泥棒物語14

 華《はな》子《こ》の危機

 
 塚原は、家から少し離《はな》れた所でタクシーを降りた。
 やはり、バスで帰って来たことにしておかないとまずいのである。前から、よくタクシーで帰っていたというのならともかく、そんなむだな出《しゆつ》費《ぴ》に堪《た》えるほどの余《よ》裕《ゆう》は、塚原の財《さい》布《ふ》にはなかった。
 家の前までタクシーを乗りつけて、妻《つま》の啓子や明美に見られてはまずい。それに、タクシーでなくては帰れないほど遅《おそ》い時間ではなかった。
 「やれやれ……」
 と、塚原は呟《つぶや》いた。
 暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい気候である。しかし、のんびりと散歩する気分にはなれなかった。
 気が重い。——南千代子と会った帰り道はいつもこんな気分である。
 だったら、やめりゃいいのだ。そうは思うのだが、別れぎわ、南千代子にキスされて、
 「ねえ、こんどはいつ会える?」
 と訊《き》かれると、もうやめようとは言いにくくなってしまう。
 「あんまり先じゃいやよ」
 などと甘《あま》えて来られると、やはり塚原も男で、ついニヤニヤしてしまうのだった。
 啓子には悪いと思っている。どうせ南千代子の方だって、一時の遊びのつもりなのだから、そう執《しゆう》着《ちやく》しているわけではないに違《ちが》いない。
 そう思っていながら、しかし、やめられないのが浮《うわ》気《き》というものなのだろう。却《かえ》って、これが本《ヽ》気《ヽ》だったら、危険に怯《おび》えて、スッパリと諦《あきら》めるかもしれないのだが。
 タバコをやめられるのは、むしろヘビースモーカーの方で、一日に五、六本という人間は却ってなかなかやめられない、というのと似ている。
 南千代子との仲は、その気になればいつでも清《せい》算《さん》できる。だからこそ、断《た》ち切れないのである。
 塚原が多少後《うし》ろめたいのは、啓子に対してだけではなく、浦田京子に対しても、であった。南千代子との付合いで、食事やホテル代、タクシー代など、つい出《しゆつ》費《ぴ》もかさんでいて、あの金に手をつけないわけにはいかなくなっていたからだ。
 こんなことのために、危い橋を渡《わた》ったわけではないのに……。
 塚原は、家の少し手前で、足を止めた。
 「——やあ」
 と、塚原は、そこに立っている浦田京子に言った。「どうしたんだい?」
 「お話があるんです」
 と、浦田京子は言った。
 「上ればいいのに」
 「お宅では、話し辛《づら》いことですから」
 と、浦田京子は言った。「ゆっくりお話できる所はありません?」
 塚原はバス停《てい》の方まで戻《もど》って、そこの小さな喫《きつ》茶《さ》店《てん》に、浦田京子を連《つ》れて行った。
 「もうすぐ閉店ですよ」
 と、店の主人がいやな顔をしたが、
 「すぐ出るから」
 と、強《ごう》引《いん》に入ってしまった。
 「——突《とつ》然《ぜん》ですみません」
 と、京子は言った。
 「いや、そんなことはいいけど。——足、けがをしたのかい?」
 京子は、店の主人が、TVの方に夢《む》中《ちゆう》になっているのを、チラッと見やって、それでも聞こえないように低い声で言った。
 「車にはねられそうになったんです」
 「そりゃ危かったね」
 「狙《ねら》われたんです」
 「何だって?」
 塚原は思わず訊《き》き返した。
 「低い声で。——間《ま》違《ちが》いありません。私《わたし》を殺す気で狙って来たんです」
 「それは……。しかし、一《いつ》体《たい》誰《だれ》が……」
 「分りません」
 と、京子は首を振《ふ》った。「社長さんの命《めい》令《れい》かとも思ったんですが、それにしては、ただ殺すのは単純すぎると思うんです。お金をどうしたのか、向うも知りたいでしょうし」
 「そうだね」
 「塚原さんの方は、何か変わったことはありませんでしたか?」
 「いや——別にないよ」
 「そうですか」
 京子は肯《うなず》いて、「それならいいんですけど……。でも、念のためです。用心して下さいね」
 「うん、分った」
 ——手っ取り早く、コーラをとって、二人《ふたり》は黙《だま》ってグラスの半分ほど飲んだ。
 「塚原さん」
 と、京子は言った。
 「うん?」
 「南千代子さんが、社長の命《めい》令《れい》で近付いて来たとは考えられませんか?」
 塚原はギョッとした。
 「そ、それは……君……」
 「社内では噂《うわさ》になっています。事《じ》実《じつ》なんでしょう?」
 少しも責《せ》めるような口《く》調《ちよう》ではない。
 「うん……。いや、本当に面《めん》目《ぼく》ない」
 と、塚原が頭を下げると、京子は笑《わら》って、「私《わたし》に謝《あやま》られても困りますわ。謝るのなら奥《おく》様《さま》へどうぞ」
 「うん……」
 塚原は頭をかいている。
 「そのことは、私が口を出す問題ではありません。ただ、もし千代子さんが——」
 「それはないと思うよ。そんな風《ふう》に探《さぐ》りを入れられたことはない」
 「お金を上げてるんですか」
 「いや、何一つ買ってやったこともないよ」
 と塚原は言った。
 「それならいいんですけど」
 と、京子は言った。「でも、充《じゆう》分《ぶん》用心して下さいね。あまりお金があるように見せると、それだけでも怪《あや》しまれますわ」
 「うん、分った」
 塚原は、ため息をついた。「まさか僕《ぼく》と南君のことが、社内で噂《うわさ》になってるとは思わなかった」
 「女の子は、そういう勘《かん》が鋭《するど》いんですわ」
 と、京子は微《ほほ》笑《え》みながら言った。
 「早くけ《ヽ》り《ヽ》をつけなきゃいけないとは思うんだがね。女《によう》房《ぼう》にも悪いと思ってるし……」
 「よく分ります。塚原さんは真《ま》面《じ》目《め》な方ですから。——でも、奥《おく》様《さま》にはもちろんですけど、千代子さんの方にも、気をつかってあげて下さいね」
 塚原は、京子の、暖かくて厳《きび》しい視線を受け止めた。
 「奥様も、千代子さんも、一人の女なんです。千代子さんは気《き》楽《らく》に遊んでいるだけと思われているかもしれませんけど、必ずしもそうとばかりは言えませんわ。見かけと心の中は違《ちが》うものです」
 「そうだね」
 塚原は肯《うなず》いた。「——その通りだ」
 「——それじゃ、私、これで」
 と、京子は立ち上った。
 店を出ると、塚原は、
 「送ろうか。また何かあると危い」
 と、京子に言った。
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。用心しますから。それより早くお帰りにならないと」
 京子は微《ほほ》笑《え》んで、「少し石ケンの匂《にお》いがしますよ」
 塚原は赤くなった。京子は、バス停《てい》の方へ行きかけて、振《ふ》り向くと、
 「お嬢《じよう》様《さま》、大きくなられたでしょうね」
 と言った。
 「明美かい? うん、もう十六だからね」
 「一度、親子でゆっくり話し合われるとよろしいですわ。——それじゃ、津村さんの方にも充《じゆう》分《ぶん》用心されるように伝えて下さい」
 「分った……」
 塚原は、ちょっと戸《と》惑《まど》いながら言って、「——ありがとう!」
 と、京子の後姿に声をかけた。
 明美と話し合う? どうして彼女は突《とつ》然《ぜん》そんなことを言い出したんだろう?
 塚原は首をかしげながら、再《ふたた》び家への道を辿《たど》って行った。
 ——京子はバスを待ちながら、塚原が、おかしくなっていないことが分って良かった、と思った。
 あれなら決定的なところまでは行くまい。以前の自分なら、塚原を責《せ》め立てていたかもしれないが、その点では確かに、自分は変ったのだ。
 京子はそう思って、満足だった。
 バスが来るのが目に入った。
 
 スーパーマーケットは、相《あい》も変わらぬ人出である。
 津村華子は、久しぶりでスーパーへやって来た。久しぶり、というのはちょっとオーバーだったが、当人としてはそんな感じであった。
 このところ、引《ひつ》越《こ》しのための家具選びで、デパートばかりへ足が向くようになっていたのである。
 デパートだって、食料品は買って来れるが、卵とか牛乳とかを、かかえて帰って来るのは楽でない。やはりそういうものは、スーパーへ来て買うことになる。
 その類の品が、空《から》っぽになってしまったので、スーパーへやって来たのである。
 華子は買物を済《す》ましてからスーパーの食堂へ入った。
 いつもだと、安いランチでも注文するところだが、財《さい》布《ふ》に余《よ》裕《ゆう》があるので、ちょっと気取って……高いものを、と思った。でも、大《だい》体《たい》こんな店に何千円もするステーキなんかない。それに昼からそんなものを食べたいとも思わなかった。
 仕方なく、ランチとあまり変らない値段のグラタンを頼《たの》んで、ただ、デザートを追加したのが、ちょっとしたぜいたくだった。
 見回すと、見知った顔も、いくつか見えたが、どうせ近《ちか》々《ぢか》引《ひつ》越《こ》すのだと思うと、あまり話をする気にもなれない。
 でも——本当に引越すのかしら?
 何だか、まだ信じられないような気分である。
 華子も、デパートの売場の女性にあれこれ訊《き》きに来たという男のことが、心配でなかったわけではない。しかし華子は、そのことを、ついに夫に話さずじまいだったのだ。
 どうして——と訊かれると、華子も困ってしまう。
 もちろん、話すべきだったのは分っているが、マンションを買い、家具を選び、引越しの手配をして——もちろん内《ない》装《そう》工事の関《かん》係《けい》ですぐに引越すわけにはいかないのだが——今、夢《ゆめ》が実《じつ》現《げん》しようとしているのだ。
 それにブレーキをかけるようなことを、したくなかったのだ。
 そう、その男だって、誰《だれ》か他《ほか》の女性と間《ま》違《ちが》えたのかもしれない。そんな無《む》茶《ちや》な理《り》屈《くつ》で、華子は自分を納《なつ》得《とく》させていたのである。
 ——食事を済《す》ませて、華子はスーパーを出た。
 しばらく買物に来ていなかったので、やたら荷《に》物《もつ》が大きくて重い。華子は車の運転などできない。
 タクシーで帰ろうかしら、と考えながら、歩いていると、一台の白い車が、華子の方へ寄って来て停《とま》った。
 「すみません、ちょっとうかがいたいんですが——」
 ごくありふれた中型車から、若い男が顔を出し、助手席には恋《こい》人《びと》らしい女が乗っていた。
 「何ですか?」
 華子は、重い荷《に》物《もつ》を持ったまま、車の若者へ訊《き》き返した。
 「この団地へ行きたいんですけど、道、分りませんか」
 若者が、メモを取り出して、華子に見せた。
 「あら。——うちの方だわ」
 と、華子は言った。
 実《じつ》際《さい》、その住所は、華子のいる棟《むね》の一つ隣《となり》だったのだ。
 「そうですか」
 若者はホッとした様《よう》子《す》で、「道、分ります?」
 「ええ、もちろん。ただ……団地の中は、割《わり》と分りにくいですよ」
 「そうでしょうね。——あの、失礼ですけど、奥《おく》さん、今からお帰りですか」
 「ええ」
 「じゃ、乗って行きませんか? お送りしますから、道を教えて下さい」
 「まあ。でも悪いわ」
 「いいんですよ、こっちは。迷《まい》子《ご》になるんじゃ困りますものね」
 と若者は言って、隣《となり》の女の子に、「おい、お前、後《うし》ろに行けよ」
 「うん」
 女の子が後《うし》ろの空《くう》席《せき》に移《うつ》る。
 「さあ、どうぞ」
 若者が荷《に》物《もつ》を、後ろの座席の空《あ》いた所に置いてくれ、華子は、助《じよ》手《しゆ》席に腰《こし》をおろした。
 助かったわ、と華子は思った。この荷物、タクシーの乗り場まで持って行くのだって楽《らく》じゃない。
 華子だって、これが男一人の車だったら、乗るのをためらっただろうが、ちゃんと女の子がいたし、それに若い人には珍《めずら》しく、礼《れい》儀《ぎ》正しいので、すっかり気を良くしていたのである。
 「じゃ、この道を真直《まつす》ぐに行って、あの信号を右へ行くんです」
 と、華子は言った。
 「分りました」
 若者が、車をスタートさせる。
 「団地にお知り合いがいらっしゃるの?」
 と、華子は訊《き》いた。
 「ええ、そんなところです」
 と、若者が肯《うなず》く。
 「——あら、違《ちが》うわ」
 と、華子は急いで言った。
 「信号を右なの。私、右って言わなかったかしら」
 車は左へ曲っていたのだ。
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
 と若者は言った。「あなたは、右と言いましたから。津村華子さん」
 「え?」
 華子は戸《と》惑《まど》った。「あの——」
 「静かに」
 後《うし》ろの女の子が、乗り出すようにして、華子の肩《かた》へ手をかけた。「ナイフを持ってるのよ。声をあげると、命はないからね」
 ナイフ? 命がない?
 そう突《とつ》然《ぜん》言われたところで、華子には何のことだか分らなかった。
 「あの——あなた方は——」
 「ただ、ちょっとお付合い願うだけですから」
 と、若者は、ハンドルを握《にぎ》ったまま、相《あい》も変らぬ愛《あい》想《そ》の良さで、言った。
 「でも、私……」
 「静かに、と言ったよ」
 女の方は、ガラッと変って、不《ふ》良《りよう》っぽい口のきき方だ。「口をきかずに、そこで座《すわ》ってりゃ、何もしないよ」
 華子は、やっと自分がとんでもない立場に置かれているのだということを悟《さと》った。
 どこかへ連《つ》れ去られようとしている。しかし——一《いつ》体《たい》何のために?
 華子は、表に目をやった。車は団地の方とは反対の、華子の知らない辺《あた》りへとどんどん入って行く。
 どこへ行くんだろう?
 車は二十分以上、走り続けた。——かなり郊《こう》外《がい》まで出て来ている。
 やっと、華子も少しものを考える余《よ》裕《ゆう》が出て来た。
 この二人《ふたり》は、彼女《かのじよ》の名前を知っていた。ということは、声をかけて来たのも偶《ぐう》然《ぜん》でなく、初めから狙《ねら》って近づいて来たわけだ。
 目的は?——誘《ゆう》拐《かい》?
 華子は、やっと、この二人と、夫が拾《ひろ》って来た大金を結びつけて考えた。あのお金が、もしよほど 「いわくのある」お金だったら……。それを使ってしまったことを知って、腹を立てた人間が、この二人を使って、華子を誘拐させたのか。
 事《じ》情《じよう》はどうにせよ、ただの安サラリーマンの妻《つま》を誘拐する物《もの》好《ず》きはあるまい。あのお金のことを知っているのだ。
 でも——お金はまるまる残っているわけではない。マンションの代金を払《はら》ってしまったからだ。
 どうなるんだろう? どこかへ監《かん》禁《きん》されて、身《みの》代《しろ》金《きん》の要求、ということになるのだろうか?
 初めて、華子の胸に恐《きよう》怖《ふ》心《しん》が湧《わ》き上って来た。
 「——ここだ」
 車がスピードを落として、カーブした。
 道《どう》路《ろ》沿《ぞ》いに、いくつか見えるモテルの一つへ入って行く。
 「いい? 逃《に》げようなんて気を起すんじゃないよ」
 車が停《とま》ると、女が、ナイフをチラつかせて言った。
 若者の方が、手続を済《す》ませて戻《もど》って来る。
 「さて、部《へ》屋《や》へ入って、のんびりするとしようか」
 「三人で仲良く遊びましょうよ」
 女がそう言って、クックッと笑《わら》った。華子はゾッとして、青ざめた。
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