阿Q正伝 第五章

第五章 生計問題

 
 阿Qはお礼を済ましてもとのお廟みやに帰って来ると、太陽は下りてしまい、だんだん世の中が変になって来た。彼は一々想い廻した結果ついに悟るところがあった。その原因はつまり自分の裸にあるので、彼は破れ袷がまだ一枚残っていることを想い出し、それを引掛けて横になって眼を開けてみると太陽はまだ西の墻まがきを照しているのだ。彼は起き上りながら「お袋のようなものだ」と言ってみた。
 彼はそれからまたいつものように街に出て遊んだ。裸者の身を切るようなつらさはないが、だんだん世の中が変に感じて来た。何か知らんが未荘の女はその日から彼を気味悪がった。彼等は阿Qを見ると皆門の中へ逃げ込んだ。極端なことには五十に近い鄒七嫂まで人のあとに跟ついて潜り込み、その上十一になる女の児こを喚び入れた。阿Qは不思議でたまらない。「こいつ等らはどれもこれもお嬢さんのようなしなしていやがる。なんだ、売淫ばいため」
 阿Qはこらえ切れなくなってお馴染なじみの家うちに行って探りを入れた。――ただし趙家の閾しきいだけは跨またぐことが出来ない――何しろ様子がすこぶる変なので、どこでもきっと男が出て来て、蒼蝿うるさそうな顔付かおつきを見せ、まるで乞食こじきを追払おっぱらうような体裁で
「無いよ無いよ。向うへ行ってくれ」と手を振った。
 阿Qはいよいよ不思議に感じた。
 この辺の家うちは前から手伝が要るはずなんだが、今急に暇になるわけがない。こりゃあきっと何か曰くがあるはずだ、と気をつけてみると、彼等は用のある時には小DONしょうドンをよんでいた。この小Dはごくごくみすぼらしい奴で痩せ衰えていた。阿Qの眼から見ると王※[#「髟/胡」、149-6]よりも劣っている。ところがこの小わッぱめが遂に阿Qの飯碗を取ってしまったんだから、阿Qの怒いかり尋常一様のものではない。彼はぷんぷんしながら歩き出した。そうしてたちまち手をあげて呻うなった。
「鉄の鞭で手前を引ッぱたくぞ」
 幾日かのあとで、彼は遂に錢府せんふの照壁(衝立ついたての壁)の前で小Dにめぐり逢った。「讎かたきの出会いは格別ハッキリ見える」もので、彼はずかずか小Dの前に行ゆくと小Dも立止った。
「畜生!」阿Qは眼に稜かどを立て口の端へ沫あわを吹き出した。
「俺は虫ケラだよ。いいじゃねぇか……」と小Dは言った。
 したでに出られて阿Qはかえって腹を立てた。彼の手には鉄の鞭が無かった。そこでただ殴るより仕様がなかった。彼は手を伸して小Dの辮子を引掴むと、小Dは片ッぽの手で自分の辮根べんこんを守り、片ッぽの手で阿Qの辮子を掴んだ。阿Qもまた空いている方の手で自分の辮根を守った。
 以前の阿Qの勢いきおいを見ると小Dなど問題にもならないが、近頃彼は飢餓のため痩せ衰えているので五分々々の取組となった。四つの手は二つの頭を引掴んで双方腰を曲げ、半時間の久しきに渡って、錢府の白壁の上に一組の藍色の虹形にじがたを映出えいしゅつした。
「いいよ。いいよ」見ていた人達はおおかた仲裁する積りで言ったのであろう。
「よし、よし」見ている人達は、仲裁するのか、ほめるのか、それとも煽おだてるのかしらん。
 それはそうと二人は人のことなど耳にも入らなかった。阿Qが三歩進むと小Dは三歩退しりぞき、遂に二人とも突立った。小Dが三歩進むと阿Qは三歩退き、遂にまた二人とも突立った。およそ半時間……未荘には時計がないからハッキリしたことは言えない。あるいは二十分かもしれない……彼等の頭はいずれも埃がかかって、額の上には汗が流れていた。そうして阿Qが手を放した間際に小Dも手を放した。同じ時に立上って同じ時に身を引いてどちらも人ごみの中に入った。
「覚えていろ、馬鹿野郎」阿Qは言った。
「馬鹿野郎、覚えていろ」小Dもまた振向いて言った。
 この一幕ひとまくの「竜虎図」は全く勝敗がないと言っていいくらいのものだが、見物人は満足したかしらん、誰たれも何とも批評するものもない。そうして阿Qは依然として仕事に頼まれなかった。
 ある日非常に暖かで風がそよそよと吹いてだいぶ夏らしくなって来たが、阿Qはかえって寒さを感じた。しかしこれにはいろいろのわけがある。第一腹が耗へって蒲団も帽子も上衣うわぎもないのだ。今度棉入れを売ってしまうと、褌子ズボンは残っているが、こればかりは脱ぐわけには行ゆかない。破れ袷が一枚あるが、これも人にやれば鞋底の資料になっても、決してお金にはならない。彼は往来でお金を拾う予定で、とうから心掛けていたが、まだめっからない。家の中を見廻したところで何一つない。彼は遂におもてへ出て食を求めた。
 彼は往来を歩きながら「食を求め」なければならない。見馴れた酒屋を見て、見馴れた饅頭を見て、ずんずん通り越した。立ちどまりもしなければ欲しいとも思わなかった。彼の求むるものはこの様なものではなかった。彼の求むるものは何だろう。彼自身も知らなかった。
 未荘はもとより大きな村でもないから、まもなく行ゆき尽してしまった。村端はずれは大抵水田であった[#「水田であった」は底本では「水あ田でった」]。見渡す限りの新稲しんいねの若葉の中に幾つか丸形の活動の黒点が挟まれているのは、田を耕す農夫であった。阿Qはこの田家でんかの楽しみを鑑賞せずにひたすら歩いた。彼は直覚的に彼の「食を求める」道はこんなまだるっこいことではいけない思ったから、彼は遂に靜修庵せいしゅうあんの垣根の外へ行った。
 庵のまわりは水田であった。白壁しらかべが新緑の中に突き出していた。後ろの低い垣の中に菜畑があった。
 阿Qはしばらくためらっていたが、あたりを見ると誰も見えない。そこで低い垣を這い上って何首烏かしゅうの蔓つるを引張るとザラザラと泥が落ちた。阿Qは顫える足を踏みしめて桑の樹に攀よじ昇り、畑中はたなかへ飛び下りると、そこは繁りに繁っていたが、老酒ラオチュも饅頭も食べられそうなものは一つもない。西の垣根の方は竹藪で、下にたくさん筍たけのこが生えていたが生憎ナマで役に立たない。そのほか菜種があったが実を結び、芥子菜からしなは花が咲いて、青菜は伸び過ぎていた。
 阿Qは試験に落第した文童のような謂れなき屈辱を感じて、ぶらぶら園門の側そばまで来ると、たちまち非常な喜びとなった。これは明かに大根畑だ。彼がしゃがんで抜き取ったのは、一つごく丸いものであったが、すぐに身をかがめて帰って来た。これは確かに尼ッちょのものだ。尼ッちょなんてものは阿Qとしては若草の屑のように思っているが、世の中の事は「一歩退しりぞいて考え」なければならん。だから彼はそそくさに四つの大根を引抜いて葉をむしり捨て著物の下まえの中に蔵しまい込んだが、その時もう婆ばばの尼は見つけていた。
「おみどふ(阿弥陀仏)、お前はなんだってここへ入って来たの、大根を盗んだね……まあ呆れた。罪作りの男だね。おみどふ……」
「俺はいつお前の大根を盗んだえ」阿Qは歩きながら言った。
「それ、それ、それで盗まないというのかえ」と尼は阿Qの懐ろをさした。
「これはお前の物かえ。大根に返辞をさせることが出来るかえ。お前……」
 阿Qは言いも完おわらぬうちに足をもちゃげて馳かけ出した。追っ馳けて来たのは、一つのすこぶる肥大の黒狗くろいぬで、これはいつも表門の番をしているのだが、なぜかしらんきょうは裏門に来ていた。黒狗はわんわん追いついて来て、あわや阿Qの腿ももに噛みつきそうになったが、幸い著物の中から一つの大根がころげ落ちたので、狗は驚いて飛びしさった。阿Qは早くも桑の樹にかじりつき土塀を跨いだ。人も大根も皆垣かきの外へころげ出した。狗は取残されて桑の樹に向って吠えた。尼は念仏を申まおした。
 尼が狗をけしかけやせぬかと思ったから、阿Qは大根を拾う序ついでに小石を掻き集めたが、狗は追いかけても来なかった。そこで彼は石を投げ捨て、歩きながら大根を噛かじって、この村もいよいよ駄目だ、城内に行ゆく方がいいと想った。
 大根を三本食ってしまうと彼は已すでに城内行ゆきを決行した。
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