平の将門95

 夜々の辻

 
 
 天慶二年の夏中は、夜毎《よごと》夜毎、空也念仏の称名《しようみよう》の声と、夢中でたたく鉦の音と、妖しいまでに踊り更《ふ》ける人影に、都の辻は、異様な夜景をえがいていた。
「戦がある」
「大乱の兆しが見える」
「宮門の戌亥《いぬい》に、虹が立った」夜の人出に紛《まぎ》れこんで、こう囁き廻る者がある。むかしから、宮苑の森に虹が立つと戦があるということを、洛中の民は信じていた。
 秋の頃には、念仏の声よりも、流言の方が多くいわれ出して来た。
「伊予の純友と、たくさんな海賊兵は、もう瀬戸内を上って、摂津、難波ノ津あたりに時を窺《うかが》っている」
 また、こういう者もあった。
「——それは、東国の将門が、攻め上って来るのを待っているのだ。純友と将門とは、十年も前から、世直しをやる約束を結び、天下を二分して、分け取りにする黙契《もつけい》まで出来ている」
 いったい、誰が、そんな事をいい流すのか。
 天に口なし、人をしていわしむ——というそれなのだろうか。
「……なあ、弟。まるで、わしたちの為に、誰か、代弁してくれているようなものじゃないか」
 貞盛は、ある夕べ、弟の繁盛と共に、辻の空也念仏の群れを見物に出かけながら、途々、そういって、微笑しあった。
 ——そして、夢に憑かれて踊っているような人影の輪を眺めていた。
 すると、烏帽子《えぼし》の下に、また、面を布で包んでいる狩衣《かりぎぬ》姿の男が、ふと、兄弟のそばに寄って来て、
「もしや、あなた様は、右馬允貞盛どのではありませんか」
 と、馴れ馴れしく話しかけて来た。
「? ……。そうだが、おぬしは誰だ」
「数年前まで、東国の源護殿のお館に仕えていた者にございます」
「おお。護殿の家人《けにん》だったのか」
「御一族、みな、あの通りになりましたので、流浪の末、都へ来ておりましたが、思いがけない所で、お姿をお見かけいたし、おなつかしさにたえませぬ。……おお、それよ、あなた様に、お訊きすれば、確かな事が分ると思いますが」
「わしに、何を訊きたいというのか」
「いえ、自分一人だけでなく、ここらに黒々と踊っている者や、都じゅうの民は、それが嘘かほんとか、知りたがっておりましょうよ。——おういっ、みんな寄って来い」
 貞盛が、びっくりしているまに、男は両手を振りあげて、こう呶鳴っていた。
「ここにいらっしゃるのは、右馬允貞盛様だ。東国の事情なら、このお方ほど知っているお人はない。……みんなして、お訊ねしてみろ。この頃のいろいろな噂が、嘘か、ほんとか」
「これ、何をいうぞ。町の流言など、貞盛の知ったことか」
「だって、あなた様は、この春、東国から御帰京になるやいな、太政官へ長い上告文をさし出して、将門に謀反が見えるというお訴えを出しておられたでしょう」
「や。どうして、そんな事を、おぬし如きが知っているのか」
「いくら、つんぼにされているわれわれ下民でも、それくらいな事は、いつか、聞きかじっておりますよ。……流説流説と仰っしゃるが、その流説、何ぞ計らん、堂上方から出ているんですよ。いや、張本人は、あなた様なんです。……さあ、大勢に答えてやって下さい」
 すると、群集の中から、姿は見せないが、貞盛へ、こう質問の声がとんで来た。
「東国の将門が、常陸の大掾国香や、叔父の良正、良兼などを滅ぼして、あの地方に、急に猛威を振い出したというのは、噂だけではありませんか」
「…………」
「嘘ですか」
 貞盛もつい答えてしまった。
「決して、嘘ではない」
「じゃあ、ほんとなんですね」
「ほんとだとも」
「すると、兵をあつめて、諸地方を焼払ったり、乱暴狼藉を働いている事も」
「むむ……」
「じゃ、将門は、あきらかに、謀反人なんで?」
「そうだ。官符の令旨にも、服さぬから」
「今に、大軍をつくって、都へ上って来ましょうか」
「放っておけば、燎原の火、どこまで、野望をほしいままにして来るかわからぬ」
「するとやはり、海賊の純友と、噂のような、示し合わせがあるのですな」
「知らん。そんな事は」
「まあ、はっきり、仰っしゃって下さい。凡下《ぼんげ》の私たちは、心配なんです。海と陸の両方から、この都へ、火を放って、どっと暴れこまれては堪りません」
「つまらぬ流言を申すな」
 貞盛は、群衆を叱って、繁盛と共に、そこから逃げるように、辻の暗がりへ曲がりかけた。
 すると、一部の人影が、
「やい待てっ。——その流言は、誰がいい出したのだ」
「馬鹿野郎っ」
 ばらばらと、彼の影へ向って、礫《つぶて》が飛び、同時に、蜘蛛《く も》の子のように逃げ散る跫音《あしおと》が、夜の街へ散らばった。
「わははは。あははは。……いや、今夜はうまく彼奴を利用してやったな。こんなおもしろい目を見たのは久しぶりだ」
 同じ夜の事。
 六条坊門附近の娼家の多い横丁を曲がって行きながら、傍若無人な高声でこう話し合ってゆく四、五人の遊蕩児らしい男がいた。
 その中の年上な一人は、たしかに、八坂の不死人らしい声だし、また特徴のある彼のするどい眼であった。
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