シングル11

 11 目 撃

 
「——このマンションでどうです」
 
 と、安東はパソコンのディスプレイに、部屋の間取りの図面を呼び出した。「3LDK。
 
——当分、あなた一人でいるには、充分でしょう」
 
「広すぎますよ」
 
 と、涼子は言った。「それに大学生の身分で、そんな高いマンション……。とてもお金だって払えません」
 
「もちろんタダですよ」
 
 と、安東は当り前という口調で、「これはお礼のつもりです。気にしないで下さい」
 
「そんなわけには……。あんな高い服までいただいてるのに」
 
 ——妙な状況だった。
 
 安東の巨大なリムジンの中。パソコンの画面を見ながら、「家捜し」をやっているのだから。
 
 そして車はいつしか——郊外の道を走っている。あんまり静かに走るので、涼子は、車が停まっているのかと錯覚するほどであった。
 
 どこへ行くつもりだろう?
 
 涼子の中に、不安が頭をもたげて来る。
 
「命を助けてもらったんですからね」
 
 と、安東は言った。「こんなことぐらいはさせていただかないと」
 
「でも……」
 
「心配は分りますよ。——こんな奴と係り合って、後で厄介なことになるんじゃないかと思ってるんでしょう」
 
「そういうわけじゃ……」
 
 と、涼子は口ごもった。
 
 いくらそう思っていても、面と向かって口に出せるか!
 
「あなたは正直な人だ」
 
 と、安東が笑った。「いや、歓迎されざる人種だってことは、こっちも百も承知ですよ」
 
 涼子は、安東の笑顔に、ハッとするほど無邪気なものを感じとって、驚いた。
 
 チラッと涼子が外へ目をやる。
 
「ちょっとした別荘がありましてね」
 
 と、安東が言った。「とりあえずの宿に、と思ったんです。ここでマンションを決めても、今夜から泊るってわけにはいかないでしょう」
 
「はあ。でも……」
 
「ご心配なく。ちゃんと送り届けてすぐに引き上げます」
 
 と、安東は言った。
 
 本心だろうか? しかし、こんな連中の言うことなんか、信じられるだろうか。
 
「——安東さん」
 
「何です?」
 
「どうして……命を狙《ねら》われるようなことに?」
 
 安東は、ちょっと肩をすくめて、
 
「力の世界ですよ。色々、表向きは変わっても、中身は同じ」
 
「縄張り争い、とかですか」
 
「というより、中での勢力争いですね。ご覧の通り、若くて幹部になった分だけ、ねたまれても、恨まれてもいるわけです」
 
 安東は、細くて長い指を、軽く組み合せて、「もともとは、チンピラだったんですよ。少々手先が器用だったのでね。重宝がられている内に、のし上がったというわけです」
 
 手先が器用?——でも、棚を吊《つ》ってやった、といった話ではなさそうである。
 
「あの——女の方、可《か》愛《わい》いですね」
 
 と、涼子は話をそらした。
 
「ミキですか。少し頭の中身は軽いが、気も楽でね」
 
 と、安東は笑った。「あなたの彼氏はなかなか魅力的だ」
 
 涼子は少し顔を赤らめ、
 
「夫です」
 
 と、訂正した。
 
「そうそう。失礼しました」
 
 と、安東は言った。「幸せ者だな、こんなすてきな奥さんがいるとは」
 
「あなたは……独身ですか」
 
「そう。一生そうでしょうね」
 
「どうしてですか」
 
「いつ消されるかも分らない身ですよ。女房子供は厄介だし、もしものときは可《か》哀《わい》そうだ。——俺も両親を知らずに育ったのでね」
 
 安東はそう言ってから、「おっと、こんなことを話したのは初めてだ」
 
 と、笑った。
 
 パソコンのディスプレイにパッと文字が出て、ピッと音がした。それを見た安東の顔が緊張した。
 
 その画面は、いやでも涼子の目に入る。
 
 ディスプレイには、〈和代を見付けました〉と文字が出ていた。
 
 
 
 全くの偶然だった。
 
「——ゴミ、下へ出しとかなきゃ」
 
 と、山崎聡子が言って、立ち上がる。
 
「でも——朝出さないと、うるさいんじゃないの?」
 
 と、辻山が言った。
 
「このアパートはね、下にゴミを置いとく場所があるの」
 
 と、聡子は言った。「もちろん、表に出すのは朝よ。でも、出がけにゴミを持って出るのは大変だから、下まで下ろしとくの」
 
「なるほど。いいなあ、そいつは」
 
 アパート住いの人間にとって、ゴミを前の晩に出しておけないというのは、悩みの種の一つである。一戸建てでも事情は同じだろうが、アパートは何世帯も入っているので、特にゴミの量も多い。
 
 たまの休みでも、ゴミを出す日だと、朝起きなくてはならない。——寝不足の身には辛《つら》いものである。
 
「一人じゃ大変でしょ」
 
 と、和代が言った。「私も運ぶわ」
 
「いや、僕が——」
 
「あなたは座ってて」
 
 と、和代が抑える。
 
「でも、外へ出ない方が……」
 
「外っていっても、アパートの裏手へ回るだけ。大丈夫よ」
 
 と、和代は笑って、「少し外の空気も吸いたいし」
 
「そうね。夜だし。大丈夫でしょ」
 
 と、聡子も肯《うなず》いた。「じゃ、その新聞もついでに……。そう、紙袋に入れて」
 
「チリ紙交換に出さないの?」
 
「たまってる方が煩しいわ。——じゃ、行きましょ」
 
「ええ」
 
 聡子と和代は、ゴミを手に部屋を出た。
 
 二階から階段を下りて、一《いつ》旦《たん》アパートの外へ出る。
 
「——こんなに広かったのね、外って」
 
 と、和代は笑って言った。「もちろん、ぜいたくは言わないけど」
 
「さ、裏へ」
 
 グルッとアパートのわきを回って、ゴミ置場に、そっとゴミを並べる。
 
「——ね、どう、あの人と、うまくやってけそう?」
 
 と、聡子は表の方へ戻りながら言った。
 
「辻山さん? いい人ね、本当に」
 
 と、和代は心から言った。
 
「出世とは縁のない人だけど、でも人間として信じられるの。毎日、仕事しながら見てるから、確かよ」
 
「分るわ……。私も、あんな人にもっと早く出会ってたらね」
 
 と、和代は、ちょっと足を止め、夜空を見上げた。「私……自分の、島崎への気持こそが愛だと思ってた。でも、そうじゃなかったのかもしれない。ただの意地だったんじゃないかって……。今は、そんな気がしてるの」
 
「和代……。やり直して。ね。どこか遠くでさ」
 
「辻山さんみたいな人、どこかよそにもいるかしら」
 
「辻山さんを連れてく?」
 
「だめ」
 
 和代が首を振って、きっぱりと、「いつ、どんなことがあるか分らないのよ。あんないい人、巻き添えにしたくない」
 
「でも——」
 
 と言いかけて、聡子は、「ともかく、戻りましょ。部屋に」
 
 と促す。
 
 二人がアパートの中へ入って行くのを、離れた所から見ていたのは、弟の所へ行って、帰り道、たまたま通りかかった、安東の子分の一人。
 
 本当にチンピラなので、もし和代の方で見たとしても、顔は分らなかったろう。しかし、チンピラの方では、しっかり和代の顔が頭に入っていたのだ。
 
「あいつだ……」
 
 何度も目をこすった。——チャンスだ!
 
 これで、兄貴分になれるかもしれねえぞ!
 
 チンピラは、あわてて近くの公衆電話を捜したが——捜すと、一向に見付からないもので、焦っているから余計である。
 
 やっと見付けたときはハアハア息を切らしていた。——古い電話だ。テレホンカードは使えず十円玉のみ。
 
 興奮していたせいで、手が震えて十円玉を何回も落してしまう。やっと組へ連絡できたのは、和代を見かけてから、十五分以上たってからだった。
 
 
 
 安東はディスプレイの文字をパッと消した。
 
「——安東さん」
 
 と、涼子は思わず言っていた。「和代さんって、島崎とかいう人を殺した——」
 
「あんたは見なかったことにしなさい」
 
 と、安東は鋭く言って、車の中の電話を取った。
 
 涼子は、忘れていなかった。あの、包帯を巻いた刑事が、
 
「和代は殺させない」
 
 と言っていたことを。
 
 つまり、安東たちが先に見付ければ、間違いなく和代という女は殺されるだろう、ということだ。
 
「——俺だ。和代を見たって?——ああ。——どこだ?」
 
 安東は厳しい表情で言った。「——うん、分った。いいか、俺がこれからそっちへ行く。それまで誰も手を出すな。いいか。よく言っとけ。分ったな。——すぐそっちへ向かうからな」
 
 安東は電話を切ると、涼子の方へ、
 
「申しわけありませんが、別荘へ行くのは後回しということに」
 
「ええ。でも——」
 
 安東は、運転している子分へ、
 
「おい、聞いてたな」
 
「へい」
 
「急いでそこへ行くんだ!」
 
「Uターンします」
 
 長いリムジンが、大きくカーブを切って、中央分離帯をまたいでガクンガクンと揺れる。
 
 強引に反対の車線へ入ったリムジンは一気にスピードを上げた。——凄《すご》い馬力なのだろう。
 
 乗っていても、猛烈なスピードを出していることが、涼子にも感じられる。
 
「安東さん」
 
 と、涼子は言っていた。「余計なことと叱《しか》られそうですけど……。その女の人を殺さないで」
 
 安東は、黙っていた。——何を考えているのか、涼子には想像もつかなかったが……。
 
 
 
 ミキは、退屈しのぎに、安東のパソコンの画面を眺めていて、和代を見付けたという、同じ文字を見た。
 
「へえ……。もうおしまいね」
 
 と、呟《つぶや》いていると、
 
「あの——親分は?」
 
 と、竜が顔を出した。
 
「出かけてるわよ」
 
「そうですか。すみません」
 
 と、竜は頭を下げ、行きかける。
 
「でも、戻る途中。あの女を見付けたんですって」
 
 竜が、ちょっと間を置いて、
 
「あの女?」
 
「ほら——小田切とかいう——」
 
 竜の顔がサッと紅潮する。
 
「本当ですか?」
 
「見て」
 
 と、ミキがパソコンの画面を指さした。
 
「どこにあの女……」
 
「さあ、そこまで知らないけど」
 
 と、ミキは肩をすくめた。
 
「失礼します」
 
 竜が、飛び出して行く。
 
「忙しい人」
 
 と、ミキが首をかしげる。
 
 電話が鳴った。
 
「——もしもし。——あ、私よ」
 
 ミキは嬉《うれ》しそうな声を出した。
 
「ミキ、そこに竜の奴、いるか?」
 
 と、安東が訊《き》いて来る。
 
「竜さん? いないわ」
 
「そうか。じゃ、いいんだ」
 
「今、出てったとこ。呼んでみる?」
 
「——今? もしかして……あの女のことを?」
 
「うん。ここのパソコンに出てたもん」
 
「そうか……」
 
「ねえ、どこへ行くところだったの? もしもし?」
 
 電話は切れてしまった。
 
「——何よ!」
 
 不機嫌に、ミキはふくれっつらをしたのだった……。
 
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