決められた以外のせりふ94

 関ヶ原

 
 東海道新幹線にはまだのったことがないから、時速二百キロというと、どのくらいの速さになるか、ちょっと見当がつきかねるが、汽車があまり速くなると、旅のおもむきも大分変ってくるだろうと思う。旅行というよりは、移動といった方がふさわしくなるだろう。
 東海道線にのると、関ヶ原を通るのがたのしみだったが、こんどの新幹線を地図でたどると、関ヶ原のあたりでは、旧東海道線の南方、海寄りを進み、関ヶ原を過ぎたあたりで旧線と交叉する。関ヶ原は見られなくなるかも知れない。ちょっと残念な気がする。
 汽車の窓から見る関ヶ原の景色は、どちらかといえば平凡な景色である。べつに雄大な展望があるわけでもなく、奇岩怪石の類いがあるわけでもない。杉や檜のおいしげった昔ながらの日本の丘や狭《はざ》間《ま》が、ある時はゆるやかに、ある時ははげしく起伏しながらつづいているだけなのだが、関ヶ原合戦という史実を裏打ちにしてながめるせいか、風景に一種の気魄のこもっているのを感じる。丘の起伏はまさにその通りの起伏でなければならず、その裾《すそ》をめぐる小道はこれ以外の曲りようはないという感じで曲っている。
 ある冬の暮方、下り列車で関ヶ原にさしかかると、急にみぞれまじりの雪が降りだした。あの辺は寒いところで、よそではくもっていても、関ヶ原は雨というようなことがよくある。しかしその時の雪の降りだし方は、いかにも唐突《とうとつ》で、そのうえ見る見る間に本式の雪になり、風さえ加わって、吹雪になってしまったのだから、いくらか天変地異に似ていた。汽車は徐行しはじめた。
 窓から、すでに暗くなりかけた野面に降りしきる雪や、身もだえをするように風に揉《も》まれている杉や檜の黒い影をながめている内に、私はふと、何とも言いようのない気分におそわれた。戦国時代と現代とが、昨日と今日のように密接しているような、眼前の光景がそのまま戦国の世であるような、じつに妙な気分で、私は自分が興奮しているのがわかった。筋もなく、人物もなく、観客もなく、作者さえない劇——始まりも終りもない劇の中に身をおいているような気持であった。昔、グレコの「嵐のトレド」という風景画を見たとき、同じような興奮をおぼえたことがある。
 雪の関ヶ原は目の前をすぎてゆく現実の風景であるだけに、その感じがいっそう濃く、直接的だった。
 関ヶ原をすぎると、たちまち雪は止んで、汽車はまた速度をあげたが、私はまだぼんやりして、紫野の大徳寺にある小早川隆景の苔《こけ》むした小さな墓のことなどを想いうかべたりしていた。
 いちどあの辺をゆっくり歩いてみたいと思いながら、まだ果せずにいる。
                                               ——一九六四年五月 小説現代——
分享到:
赞(0)