心の旅路11

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  慶州奇談

 
 
 赤と黄の鮮やかなコントラストだった。
 
 単純な配色でありながら、輝く春の光の中でわけもなく高貴なものに映って見えた。
 
 普通の色あいと微妙に異っていたのかもしれない。たとえば織り糸の中に何パーセントかほかの色を加える、ほかの光沢を加える……。あるいは、重ねのようなもの。表面は赤と黄でも、一枚下になにを置くか、それによって色調は変化する。そのあたりに民族の長い文化の伝統が秘められていたのかもしれない。
 
 それとも、なにもかも春の日の悪《いた》戯《ずら》だったのだろうか。
 
 赤と黄のコントラストは、韓国の民族衣《い》裳《しよう》チマチョゴリの配色である。チマが赤く、チョゴリが黄色い。日本人の感覚なら、きっと上から下へ、黄と赤の配色と言うだろう。
 
 私は二十代だった。
 
 所用でソウルに赴き、慶州まで足を伸ばした。
 
 急な出張だったので韓国の地誌についてはほとんどなんの知識も持ちあわせていなかった。帰りの便まで三日ほど余裕がある。
 
 ——どこか見物するところがないかな——
 
 ホテルのフロントで勧められた名勝地が慶州だった。
 
 まだ日本人の韓国観光旅行など、さほど多くはなかった頃《ころ》である。韓国政府もあまりこの方面の施策に力を入れていなかった。
 
 ——古い都らしい——
 
 その程度のことしか知らなかった。
 
 正確には新羅《しらぎ》の王都。私が新羅と慶州について若干の知識を集めたのは、むしろ帰国してからのことである。
 
 日本語のガイドブックも見当たらず、漢字とハングル文字とをまぜた地図が一枚。私に理解できるのは漢字のほうだけだった。
 
 ソウルから長距離バスで四、五時間。
 
 朝一番に出発するバスを選んだが、ホテルを出たときから体がだるく、微熱があった。
 
 ——風《か》邪《ぜ》かな——
 
 慣れない仕事の疲労もあっただろう。
 
 ——ひどくなるかもしれない——
 
 そんな予感がないでもなかった。
 
 めったに風邪をひかないたちだが、たまに高い熱を出す。そのときは、ただひたすら体を休めているのがよい。むしろソウルのホテルで手続きを頼んで、帰りの便を変更すべきだったろう。
 
 ——せっかく知らない国に来たのだから——
 
 一か所くらいソウル以外の土地を踏みたかった。
 
 戦後生まれの私には、日本人がこの半島で犯した罪の記憶などあろうはずもないけれど、知識としては一通り知っている。対日感情はけっしてよいとは言えまい。ほとんどの人がやさしく接してくれたが、なにかの拍子にふっと無気味なものを感じないでもなかった。
 
 バスはほとんど人家の見当たらない丘陵地を走り続ける。一度だけ停《とま》っただろうか。眠りからさめると慶州だった。
 
 町の中央に位置するバス・ターミナルで降りて、あとは地図を頼りに歩いた。仏国寺までほんの二駅だけ列車に乗った。
 
 韓国の風土は日本とかなりちがっている。
 
 地層は薄く、岩盤が地表に迫っている。だから大木が少なく、ところどころに灰色の岩壁がむきだしになって立っている。高い山も少ない。
 
 太陽が少し傾き始める頃、仏国寺に到着して広い境内を散策した。
 
 みごとな快晴だった。うらうらと気が遠くなるようなのどかな午後だった。
 
 一つ二つ浮かんだ雲が、空の青さを際立たせている。山に野に春の気配が溢《あふ》れている。そして、ほとんど人の姿を見ることがない。
 
 陽《かげ》炎《ろう》が揺れている。
 
 そして私の体も揺れている。
 
 風景はあまりにのどかすぎて、現実のこととは思いにくい。微熱に冒され、私の意識もかすかにおぼろだった。
 
 考えてみれば、昨夜はソウルにいた。その数日前は東京にいた。どちらの町も忙しく、かまびすしい。
 
 ——それが、今、まるで現代ではないような雰囲気に包まれている——
 
 寺院の様子も日本とは少しちがっている。
 
 ところどころにけばけばしい色彩があって、それも熱を帯びた眼には、夢幻なものに感じられた。
 
 近くに石《せつ》窟《くつ》庵《あん》があるらしい。
 
 どういう風景かわからないけれど、名勝地の一つであることはたしからしい。地図には白い仏像の絵が丸い輪に囲まれて記してある。
 
 山道を登って行けば、たどりつけるだろうと、方角を定めて歩きだしたのだが、どこかで道をまちがえたようだ。道しるべもない。最初から方角を失っていたのかもしれない。
 
 切り通しのような坂を抜けると、短い草の繁《しげ》った窪《くぼ》地《ち》が広がっていた。
 
 ——疲れた——
 
 細道の脇《わき》に腰をおろし、体を横たえた。少しまどろんだかもしれない。
 
 赤と黄の鮮やかなコントラストを見たのは、このとき、この草原の道だった。
 
 あとで思い返してみると、夢の中でも赤と黄の蝶《ちよう》が舞っていたような記憶がある。上《じよう》翅《し》が黄色、下《か》翅《し》が赤……。そんな色あいの蝶が本当にいるものかどうか。だが、夢の中ならなんのさしつかえもあるまい。
 
 蝶は私のそばまで飛んで来て、周囲を一、二度まわって飛び去って行く。
 
 幼い頃に聞いた物語が頭の片隅にあった。
 
 男が沼のほとりに立っていると、水の中から蜘《く》蛛《も》が這《は》い出して来て、その男の足もとをまわって水の中へ戻って行く。何度となく同じ動作をくり返す。いつのまにか蜘蛛の糸が男の足にからみつき、
 
 ——それっ——
 
 とばかりに水の中に引き込まれる。その先がどうなったのか、物語の続きは忘れてしまったけれど、とにかく蜘蛛が何度も何度も、足もとに寄って来て這いまわる情景だけが心に残っていた。
 
 ——男は引き込まれるまで糸の感触に気づかなかったのだろうか——
 
 気づかないからこそ引き込まれたのだろう。だから、多分、見えない糸……。
 
 それなら蝶だって見えない糸を操るかもしれない。そんな思いが私の心のどこかに宿っていたらしい。
 
 遠い山《さん》稜《りよう》の上に雲が一つ浮いていた。蝶はその雲の中から現われて、私の周囲をめぐって飛び、いつのまにか見えない糸が私の体に巻きつく。
 
 ——それっ——
 
 私の体が宙に浮き、草原を越え、山稜を見おろし、雲の中へと飛んで行く……。
 
 私が寝転がっていたのは、草原の道と道とに挟まれたゆるい傾斜の上だった。前にも、うしろにも細い土の道がある。背後の道が下り坂を作って、ほんの十数メートル先のところでななめに前の道に接している。それとは逆の方向に、よくは見えないが、土の階段のようなものがあるらしく、下の道から背後の道へと登ることができる。つまり私は、二本の道と階段とが作る三角形の中の草原に休んでいたわけであり、赤と黄の衣裳が、一、二度そのコースを通って、私のまわりをめぐり歩いたのは、夢ではなく、現実だったのかもしれない。
 
 まどろんではいたが、ときどき眠りが浅くなるときがあったらしい。ほんの一瞬、感覚が目ざめるときもあっただろう。
 
 ——私の周囲をチマチョゴリが歩いている——
 
 そんな意識が夢の中に忍び込んだのではあるまいか。
 
 眼を開けると、本当に赤と黄のチマチョゴリが私の前を歩いていた。ちょっと背をかがめるようにして。
 
 色彩の鮮やかさは、すでに述べた。
 
 女は階段のほうに向かって行き、そのまま立ち去った。
 
 だが、間もなく背後の道のむこうに、夢の中で見た蝶《ちよう》とよく似た気配を感じて……おそらく私の眼の端っこがその色彩を捕らえたのだろうが、なにげなく、首をまわすと、女が黄色のチョゴリに赤いチマをはいて近づいて来る。
 
 今度は早足だった。
 
 下を向いて……しかし、私がいることは充分に知っているように感じられた。
 
 すぐに近づき、かすかに衣《きぬ》ずれの音を残して坂道をくだり、
 
 ——どっちへ行こうかしら——
 
 少しためらったのち、私の前を通り抜け、そのままさっきと同じように下の道を遠ざかって行く。下の道は間もなく林に入って、女の姿はその中へ包まれて見えなくなった。
 
 私が眠っていたとき、女は上の道、下の道そして階段と三角形を描いて私の周囲をまわり歩いていたのではあるまいか。まどろみの中で、そういう気配を感じたからこそ私は蝶の夢を見たのではなかろうか。
 
 女がどうしてそんなことをするのか、もとより理由はわからない。わからないからこそ、蝶が見えない糸を操って私を雲の上にまで連れて行く、などと奇妙なことを想像したのではなかっただろうか。
 
 ——草原の衣《い》裳《しよう》だな——
 
 とりとめもなくそう思った。
 
 正確な知識は持ちあわせていなかったが、韓民族は多分騎馬民族だったろう。男が馬を駆って草原のかなたから家へ帰って来る。迎える女は、たったいま見たチマチョゴリのように明快な色彩をまとっていたほうがわかりやすい。細かい模様はふさわしくあるまい。
 
 ——それにしても鮮やかだったな——
 
 太陽の位置はさっきより大分低くなっていた。
 
 ——どうしよう——
 
 体が重い。いつまでもこんなところにすわっていても仕方がないと、それを承知していながら、つぎの行動を起こすのが、ひどく億《おつ》劫《くう》に感じられてしまう。
 
「へえー」
 
 私は思わず声を洩《も》らしたのではあるまいか。遠い林の中から、また赤と黄のチマチョゴリが現われた。さっきと同じように足早に近づいて私の前を通り過ぎて行く。
 
 私のすわっている位置を挟んで西と東に、つまり林のむこうと傾斜のむこうとに、たとえば村があって、女はなにかの用件で二つの村を行き来しているのだろう。用件の中身はわからないが、それ以外の事情は考えにくい。
 
 ——しかし、チマチョゴリってのは普段着なのかなあ——
 
 かすかな違和感を覚えたのは、そのせいだったらしい。
 
 ソウルでは、ソウルの町中では、ほとんどこの衣裳を見ることがなかった。景福宮の庭園で二人ほど着飾っている姿を見たが、そばに新しい背広姿の男が寄りそっていて、
 
 ——新婚旅行らしい——
 
 と感づいた。
 
 つまり、特別なときでもなければ、この民族衣裳をまとって歩くことはない。日本人の和服姿よりもっとめずらしく感じられた。
 
 慶州に移って、ここでも見なかった。町の風情はソウルよりずっと民族衣裳にふさわしく感じられたが、やはり屋外でやたらに眼に触れるものではないらしい。
 
 それが今、草原の中の土の道を行き来している。チマは引きずるようなデザインだから、いくらたくしあげて歩いても、土ぼこりで汚れてしまうだろう。
 
「こりゃ……なんだい」
 
 驚いたことに、さらに、もう一度彼女は現われた。
 
 私のそばまで来て遠い雲を望むように顔をあげて視線を伸ばす。
 
 面ざしは整っている。ちょっと吊《つ》り眼がち。肌の薄さを感じさせるような色の白さである。
 
 言葉をかけたいのだが、私はハングル語が話せない。たしかこんなときには「アンニョンハシムニカ」と言えばよいはずだが、それもうまく一続きの言葉として言えるかどうか自信がなかった。
 
 戸惑っているうちに女は歩調をゆるめ、小首を曲げ、
 
「今日は」
 
 と、明快な日本語で告げた。
 
 かすかに間のびしたような抑揚だが、この音声ははっきりと意味がわかる。
 
「今日は、どうも」
 
 笑いながら答えた。
 
 照れ笑いの意味がうまく通じたかどうか。
 
 女は足を止め、
 
「日本から来たんですか」
 
 と尋ねる。
 
「そう。うまいね、日本語が」
 
「そうですか」
 
 と含み笑いを見せる。
 
 草原で寝転がっている私を見て、女は、
 
 ——日本人かしら——
 
 そう想像したにちがいない。日本語が話せるものだから、話しかけてみようかどうか、決心がつかずに何度も行き来していたのかもしれない。
 
「どこ行きました」
 
「仏国寺へ行った」
 
「そうですか」
 
「石《せつ》窟《くつ》庵《あん》へ行こうと思ったんだけど、道をまちがえたのかな。ちょっと疲れちゃって」
 
「もう遅いですね」
 
 太陽は沈み、空は暮れかけていた。
 
「うん」
 
「どこ泊まりますか」
 
「まだ決めてない」
 
 女の年齢は三十歳くらいだろうか。少女のように明るい笑顔で笑うが、物腰はとても落ち着いている。眼《め》尻《じり》に小じわがくぼむ。
 
「どこか知りませんか? いい宿」
 
「ありますけど、日本の人はちょっと……。それに、お金、もったいないでしょう。私の家に来てください」
 
 思いがけない言葉だった。
 
 当時の韓国はまだ貧しかった。チマチョゴリの女は、貧しい生活を営んでいる人のように見えなかったけれど、実情はわからない。旅行者を泊めて、なにほどかの収入が得られるものならば、それもわるくないと、そんな事情も充分に考えられる。さっきから何度も私の前を歩いていたことも、それならば説明がつく。チマチョゴリで装っているのも、よい印象を与えようと、そんな意図かもしれない。
 
「いいんですか」
 
「どうぞ」
 
「お礼は……宿賃はいくらですか」
 
 単刀直入に尋ねておいたほうがよい。
 
「いりません。私の家ですから」
 
「でも……」
 
「どうぞ」
 
 先に立って歩き始める。
 
 ——どうしよう——
 
 知らない町。知らない女。話が少しうますぎる。怖いと言えば少し怖い。売春のようなものかもしれない。しかし、女がわるい企みを持っていたとしても、
 
 ——私を脅かして、なにか得すること、あるかなあ——
 
 お金もあまり持っていない。
 
 ——まさか殺されることはないだろう——
 
 危険を感じたら、そのときに逃げ出せばいい。ランナーとしてなら、短距離も長距離もどちらも自信があった。
 
 ——ただ、今は熱がある——
 
 体が少しふらついている。普段と同じようには走れない。
 
 ——まあ、いいか。そのときはそのときだ——
 
 殺されても妻子がいるわけではない、などと極端な情況を考えた。
 
 私は外国旅行に慣れていなかった。慣れていないからこそ、かえって大胆になれたのかもしれない。まったくの話、知らない国でこんなふうに誘われて、そのままついて行ってよいものかどうか、けっして勧められることではないだろう。確率は低いけれど、恐ろしいめにあうことも皆無ではあるまい。
 
 女の様子は、悪い人のようには見えなかった。むしろそんな疑いを抱くこと自体が申し訳ない。
 
 慶州は美しい古都である。住んでいる人の心もやさしい。疲れている旅人を見つけて、女は声をかけてくれたのだろう。それに、
 
 ——日本語ができる——
 
 わけもなくそれが信頼を生む。
 
 ゆっくりと考えてみれば、この国ではその資質がかならずしも対日感情のよさを表わしてはいない。日本人に虐げられ、それゆえに日本語が巧みであるという、そういうケースもたくさんあるのだから……。
 
「どうしてそんなに日本語がうまいんですか」
 
 うしろ姿に尋ねた。
 
 女は弧を描くように足をまるく踏んで、
 
「母が日本人だから」
 
 と言う。
 
「道理で。日本に住んでいたこと、あるんですね」
 
「いえ、私はありません。行きたいけど」
 
「来ればいいのに」
 
「はい……」
 
 道は林の中に入り、しばらくはゆるやかな登り坂が続いた。丘陵の中腹をまわり、林を抜けた。
 
 やはり熱が高い。
 
「あそこ」
 
 と女が指をさす。
 
 周囲は薄暗くなっていた。
 
瓦《かわら》屋根。木造の古い家。小さな門をくぐり抜けた。
 
「どうぞ」
 
「お邪魔します」
 
 家はひっそりと静まりかえっていて、人の姿も見えない。この国ではたいてい大家族制を採って暮らしているはずなのに……。
 
 案内されたのは玄関に近い部屋だった。多分客間なのだろう。がっしりとしたテーブルと椅《い》子《す》が置いてある。
 
「すぐに仕度をしますから」
 
「すみません。でも、おかまいなく」
 
「ご馳《ち》走《そう》がないけど」
 
「本当におかまいなく……。ほかのご家族は?」
 
「お父さんと二人です」
 
「あ、本当。それはさびしいね」
 
「ゆっくりしてください」
 
「ありがとう」
 
 女は奥へ消えて行く。
 
 家の外で水音が聞こえた。
 
 客間の壁には山水画が掛けてある。ガラスケースの中に男女一対の人形が飾ってある。
 
 私は椅子に腰かけて待っていたが、そのうちに体を横たえたくなった。あまり行儀のよいことではないけれど、熱があるのだから仕方がない。
 
 足音が聞こえた。
 
 身を起こすより先に女が戻って来て、
 
「お湯の用意ができました」
 
「お風《ふ》呂《ろ》?」
 
「はい。こっちです。どうぞ」
 
 本当は風呂など入らないほうがいい。
 
 だが、体が汗ばんでいる。汗だけでも流したかった。
 
 暗い廊下を歩いた。
 
 構造はよくわからないが、かなり大きな家ではあるまいか。
 
「タオル、これ使ってください」
 
「すみません」
 
「ぬるいですか」
 
「いや、大丈夫」
 
 一坪ほどのバスルーム。湯殿と呼んだほうがふさわしい。木の湯船にお湯がたっぷりと満たしてある。簀《す》の子が敷いてある。焚《た》き口は窓の外にあるらしい。
 
「温度、いいですか」
 
 女の声がもう一度外から尋ねる。
 
「ちょうどいい」
 
 しかし、湯船には入らず、体を拭《ぬぐ》うだけにとどめた。
 
 バスルームを出ると、女が駈《か》け寄って来て、また薄暗い廊下を戻った。
 
「ご馳走ないです。食べてください」
 
 テーブルの上に皿が並べてあった。
 
 白いご飯。お汁のようなもの。魚の煮つけ。野菜の煮つけ。そしてキムチ。言葉通りありあわせのものを調えてくれたらしい。
 
「お酒、飲みますか。韓国のお酒。焼《しよう》酎《ちゆう》です」
 
 大きなとっくりを差し出す。
 
「じゃあ、少しだけ」
 
 茶《ちや》碗《わん》に注《つ》いでもらってから、
 
「お父様は?」
 
 と尋ねた。
 
「まだ帰りません」
 
「わるいなあ」
 
「いいです」
 
「あなたは?」
 
「いいです」
 
「一緒に飲みましょうよ」
 
「私、飲めません」
 
「じゃあ、なにか一緒に……」
 
「いいです。あとで食べますから」
 
 もしかしたらこの国では女性はもっぱら給仕にまわり、客人と一緒に食事をしないのが作法なのかもしれない。どう誘っても一緒には食べなかった。
 
「おいしい」
 
「そうですか。よかった」
 
 思いのほか強い酒である。
 
 豆を甘く煮た料理がうまい。食欲はあまりなかったが、女が気をわるくすると困るので、あらかた平らげた。
 
 もう十時をまわっていた。
 
 眠い。
 
 だるい。
 
 とにかく休みたい。
 
「少し熱があるみたいなんです」
 
 自分の額に手を当てながら呟《つぶや》いた。
 
「あ、そうですか」
 
 女は私の顔を見つめ、そっと額に手をそえる。
 
「本当。病気です」
 
「眠れば癒《なお》る」
 
「そうです。早く寝たほうがいいです」
 
 急いで部屋を出て行って、寝具を整えてくれた。
 
 白いシーツをかけた狭いベッド。私は周囲がどんな情況か確かめるゆとりもなく服を脱いで崩れるように寝転がった。
 
「これ、お薬。熱をさげます」
 
 白い錠剤と水をさし出す。
 
「いろいろありがとう」
 
「いいえ」
 
「お父様がお帰りになったら起こしてください」
 
「いいです。夜、遅いと思いますから」
 
「あなたの名前を聞かなかった」
 
「ミキです」
 
「どんな字を書くの?」
 
「美しい姫です」
 
「あ、そう」
 
 女があかりを消した。
 
 私は闇《やみ》に向かって自分の名を伝えた。女も同じように字を尋ねた。
 
 記憶が残っているのは、そのあたりまでだった。すぐに眠ったらしい。
 
 翌朝、目ざめると、薬が効いたのだろうか、熱はさがっていた。しかし、足腰がシャンとしない。気力が回復しない。
 
「少し休んでいたほうがいいです」
 
 美《み》姫《き》に勧められ、その好意に甘えることにした。
 
「わるいなあ」
 
 本当に親切な人だ。
 
「お父様は?」
 
「もう出ました」
 
「お仕事?」
 
「はい」
 
 あまり立ち入ったことまで聞くのは失礼だろう。
 
「お父様は日本を知ってるんですね」
 
「はい」
 
「住んでいたこと、あるんだ」
 
「はい」
 
「どこ」
 
「東京だと思います」
 
「いい思い出ばかりじゃないだろうな」
 
「そんなことありません。とてもいいところだって……。私も行きたいです」
 
「来ればいい。僕が案内する」
 
「本当ですか」
 
 女の声が弾んだ……。
 
 思わず喜びを表わしてしまった、と、そう聞こえるような声の調子だった。
 
 ——これは本心——
 
 だれかと話していて、わけもなくそんな確信を抱くときがあるものだ。
 
 そして、その確信が、確信通りに真実であることも、けっしてまれではない。野生の動物が本能を持っているのと同じように、人間には社会生活を通じて培った勘のようなものがある。これは真実、これは嘘《うそ》、いつもではないが、明《めい》瞭《りよう》にその区別ができる一瞬がある。
 
 ——この女に好かれている——
 
 こそばゆいような興奮が心に昇って来る。
 
 私はとりわけ自《うぬ》惚《ぼ》れの強いほうではない。こんな感触を味わうのは、めったにないことと言ってもよい。
 
 だが、このときはそう思った。
 
 ——この人に日本を見せたい——
 
 機会を作って、ぜひとも案内役を務めたいと、そんな夢想を抱いたのは本当だった。
 
「うん。来たらいいじゃない。近いんだから」
 
「はい」
 
 女の声がくぐもる。
 
 そう簡単にはいかない事情があるのだろう。
 
 ——父親のことかな——
 
 多分そうだろう。
 
 午前中は陽《ひ》だまりで体を休め、午後になってから女の案内で石窟庵を訪ねた。
 
 正直なところ、まだ病気が残っていて脳の働きが稀《き》薄《はく》だった。集中力を欠いていた。あとで考えてみると当然尋ねるべきことをいくつか漏らしていた。
 
 それに……女の日本語も、日常会話にはこと欠かないが、少しややこしい話となると、うまく通じない、うまく語れない。語りたくない事情もあったのかもしれない。根掘り葉掘りして聞くのはためらわれた。
 
 美姫の父親は故郷を捨てた人らしい。生まれ故郷の名を言っていたが、私には知らない地名だったし、よく聞き取れず、すぐに忘れてしまった。故郷を捨てた理由は、日本女性との結婚のせいだったのかどうか、そんなふうにも聞き取れる美姫の口ぶりだった。
 
 その母親は、どうなったのか。
 
 ずいぶん前に夫と別れて、今は消息もよくわからない……。
 
「ずっとお父さんと二人暮らしなんです」
 
 ひっそりと父《おや》娘《こ》二人で慶州の片すみに住み続けているのだろう。
 
 この夜も寝室へ行く前に、
 
「お父様は?」
 
 ともう一度尋ねたが、
 
「まだ帰りません」
 
 と同じ答をくり返すだけだった。
 
「遅いんだね」
 
「はい」
 
「お帰りになったら起こしてください。ご挨《あい》拶《さつ》をしたいから」
 
「はい」
 
「おやすみなさい」
 
「おやすみなさい」
 
 昨夜のようには、すぐに眠れない。
 
 ——変だなあ——
 
 なによりも父親の姿の見えないのが気がかりだった。美姫は「まだ帰りません」と言っていたけれど、実情はめったに家には帰って来ない父なのではあるまいか。
 
 市街地までそう遠くはあるまいが、周囲の風景は山中と呼ぶにふさわしい。
 
 ——さびしくはないのだろうか——
 
 女一人では無用心でもある。
 
 さびしいからこそ私を誘ったのかもしれない。
 
 ——俺《おれ》もこのままここに住みつくかな——
 
 そんな途方もないことを考えた。
 
 そのうちに眠りに落ち、次に眼をあけたのは、朝の四時過ぎだった。
 
 小用に立ち、ついでにそっと家の様子をうかがった。美姫の眠っている部屋は、多分、廊下の突きあたりだろうと見当がつく。その木の引き戸の前まで行って耳を傾けた。かすかな寝息が聞こえる。
 
 断定はできないが、女の寝息。ひといろの寝息……。
 
 もちろん父と娘が同じ部屋で寝ているとは限らない。むしろべつべつと考えるほうが普通だろう。
 
 ——この引き戸を開けたら——
 
 と思う。
 
 苦笑が浮かぶ。
 
 ——たしかに女一人は、無用心だ——
 
 論より証拠、この私が忍び込んだら、どうなるのか。
 
 ——まさかそれを待っているわけではあるまいな——
 
 くり返して言うが、私は自惚れの強い人間ではない。常識から考えてみても、たった一日や二日のつきあいで、それほど女性に好かれるということはありえない。
 
 だが……それはたしかにそうなのだが、女の態度には、
 
 ——もしかしたら——
 
 と、期待を抱きたくなるような、微妙な親しさがあった。
 
 とはいえ、引き戸を開ける勇気はない。家捜しをするわけにもいくまい。自分のベッドに戻り、朝の光が射し込むまでまんじりともせず外の気配に耳をそばだてていた。
 
「お父様は帰らなかったの?」
 
「はい」
 
「よくあるの、こんなこと?」
 
「そうでもないです」
 
「なんなんですか、お仕事は?」
 
「山で焼き物を……」
 
「かまどがあるわけね。どんなかまど?」
 
 手ぶりで描くが、説明はおぼつかない。
 
「そこへ行ってみたい」
 
 父親の存在を確かめたかった。
 
「無理です。遠いから」
 
「もう一度聞くけど、あなたとお父様と二人だけでここに暮らしていて、お父様はときどき山へ行って、そのまま帰らないことがあって……そういう生活なんですね」
 
「そうです」
 
「よくあることなのかな、このへんじゃ、そういう生活?」
 
「めずらしいです。うちだけ」
 
「そうだろうな。さびしすぎるよ」
 
「はい」
 
「町へ移るとか、ソウルへ行くとか……結婚はどうなの?」
 
「お父さんが許さないから」
 
「それはひどい」
 
「仕方ないです」
 
「日本に連れて行くと言ったら……」
 
 笑いながら冗談めかしく尋ねた。
 
「きっと駄目」
 
 女も笑いながら答えた。
 
 最初の予定では、私はこの日のうちにソウルに戻り、明日の昼過ぎの便で日本へ帰るつもりだった。
 
 だが、朝一番のバスに乗れば、午後の便には間にあう。今日一日……、もう一晩、美姫と一緒に過ごしたかった。
 
「そうしてください」
 
 美姫はうれしそうに言う。
 
 言葉はもう一つ通じにくいところがあったけれど、気分はとてもよくあう。そんな気がする。
 
 韓国の女性はおおむね気性が激しいが、美姫はおだやかで、控えめである。私を凝視して、なんとか私の気持ちを理解しようと、けなげな態度を崩さない。
 
「どうして私の前を行ったり来たりしてたんだ?」
 
 と、初めて会ったときのことを尋ねた。
 
 首を傾《かし》げ、少し考えてから、
 
「日本人だと思ったから」
 
 と答えた。
 
「日本語を話してみようと思って?」
 
「はい」
 
 それだけの動機とは思えない。
 
「チマチョゴリはよく着るの?」
 
「はい」
 
 尋ねたことしか答えない。
 
 美しいチマチョゴリには特別な思い入れがあったのではないかと、そんな想像も浮かぶのだが、こっちから尋ねるのは面《おも》映《は》ゆい。
 
「お父様はお父様として、あなたはもう少し自分のこと考えなくちゃ。いつまでもここにいたって、どうにもならないのとちがうかなあ」
 
「はい。でも……」
 
 口ごもるばかりだった。
 
 よほどかたくなな父親なのだろう。娘を自分のそばに置いてけっして放そうとしない。
 
 韓国には親孝行の美風がいまだに強く残っている。子どもは親のためにずいぶんひどい犠牲を強いられることも多いらしい。父が望むなら、娘はずっと父のそばにいなければならない……少なくともこの家ではそんなルールが厳然と生きているように思えた。
 
 ——それはよくない——
 
 一介の旅行者にはとても計り知れない事情があるのだろうと、それを充分に承知しながら、なおも叫びたかった。
 
 私のほうも美姫に心を奪われ始めていたのだろう。
 
 美姫の案内で武烈王の墓陵まで足を伸ばした。この日も晴天に恵まれ、チマチョゴリをまとった美姫は真実蝶《ちよう》のようにあでやかに山野の風景に溶け込んでいた。そして、ひどく楽しそうだった。
 
「冒険をしなくちゃいけない」
 
「はい」
 
「日本に来なさいよ」
 
「はい……」
 
 韓国では、日本と同じ明石《あかし》の標準時を用いているから、日没は遅い。赤い夕日を眺めながら家に帰り、風《ふ》呂《ろ》に入って夕食をすますと、もう十一時を打つ。
 
 私の体調は完全に回復したわけではない。思いがけない楽しさに遭遇して、心が高ぶり、
 
 ——こんなときに体調をわるくしていてたまるものか——
 
 意志の力で病気のほうに小休止を課していた、というのが実情だったろう。布《ふ》団《とん》に入ると、もう起きるのもつらいほどぐったりとしてしまう。
 
 それでも朝の五時近くに眼をあけた。
 
 暗い廊下を歩いて美姫の寝ている部屋の前に立った。
 
 ——六時にはこの家を出なければいけない——
 
 そのまま佇《たたず》んでいた。
 
 かすかな寝息が一つだけ聞こえる。
 
「美姫さん」
 
 呼びかけて引き戸を細く開けた。
 
 やはりたった一人で眠っている。
 
 布団の脇《わき》にすわって寝顔をのぞいた。
 
「美姫さん」
 
 女は眼をあけ、キクンと体を震わせる。
 
「あなたが好きだ」
 
 布団の上に横たわり、肩を抱いた。
 
 美姫は抗《あらが》ったが、それほど強い力ではなかった。やはり待っていたのかもしれない。身勝手かもしれないが、そう思った。
 
「日本に来て」
 
 本当に訪ねて来たらどうするか……もちろん案内くらいはできるだろうが、美姫はこの言葉にもっと大きな期待を抱くのではあるまいか。
 
「お父さんが……」
 
 と呟《つぶや》く。
 
「帰って来やしない」
 
 襟もとが割れ、白い乳房がのぞいた。
 
 もうあとには引き返せない。
 
 ——娘を一人ぽっちにしておくのがいけないんだ——
 
 けっして肉欲のせいではない。
 
 もちろんその欲望が私の中になかったはずはない。
 
 だが、それよりもなによりも出発を前にして、なにかしら証《あか》しがほしかった。行きずりの旅人として別れるのではなく、契りとなるものがほしかった。かならずしも美姫を抱こうとして引き戸を開けたわけではなかった。
 
 くちづけ一つ、それだけでもよかった。
 
 いや、そう言いきってはやはり嘘《うそ》になるだろう。ただ、もう少し明確な結びつきがほしかった。
 
 薄《うす》闇《やみ》の中に白い体があらわになる。
 
 私はその上に折り重なった。
 
 そのときである。
 
 なにかが……そう、たしかな力が私を抑えた。背後から、身動きもできないほど強く。
 
 ——しまった——
 
 父親が帰って来た……。そう思った。
 
 首をまわそうとしたが、よくまわらない。
 
 つぎの瞬間、本当に全身が総毛立つほどの恐怖を覚えた。
 
 ——だれもいない——
 
 私の背後に。
 
 よくは見えないが、気配でわかる。
 
 だれもいないのに、力だけが私の背後からかぶさって私を抑えている……。
 
 美姫は眼を閉じていた。そして私の愛《あい》撫《ぶ》を待っていた。多分、そうだったろう。
 
 だが、私の動作に不自然なものを感じて、眼を開けた。
 
 ポッカリとしたまなざしで私の背後に焦点をあわせる。なにかが見えたのだろうか。
 
 それからゆっくりと首を振った。
 
 私は必死の力で、美姫の体の上から転がりおりた。ほとんど身動きのできない圧力の下で、それだけがかろうじて私が採ることのできる動作だった。
 
 やはりだれもいなかった。
 
 暗い部屋に美姫と私と二人っきり……。
 
 美姫は襟もとをあわせ、布団の上にすわって、悲しげな表情で私を見た。
 
「どうして」
 
 私の声が震えている。
 
「だから」
 
 とだけ美姫は呟《つぶや》いた。
 
 ——こんなことがあるのだろうか——
 
 考えられることは一つしかない。理性の枠には入りにくいが、ほかに思いようがない。
 
「お父様は本当に……?」
 
 生きているのかと眼顔で尋ねた。
 
 意味は通じたのではあるまいか。
 
「ずっとここにいるんです」
 
 と美姫は答えてから、高い窓を見あげ、
 
「もう起きなくちゃあ」
 
 哀《あい》艶《えん》な笑顔で笑った。
 
 布団を部屋の隅に押し、髪を掻《か》きあげ、なにごともなかったように部屋を出て朝の仕度にかかった。
 
 出発を急がなければいけなかった。
 
 美姫は赤と黄のチマチョゴリを着て仏国寺の駅まで送って来てくれた。私は東京の住所と電話番号を書いて渡した。
 
「日本に来てほしい」
 
 と告げたが、はたしてあの姿のない父親が許してくれるものかどうか。
 
 美姫は、
 
「はい」
 
 と答え、それから列車の動きだすのを見て、
 
「やっぱり駄目でしたね」
 
 と細く呟《つぶや》いた。
 
 言葉はそう聞こえた。私はバスの座席に体を預け、くり返しくり返し美姫の告げた言葉の意味を考えた。意識がおぼろだった。ソウルに着いたときには高い熱が戻って来て、東京に帰ってからも、一週間は病いの床に臥《ふ》さなければいけなかった。
 
 
 
 歳月が流れた。
 
 私はそのあいだに三度韓国を訪ね、そのつど慶州に足を伸ばした。
 
 仏国寺の付近を捜したが、美姫の家は見つからない。初めて美姫を見た、あの三角の草原は……多分それらしい草原はあったけれど、それから先がうまく捜せない。慶州は観光地を目ざして土地改革が進められていた。古い家は取り壊されたのかもしれない。
 
 ——痕《こん》跡《せき》くらいありそうなものだが——
 
 そうなってみると、私の記憶そのものがぼやけて感じられる。初めて訪ねた異国での出来事だった。しかも私は病いに冒されていた。あのときは、意識がはっきりしていると思っていたけれど、高い熱と高い熱の谷間の時期であったことはまちがいない。途方もない夢を見たのかもしれない。
 
 しかし、たしかに残っている感覚がある。それだけは本当だ。
 
 美姫を抱こうとしたとき、私の背後から私を抑えこんだ、あの見えない力……。あれだけは、けっして忘れられない。あれだけは夢や幻想ではない。
 
 ——じゃあ、なんだったろう——
 
 つい先日、新聞のコラムで、とても大きな蝶が韓国の岩山の上を飛んでいるのが目撃された、と、そんな記事を読んだけれど、多分私の体験とはなんの関係もないことだろう。美姫は今でも父親と一緒にどこかにひっそりと暮らしているだろう。美しいチマチョゴリをまとい、蝶のように舞いながら……。
 
 昨今の慶州はすっかり観光地化されて、もうこの世の外の出来事などどんな形であれ垣《かい》間《ま》見《み》せてくれることはあるまい。
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