神州天馬侠17

 雷火変

 
    一
 
 本丸《ほんまる》とは、城主のすまうところである。築山《つきやま》の松、滝《たき》をたたえた泉《いずみ》、鶺鴒《せきれい》があそんでいる飛石など、戦《いくさ》のない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。
 伊那丸《いなまる》と龍太郎《りゆうたろう》は、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、家康《いえやす》のいるここへ呼びだされた。
「勝頼《かつより》の次男、武田伊那丸《たけだいなまる》の主従《しゆじゆう》とは、おん身たちか」
 高座《こうざ》の御簾《みす》をあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、智謀《ちぼう》にとんだ名将の|ふう《ヽヽ》はおのずからそなわっている。
「そうです。じぶんが武田伊那丸です」
 龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、端然《たんぜん》と、家康の顔をじいとみつめた。——家康も、しかと、こっちをにらむ。
「おう……天目山《てんもくざん》であいはてた、父の勝頼、また兄の太郎|信勝《のぶかつ》に、さても生写《いきうつ》しである……。あの戦《いくさ》のあとで検分《けんぶん》した生首《なまくび》に瓜《うり》二つじゃ」
「うむ……」
 伊那丸《いなまる》の肩は、あやしく波をうった。かれをにらんだ二つの眸《ひとみ》からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。
 この家康《いえやす》めが、織田《おだ》と力をあわせ、北条《ほうじよう》をそそのかして、武田《たけだ》の家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちをころしたのか——と思うと、くやし涙は、頬《ほお》をぬらして、骨に徹《てつ》してくる。眼《まなこ》もらんらんともえるのだった。
「若君、若君……」
 と、龍太郎《りゆうたろう》はそッと膝《ひざ》をついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに真情をつつまなかった。
「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の領地《りようち》は焦土《しようど》となり、身は天涯《てんがい》の孤児《こじ》となった伊那丸、さだめし口惜《くや》しかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
 家康はなにか一言《ひとこと》、近侍《きんじ》にいいつけて、その席を立ってしまった。ふたりはやがて、酒井の家臣、坂部十郎太《さかべじゆうろうた》のうしろにしたがって、二の丸の塗籠造《ぬりごめづく》りの一室へあんないされた。伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと袂《たもと》をかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは口惜《くや》しい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
 とかれもしばらく、伊那丸《いなまる》の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご若年《じやくねん》、ごむりではありますが、だいじなときです。お心をしかとあそばさねば、この大望《たいもう》をはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は女々《めめ》しいやつのう……」
 と快川和尚《かいせんおしよう》が、幼心《おさなごころ》へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に生々《いきいき》とよみがえった。にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、家康《いえやす》めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。なかなか、この龍太郎《りゆうたろう》が考えた策《て》にのるような愚将《ぐしよう》ではありませぬから、必然《ひつぜん》、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。それゆえに、よしや、いちじの計略《はかりごと》にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
 果然《かぜん》、ふたりはまえから、家康の身に近よる秘策《ひさく》をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、鮫《さめ》をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
 このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの窮地《きゆうち》から活路《かつろ》をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一挙《いつきよ》にきめるよりほかはない。
 
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