平の将門72

 訴訟文

 
 
 その頃、坂東地方から京都への往還《おうかん》には、東海道と東山道の二道が動脈となっていた。
 東山道は、碓氷《うすい》を越えて、信濃高原を経て、木曾路へ出るのである。もちろんこの方が日数はかかるが、右馬允貞盛は、途中、訪うべき人もあったので、こんどの帰洛には、東山道をえらんだ。
「折よく、いて下さればよいがな」
 貞盛は馬の上から、供の郎従たちへ、何度もいった。
「いや、おられましょうとも。通る駅路で訊いてみても、近頃は田沼の館にひき籠ったきりで、めったに、お旅立ちなど見かけないそうですから」
 供のひとり、貞盛の侍臣牛浜忠太がそう答える。
 一行は主従十二名、騎馬は貞盛と忠太だけで、ほかは徒歩だった。いや、もう一人、進物の荷を積んだ馬一頭を、小舎人が手綱で曳いて行く。
 まぢかに、赤城の長い山裾が、くっきりと夏空を劃して見えた。田沼の宿は、東山道から横へ数里、北方にはいりこんでいる。押領使、藤原藤太秀郷の役邸がそこにあり、すこし離れた田原には居館がある。そこで、田原藤太秀郷とも人は称《よ》んだ。
「ほう。右馬允貞盛。あの貞盛が、訪ねて来たとか。ま、通せ通せ。……何日《い つ》かは来るだろうと思っていたところだ」
 田原の館の宏大な門に、旅人たちの馬は繋《つな》がれていた。
 主の秀郷は、もう六十に近かった。地方人で、藤原の姓を称《とな》えている者は、めったにない。それ程、藤原氏の姓は、中央的な、また貴族階級的な匂いと、特権性をふくんでいた。
 しかし秀郷は、都人でも、貴族の流れでもなかった。生れながらの坂東骨《ばんどうぼね》——未開地人の野性逞《たくま》しき男である。
 もっとも、母は藤原氏から出た者の女であるから、母方の家系を辿って、都の大官と近親をむすび、母姓の藤原氏を名乗ることは出来たにちがいない。
 それをみても、若いうちから、相当な策士でもあり、野心のつよい性質で、地方人特有な“顔きき”に成るべく、早くから心がけていたことが分る。そして彼は、まんまと志を遂げた成功者であるといってよい。
 この地方における彼の官職は、押領使兼下野《しもつけ》ノ掾《じよう》である。
 押領使の任は、治安、警察、司刑などの職権をもち、掾は、徴税を監察するにあった。つまり後世の八州十手預りの顔役を配下にもち、併せて、税吏を督す位置にあったのであるから、これ以上な睨《にら》みはない。その上、多くの郎党を養い、眷族《けんぞく》もみな、土地、武力を蓄え、東山道から吾妻《あがつま》山脈をうしろにして、坂東の大平原に、南面している形であった。
「じつに、久しいこと、お目にかかりませんでしたが、いよいよ御壮健のようで」
 客殿に通された貞盛は、長上の礼をとって、主へ、あいさつした。
「いや、あなたも、さすがお立派になられたの」
 秀郷もまた、鄭重に、彼を迎えた。そして、
「……いや申しおくれたが、お父上の国香殿の御死去。はるかに、お噂はきいた。さぞ御無念でおわそう。お悼《いた》み申しあげる」
「都にて、報らせをうけ、まったく仰天いたしました。葬儀のため、帰国いたしましたが、その節には、ねんごろな御弔使をさし向けられ、また、霊前へ種々《くさぐさ》のおん手向《たむ》け物など賜わり、一族、お心のほどを、みなありがたく存じております」
「なんの、心ばかりじゃよ。——が、困ったものだの。その後も、騒乱はやまず、源護の子息三人までも、将門に討たれたとやら、この地方まで、えらい噂だが」
「何もかも、お聞き及びでしょうが、今は、宿怨《しゆくえん》に宿怨が積もり、解きがたい争いとなりました。悪くすると、これは、大乱の兆しもみえまする」
「どうして、ひとりの将門を、嵯峨源氏の力や、あなたや、また良兼、良正殿まで揃っていて、抑えられぬのか」
「あいにくと、ここ数年間、飢饉がつづきました。それらの飢民や浮浪の徒を加え、良持殿からの旧領の地ざむらいが、みな、豊田の郷に集まり、将門をおだてあげて、乱によって、利を食おうとしています。ですから、その兇暴なこと、当るべからずです」
「そこで、あなたは、どういうお考えでおられるのじゃ」
「なにぶん私は、右馬允の官職を奉じ、都に在勤の身ですから、父国香の葬儀もすんだ以上は、どうしても、一たん帰洛いたさねばなりません」
「うム。ごもっともだ」
「将門の乱暴、眼に余るものがあり、これ以上、乱の波及を坐視してはおられませぬ故、帰洛のついでに、源護どのの訴状と、叔父良兼、良正の上訴《じようそ》文を携帯して、中央の府に訴え出で、太政官《だいじようかん》の下文《くだしぶみ》を賜って、征伐いたすしかないと思いきめておりまする」
「なるほど」
「そういうわけで、都へ急ぐ途中ではありますが、先に、御弔使を賜ったまま、つい今日までも、騒乱に暮れて、御音信を欠いておりましたので、途《みち》のついでと申しては、失礼ですが、お礼に参じ出た次第でございます。父なきあとも、どうか、以前にかわりなく、何かと情けを仰ぎまする」
 と、貞盛は、馬に曳かせてきた数々な弔礼の返物と手みやげとを、次の室に積ませて、秀郷へ贈った。
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