猫の事件22

 風邪とサラリーマン

 
 
 その夜、二匹の風邪のビールスが風に揺られて町をさまよっていた。雲は凍てつき、今にも雪の降り出しそうな寒い夜だった。
「寒いな。だれか人間の体の中にもぐりこもうぜ」
「うん。このままじゃこごえ死んでしまうぜ」
 そうつぶやきあっているとき、二人のサラリーマンが町角に現われた。
「あれにしよう」
「あんまりいい男じゃないな」
「より好みをしているときじゃないぜ」
「まあ、そうだ。二人ともいいあんばいに疲れているらしい」
 二匹は風に揺られて男たちの口もとに近づき、二人が息を吸った瞬間に、スイと鼻から肺へともぐり込んだ。
 男たちの名はマジメ氏とナマケ氏。同じ会社に勤めるサラリーマンだった。
 マジメ氏はその名前の通り生真面目な男で、この日も夜遅くまで残業をし社宅に帰る途中ちょっと駅前の居酒屋に立ち寄った。体は綿のように疲れていた。
 一方、ナマケ氏は退社時刻を待ちかねるようにして会社を出て、そのまま麻雀屋へ足を向けた。それがナマケ氏の日課だった。昨夜も一昨夜も十二時過ぎまで雀卓を囲んだ。
「たまには少し早めにきりあげようぜ」
「ああ、そうしよう」
 十時過ぎに麻雀屋を出て、駅前の居酒屋に立ち寄った。そこでマジメ氏に出合った。
「ぽつぽつ帰ろうか」
「ああ、オレも少し疲れた」
「麻雀も結構疲れるものらしいな」
「うん。仕事より疲れるぜ」
 店を出て大通りの角にさしかかったとき、折あしく二匹のビールスとめぐりあったのだった。
 
「あなた、どうなさったの。もう七時半よ」
 マジメ氏の奥さんが声をかけた。いつもならとうに起きているはずの夫が、まだ布団の中にいる。
「頭が痛い」
「あら、いやだわ。風邪かしら。熱があるの?」
「体温計をくれ」
 計ってみると、三十八度を越えている。
「風邪よ」
「そうらしい。体のふしぶしが痛い」
「休んだら」
「そうもいかんさ。仕事が山のようにたまっているんだ」
「でも、体の調子のわるいときくらい休んだほうがいいわよ」
「風邪くらいでいちいち休んでいられるか。勤務評定にも響くしな。風邪薬を持って来てくれ」
「大丈夫かしら」
「グズグズ言うな。行くと決めたら行くんだから」
 マジメ氏は身を起こし、屈伸運動をひとつしてから布団を離れた。
 たしかに体調はわるい。しかし仕事は休めない。昨日も課長から「マジメ君は頑張るなあ」とほめられたばかりだった。勤務評定は入社以来ずっとAランクだ。一番いそがしい時期に風邪くらいで休暇をとるわけにはいかない。マジメ氏は無理を承知で会社へ向かった。
 ——オレの誠意はきっと認められるだろう——
 と信じながら。
 
 同じ頃、ナマケ氏は自宅のベッドに身を横たえていた。頭が痛い。体がだるい。熱もあるらしい。
「あなた、どうするの。また休むの?」
「ああ、風邪を引いたらしい。こんなとき会社へ行ったって仕事にならん」
「もう年次休暇はないんでしょ」
「病気には勝てんよ」
 入社以来勤務評定はずっとCランクだ。今期の査定もCだろう。今さら努力することもない。ナマケ氏は布団をかぶって目を閉じた。
 
 マジメ氏の体に入ったビールスは体内で活発な活動を開始し、どんどん子孫を増やした。マジメ氏が体を酷使すればするほど繁殖はやりやすい。子孫はマジメ氏の口から鼻から飛び出して周囲の人間たちの体の中に新しい住まいを見つけた。
 おかげでマジメ氏の課では、十人のうち九人までが風邪を引き仕事の能率はいちじるしく低下した。
 一方、ナマケ氏の体に宿ったビールスはと言えば、白血球たちの激しい抵抗にあって繁殖もままならない。多少子孫を増やしてみたところで、ナマケ氏が家でのんびりと寝ているので、だれかの体に移住することもできない。一族はそのまま死に絶えるよりほかになかった。ナマケ氏の課ではだれも風邪を引くこともなく、仕事は順調に進んだ。
 
 日ならずして、勤務評定が始まった。マジメ氏はA、ナマケ氏はC、いつもと変らぬ査定だった。
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