。江戸屋敷で気心のしれた者たちとすごすほうが気楽にきまっている。わたしの妻もこの城を見ることなく、そのような一生を送ることになるのだろう。妻だって、そういうものだということぐらい知っている。城を見たいなどと考えたこともあるまい。妻に見せてやりたいなど、わたしの勝手な感想にすぎないものだった。
 峠を下り、町に近づくにつれ、道の両側に並ぶ領民の数がふえはじめた。乗り物のなかのわたしには、すきまを通して彼らを見ることができるが、そとの者たちはわたしを見ることができない。しかし、領民たちの好奇の視線は、容赦なくわたしまでとどいてきた。こんどの当主はどのような人物だろう。よくあってほしいとの期待と、その逆である場合への不安とが、彼らの感情のすべてだった。押しよせるその波に、わたしの心は圧倒された。よくありたいとの希望と、その逆となる不安は、わたしだって同様だ。自分にもわからないことなのだ。
 わたしは肩の重荷をあらためて感じた。肩をへたに動かすと、大変なことになる。なにごとも無難を第一に心がけようと思った。初のお国入りの時に、ばかをよそおった殿さまとか、高圧的に出て家臣を恐れ入らせた殿さまとか、そんな話を耳にしたことがないわけでもない。しかし、そんなのは例外中の例外だろう。作り話かもしれない。結果が裏目に出たら、どうしようもなくなる。大部分の大名は、わたしと同様なことを感じたにちがいない。
 城下町を通り、外堀の橋を渡って城の門をくぐり、さらに内堀を渡ると、そこに表御殿、すなわち藩庁の建物があった。その裏手の奥御殿は、つまりここだが、わたしを迎えるために内部がすっかり改装されて、新しくなっていた。わたしは亡父のにおいをさがし求めたが、それはほとんど残っていなかった。
 初のお国入りにともない、わたしは家臣たちのあいさつを順に受けた。江戸屋敷で会ったことのある者もいたが、大部分ははじめての者ばかり。主だった役職の者の名は頭に入れてきたのだが、顔つきまでは想像もできなかった。まして、性格となるとまるでわからない。先入観をうえつけないようにと、だれも教えてくれなかったのだ。だれそれには軽率なところがございますなど、わたしに告げた者はなかった。武士にふさわしくない行為だからだ。告げた者のほうが安っぽくみえてしまう。問題の人物が軽率でないと判明したら、告げた者の面目がつぶれる。わたしは白紙の状態だった。森のなかに迷いこんだよう。これからのわたしは、それぞれの樹木について知ろうとしなければならない。
 お国入りについてきた江戸屋敷勤務の家臣たちは、一段落すると帰っていった。もっとも、一人だけ|側《そば》|役《やく》として残された。わたしにとって親しいのはこの者だけとなった。しかし、それに対して親しみを示してはならない。それをやると|寵臣《ちょうしん》ということになり、統制がとれなくなり、当人だって迷惑しごくのことになる。わざと寵臣を作っておき、ことが起ったとき全部そいつのせいにし、すべて丸くおさめるというやり方もあるのだが、わたしもそれほどの腹芸の持ち主ではない。
 国もとの家臣たちの言葉には、なまりがあった。江戸の言葉とかなりちがい、それを聞きわけるのにわたしは苦労した。わからない時に、わたしは江戸からついてきて残った、その側役に聞きただした。国もとの言葉になれると、わたしはその側役をべつな役職に移した。
 わたしは藩のすべてについて、勉強しなおすことになった。領民たちの不満、改革すべき点、それらについての意見を知りたかった。しかし、なんの手ごたえもなかった。あせりぎみになって質問をくりかえしていると、家臣のひとりが言った。そのようなことは、おおせにならぬほうがよろしいのではないかと存じます。しばらく、その意味がわからなかった。二日ほど考えつづけだった。そして、朝、湯に入っている時、はっと気づいた。問題の点について遠慮なく意見をのべるということは、わたしの亡父についての批判になる。ずけずけ言えば、わたしを立腹させることになる。家臣として軽々しく口にできないのも当然だった。わたしは顔を赤らめた。湯から出たわたしの顔を見て、小姓は熱すぎたのかと気にした表情をしていた。
 すべてこのように、わたしにとっては、はじめての経験ばかりだった。父の存命中、そばについていて藩政を実地に勉強できたら、どんなによかったろうにと思った。しかし、それは幕府が厳重に禁止していることなのだ。あとつぎとしてとどけ出た男子は、江戸から離れることを許されない。領主が死亡するか、隠居するかして、正式に相続しない限りは。早目に隠居し、そばで助言してくれるという形でもいいのだが、それも禁止されている。隠居した大名は江戸に住まなければならないのだ。なんでこんな妙な制度ができたのだろう。なにか理由があるのだろうな、惰性に流れるのを防ぐといった。げんにわたしなども、すべて自分の頭で理解しなおしたわけだった。
 家臣たちから報告を聞き、改革すべき点はないかと考え、またべつな家臣から報告を聞く。それをくりかえしているうちに、わたしはすべての問題点のもとにたどりついた。要するに財政がまずしいのだ。まずしいのならまだしも、かなりの額の借金がある。城下、あるいは江戸の商人から借りているのだ。そして、その利息がじわじわとふえつつあるのだった。最初は信じられない思いだった。しかし、家臣の報告も帳簿も、それが事実であることを裏付けていた。
 このことに直面し、わたしは期待はずれを通り越して、|呆《ぼう》|然《ぜん》となった。信じられない幻の世界に入ったようだった。しかし、それが現実だった。こうなっているとは、亡父から聞いたことがなかった。武士たるもの、わが子にむかって金についての愚痴をこぼすわけにはいかなかったのだろう。聞かされてなかったことが、わたしにとってはよかったのかもしれない。少年の時からくわしく知らされていたら、わたしの目つきはおどおどしたものとなり、顔つきはいやしげなものとなっていただろう。しかも、そうなったとしても、あとでなんの役にも立たないのだ。
 しばらくは眠れぬ日々がつづいた。自分はこの上なくあわれな運命のもとに生れてしまったのだ。家臣たちの前で感情をおもてにあらわせないから、内心の苦痛はそれだけ激しかった。寝床のなかでひとりため息をついたり、泣いたりしたかったが、それもできなかった。声をあげたら、つぎの間に控えている不寝番の小姓が飛んでくる。やっと眠ると悪夢があらわれた。
 だが、まだ半信半疑。わたしはその借金の原因を調べてみた。三代前における、江戸城の修理を命ぜられた時の費用。二十数年ほど前にこの地方を襲った大|飢《き》|饉《きん》の時の領民救済の費用。参勤交代の費用もばかにならない。また、江戸屋敷の費用も、年とともにふえる一方だった。なんでこのように江戸で金がいるのか、そうぜいたくはしていないはずだが、とわたしは言った。わたしの知る限り、亡父は江戸で遊興にふけったりしなかった。担当の家臣は答えた。そういうたぐいの費用ではございません。幕府の役人たちへの運動費でございます。そこに手ぬかりがあると、また江戸城の修理をおおせつけられ、その何十倍という出費をまねきかねません。
 わたしははじめて感情を声にあらわして言った。しかし、それにしても、このままだとどうなるのだろうか。これでいいのだろうか。それに対して、家臣の答えは意外なものだった。答える口調が落ち着いているのも意外だったし、内容も意外だった。ご心配なさるお気持ちはよくわかります。しかし、こんなことでよいのではないかと存じます。なぜなら、ほかの藩もほぼこれと似た状態、ここはまだいいほうでございましょう。かりに借金のない大名があれば、幕府はたちまち、なにかの建築か修理をおおせつける。適当に借金があり、へんに幕府の注目をひかないのが、お家の安泰の条件でございます。
 家臣の前であることも忘れ、思わず低く長くうなり声をもらした。しかし、わたしが感情をあらわしたのは、その時かぎりだった。空想していた改革の幻影は、すべて頭から消えた。借金との共存に慣れることへの努力をはじめた。なにはさておき、あせらぬことだ。しかし、借金の存在に平然となるのには長い年月がかかった。いや、いまでさえわたしは慣れたと言いきれない……。
 時刻を告げる太鼓の音が、城門のほうから聞こえてきて、わたしの思いを中断する。では、そろそろ表御殿へと行くとするか。わたしはつぶやくように言う。座敷に戻ると、小姓たちがはかまをはかせてくれる。きょうは公式的な行事がなにもないので、かみしもをつける必要はないのだ。わたしはすわり、きせるでタバコを一服する。表御殿ではタバコを吸えないからだ。
 
 奥御殿から廊下をわたり、殿さまは表御殿へと行く。表御殿はかなりの大きさの建物。藩政のすべてがここでなされる。各役職のための部屋がいくつもある。だが、殿さまはどこになにがあるか知らず、のぞいたこともない。それは軽々しい振舞いだ。
 殿さまは広間に通る。そのはじのほうの、ほんの少しだけ高くなっているところへすわる。ここは公式の場合に使う謁見の間とはちがうので、さほどものものしさはない。そばに火鉢があり、炭がもえている。しかし、殿さまは手をかざさない。寒そうな様子をしては、威厳というものがなくなる。ずっとそうなので、べつに苦痛ではない。夏も同様、|扇《せん》|子《す》を使うことはない。忙しげに扇子を使うのは、なにかごまかしているような印象を他人に与える。そもそも扇子とは儀礼用のもので、武士がそれで涼をとるべきではないのだ。
 殿さまのあらわれたのを確認し、お側用人すなわち取次ぎの係がやってきて、頭を下げて言う。武具の担当の者が、点検のことについて申しあげたいと言っております。殿さまは、では、これへと答える。いくさのはじまる可能性などまったくない時代だが、いつでも戦える準備だけはととのえておかなければならないきまりなのだ。形式的にも、この報告だけは直接にたしかめておく必要がある。
 その担当の家臣があらわれ、武具庫の点検をおこない、さだめ通りの数がそろっていたことを報告する。殿さまは言う。ごくろうであった。武具はきわめて重要である。点検は念には念を入れねばならない。見おとしを防ぐため、ある日数をおき、もう一回やってみる慣習があるように聞いているが、どうであろうか。
 家臣は、ははあと頭を下げる。これですべてが通じたのだ。そんな慣習など、これまではない。しかし、あからさまにそれをやれと命じると、|叱《しっ》|責《せき》した印象を与えないまでも、相手は自分の不注意を感じかねない。すべては質問の形で、それとなく言わねばならない。わたしは事情をなにも知らないのだ。だから勉強しなければならぬ。そのための質問だ、という形をとるのがいいのだ。わたしはそれでずっとやってきた。なんでもいいから質問していると、しだいに事情がわかってくるものだ。また、そうなると、いいかげんな報告はできないと家臣たちも思ってくれる。しかし、とことんまで質問ぜめにしてはならない。家臣の説明がしどろもどろになりかける寸前でやめておく。そうすれば相手の立場も保て、つぎの報告の時は形がととのっている。やりこめるのが目的ではないのだ。
 質問できることは、藩主の持つ唯一の特権かもしれない。途中からお国入りしたのだから、知らなくて当然。少しも恥でない。そして、質問のなかに指示を含められる。
 もっとも、わたしがこの種の立場になることもある。江戸の城中においてだ。参勤交代で江戸にいるあいだは、毎月、きまった日に登城する。べつになにもするわけでなく、大広間で、ほぼ同格の他の大名たちとあいさつの短い会話をするぐらい。しかし、時たま、幕府の役人に話しかけられる。それがたいてい質問の形だ。くわしく答えなくてもいい内容のことだ。これこれについて注意するようにとの意味なのだ。また、藩政を家臣にまかせきりはよくない、藩中のことはあるていど知っていなければならないとの、忠告でもある。幕府の意向が、それとない形でわたしに伝えられるというわけだ。
 そして、わたしは藩の者に、幕府からこんなことを聞かれたが、どう思うかと言う。わたしが将軍や幕府に対して感じているようなもの、それに似たものを家臣たちはわたしに対して感じているのではなかろうか。他人の心まではわからないが、その仮定はまちがっていないようだ。いままでのところ。
 お側用人が取次ぐ。城代家老が藩の財政についてご報告したいといっております。この藩の家老は全部で七人。そのうち江戸づめが二人、この城には五人ということになる。城代家老とはそのなかの筆頭であり、殿さまの参勤の留守は全責任者となる。
 前へ来て平伏した城代家老に、殿さまは言う。まもなく参勤交代で江戸へゆく時期となる。いちおう財政のあらましを、頭に入れておくほうがいいようだ。城代家老は持参した書類を見ながら、説明をはじめる。直接の担当である勘定奉行を列席させ、それに報告させてもいいのだが、それだと城代の頭を通過しないことになる。城代の口からしゃべらせたほうがいいのだ。城代もここ数日、勘定奉行を質問ぜめにしたにちがいない。
 この一年の財政は、まあまあだといえた。大赤字を出してないという意味で、決して黒字ではない。黒字などありえないことだ。借金の額が少しふえた。利息は半分だけ払い、あとの半分はくりのべにしてもらった。ずっとこのような状態がつづいている。殿さまもこれをまあまあだと感じるまでに慣れてきている。
 といって、平然たる心境になれるわけもない。だが、赤字をへらすため、家臣の数をへらしたらなどとは、考えたこともない。家臣とは|股《こ》|肱《こう》、困ったからといって自分の手足を切り売りできるわけがない。また、領内の一部分を隣の藩が買ってくれればいいとも考えたことはない。土地は幕府からあずかっているものなのだ。参勤交代の行列を簡略にしたいとは考えるが、きまりによってそれは不可能。考えてみてもしようがない。
 もう少し収入がふえればいいのだがな、と殿さまは言い、それはむりなことだが、とつけ加える。この言葉をつけ加えないと、殿の意志として|年《ねん》|貢《ぐ》の増加の実行へとつながりかねない。藩の収入はほとんどが米の年貢であり、それを無理に高めようとすると、ろくなことにならない。
 五十年ほど前、幕府から修理工事をおおせつかり、その赤字を年貢の引き上げでしまつしようとしたことがあった。たまたま平年作を下まわる凶作でもあり、ひとさわぎがはじまった。農地を捨てて逃げ出そうとする領民もあり、|一《いっ》|揆《き》も起りかけた。農地を捨てられては、つぎの年から年貢はまるで取れなくなる。そうなったら、泥沼に落ちこんだのと同様だ。一揆となると、もっとことだ。さわぎが大きくなり、幕府に直訴でもされたら、おとりつぶしのいい口実となる。おとりつぶしにならないまでも、お国がえで、もっと条件の悪い地方へ移される。幕府はそれを待ちかまえているのだ。
 おとりつぶしになっても、農民たちはつぎの新領主を迎えればいいだけのこと。しかし、家臣一同は一挙に禄を失うのだ。藩の記録によると、その時はみな青くなったという。戦いで落城するのならあきらめもつくが、こんなことで離散では、あわれをとどめる。恥をしのんで城下の商人から金を借り、さらに江戸づめの者が奔走し、江戸の商人からまとまった金を借り、なんとか無事におさめることができた。これが借金のはじまりだった。
 一方、一揆の処罰もうまいこと片づけた。おとりつぶしによって発生した他藩の浪人が領内に入りこみ、一揆さわぎに知恵を貸していたことが判明し、その処刑だけですんだのだ。名主や関係者に対しては、おとがめなし。藩の家臣もだれも責任をとらずにすんだ。万事が丸くおさまったのだ。それ以来、領内を通る浪人者には、監視をおこたらぬようというきまりができた。
 記録ではそうなっているが、はたして真相はどうだったのかな。時どき殿さまはそのことを考える。浪人たちは、たまたまそこにいあわせただけだったのかもしれない。あるいは現実に、自分の藩がおとりつぶしになった時の話をし、一揆でがんばれば、これ以上に悪くはならぬぐらいは言ったかもしれない。いまとなっては、調べようがないことだ。しかし、いずれにせよ、それを機会に領内の和はとり戻せたのだし、うまい解決だったことにまちがいはない。処刑された浪人たちは気の毒なものだが、お家の安泰にはかえられない。
 それ以来、非常識な年貢は課さないことになっている。領民のほうも賢明になった。一揆によって藩主を追い出すことはできても、つぎの新藩主に対しては反抗できないと知ったからだ。その反抗をやったら、幕府の威信にかかわることで、なにをされるかわからない。一揆とは、やりそうなふりをすれば、それでいいのだ。
 年貢は、収穫高に応じて無理のない取り立てをする以外にない。その収穫高の査定は、うまくいっているのだろうな。殿さまにとっては最も気になることだ。農民に甘く見られても困るが、あまり厳正にやって働く意欲を失わせても困る。といって、殿さまには農作物のできぐあいは、まるで見当がつかぬ。
 その解決策として、収入担当の部門と支出担当の部門とで、人事の交流をしばしばやっている。そのしきたりがいつのまにか確立した。収穫高の査定の手かげんをして農民に人気のある者は、支出を担当する側に移った時、もっと収入をふやせと大きな口はきけなくなる。武士たる者、あまり矛盾した言動はできないのだ。
 収入と支出の係を何回かくりかえしているうちに、しぜんと人材がふるいにかけられる。ここで才能を示すことができれば、たとえ家柄がいくらか低くても、そのご他の役職をへて家老に昇進することもできる。げんに、この城代家老もその経歴の持ち主なのだ。けっこう苦労をしたのだろうな、と殿さまは思う。これまでの人生はどんなだったのだろう。しかし、それについては城代も話さないだろうし、かりに話したところで、殿さまには十分の一も理解できないことだ。
 
 城代家老は言う。家老の一人が老齢と病気を理由に、お役ごめんを申し出ております。最年長の家老のことで、先代以来ずっとその職にある。ぐあいはどうなのだと聞くと、あまりはかばかしくないようでございます、と城代は答える。
 きのどくなことであるな、と殿さまは言い、回想をする。いつのまにか年月がすぎさっていったな。その老いた家老は、なにかというと先代の殿、つまりわたしの亡父のことだが、それを引きあいにだしてわたしに意見をしたものだ。最初のうちはうるさく感じ、腹の立つ気分にもなったが、そのまま家老をつとめさせた。わるぎがあっての意見ではないのだし、わたしに対する忠告の道を藩内に作っておいたほうがいいと考えたからだ。わたしもなるべく彼が意見したがるようにしむけた。老いた家老はその状態に満足し、いろいろとしゃべったものだった。もっとも、わたしを直接に批難するのではなく、いつも、先代はえらかったとの間接の形をとってではあったが。
 その話を聞くことで、わたしは亡父の人となりを知ることができた。父と子とはいっても、江戸では一年おきにしか生活をともにしなかったし、その期間でさえ、藩内のくわしいことは話してくれなかった。父はわたしに、武術と学問と修養のみをやらせた。わたしがもう少し成長したら話すつもりだったのだろうか。だから、わたしは父が国もとでどんなふうだったのか、まったく知らない。
 わたしは父の生前のことを知るために、その老いた家老をその職にとどめておいたようなものだ。しかし、もはや知りつくした。老いた家老は何度も何度も同じことをくりかえして話すようになった。そして、ぐちっぽくなった。武勇の気風がうすれたとなげく。また、支出の増加、とくに江戸屋敷の費用の増加については理解できないらしく、むかしはよかったと、なにかにつけて言うようになった。
 たしかに、江戸での費用はふえる一方だ。江戸での一般の生活は派手になり、体面を保つための金もそれだけかかる。参勤で江戸にいる時、幕府の役職につけない外様大名は、派手さを示して気分のはけ口とする。たとえば、屋敷およびその近所の火災にそなえ、火消し組を持っているが、その衣装に金をかけたりする。どこかがそれをやると、それに釣り合せないと、体面が保てない。
 体面などどうでもいいとは思うが、あまりにまずしげだと評判が落ち、幕府から|軽《けい》|蔑《べつ》される。いい家柄との婚儀もととのわなくなる。そうなると、万一の際に見殺しにされるおそれがある。まったく、なんだかだと、江戸づめの家老は苦労している。お家安泰のために、幕府の役人をもてなさなければならぬ。進物、時候見舞い、冠婚葬祭、なにかと金を使わなければならない。赤字財政と知りつつ、それをつづけなければならぬのだ。
 商人から借りた金の、返済くりのべの交渉も、手ぶらではできぬ。屋敷に火事が起きたら大損害だから、火消し組を置いておくようなものだ。火消し組の費用がむだだからと廃止したら、より大きな損害の危険をまねくようなことになる。江戸屋敷の人員もふえざるをえない。人員がふえると、つまらぬことで事件をおこす場合がふえる。江戸屋敷の者が他家の者とけんかでもしたら、一大事だ。国もとならどうにでもすませられるが、江戸ではそうもいかない。穏便にすませるため、もみ消しにまた金がかかる。
 なにしろ、出費はふえる一方なのだ。わたしが悪いわけではない、だれが悪いわけでもない。わけのわからない世の流れなのだ。たしかに、流れをさかのぼった昔はよかったにちがいない。江戸の生活も質素ですんだし、武事のほうに重点があった。さらにその前の、参勤交代などなかった時代なら、もっとよかっただろう。戦いをやってるほうが、金の心配より楽だったかもしれない。しかし、そんなことを論じてもしようがないのだ。
 老いた家老のお役ごめんをみとめることにしよう、と殿さまは言う。亡父のなごりが消え、ひとつの時期の過ぎ去ってゆくのを実感する。城代家老は、後任のことについてはいかがいたしましょうと言う。よきにはからえと答えるわけにはいかない。あの老いた家老のところには、亡父の腹ちがいの弟が養子にいっている。そのことでのわたしへの遠慮から、自動的にそれが推薦されかねない。悪い性格ではないのだが、経験豊富とはいえない。お家のためには、もっと有能な人材をえらぶべきだ。
 しかし、老いた家老のあの養子、わたしの叔父といえる者、かりにわたしの亡父が幼くして死んでいたら、いまは領主となっているわけだな。世が世ならと考えたことがあるのだろうか。ないだろうな。だれもがそんなことを考えたら、どの藩もお家騒動の連続で、すべておとりつぶしになってしまう。それに、藩主の生活が決して楽しいものでないことは、藩士ならだれでも知っている。そういえば、わたしだって、もっと別な人生を持てたかもしれないなど、考えてもみたことがない。そういうものなのだ。
 殿さまは城代に言う。多くの役職を経験し、大過なく仕事をしてきた者のなかから選ぶのが順当なのではなかろうか。候補者を三名ほどあげてくれれば、そのなかから選べるのではないだろうか。なにも急ぐことはないようだが。
 数日中にその答えが出るだろう。だれが見ても順当という一人は、わたしにも想像がつくし、城代も承知のはずだ。その名が第一に読みあげられる。あとの二人は形式上のつけたりだけ。だが、わたしが選んだということで、当人は喜び、それだけ藩のために熱心に働くというしくみなのだ。
 
 これで報告は終りかと思うと、城代家老は頭を下げ、はなはだ申しあげにくいことでございますが、と言う。殿さまがうながすと、さきをつづける。城下の材木問屋の主人が、たまたま仕事のことで、この表御殿に来ている。殿さまがお目通りを許し、お声をかけて下されば、どんなにかありがたがることでしょう。
 殿さまは理解する。その店から藩が借金をしているのだな。利息を一部だけ払うことで、借金返済のくりのべをしてもらったのだろう。その仕上げに、わたしへの目通りが必要という意味なのだろう。やむをえないことだろうな。金には敬意を払わなければならない。商人に対してではないのだ。それにしても、あの利息なるものは、だれが最初に考え出したのであろう。年に何分かの割合で、しぜんにふえてゆく。休むことなくふえてゆく。藩でも収入をふやそうと、新しい農地を開墾したり、特産品を作って江戸や他藩へ売る努力もしている。しかし、利息のふえかたに追いつけないのだ。あの利息さえなければ、藩士たちの禄を毎年少しずつでもふやしてやることができるのだが。
 殿さまは城代に言う。借金だの利息だのは、いつまでもふえつづけてゆくのであろうか。このままだと、どういうことになるのだろうか。そのへんのことがよくわからぬ。慣れてきているとはいえ、殿さまにとって気になることなのだ。精神的には慣れていても、理屈の上では慣れにくいことなのだ。金銭のことを口にしても、いまや恥ではない。敵を知らなければ、百戦あやうからずと言えない。もっと知っておきたいのだ。
 城代は答える。そうご心配なさることはありません。そして、その解説をつづける。江戸づめの家臣には、これについての情勢をとくに注意して報告するよういいつけてある。それによると、どこの大名もかなりの借金を持っている。しかし、借金によってお家が破滅したという藩は、これまでにひとつもない。金を貸している商人たちは、そのことで大名家をおどかすことはできる。おそれながらと幕府へ訴え出ますと、すごんでみせることもできる。しかし、現実に訴え出てまで、貸金を取り立てようとした者はない。訴え出れば、そのお家はおとりつぶしになる。そして、貸した金は消えてしまい、まるで返ってこない。商人はこんなばかなことをやるわけがない。農民一揆なら新領主を迎えることができるが、商人の貸金はだれも引きついでくれない。返済請求の訴えは、一揆よりさらにわりが悪い。
 借金でつぶれた藩はひとつもないが、大名に金を貸しすぎてつぶれた商人はたくさんある。どうせ返ってこない金ならばと、貸すより遊びに使おうとする商人もあるが、そういうのは分不相応なおごりということで、幕府に財産を没収されたりする。あるいは、借金のさいそくに腹を立てた譜代大名あたりが、幕府の役人に巧妙に働きかけ、財産没収をやるようしむけるのかもしれない。そうとすれば、きのどくなものです。財産没収を防ぐには、大名からの借金申し込みに、少しずつ応じておかなければならない。このへんが虚々実々のかけひきというところです。
 万一、借金のために藩がつぶれはじめたとなると、幕府だって平然としてはいられないでしょう。幕府の役人には、すぐれた人がそろっている。ほうっておくはずがなく、なにか手を打つにきまっています。将来において、借金でつぶれる藩が現実に出るかもしれない。しかし、その最初につぶれる藩にならなければいいわけです。その注意さえしておけばいい。いまのところ、わが藩にその心配はございません。
 なるほど、そういうものかな、と殿さまはつぶやく。むかしの武士たちは、敵を恐れず死をも恐れなかった。敵も死も恐るべき対象ではあったが、それをなんとか克服してきた。借金もまたかくのごとし。城代の言うような考え方で克服せねばならぬのだな。しかし、それにしても、なんというちがいだろう。わたしにはまだ実感として克服できない。そのうちまた同じ質問をし、城代は同じ説明をすることだろう。
 殿さまは城代家老に言う。その商人とやらには会うほうがいいようだな。お側用人が立ち、商人を連れて戻ってくる。商人は四十歳ぐらいの男。城代のななめうしろのほうにすわり、殿さまにむかって平伏する。いつも見なれている家臣の平伏とは、ずいぶん感じのちがう平伏だな。硬軟の差がある。
 城代が商人を紹介し、殿さまは声をかける。いつも藩のために働いてくれているとか、うれしく思っておる。商人は恐縮した身ぶりをしたが、殿さまにはそれがどのていど本心からのものか、見当がつかない。家臣であれば大体のところはわかるのだが、商人とのつきあいはまるでないといっていいのだ。
 殿さまはいくらか好奇心をおぼえ、ちとたずねたいことがあるが、と言う。そちは江戸へ行き、さまざまな商人とつきあいがあるだろうが、あの江戸の商人たち、どうやって店を持つに至ったのであろうか。
 意外な質問に商人は驚きながら、城代のほうを見る。しかし、城代にうながされ、いちがいにはいえませんがと話しはじめる。知りあいをたどって、十歳ぐらいから店に住みこむ。朝はやくから夜おそくまで、どなられひっぱたかれ、ひっきりなしに使われる。給金も休日もなく、頭の下げつづけ働きつづけ。そうしながら、少しずつ商売をおぼえ、才能がみとめられると、商売をまかされるようになる。そして信用がつくと、やがて、のれんを分けてもらい、自分の店を持てるようになるというわけでございます。
 のれんとはなんのことやらわからないが、容易なことではなさそうだな、と殿さまは感じる。まるで別の世界だ。とても武士にはつとまりそうにない。いまの話が本当とすれば、藩主にしろ家老にしろ、商店の主人のようなひどい人の使いかたはしていない。かたくるしい武士をやめ、きままな商人に、とかいう文句があると江戸で耳にしたが、とても武士の割り込める世界ではない。きままなものであれば、武士や農民がわれがちに商人になっているはずだ。だいたい、この世の中に、きままな仕事などあるわけがない。
 そういうものであるか、こんごも藩のためにつくしてもらいたい、ごくろうであった、と殿さまは言う。商人はまた平伏し、城代家老とともに退席する。
 殿さまはそれを見ながら、ああ、あの話をしておいたほうがよかったかなと思う。江戸で手に入れた植物の種子のことだ。桜桃という果樹の種子だが、長崎を経由して南蛮からわたってきた種類で、味のいい実がなるのだという。城内にその|種《たね》をまかせたところ、芽が出て何本か育ちはじめているという。話どおりだったら、やがて美味の実がなることになる。この藩の特産品になるかもしれない。借金の返済に役立つことになろうし、商人も少しは安心したかもしれない。いや、家老か勘定奉行かが、すでに大げさに話していることだろうな。なにもかも借金のいいわけに結びつけ、利用しなければならない時勢なのだ。わたしが話したら、商人は腹のなかで笑ったかもしれぬ。桜桃とやらの苗が育ったとして、実をつけるまでに何年、それの種をまいて育つまでにまた何年、特産品といえるほどの量がとれるまでに合計何年、いっぽう利息のふえかたを計算し、その比較まですぐにやってのけるのが商人というものらしい。商人たちの頭のなかがどうなっているのか、わたしにはさっぱりわからぬ。将来の利息なんて、とれるかどうかわかったものでない。そんな不確実なことの計算をやってみて、どうだというのだ。
 それにしても、南蛮というのは、どんなところなのだろう。いや、こんな想像をしてみたところで、どうにもならない。わたしは江戸と国もと以外には行けないのだ。商人の世界すらわからない。南蛮とはそれよりも、もっともっとちがった世界にちがいない。縁のないものだ。しかし、ぜんぜんほうっておくのもどうかな。藩士の子弟の頭のよさそうなのを、長崎とやらに勉強に行かせたほうがいいかな。はたして役に立つのやら、何年ぐらいかかるものやら、これまたわからない。さっきの桜桃の苗と同じようなものだ。おりをみて、家老たちの意見を聞いてみるとするかな。
 また、殿さまはべつなあることを思い浮べる。いまの商人、まさか幕府の|隠《おん》|密《みつ》ではないだろうな。幕府が各藩の動静をさぐるために使っている連中のことだ。どういうしくみになっているのか、これまたさっぱりわからない。しかし、おそらく各藩につねに駐在している隠密と、定期的に巡回しそれらの報告を集めるのとの、二つから成り立っているのだろうな。それを継続的にやっていれば、各藩のようすのあらましはつかめるにちがいない。そして、なにかこみいった問題が発生しているらしいと思われた時だけ、すぐれた経験者を派遣するのだろう。
 その、各藩に駐在している隠密だが、商人をよそおっているのが多いのではないだろうか。そしらぬ顔でその地に腰を落ち着けるには、商人が適当だろうな。かごかきや農民では、記録や報告のための文字を書いてるところを、他人に見られたらおしまいだろう。しかし、あんまり大きな店を持った商人でもぐあいが悪いかもしれない。小さな店を持って商売でもしているのだろうな。だが、任務と商売を両立させるのは大変なことにちがいない。目つきが鋭かったら、お客が寄りつくまい。商売が順調だったら、いつまでも結婚しないでいると周囲に怪しまれる。おれは隠密だからと縁談を断わるわけにもいくまい。
 怪しまれないために結婚するわけだろうが、たとえ夫婦のあいだでも、隠密であることは秘密なんだろうな。子供にもそうだろう。うっかりしゃべったら、子供はよそで、うちは隠密なんだぞといばるにちがいない。報告書は、妻子の目を盗んで夜中にこっそり書くのだろうか。一揆さわぎの時には、いっしょになってさわぐのだろうか。けんかに巻きこまれても、おれは隠密なのだといなおることもできないのだろうな。といって、決してけんかに巻きこまれないとなると、これまた、まわりから変な目で見られるのだろうし。どんな生活をし、毎日なにを考えているのか、わたしには想像もつかない。だが、慣れてしまえば、それなりに案外なんということもないのかもしれぬ。巡回の隠密が来た時だけ、異状なしでござると言っておけば、あとはほどほどでいいのだろう。緊張の連続で一生をおくるなど、人間にできるわけがない。
 はたして隠密なんて実在するのだろうか。|天《てん》|狗《ぐ》や鬼婆のごとき伝説上のものではないかと思うこともあるが、なんとなくいるような気もするな。藩内に対して、どこかで幕府の目が光っているようだ。ただの気のせいではないだろう。隠密の話を最初に聞いた時は恐ろしく思ったが、いまではわたしも慣れてきた。借金と似たところがあるな。
 藩内があまりに混乱してくると、幕府はお国がえやおとりつぶしを命じる。あまりに景気がいいと、修理工事を命じて金をはき出させる。しかし、さっき城代家老が言っていたように、どこの藩もそうだろうが、ほどよい貧乏さを意識して作りあげているところでは、隠密はどう報告し、幕府はどう感じるのだろう。いやいや、それが幕府の思うつぼなのかもしれない。外様大名は、生かさず殺さずの形にしておくのが、最も望ましいところなのだろう。面白くないが、外様大名にとっても、腹八分目ぐらいの空腹つづきが、お家安泰の|秘《ひ》|訣《けつ》といえそうだ。
 
 正午を告げる太鼓の音がひびいてくる。お側用人は、きょうはほかにございませんと言い、殿さまは立ちあがる。そして、奥御殿へと戻る。昼の食事のためだ。食事の間の座ぶとんの上にすわり、毒見役を経由してきたひえた料理を、小姓の給仕で食べる。すまし、野菜の煮つけ、いわしのひもの、めし。食事というものには、楽しさなど少しもない。それでも、江戸屋敷での食事は、ここにくらべたらいくらかいいかな。わずかだが種類に変化がある。
 たまには変ったものが食べてみたいが、それは無理なことだ。わたしがそう言い出せば、料理係がいままで怠慢だったことになり、責任をとらされる。そんなことで武士に責任をとらせては気の毒だ。また、わたしがそれをやると、藩のなかにその風潮がひろがりかねない。食費がふえれば、それだけ生活が苦しくなる。欲望がふくらみはじめるときりがない。よからぬことで収入をふやそうなどと考える者も出るだろう。ろくな結果にならない。わたしががまんすることで、それが防げているのだ。江戸の風習は、なるべく持ちこまないようにしなければならぬ。
 ここの国もとの生活と、江戸での生活と、どっちがいいだろうか。一長一短だな。ここでは自分で藩政をやっているのだとの実感がえられる。江戸では、人質として滞在しているのだとの、ひけめのようなものを感じての生活だ。しかし、江戸においては、わりと自由に外出できる。単独行動はもちろんできないが、下屋敷すなわち別荘に行ったり、遠乗りをしたり、時には|親《しん》|戚《せき》の屋敷を訪れることができる。江戸では大名が珍しい存在でなく、それだけわたしも気が楽だ。
 江戸の町人たちは舟遊びや芝居見物を楽しんでいるらしいが、どんなふうに面白いのか、わたしにはわからない。やったことがないし、それらは大名にとって許されないことなのだ。おしのびでひそかに楽しんだ大名のうわさは聞いたことがあるが、事実ではないだろうな。舟が沈んで死んだり、芝居小屋でさわぎに巻きこまれてばかな目にあったりしたら、お家はおとりつぶしだ。藩士たち何千人の生活にかかわることだ。江戸屋敷の者が許すわけがない。
 わたしは子供時代を江戸ですごしたためか、藩主となって参勤交代をはじめた最初のころは、江戸のほうを好んだ。江戸につくと、帰ったという気分になれた。しかし、このごろは、なんだかこの国もとのほうが好ましく思えるようになった。田園的な素朴な光景がいい。いったい、わたしの故郷はどっちなのだろうか。
 いま、江戸屋敷では、江戸家老や留守居役たちが、大過なく仕事をやっている。けっこう大変な仕事のようだ。幕府の役人の人事異動にたえず気をくばり、あいさつをつづけておかねばならぬようだ。他の各藩の評判なども聞きまわっておかなければならない。まあ、わが藩の隠密といったところかもしれぬな。時には、つきあいで派手に遊ぶこともあるようだが、仕事につながっていては、心から楽しむわけにもいかないだろうな。
 わたしはまもなく参勤交代に出発し、あとは城代家老にまかせる形となる。これまでのところそれで大過なくやってきたし、これからもうまくゆくだろう。となると、わたしの存在する意味はどういうことになるのだろうか。江戸にいなくても江戸はやってゆけ、藩にいなくても藩はやってゆける。時たまこのことを考えると、むなしくなる。
 わたしは渡り鳥のようなものだ。北から南へ、南から北へ、そのくりかえしで人生がすぎてゆく。渡り鳥の故郷は北なのか南なのか。故郷はないことになるのだろうか。江戸ではどことなく自分がやぼったい存在に思え、気がひける。国もとにいる時は、自分があか抜けた存在にならぬよう気を使わなければならぬ。
 もしかしたら、藩主などいなくても、すべてはやっていけるのかもしれぬ。しかし、藩主のない状態など、考えられない。お飾りのないお祭りが想像できないのと同じようなことだな。藩主はお飾り。しかし、なぜお飾りが必要なのであろうか。そういえば、さっきの商人は、のれんがどうのこうのと言っていた。のれんとはなんのことやらわからないが、やはり一種のお飾りのようなものではなかろうか。
 へんなことを考えはじめてしまったな、と殿さまは思う。お飾りとは、人体における顔のようなものか。顔つきなんてものは、生きてゆく上に絶対に必要とはいえぬ。しかし、顔がなかったら、だれがだれやら区別がつかず、混乱するばかりだ。
 顔というより、もっとぴったりの言葉がありそうだが。表徴とか標識とか。そんなところだろうな。なにしろ世の中には、さまざまな職業があり、それぞれに特有の生活様式というか型というか、そういうものがある。それが組み合わさって世の中となっている。いいか悪いかは別として、これが現実。そこで標識が必要となってくる。
 みんなが同じ服装だったら、どうなる。なにげなく道でぶつかったとたん、相手が武士に対して無礼だと怒り出したら、目もあてられない。武士なら武士らしく、刀をさしていてもらわなければならない。刀は、武士という身分に属しているとの標識なのだ。
 家紋も標識。|譜《ふ》|代《だい》と|外《と》|様《ざま》との見分けがつかなかったら、江戸城内で収拾がつかない。医者、坊主、神主などが、同じ服装で同じような建物に住んでいたら、どうにもならぬ。服装や髪形での標識がなくてはならぬ。字の読めぬのが多いのだから、一目でわかるように。
 独身でない女は、歯を黒く染めなければならない。これも標識。それがなかったら、ひとの女房をくどいたのどうのと、けんかが絶えない。この城なんてものも、一種の標識といえそうだな。城がなかったら、それこそお飾りのないお祭りだ。形にはなっていないが、正室なんてのも標識のようなものだな。どこと縁つづきだということで、なにかと役に立っている。標識をまるで持たない者はいるだろうか。隠密はそうかもしれないな。罪をおかして処刑される時、おれは幕府の隠密だと叫んでも、だれも信用してくれない。だまって死ななければならないわけだ。標識があるからこそ、世の中がうまく流れてゆく。
 世の中における最大の標識はなんだろう。金銭かもしれないな。わたしにはよくわからぬが、商人たちはそれをねらって熱心に利益をあげ、その金を大名たちに貸す。利息がふえ、それをめぐってなんだかだと起るが、けっこうなんとかなってゆく。つぶれる商人がいても、そのあと、べつな商人があらわれ、あとをおぎなう。それなら、それと同じことを金銭という標識なしでもやれるかというと、まあ無理だろう。
 標識、お飾り、これはかなり重要なもののようだな。藩主というお飾りであるわたしも、そう考えれば、むなしいどころか、大いに誇りと自信を持っていいはずだ。そうとでもしておかなかったら、どうにもならぬ。
 考えごとが終り、殿さまは食事を終える。小姓がタバコ盆を出す。それが慣習になっているのだ。殿さまは江戸で親戚の屋敷を訪れた時、はじめてタバコなるものを見た。それはいかなるものであるかと聞くと、説明をしてくれ、のちほどタバコ道具がとどけられた。それ以来、吸っている。うまいものとは思わないが、煙の流れるのをながめていると、気分がやすらぐ。
 そういえば、けさのあけがた、なにか夢を見たようだな。雲だか霧だかのなかを、飛びはねたようなのを。勝手に飛びまわれたら、さぞ楽しいことだろうな。しかし、わたしにはできないことだ。存分に飛びはねようにも、どうしていいのかわからぬ。ひとりで動きまわろうとすれば、霧のなかをさまようようなもので、すぐに足をふみはずすだろう。
 殿さまは何服かタバコを吸う。横になりたくても、足をくずしたくても、身のまわりの世話と護衛の役である小姓が、そばにしかつめらしく控えている。それもできぬ。この奥御殿は、わたしにとっては私的な場所だが、小姓たちにとっては公的なつとめなのだ。
 もっとも、殿さまはもの心ついてから、ずっと正座のしつづけなのだ。そういうものだと思っているので、なんということもない。
 
 食事のあと一時間ほどたつと、日課である武術の|稽《けい》|古《こ》の時刻となる。殿さまはまた座敷に立つ。小姓たちが稽古着に着かえさせてくれる。わたしは自分で着物をきることができるだろうか。できそうな気もするが、自信はない。なにしろ、やったことがないのだから。
 まず、弓術。的にむかって矢を射かける。さほど本数が多いわけではない。武術とは毎日休まず、少しずつつづけるところに意味がある。気のむいた時にだけたくさんやるのでは、娯楽になってしまう。それでは上達しないのだ。殿さまは、少年時代に弓に熱中した時のことを思い出す。あれは娯楽だったのだな。見る人が見ると、すぐにわかる。だから注意され、わたしはわけもわからず恥ずかしさをおぼえた。たしかに、的に当てることだけに熱中したものだ。
 しかし、いまはそうではない。修養、いやいや、そんな意識もない。ただ弓を引きしぼり、矢をはなつだけだ。的に当てようと思ったからといって、当るというものでもない。心の澄みかたと身体の調和との一致の結果として、的に当る。きょうは、最初のうち矢が乱れる。これではいけない。邪念が残っているからだろう。姿勢を正すようにつとめる。すると、しぜんに邪念が消えてゆく。邪念というやつは、消そうとしても消えるものではない。追い払おうとすればするほど、まとわりついてくる。だが、的にむかって精神を集中し、姿勢を正すと、邪念は薄れていってしまう。ふしぎなものだ。矢がつるをはなれた瞬間に、すでに手ごたえを感じるようになる。いつのまにか、さきほどまで心のなかでもやもやしていたものが、なくなってしまっている。なにをあれこれ悩んだのかさえ、もはや思い出せない。
 弓術の指南番が、よろしゅうございます、と言う。へつらうのでもなく、はげますのでもなく、殿さまの調子のととのったのを見きわめ、それを声に出したのだ。殿さまにもそれがわかる。毎日毎日つきあっているのだから、へつらいのたぐいの入りこむ余地はない。この指南番は、わたしの心の動きを見とおしているようだな。
 ひと休みし、つぎは|槍術《そうじゅつ》。剣術と一日おきの日課で、きょうは槍術の日。さきを布で包んだ稽古|槍《やり》で、指南番を相手におこなう。静と動とのちがいはあるが、弓術と同じく、心のゆるみが最も自戒すべき点。つけこまれるのは、すきがあるからだ。それを防ぐには、相手の動きを一瞬のゆるみなく注視しつづけなければならない。やさしいようだが、これがひどくむずかしい。相手の全体に目をむければ、部分への注意がおろそかになり、部分に気をとられると、全体がおろそかになる。その双方に、かたよらない視線をむけつづけなければならない。そして、相手の動きの不調和を発見したら、ただちに攻撃に移らなければならない。その時にためらったら、それはこっちのすきとなる。
 殿さまは幼時からずっとつづけている。家臣の子供なら、最初は面白半分に棒をふりまわすことからはじめるところだ。しかし、殿さまは一流の指南番に、基本から教えこまれた。だから、それだけのちがいはある。はじめて指南番以外の家臣と立ち合った時、殿さまはそれを知った。教えこまれた通りにやり、勝つことができた。むなしさはなく、当然のことという感じがした。
 江戸城へ登城する時、大広間で顔をあわせる他藩の大名たち。そのなかにすきだらけの者がいる。おそらく病弱のため、武術の稽古をしていないのだろう。かんがにぶく、威厳に不足している。精神的な|贅《ぜい》|肉《にく》がつきすぎている感じ。気の毒なものだなと思ったものだ。しかし、殿さまは武術を習いつづけるうち、他人をそのような目で見るのは、こちらのすきでもあると気づいた。優越感こそ、最大のすきであり、弱点である。そこで、そのような心を押えるようにつとめ、意識せずにそれができるようになった時、剣術の指南番にはじめてほめられた。このところ、一段とご上達なさいましたと。殿さまのほうも、その時はじめて目の前が開けたような気になった。
 殿さまはひと休みする。さほど汗もかいていない。寒いせいもあるが、殿さまとは汗をかかないものなのだ。むやみとお茶を飲まないせいだろう。小姓がやってきて言う。雪がとけており、馬場の状態が悪いようでございます。きょうは乗馬をおやめになったほうがよろしいかと存じます。殿さまはうなずく。むりに押しきってやるものではない。むりにやって無事であれば、小姓が恥をかくことになる。むりにやって馬が倒れでもすれば、小姓の責任問題となる。
 それならば、きょうは木刀の素振りをしたほうがいいようだな、と殿さまは言う。それをはじめる。参勤交代の道中を除いて、国もとでも江戸屋敷でも、毎日かかさず武術の稽古をするのが原則だ。したがって、指南番をべつとすれば、藩のなかで最もすぐれた使い手といっていい。手合せをしなくても、はたの者にはそれがわかる。
 この泰平の世に、武術を現実に使う場合など、まず考えられない。殿さまが刀で切りむすぶことは、ありえない。武術もまた、お飾りのようなものだ。しかし、それが品格を作り、よそおいでない威厳を作る。さっきの城代家老も、武術の稽古をおこたっていない。異例の昇進といっていいほどなのだが、だれも成り上り者とのかげ口をきかず、その威厳に対して心服している。お飾りがあればこそだ。
 殿さまは木刀を振りつづける。振りおろす時に木刀の先から、目に見えぬしずくのごときものが飛び散る。心のなかの、もやもやしたものの残り、それが出てゆくのだ。借金のことも、隠密のことも、商人のことも、つぎつぎに抜け出してゆく。鎌で雑草を刈り取る行為のようなものだともいえる。いかに刈り取っても心のもやもやは、夕方になれば、あしたになれば、また育ってくるだろう。生きていて心という土壌のある限り、それはやむをえないことなのだ。しかし、一日に一回は刈り取るべきものだろう。雑草を茂るにまかせておいたら、そこは陰湿な場所となり、よからぬ昆虫や生物のすみかとなる。
 それを終え、殿さまはこころよい疲れを感じる。一日中ほとんどからだを動かさない、正座しつづけの生活。それに不足しているものが、ここでみたされるのだ。身心ともにすっきりする。
 座敷へもどると、小姓たちが稽古着をきかえさせてくれる。手を洗い、タバコを一服する。この時の一服だけは、やはりうまいようだなという気分にさせてくれる。さすがにのどがかわき、お茶を飲みたいという。毒見役の点検をへたぬるいお茶が運ばれてきて、殿さまはそれを飲む。
 そのあと、殿さまは読書をする。机にむかい、本を開く。このところ唐詩の本を愛読しているのだ。べつに読んだからといって、藩主としての心がまえや藩政に役立つものでもない。しかし、あまった時間を埋めるには読書がいいのだ。唐詩なら低俗でなく、殿さまが読んでふさわしからざる本ではない。
 何回も読みかえしたので、書いてあることはほとんどおぼえこんでしまっている。しかし、目で文字を読むと、好ましい印象が新鮮さをともなって迫ってくる。この簡潔さがいい。殿さまはかつて和歌を学んだし、自分でも作れるのだが、最近は詩のほうによさを感じている。和歌は感情を表現しなければならない。だが、藩主たるものは、できるだけ感情をあらわさない生活。そんなところに原因があるのかもしれない。詩のなかでは、李白の作がいい。
越王勾践破呉帰 (|越《えつ》|王《おう》|勾《こう》|践《せん》呉を破りて帰る)
義士還家尽錦衣 (義士家に|還《かえ》りて|尽《ことごと》く|錦《きん》|衣《い》す)
宮女如花満春殿 (宮女花の|如《ごと》く春殿に満ちしが)
只今惟有鷓鴣飛 (|只《ただ》|今《いま》|惟《た》だ|鷓《しゃ》|鴣《こ》の飛ぶあり)
 直接に情緒を描写せず、よくこれだけ簡潔にまとめたものだ。越王が会稽山にこもり、|臥薪嘗胆《がしんしょうたん》、ついに呉を破って|凱《がい》|旋《せん》した。武士たちは|錦《にしき》を着け、宮殿ははなやかさをとりもどした。そして、最後の一句がいい。だけどそれはむかしのはなし、いまは城跡に山鳩が舞う、といった意味。意外性を示しながら、前の三句を否定するわけでなく、一段と印象を高めている。感情を示す字をひとつも使ってないのに、なにかがぐっとくる。
 城。この城ができたころは、どんなだったのであろうか。戦いがおこなわれたのだろうな。勝ったのだろうか、負けたのだろうか。たくさんの血が流れ、命も失われたのだろうな。しかし、家臣たちはそのむかしのことは少しも考えず、藩政の事務を毎日くりかえしている。
 殿さまは天守閣にのぼってみようかなと思うが、思いとどまる。小姓に言い、天守閣の係に連絡し、用意をととのえてからでなければできないのだ。思いたったことをすぐやろうとすると、みなに迷惑がおよぶ。
 
 五時ごろになる。夕食の時間。また食事の間へと行く。魚の焼いたもの、そのほか例によって変りばえしない料理だ。食事が終りかけると、給仕の小姓が、お酒になさいますか、甘いものになさいますかと聞く。甘いものとは干し|柿《がき》のことだが、それはきのう食べた。きょうは酒にしよう、と殿さまは言う。
 やがて、おちょうしがひとつ運ばれてくる。毒見役が杯でひとくち飲む。殿さまはそれをながめて、あいつは甘党だったなと思う。酒の毒見には、そのほうがいいのだろう。酒好きだったら、ものたりなくて、帰宅してから大いに飲みなおすかもしれない。
 おちょうしひとつの、ぬるい酒を殿さまは飲む。酔えるほどの量ではないが、いくらかからだがあたたまってくる。だが、これ以上は飲むわけにいかないのだ。殿さまのからだは藩のものでもある。個人的な欲望で、酒のために健康を害してはいけないのだ。食事のあとタバコを何服か吸うと、かすかな酔いもどこかへ消えていってしまう。
 しばらくすると、小姓がやってきて、藩校の先生がみえましたと報告する。食後に二時間ほど勉強するのが日課となっている。そのための座敷にゆく。四十歳ぐらいのその先生は、平伏して迎える。殿さまはいつものように机をあいだにむかいあってすわる。これは家老のひとりの兄に当る男。本来なら、この男がその家をつぎ、藩の役職についているべきところだ。しかし、子供の時にあばれて左手を折り、手当てが悪かったためか、自由に動かせなくなった。これでは武士としていざという時にお役に立たぬと、相続を弟にゆずり、本人は勉学の道をこころざした。藩もいくらか金を出し、江戸で学んで戻ってからは藩校の先生になっている。
 きょうも今昔物語のなかから選んでお話し申しあげることにいたしましょう、と先生は書物をひろげて言う。むかし、ある男があった。外出さきにて、ふとしたことから盗賊の計画をぬすみ聞きしてしまう。なんと、その目標にされているのは、自分の屋敷であった。
 殿さまはうなずきながら聞く。四歳の正月に素読をはじめて以来、ずいぶんさまざまな勉強をしてきた。休んだ日はほとんどない。論語など、何回読まされたことか。最初のうちは字をおぼえるのだけでせい一杯だった。つぎには意味を知るのにせい一杯だった。文の解釈について、何度も聞きかえしたものだ。それがずっとつづき、わたしは世の中で学問といえば、儒学だけかと思いこんでいた。江戸屋敷ではいろいろな学者を呼ぶことができた。そのうち、先生によって話すことにちがいがあるのに気づいた。儒学の理想に重点をおくのと、実践のほうに重点をおくのとの差だった。同じ儒学でも各種あるらしいと知った。そのうち、初歩の軍学を習いはじめたりし、儒学とはまるで別な学問のあることを知った。
 習字もやらされたし、和歌もやらされた。万一の場合には、辞世をしたためなければならないからだと言われた。いい気分ではなかったが、あまりにへたくそな字で、へたくそな辞世を作ったのでは、お家の恥となる。たしかにこれは重要なことだ。笑いものになりたくないとの意地で、書と和歌とに熱中したこともあった。そのほか、神道だの、仏教だの、禅だの、さらには茶道だの、あれこれと学ばされたものだ。いつ、どんな時に恥をかくかもしれないからだという。それは個人の恥ばかりでなく、藩の恥にもなる。
 しかし、亡父のあとをついで藩主となってからは、むきになって学ぶ気もしなくなった。ここでも江戸でも、学者の話をきき、わからぬ点を質問し、いちおう理解するだけ。世の中にはさまざまな知識や考え方があるということを、知る程度にしている。ひとつの学問に熱中しつづける藩主もあるようだが、危険なことではないだろうか。藩主がそうなると、家臣たちもそれにならう。なにかの際に、それで身動きがとれなくなりかねない。お家の安泰のためにはならないのではなかろうか。
 いやいや、わたしはさまざまな変った考え方を知ることに、興味をおぼえているのだ。ただひとつの楽しみ。わたしに許された楽しみは、これ以外にないのだ。しかし、最近は年齢のせいか、あまりに理屈っぽく抽象的なのは苦手になってきた。そのようなわたしの内心を、この先生はそれとなく察してくれているのか、このところ今昔物語の話をしてくれている。
 その盗賊の相談を耳にした男のことでございますが、逮捕するため役所に訴えたかと申しますと、さにあらず。妻子をよそへ泊りにやり、召使いに命じて、家財のすべてを近所の家に移し、自分もまた外出した。つまり、家をからっぽにしてその日を待った。
 殿さま、またうなずく。大声で感心したり、笑ったりする習慣は身についていない。しかし、面白い話だな。そういう作戦もあるとは。これをおぼえておいて、江戸城の大広間での退屈な時間に、他の藩主に話してみるか。おそらく知らないにちがいない。いや、やめておいたほうがいいだろうな。相手が知らなければ、恥をかかせることにもなるし、知っていたら、とりたてて話したわたしが恥をかく。大声で話すと礼儀をわきまえぬことになるし、小声でささやいたら幕府の役人に怪しまれかねない。話題は時候のあいさつにとどめておくほうがいいのだ。
 その今昔物語の話が、さらに面白く発展しかけた時、小姓がやってきて言う。申しあげます。江戸屋敷の者がただいま帰国いたしましたので、そのことをお伝え下さいとのことでございます。
 殿さまは先生に、というしだいですので、そのつづきはあすにでもと言い、席を立つ。面白くなりかけたところで先が気になるが、江戸屋敷の者が帰ったとなると、早く報告を聞きたい。なにか変事が起ったのでなければいいが。いつもその不安を感じてしまう。それを表情にあらわすことはないが。
 殿さまは表御殿へと行く。公的な報告を奥御殿で聞いてはけじめがつかないのだ。藩政についてはすべて順をふみ、担当の責任者か家老を通じて報告を受けることになっている。しかし、江戸屋敷からの定期的な報告は、特例となっている。江戸には江戸家老がおり、その代理である使いなのだから、直接に報告を聞いても、けじめが乱れるわけではない。もっとも、決裁を要する事項は、城代家老を通じてということになっている。
 表御殿の広間へ出ると、江戸からの使いは旅姿のまま平伏して待っている。そして、言う。途中でもう一泊しようかと思いましたが、国もとが近づくとつい足が早くなり、このような時刻に到着してしまいました。お休みのところを申しわけございません。殿さまは言う。いや、いっこうにかまわぬ。少しでも早く知りたい。で、江戸でなにか変ったことが起ったのか。
 いえ、すべて無事にはこんでおります。使いのその報告で、殿さまはほっとする。これを聞くために生きているようなものだ。国もとにいる時は江戸のことが気になり、江戸屋敷にいる時は国もとのことが気になる。無事という言葉を聞くと、表情には出せないが、からだのなかを快いものの流れてゆくのを感じる。もっとも、いまこの瞬間にも江戸でなにかが起っているということもありうるわけだが、それを思い悩むのはもう少したってからだ。
 幕府からとくに警戒されてはいないとの報告。それでいいのだ。なにしろ、注目されるのはよくない。警戒されるのがよくないのはもちろんだが、変に信頼されるのも不安なものだ。信頼されると、あとでやっかいなことを申しつけられかねないからだ。なるべく目立たないようにするのが上策。名君とはその術を心得ている者のこと。わたしもそうといえそうだな。
 商人からの借金は、すべてうまく返済くりのべに成功したという。それもまたよしだ。江戸の者たちはよくやっているようだな、と殿さまは言う。
 使いの者はつけ加えた。昨年の台風は西のほうの国を襲ったようでございます。そのため米が値上りいたしました。おかげで当藩の米が高く売れたのでございます。さようか、と殿さまはうなずく。西国の藩は気の毒だが、おかげでこっちは一息つける。しかし、こっちが冷害に襲われたら、それが逆になる。天候とは残酷であり公平なものだな。藩の収入はすべて米であり、財政のためにはそれを売って金にかえなければならない。豊作が望ましいのだが、どの藩も豊作となると米の価格が下り、つまらないことになる。いまみたいなのが最もいい。祖先の霊の守護のおかげだろうか。すべて無事との公的な報告がすみ、殿さまは、そのほか江戸で評判のことはなにかないかと言う。
 さようでございますな、と使いは言う。江戸づめの者たちは、他藩の同役の者たちとたえず会合し、さまざまな情報を仕入れてくる。使いの者は、猿を飼うことに熱をあげている藩主の話をする。江戸での退屈をなぐさめようと、だれかが猿をさしあげたら、それ以来やみつきになった。下屋敷に何匹も猿を飼い、町人たちに命じて持ってこさせつづけている。その藩の江戸づめの者たちは心配し、相談しあっているが、幕府がこのようなことに対しどのような意向なのかわからず、みなはなはだしく困っている。
 そのようなことがあるかもしれぬな、と殿さまは思う。内心で笑う気にもなれぬ。なんとなく同情したくなる点もある。病弱で武術の稽古をあまりやらぬ藩主かもしれぬ。もやもやしたものを発散させる対象がないのだ。直接に藩政に接することのできる国もとならまだしも、人質意識を感じる江戸で時間をもてあましたら、妙な方向にそれが流れ出しかねない。
 それにしても、猿に熱をあげるとは、あまり例のない話だな。そこの家臣たちは、さぞ困っていることだろう。できうれば、やめていただきたいという気分だろうな。しかし、それがいいのかどうか。むりにやめさせれば、なにかべつなことに熱中があらわれるだろう。もっと金のかかることに手を出すかもしれない。神道の一派の変なまじない師に熱中するかもしれない。それらをもさまたげたら、乱心となってあらわれ、もっと危険な結果になるかもしれない。藩主の乱心の話は、時たま耳にする。
 猿とはな。幕府の役人としても、前例がなく意向を示しにくいところだろうな。公儀をはばからざる行為ともいいにくい。危険性のあることでもない。どうきめるだろう。しばらくようすを見るだけだろうな。役人とはそういうものなのだ。そのうち、江戸の話題となるかもしれない。猿殿さまという呼称がささやかれるかもしれない。それに親しみの感情がこもっているか、|嘲笑《ちょうしょう》の念がこもっているか、そこが判定の分れ目だろうな。嘲笑のほうだと、幕府としてもほうっておかないほうがいいとなり、江戸づめの者にそれとなく注意がなされる。隠居ということになるのだろうな。それをめぐって、お家騒動が首をもちあげるかもしれない。
 しかし、表面化することなく、おさまることだろう。表面化すれば、おとりつぶしにはならないまでも、ろくなことはない。担当の幕府の役人だって、在職中におとりつぶしを出し、そこの藩士たちを浪人にさせては、いい気分ではあるまい。つねにもてなしを受けてもいる。そんなことで、すべてうやむやのうちに運んでしまうことだろう。いつも派手なお家騒動を期待している江戸の町民たちは、がっかりするだろうが。町民たちは、殿さまの生活をうらやましがっているのではなかろうか。だからお家騒動を期待しているのだろう。現実は少しもうらやむべき生活ではないのに。わたしに町人のことがわからないごとく、彼らには藩主の生活がわからないのだ。
 しかし、たまにはお家騒動じみた事件があるのも、悪くないことだ。家臣たちが一つの問題をめぐって心配し、あれこれ論じあう。対立はあれど、同じ運命につながっているのだとの意識を新たにする。生活が楽でないとの不満も、禄を失うよりはるかにいいと、あらためて知る。金を貸している商人たちは、お家がつぶれたらもともこもないと青くなる。一段落したあとは、藩内に活気がとりもどせるのだ。
 そこへいくとわたしなど、平穏すぎていかんのかもしれぬな。お家騒動の芽もないし、わたしは奇妙な振舞いをしようとも思わない。情けないというべきか、これでいいというべきか。いやいや、そんな仮定のことを考えるべきではない。現在が安泰であるよう心がけていればいいのだ。それをつみ重ねてゆくのが、最も無難な方法。
 最後に江戸からの使いは言う。奥むきのことをここで申しあげるのはいかがかと存じますが、ご正室さま、若君さま、すべてお元気に日をすごしておいででございます。若君さまは昨年おめみえをすませられて以来、一段とごりっぱになられました。
 
 殿さまはまた奥御殿にもどり、タバコを一服する。江戸ですべてが無事と知り、からだじゅうに安心感がひろがってゆく。タバコの味さえわからない。味のわからないのがいいのだ。タバコのうまさだけが唯一の救いというのは、決していい状態ではない。
 殿さまは江戸の家族のことを思い出す。母上はだいぶとしをとられたが、健在でいらっしゃる。できるだけ長生きをしていただきたいものだ。妻はわたしより五歳の年長だから、ことし四十歳ということになる。結婚して一年間ほどわたしは妻と会話をかわすだけだったが、やがて寝床をともにし、妻は妊娠をした。だが、喜ぶわけにもいかなかった。つわりが激しく、あまりの激しさにみなは驚きあわて、医者を呼んで子をおろした。妻に万一のことがあっては、実家に対して申し訳のないことになる。子供は側室によって作ることができるが、正室はかけがえない。
 そして、妻はこしいれの時に連れてきた侍女のひとりを、わたしの側室に推薦した。その側室とのあいだに男子がうまれたが、生後一年ほどしてかぜのために死亡した。その時、妻はなげき悲しんだものだった。大声で泣くといったはしたないことはしなかったが、沈みがちの日々だった。わが子を失った妻の悲しみは、充分に察することができた。
 そんなこともあって、わたしはあとつぎのことを気にし、この国もとに側室を作った。当時、|二十歳《は た ち》前の女で、家臣の娘。それとのあいだに、まもなく男子がうまれた。三歳に成長し、旅にたえられるようになってから、参勤交代の時にわたしは江戸へ連れていった。江戸屋敷の妻は大喜びし、迎えてくれた。あたしの子ね、ほんとにあたしの子なのね、と。その通りだ。そなたの夫であるわたしの子は、そなたの子にほかならない。
 妻は息子をずっとかわいがってくれたし、息子もまた妻をしたっている。わたしが母上に対してそうであったのと同様に。さいわいすこやかに育ち、昨年、将軍におめみえをし、相続者としての登録をすませた形になった。年齢的には少し早すぎるが、相続者を早くきめておいたほうが安心できるからだ。
 といって、父が死んでからそれまでのあいだ、わたしの相続の準備が空白となっていたわけではなかった。あとつぎがないとおとりつぶしというきまりが存在するからには、藩として一日たりとも落ち着いてはいられない。かりにわたしが落馬して死亡したら、藩そのものがそれで終りとなる。
 そのため、母上の|甥《おい》に当るしっかりした若者をひとり、養子の候補者として用意しておいた。つまり、母上の実家である譜代大名の三男という人物だ。万一わたしが死亡した場合、国もとであれば|早飛脚《はやびきゃく》で江戸屋敷に連絡する。江戸屋敷で死亡した場合は、数日間それをかくす。そのあいだに養子の手続きをとり、将軍へのおめみえをすませ、しかるのちにわたしの死をおおやけにするというわけだ。江戸づめの者は、関係者へのつけとどけをおこたらず、いつでもそれに対応できる態勢をとっていたのだ。
 しかし、息子がおめみえをすませた今は、いちおうその不安が解消されている。やはり、わが子に相続させたほうが、周囲もうまくゆく。それにしても、養子の候補者として待機していた形だったあの男、どんな気分でいたのだろうか。その期間中にわたしが死亡していたら、藩主としてここへ来ることになっていたはずだ。しかし、これであの男は、また譜代大名の三男という運命の道へ戻り、ずっと部屋住みの人生を送ることになる。機会を失い、どんな心境だろう。べつに心境なんてものもないだろうな。ほっとしてるというところではないだろうか。心がまえもできてないのに、事情も知らぬ藩の主にすえられ、一日中ひとに見張られて生活するより、部屋住みのほうがいいにきまっている。もっとも、この藩主になったとしても、一時的なお飾り、藩政は家老たちにすべてをまかせ、わたしの息子のおめみえを待って相続させ隠居するという申しあわせになっていた。
 なお、江戸屋敷の側室とのあいだには、その後男子がうまれ、いま八歳になっている。それをうむとすぐ、側室は死亡してしまった。気の毒だがいたしかたない。子供は貴重だが、側室はいくらでも作れるのだ。妻はまたかわりの側室を推薦してくれた。
 
 殿さまは、では、そろそろ参るとするかな、と言う。小姓は中奥のほうに連絡がしてあることを報告する。奥御殿に属する|別《べつ》|棟《むね》の部分、女ばかりがいる建物のことだ。一日おきにそちらへ泊ることになっているので、きまりきった会話。
 廊下を伝って歩く。その境目であるお錠口で、わたしの刀を小姓が中奥の女に渡す。双方ともなれた手つきで、事務的なもの。ついてきた小姓は四十歳をすぎた妻帯者。中奥の女も、やはり四十歳ちかいやもめ。藩士である夫に先立たれた女を、なるべくここで使うようにしている。本人も喜んで奉公するというわけだし、武家の出である女は口が固くていい。
 きのうの朝この中奥を出てから、丸一日半、女の姿を見なかったことになるな、と殿さまは思う。だからどうだということもないが。殿さまはひとまず、いつもの座敷へすわる。この建物は江戸屋敷の中奥にくらべ規模はかなり小さく、全部で女は五十人ぐらい。女もまた、江戸のに比較してここはずっとやぼったい。妻がこしいれの時に連れてきた女たちにくらべ、ここは国もとなのだから、いたしかたないことだ。それだけわたしも気楽といえる。
 四歳になる女の子が入ってきて、あいさつをする。わたしの娘、ここの側室とのあいだにできた娘だ。きせかえ人形を持っている。面白いとりあわせだ。本人は自分で着がえをしたことがない。みなまわりの者がやってくれる。本人こそきせかえ人形なのに。娘はあどけない口調で、江戸とはどんなところなのと言う。だれかが話すその地名に興味を持ったのだろう。そうだな、そろそろ江戸へ連れていったほうがいいのかもしれないな。二人の息子たちも、妹がいたほうが楽しいだろうし、妻も喜んでくれるにちがいない。妻はなかなかの子供好きなのだ。江戸屋敷の妻は、上の息子が成長して別の建物に移ったので、少しさびしがってもいるようだ。
 それに、この娘にとっても、江戸で育てたほうが当人のためだ。なにかを習うにしても、江戸のほうがいい先生を呼びやすい。成長して縁づかせる場合も、江戸だと話を進めやすい。幕府の役職につける将来性のある旗本にでも縁づけることができれば、お家のためになるのだがな。いい縁談がなければ、藩から江戸づめになった家臣と結婚させることにでもするかな。
 座敷のそとの廊下を、時刻を告げる係の女が、声をあげて歩いてゆく。わたしは娘に、もう寝なければならぬと言う。世話係の女が連れてゆく。
 五十歳を越えた女が入ってきて、あいさつをした。父の側室だった女で、わたしをうんだ女だ。しかし、母と呼ぶわけにはいかない。わたしの母上は、江戸にいる父の正室以外にはありえないのだ。元気でおるか、とわたしは言い、そのとしとった女はていねいに頭を下げる。父の側室であり、わたしをうんだ女であっても、正式な家族ではない。藩主と、それにつかえる者との関係で、そのように言葉をかわさねばならぬ。それを乱して親しげな口をきいたら、わたしのつきそいの女たちが中奥を管理する女に報告し、それから、この父の側室であった女に注意がゆく。そのようなことをなさってはいけませんと。それが正しいのだ。側室を家族あつかいしたら、どこの大名もお家が混乱状態におちいりお家騒動が続出するにきまっている。また、実の母と感じてたてまつったりしたら、その縁つづきの家臣がいい気になり、それに遠慮する家臣もあらわれ、きりがない。いまの形が正しいのだ。
 そう考えながら、殿さまは前に平伏している女の髪を見る。赤っぽい花のかんざしがさしてある。このことかな。三歳で江戸に移る前のわたしの記憶となると、赤っぽい花のことがかすかにあるだけだ。郷愁のもとはこれかもしれないし、そうでないかもしれない。そのかんざしはずっと前からしておるのか、と聞けば答えがえられるのだろうが、それはやめる。そうだとしても、どうということもないのだ。
 殿さまは二人の女につきそわれ、寝所へと行く。その手前の間で立ちどまると、女たちは殿さまの着物をぬがせ、はだかにし、夜着にきかえさせる。いつもくりかえしていることなので、なれた手つきだ。
 殿さまは寝床に入る。足をのばすと湯たんぽに触れ、ほっとする。やがて、側室がやってきてつぎの間で頭を下げる。かんざしを抜いて、たらした髪。暗殺防止のため、かんざしをとるきまりになっている。着ているものも、本来なら凶器をかくせないうすもの一枚でなくてはならないのだが、あまりにも寒い季節なので、そうはなっていない。しかし、係が充分に検査しているはずだ。だが、殿さまを暗殺する側室などあるのだろうか。ありえないだろうな。しかし、突然の狂気という可能性もあり、それを考慮してそんなしきたりになっているのかもしれぬな。
 これへと言おうか、さがってよしと言おうかと少し考え、殿さまはさがってよしと言う。さっき江戸からの使いから、息子の話を聞いた。また、まもなく娘を江戸に連れてゆくことになる。そんなことを考えたあとでは、これへと言うのにためらいを感じる。わたしの子とはいえ、いずれもこの女からうまれたものだ。息子が立派に成長していることを話すのも、話さないのも、ほんの少しだが気がとがめる。なにも、そんなことを気にしなくてもいいのだが。
 子供を作るのが側室のつとめ。毒見役が毒見をするのと同じことだ。子供さえ作れば、側室はこの中奥で一生なにもせずに生活してゆける。
 側室は頭を下げ、自分の部屋へと戻ってゆく。あの女も、そろそろ三十歳だな。側室の地位をしりぞかなくてはならない年齢だ。大名家においては、正室も側室も三十歳を越えると寝床をともにできないきまりとなっている。なぜなのだろうか。ひとりの側室が、あまりにたくさん子をうむとさわぎのもととなりかねないからだろうか。しかし、正室はなぜいかんのだろうか。わたしにはわからん。
 いまの側室がしりぞいたあと、どんな側室が推薦されるのだろう。この中奥の女たちのなかからわたしが選んでもいいのだが、ここを管理する女から推薦された者をだまって受け入れたほうが無難というものだ。家老を選ぶのと同じこと。若い家臣をわたしの気まぐれで家老に|抜《ばっ》|擢《てき》すれば、英断ではあるかもしれぬが、さまざまな問題をひきおこし、和を乱すことになる。側室の条件は、あとつぎをうみそうな女でなければならない。それについては、わたしよりはるかに目のきく女たちが、ここにはそろっている。それにまかせておいたほうがいい。江戸での側室の人選は、すべて妻に一任してある。へたな争いはしたくないからだ。
 新しい側室がきまったら、子供を作るとするかな。いまは息子が二人。もう一人か二人男子が欲しいところだ。いつどんな病気がはやり、ばたばた倒れるかわからぬ。それにそなえ、こんど男子がうまれたら、しばらく国もとで育てるほうが深謀遠慮というものかもしれぬな。長男以外は江戸に必ずしもおかなくていいのだ。といって、子供を作りすぎるのも考えもの。養子として家臣に押しつけたり、ひと苦労だ。
 あとつぎを作ることが、藩主たるものの最大の責任であり義務なのだ。江戸の町民たちは大名の夜の生活に好奇心を持っているらしいが、まるでちがうものだ。お家のため、藩の家臣たちの安泰のため、世つぎを作る。その気持ち以外のなにものでもない。第一、女に対して楽しみを感じはじめると、とめどなくそれにおぼれかねない。健康を害するかもしれず、公的な判断がなげやりになるかもしれず、出費だってかさむ。
 いや、すでにこの国もとにおいても、江戸屋敷においても、中奥の費用はかなりのものなのだ。たとえば江戸でだが、妻がおこしいれの時に連れてきた侍女たちがいる。妻は対外的に大切なお飾りであり、侍女たちをへらすわけにはいかない。母上も同様、粗末なあしらいをしたら、親戚筋から文句が出る。側室は主従のあいだがらとはいえ、三十歳をすぎたからといって帰すわけにもいかない。帰してよそで子を作られてもうるさい。一生めんどうをみなければならず、といって雑用にこき使うわけにもいかない。
 正室や側室の世話係の侍女たちがふえると、それにともなう仕事をする女たちがふえる。掃除係、せんたく係、ぬいもの係、料理係、お湯をわかす係、夜の見まわり係、時刻を告げてまわる係。さらに男子禁制の場所のため、いざという場合にそなえ、武芸のできる女も必要となる。礼儀作法を指示し、統一させねばならず、それらを監督する係もいるし、外部との連絡係もいる。これで側室を何人もふやしたら、またその世話係がふえ、子供がうまれれば、その世話係もふえる。
 これらはすべて、江戸のも国もとのも、お家のあとつぎを作るために存在しているのだ。表御殿における藩政の関係者とくらべて、中奥の重要さは少しもおとらない。藩政の失敗はとりかえしがつかないこともないが、あとつぎが絶えれば、それですべてが終りとなる。
 側室とはあとつぎを作るためのもの、と殿さまは思っている。腹は借りものという言葉を聞いたことがあるな。しかしなあ、ということになれば、藩主そのものも借りものといえるかもしれぬな。本物は土地と、それを耕作する農民だけ。藩主や家臣は、幕府がその気になれば、よそへ移してしまうことができる。公的には、藩主は一時的にそこをおさめているだけなのだ。そのあやふやな上にいて、あとつぎという永続的なものに気をくばる。おかしなものだな。いやいや、また変なことを考えはじめたようだ。こういう結論の出ないことに頭を使っても意味はない。
 殿さまはかけぶとんを引きあげる。座敷のすみで灯がゆれている。タバコを吸おうかなと思う。|枕《まくら》もとの鈴を鳴らせば、つぎの間に控えている女がやってくる。それに命じると、女は座敷のそとの連絡係に伝え、やがてタバコ盆が運ばれてくるだろう。しかし、けっこう時間がかかり、いざとなると吸いたい気分も消えてしまうかもしれない。運ばれてきたタバコを吸わないと、手落ちがあったのではないかと、あとで問題になるだろう。殿さま用の夜のタバコ係という人員がふえるかもしれない。それなら、吸いたいのをがまんしておいたほうがいい。
 ほかの殿さまたち、いまごろはどうしているだろうな。国もとにいる者もあり、参勤交代で江戸にいる者もあるだろうが、おそらくわたしと大差ないことだろうな。外様大名というものは、どこもひたすらお家安泰を心がけている。事件など起りようがない。
 譜代や直参の旗本をうらやんでいる外様大名はいるだろうか。幕府の役人になれるのは、十万石以下の譜代か旗本に限られている。そのうちの優秀な者は、出世街道を進むことができる。うまくゆけば要職をへて老中にまでなれる。そのあいだに、各方面からつけとどけをもらうこともできよう。しかし、やはり出世するのは大変な競争のようだな。才能があり、頭がよくなくてはだめだ。また、上層部への裏の運動もおこたるわけにいかない。各方面からもらったつけとどけだって、その運動費に消えてしまうことだろう。つねに走りつづけていなければならない。途中でなにか失敗をやれば、いっぺんに転落。かりに老中になれたところで、その地位を息子にゆずるわけにもいかない。あとつぎの息子は、出発点でいくらか有利とはいえ、また最初からやりなおしだ。第一、出世街道を進みそこなう者のほうが、はるかに多いのだ。
 それを考えると、わたしのような外様大名のほうが、まだしもいいかな。つねに幕府の役人に気を使い、江戸にいる時は人質としての気分を味わわされ、時にはつまらなくもなるが。
 聞くところによると、京都の朝廷もあまりいいお暮しではないらしい。将軍家は豪勢なものだが、ご本人はべつに好き勝手なことができるわけではない。商人はせっせとかせぐが、大名たちに返ってくるあてのない金を貸しつづけなければならない。
 みなが好き勝手なことをやったら、どうなるのだろう。考えただけで恐しくなる。だれもが耐えているのだし、それによってこの泰平の世が保たれているわけだろう。耐えるという|枠《わく》がはずれたら、どんな形でかはわからないが、戦国時代がふたたび訪れるにちがいない。
 廊下を女が、火の用心と小声で告げながら歩いてゆく。殿さまは眠くなってくる。からだがあたたまり、こころよい気分で、目をあけたりとじたりしている。これで一日が過ぎたのだ。べつになにも失敗はなかったようだ。これが今までずっとつづいてきたのだし、これからもずっとつづいてゆく。自由なことのできる日など、一日もないのだ。いや、自由とはどんなことなのか、それすら殿さまは知らない。平均寿命五十歳として、あと何日これがくりかえされることだろう。いや、死んだあとにおいても、あとつぎが同じことをくりかえしてゆくのだ。
 殿さまはつぎの間にすわっている二人の女の不寝番をながめ、それから、座敷のすみのちがい棚の上に飾ってある古びた|壺《つぼ》に目をやる。領民が新しく農地を開墾しようとして地面を掘っていたら、これが出てきた。なわのあとが模様のようについている土器。おもしろいので藩主に献上すると持ってきたものだ。たしかに、めずらしいもののようだ。素朴な形がいい。ずっとむかし、このへんに住んでいた人が使ったものらしいという。
 殿さまはそれをここに飾ることにした。眠る前に、なんということなくながめるのだ。あれを使っていた、ずっと大昔の人たちは、なにを考え、どんな一日をすごしていたのだろう。あわれな生活だったのだろうな。そう想像しかけ、いまの自分の考えをあてはめようとしているのに気づく。あわれだなんて言ってはいけない。昔の人たちは、それなりにせい一杯に生きていたはずだ。それに対していまの考えをあてはめられ、あれこれ批判されては迷惑にちがいない。
 ねむけが殿さまをやわらかく包む。人というものは、眠る時と目ざめる時と、どっちが楽しいものだろう。ふとそんなことを思いかけるが、押しよせたねむけのなかに、それは消えてゆく。
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