猫の事件08

 破られた約束

 
 
 四十歳を過ぎたとたんにスズキ氏はもの忘れがひどくなった。
 まだぼけるのは早い、そう思ってみても現実に忘れものばかりしているのだから嘆かずにはいられない。
 雨傘を置き忘れるなど毎度のこと。先日もスーパーマーケットで代金を支払わぬまま品物を持って外に出て、事情を釈明するのに一苦労だった。
 忘れものをするのは放心癖があるから……。
 これは幼い頃からのくせだった。道を歩いていても、乗物に乗っていても、時には仕事をしている最中だってそれが単調な作業ならば、心はどこかへ飛んで行って夢想を始めてしまう。それでも若いうちは脳味噌のどこかに冷静なところがあって、さほど大きな失敗をせずにすんでいたのだが、昨今はめっきりその機能が衰えてしまったらしい。
 その夜も渋谷駅で新玉川線に乗り替え、電車がしばらく走ったところで、はたと思い出した。
 ——タロウに頼まれていた買物があったんだ——
 あわてて手帳を見たが、まちがいない。
�デパートに寄って昆虫採集セットを買って帰ること。ジロウにもモーター・ボートの模型を忘れずに�と走り書きしてある。
 タロウは小学三年生、ジロウは二年生。申し分のないよい子どもたちだ。子煩悩の親父としては、二人の様子を思い浮かべるだけで頬の肉がゆるんでしまう。
 タロウはこのごろ蝶の採集に凝っていて、本格的な標本作りの道具箱がほしいらしい。今日の午後渋谷へ出るついでがあるから忘れずに買って帰ると約束したのだった。
「タロウだけじゃジロウがかわいそうよ。ジロウにもなにか買って来てあげて」
 と妻に言われ、ジロウにはモーター・ボートのセットを買う約束をした。二人とも首を長くして待っているだろう。
 明日から九州へ出張。今度の出張は長くなるだろう。今日買って帰らなければ、しばらくはデパートへ行く機会がない。スズキ氏の家は新玉川線のつくし野にあって、自然環境には恵まれているが、ちょっと特別な買物をしようとすると不便なことが多い。昆虫採集のセットも、
「東京のデパートで一番いいのを買って来てね。展翅板《てんしばん》や殺虫壜もちゃんとあるやつ」
 と、こまかいところまで注文がつけられていた。
 車両の中でスズキ氏は時計を見た。
 ——これから渋谷へ戻れば、デパートの閉店時間前になんとか間にあうだろう。よし、急げ——
 次の駅で電車を降り、向かい側に滑り込んで来た上り電車に乗り替えた。
 タロウの夢は科学者になること。科学者になってノーベル賞をもらうつもりなんだとか。ジロウも、なにもわからないくせに、
「ボクもノーベル賞もらう」
 と、負けずに叫んでいる。
 まあ、よかろう。夢は壮大なほうがいい。
 ——一生|※《うだつ》のあがらないサラリーマンじゃつまらない。あの子たちには、一流の人間になってもらいたい。そのために役立つことなら、なんでもしてやるぞ——
 そう思っているくせに、頼まれた大切な買物を忘れてしまうようでは、はなはだ心もとない。親父としてはおおいに反省しなければなるまい。
 デパートに着いたのは、閉店五分前だった。エスカレーターを駈けあがり、科学玩具の売り場に走って、鞄に入った特上の昆虫採集セットを買い求めた。ついでに�蝶類の採集と標本作り�という本を買い求めた。
 もう閉店のアナウンスメントが鳴り響いている。
 階段のほうに二、三歩進みかけて、
「おっと、いけない。また忘れてしまうところだった」
 プラモデルのセット売り場に戻って、モーター・ボートのセットを買った。
「これでよし」
 そのまままっすぐに帰ればよかったものを、めったに来ない渋谷のデパートの裏手に、一軒知った酒場があるのを思い出した。
 ——一ぱいくらいいいだろう。今日はおみやげがあるんだし——
 約束の買い物を無事に終ったことに気をよくして、ついスズキ氏は酒場の暖簾《のれん》をくぐってしまった。
 
 スズキ氏の足が渋谷駅へ向かったのはもう真夜中の十二時も近い頃だった。
「ああ、飲み過ぎた。いけねえ、明日から出張か。午後の飛行機だったな。用意は明日の朝すればいい」
 なんだか大切なことを忘れているような気がした。
 次の瞬間、狼狽が走った。腕の下にはなにもない……。
 ——しまった! 買い物をどこかへ置いてきちまったんだ——
 酔った頭には、なんの心当たりも残っていない。
 スズキ氏は、立ち寄った酒場を一つ一つ思い出して戻った。
「すみません。もう閉店ですか」
「スズキさん、忘れ物でしょ。すぐあとを追っかけたんですけど……」
 荷物は一番最初に立ち寄った酒場にあった。
 ——よかった——
 これをなくしてしまっては、なんのために渋谷まで戻ったのかわからない。
 ——さあ、急いで帰ろう——
 近道を行こうとして横断禁止の道を横切ったとき、自動車のヘッド・ライトが急速に近づいて来るのが見えた。
「くそっ、危いじゃないか……馬鹿っ」
 手に持った昆虫採集セットの包みが宙に舞った。モーター・ボートの箱が路面をスケートでもするように滑った。
 
 スズキ氏はつくし野の駅から家に向かう道を大急ぎで歩いていた。
 これだけ急いで歩くと、たいていは息切れを起してしまうのだが、今夜はさほどのこともない。
 ——とにかく急いで帰ってタロウとジロウの顔を見なくては……もう眠っているか——
 気ばかりがあせって仕方がない。
 途中で七、八人の人影を追い抜いた。スズキ氏の家は、丘陵を削って建てた建売住宅の一つ。野中の一軒屋というほどのこともないが、西側は松林、裏手の家にはまだ入居者がいない。夜が更けると、ことのほかさびしい。科学者を夢見るタロウとても、幽霊の存在を思わずにはいられない。
 ——もう何時頃かな——
 坂をくだり、椿の木の生い繁った角を曲がって三軒目……。
 突然、犬が狂気のように吠えたてた。
 ——馬鹿もん。驚かすな。隣の家の主人の顔くらい覚えておけ——
 門を通り抜け、玄関からそのまま子ども部屋へ進んだ。
 ——なんだかおかしい——
 靴を脱がずに家の中へあがってしまった。
 だが、べつに靴を履いているわけでもない。またしても狼狽が走り抜ける。
「おみやげは……おみやげはどうしたんだ?」
 手にはなにひとつ持っていない。
 スズキ氏は意識を集中して思い返した。
 ——そうだ。今夜は帰りの電車の中で、子どもたちに頼まれた買物を買わずに来たことを思い出したんだ。それで渋谷に戻ってデパートへ駈け込み、昆虫採集セットとモーター・ボートのセットを買ったんだ。それからついうっかりと酒場に足を向け、そのまま三、四軒廻り、買物をどこかに忘れて来たことに気づいて戻ったんだ。最初の酒場で忘れ物を見つけて、それを小脇に挟み、大通りを渡ろうとして……それから、そう、急に車のヘッド・ライトが走って来て——
 それから先の記憶は白くかすんでいる。救急車のサイレン。クレゾール消毒液の匂い。
 突然、激しい不安に襲われ、スズキ氏はわれとわが姿を凝視した。
 ——やっぱりそうか——
 体は透き通るように薄れ、腰から下はなにもない。隣家の犬が激しく吠えたのも無理がない。このままの姿で渋谷から宙を飛んで来たらしい。せめてひとめだけでも子どもたちの顔を見ようと思って……。
 襖をあけた覚えもないのに体はもう子ども部屋に入っていた。
 兄弟は布団を並べて眠っている。
 気配を感じて先に眼をさましたのは、ジロウのほうだった。
 ジロウは眼をポカンと見開き、隣に眠っているタロウを揺り起こした。
 タロウも闇の中に異様なものの姿を見つけて、真実恐怖の表情を浮かべた。
「あ、あーッ」
 人間が体験しうるすべての恐怖の中で、もっとも恐ろしい恐怖を二人の兄弟が感じている……。そのことは表情から明白だった。このショックは一生二人の脳裏から消え去らないだろう。
 スズキ氏は思った。
 ——しまった——
 スズキ氏は、このときに至ってもう一つ大切な約束を忘れていたことを思い出した。
「お父さん、もしもサ……あのね、もしもの話だよ、もしも外で死んだりしても、絶対お化けになんかなって家に帰って来ちゃいやだよ。ね、お願い。ボクたち、怖いから。約束して。絶対に忘れちゃ駄目だよ」
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