今日からマ王1-1

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 だったらどうしてこんな漢字をあてた!?
 中学時代からの宿敵であるヤンキーと、二対一という「不利」な格闘《かくとう》を続けながら、おれは聞き慣れた悪態を受け流す。
「なんとか言えよ渋谷《しぶや》有利《ゆーり》!」
「じゃあ原宿《はらじゅく》は不利なのかよ」
 その決まり文句は五万回は聞いた。ちなみに生まれて十五年で。
 そう、おれの名前は渋谷有利。裕里でも優梨でも悠璃でもなく渋谷「有利」。五歳上の兄の名前は渋谷勝利。勝利と書いてショーリと読む、ちょっとかっこつけてカツトシとかではなく。
 青葉|茂《しげ》る五月、入学したての県立校からチャリをとばして帰宅|途中《とちゅう》だった。
 今までは憧《あこが》れのあの人めざして中学野球部員やってたけど、高校からはもう一人の憧れの人めざして、剣道《けんどう》部員になろうかななんて喋《しゃべ》りながら、できたばかりのチャリ友と別れたのが五分前。機嫌《きげん》よくペダルを踏《ふ》んでいたおれは、自宅近くの静かな公園で、ただならぬ光景に出くわしてしまったのだ。
 集金。
 と呼ぶのは実行している加害者たちだけで、やっていることは昔からあるカツアゲだ。よりによって今日は加害者と被害者《ひがいしゃ》、合わせて三人ともオナチュー(同じ中学?)だった連中で、トイレの裏の壁《かべ》に追い詰められている眼鏡《めがね》くんは、中二中三とクラスが一緒《いっしょ》の村田《むらた》健《けん》だ。
 いーじゃんこっちはチャリなんだから、気がつかなかったことにすれば。さーっと通り過ぎちゃえば、おれが誰《だれ》かなんて村田には判《わか》んないよ。だって別に友達ってわけでもなかったし、口きいたこともほとんどない。そうやって正義の味方なんか気取ってみたってさ、誰もこっちに期待も感謝もしやしないんだし………………ああ………………。
 おれはゆっくりと自転車を止めた。
 あーあ、だめだ……村田健と、目が合っちゃった。
「……お前等そこで何やってんのぉ? もしかして集団で違法行為《いほうこうい》とかはたらいてる?」
 こうして、おれ、渋谷有利はヤンキー二人を相手にすることになり、推定五万回目の「じゃあ原宿は不利なんかよ!?」を聞かされることとなった。もって生まれた小市民的正義感のおかげで、カツアゲは犯罪だし、二対一は不公平だろという倫理《りんり》感のおかげで。
「オメーは勘違《かんちが》いしたかもしんねーけど、オレタチは単に『集金』してるとこだったの。あいつのオサイフの中の何枚かを、ゴーホーテキに集金してたんだぜ?」
 それがどこの国の法律で合法なのかを、世界地図広げて説明してくれ。
 紺《こん》とグレーの制服で、そろいの金髪《きんぱつ》にカラーコンタクトという無国籍風《むこくせきふう》高校生の二人は、おれの腹に蹴《け》りを入れると、ザラつくモルタルの壁に押《お》しつけた。
「なのにホラ、オメーが横から余計なこと言いやがるから、カモがダッシュで逃《に》げちったじゃんよ。ええ? 銀行屋さんのムスコなんだから、お客がどんなに大事かよーくわかってるはずじゃねぇのか!?」
 本当だ。いや、なんということだ! 助けてやろうとした村田健は、こちらに背を向けて一目散に逃げている。とにかく我《わ》が身がかわいいってことか。おれは加勢を求めて周囲を見回したが、午後四時の公園には、小学生の姿ばかりだ。
「だいたいどーしてお前があいつを助けに来ンだよ。オメーらどっかでトモダチだったぁ? それとも人知れずラブラブだったんか」
「るせーな! 健て名前が気に入りなんだよ、勤と健は好きな名前ランキング上位なんだよ」
 密《ひそ》かに敬愛するココロの師匠《ししょう》の名前が「勤」、一番好きな時代劇俳優が「松平健《まつだいらけん》」。
「ああ? 好きな名前ェ? 渋谷有利原宿不利がぁ!?」
 ゲで始まる笑い声をたてる彼等に、なんとか一矢《いっし》報《むく》いようと、拳《こぶし》やら膝蹴《ひざげ》りやらを繰《く》り出していると、ヤンキーAはおれの髪《かみ》をつかみ、薄暗《うすぐら》いトイレに引っ張りこんだ。
「おい待て……テメ……っ、こっち御婦人《ごふじん》用って、マークちゃんとついてたじゃねーか!」
「そうだっけか? ふーん、ま、いいじゃん。個室が多い方が、プライバシー重視でさっ」
「そうそう、個室でしょやっぱ。ヒミツはヒミツにしときたいしィ」
 調子を合わせたヤンキーBが、もぎ取ったデイパックから財布を探しだす。青いストラップが切れて携帯《けいたい》が転がり、壁に当たって着信音が鳴りだした。
「……なんだこの着メロ、オマエ聞いたときある?」
「いや。あーなんだっけなこれ、いつかなんか聞いた気ィすんな、ああ思い出せねぇ、確かあれだろ、テレビ。っつーか時代劇?」
「ンだそれ、いまどき水戸《みと》黄門《こうもん》以外の時代劇、着メロにするヤツいる? しかもあのストラップ、プロ野球かなんかのじゃねえ? 信じらんねーや渋谷有利、どーなってんの渋谷有利」
「うッるせーなっ! お前等に野球の良さがわかってたまるか! あっコラてめ……ッ」
 ヤンキーBが紙幣《しへい》を引っぱり出す。漱石《そうせき》先生のワンペアだ。
「なーにーこーれー!? うっそ、お前ホントに銀行屋の息子《むすこ》!? てゆーか親父《おやじ》が貸し渋《しぶ》ってんだからぁ、普通《ふつう》もっと持ってると思うじゃん。カシシブリーのシブヤちゃん」
「親の職業はかんけーねーだろッ」
 教えてやろうとも思わなかったが、所持金の大半は五百円玉だ。つり銭ではどんどんくれるのだけれど、自販機《じはんき》ではほとんど使えなくて、あっという間に貯《た》まってゆく。
「あーあ、せっかく村田の代わりに銀行屋が立て替《か》えてくれると思ったのに、支払《しはら》い限度額がたった青札二枚じゃよーお。せめて二万だよな、二万」
 髪を掴《つか》む力が急に強まった。貸し切り状態の女子トイレは、水色の扉《とびら》が三つある。その真ん中に引きずり込まれ、背中を強《したた》かに蹴られて膝をつく。公園のトイレらしからぬ、有名メーカーの洋式便器が目の前に。
「おいまさかお前等……十年前の不良じゃないんだから……」
「県立|合格《うか》ったわりにゃアタマ働かねーみたいだからぁ、今後のサンコーのために教えといてやるけどーぉ?」
 まさか便器に顔を突《つ》っこんだりはしないだろうな。いくらこいつらが中学ヤンキーだったとしても、西暦二〇〇〇年代にもなって、そんなレトロなリンチ方法を!?
「オレ等のジャマすっと、殺すぞ? 次はマジで」
 恐《おそ》れていたとおり、敵はおれの頭を洋式便器に押しつけた。どうやら時代はいま、レトロブームらしかった。
 首のつけ根で突っ張ってはみたが、十秒くらいで覚悟《かくご》を決める。
 洋式便器がなんだってんだ! ちょっと変わった洗面器だと思えば機能は同じだ。押しつけられた顎《あご》の方から水が溢《あふ》れだす。反射的に顔を上げようとするが、後頭部への力は一向にゆるまない。おれは諦《あきら》めて息を詰《つ》め身を硬《かた》くする。
 トイレが近代化されてからは、水洗便所に流された奴《やつ》はいない。そんなことになったらギネスブックに載《の》ってしまう。だからつまり、ほんの数十秒間、目をつぶって息を止めてりゃ、いくらぐいぐい押し込まれても、頭の先から引っ張られても……あれ?
 ヤンキーAだかBだかの手は、相変わらず上から押さえ付けている。だがそれとは別に、何かおれを吸い込もうというような強い力が、洋式トイレの、黒い穴の中央から!
 嘘《うそ》だろ!? ブランドトイレタリーに、こんな隠《かく》されたパワーがあったなんて! 強力|掃除機《そうじき》なみの、最終|奥義《おうぎ》があったなんて! もうどうやっても抗《あらが》い切れなくなり、頭から肩《かた》から腰《こし》から痛いほど吸い込まれていきながら、おれ渋谷有利は悲鳴とともに考えた。
 もしかして、史上初!?
 史上初、水洗トイレに流された男ぉーっ!?
 
 
 ねえパパぁ。
 なんだいユーリ?
 どうしてパパはディズニーランドにくると「すたーつあーず」ばっかりのせてくれんの?
 なんだ、ユーリはスターツアーズきらいか?
 きらいじゃないよ、だいすきだよ! けどもう「ぱいろっと」の「どろいど」のいうことぜんぶおぼえちゃうくらい、なんどものったよー?
 すごいなユーリは! 操縦士のドロイドの台詞《せりふ》、全部覚えちゃったのか。それじゃあユーリ、それが合ってるかどうか確かめるために、もう一回スターツアズ乗ろう! いつかお前が大きくなったときに、絶対これが役に立つから。
 
 
 役に立ちましたとも!
 ぼんやりと戻《もど》り始めた視界にしがみつきながら、おれは久しぶりに父親に感謝した。まさか十年以上前に、息子が水洗便所に流される未来を予測したわけではなかろうが、それでもあの東京ディズニーランド・スターツアーズ十連発は、確かにこうして役に立った。
 渦巻《うずま》く水流に吸い込まれた後は、子供の頃《ころ》くりかえし見たあの光景そのままだったからだ。ドロイドの叫《さけ》び声、そしてワープ。光のつぶだった星々が尾《お》を引き線になり伸《の》ばされ歪《ゆが》み縮んでまた元どおりの星になる。自分の身体《からだ》も伸ばされ歪み縮んでまた……。
 なーんてね。
 まさか本当にトイレに流されるわけないじゃん。しかも身体も適当に成長した、平均的体格の高校一年生が。
 おれは手も足も思い切り伸ばして、埃《ほこり》っぽい地面に大の字になっていた。舗装《ほそう》されていない道路なんて久しぶりだ。上にあるのはただ、ただ青い空。大気|汚染《おせん》とかオゾン層の破壊《はかい》とかとは縁《えん》のないような、澄《す》んだ空気のクリアな青空。顔を傾《かたむ》けると、道の両脇《りょうわき》には緑が見える。左手は木々が茂《しげ》る林で、右手は斜面《しゃめん》に広がる草地と民家だ。家はどうやら石造りで、遠くにぼんやりと動物が見える。山羊《やぎ》か……羊かな。
 あの連中のことだから、便器に顔を突っこんだまま動かなくなっちゃったおれに慌《あわ》てて、すぐには発見されないような場所まで引きずってきてから捨てたのだろう。
 とはいえ、ここどこ? まるで現代日本ではないような風景に、身体を起こしながら呟《つぶや》いた。
「……アルプス?」
 の少女ハイジ? にしては、交通手段が思いつかない。
 じっとりと湿《しめ》ったままの学ランが重くて気持ち悪い。よくよく考えるとこの水分は、おそらくあの時の公衆便所のもので……よくよく考えるのはよそう。水は水、H2Oに変わりなし。
 道の向こうから妙齢《みょうれい》の御《ご》婦人が大荷物を抱《かか》えて歩いてきた。両手に下げていた籐《とう》のかごが、左右同時に下に落ちる。リンゴ、と呼ぶには巨大《きょだい》な果物《くだもの》が、音をたてて坂道を転がっていく。
「あの……」
 言いかけておれは息を呑《の》んだ。彼女の目はこちらを凝視《ぎょうし》している。自分の目も彼女を見ている。浮《う》かんできた言葉はこうだ。
 コスチュームプレイ(略してコスプレ)の人。
 なんだろうあの引きずりそうなスカート丈《たけ》は。なんだろうあの顎で結んだ昔風の三角巾《さんかくきん》は。なんだろうあの青い目とくすんだ金髪は……外国人!? 何故《なぜ》アルプスの少女ハイジに出てきそうなロングエプロンドレスの外国人が、両手に荷物持って坂を登ってくるのだろう。しかも彼女はかごを落としたまま、こっちを指差して何事か叫び始めた。
「あ、あの、すいません、おどかしちゃったんならほんとにすいません。けどあのおれは此処《ここ》に捨てられちゃっただけでして、危害を加えようとか乱暴しようとかいう気持ちは全く……」
 彼女の声がサイレン代わりになったのか、石造りのメルヘンな家から次々と人が飛び出し、早足で斜面を登ってくる。男も女も子供もいる。だがその人々は皆《みな》一様に。
「……ぜ、全員コスプレ?」
 違《ちが》う、この人たちは確実に現代日本人ではない。そもそも全員がガイジンだ。おれたち日本人から見れば、天然の金髪や天然の茶髪、天然の碧眼《へきがん》や天然の割れアゴは、人種が違うとしか考えようがなかった。総勢十人以上の人々は、鋤《すき》や鍬《くわ》や鎌《かま》といった便利な農耕器具を手にして集まってくる。叫び続ける女と、わけのわからないまま腰を抜《ぬ》かしているおれのもとに。
「ちょっと待って、ほんとにちょっと待ってくださいよ、おれは此処に投げ捨てられちゃっただけで。えーと信憑性《しんぴょうせい》のある言葉で言うと、えー……遺棄《いき》! 遺棄されちゃっただけでして! あっ……あっ判《わか》った! 謎《なぞ》はすべて解けた、じゃなくって」
 緊急《きんきゅう》事態で脳味噌《のうみそ》と舌はフル回転だ。日本とは思えない家並みとコスプレの外人の集団。おれの中で全《すべ》ての要因が繋《つな》がった。
「テーマパークでしょ!?」
 そうですよ。コスプレの外人集団、異国風の町並み、二時間もののサスペンスドラマでよく利用される場所といったら、テーマパークしかないじゃないですか。
「いやー、まあそーだわ。すぐに気付かなかった自分が愚《おろ》かでした。テーマパークに捨てられたんだわ、おれ。けどそれにしても何処《どこ》、ここ? 雰囲気《ふんいき》からして新潟にあるっていうロシア村とかですか? にしても、あいつらずいぶん遠くまでおれを捨てに来たもんだねぇ……ってイテ、あっ、なんですかロシア村の皆さんっ、ちょっとッ、どうして、石、とか、痛ッ!」
 テーマパーク勤務の皆さんは、日本人の愚かさを心得た外国人の方々のはずだ。なのになぜ必死の弁解中のこちらに向かって石を投げる!? いくら入園料を払《はら》っていなさそうだからって、投石したり農耕具(使いようによっては凶器《きょうき》)をかまえたりするのは、ちょっと過剰《かじょう》に反応しすぎだろ。
「あっ、あのっ、財布さっき取られちゃったんで入園料が払えないんですけどもッ、その分はきっと後日っ。いえ電話かしてくれさえすれば、本日中にッ」
 本日中?
 石や泥《どろ》を避《さ》けようと腕《うで》をかざし、巨大なフォークにも似た鋤を突き出してくる農夫に背を向け、怯《おび》えた顔で泣きだす幼児を茫然《ぼうぜん》と見ながらおれは思った。
 どこまでも青い空? ヤンキーどもとやりあったのは、午後四時を過ぎていたというのに? 十五時間近く気を失っていたとも、考えられないことはない。だがその間だれにも発見されずに? テーマパークの警備員さんにも? そのうえ五月の陽気の中、学ランはズシリと濡《ぬ》れたままだ。一体おれ、どうなっちゃってんの!? 頭の中が疑問符《ぎもんふ》でいっぱいになってしまい、地面に額を押《お》しつける。理不尽《りふじん》な投石を受けているというのに、助けてくれる人はいない。
 強い命令調の声が聞こえて、おれはガバッと顔を上げた。ありがたいことに、石が止《や》む。
「だっ……」
 誰《だれ》と問い掛《か》けようとして、馬上の男を見て言葉につまった。村人たちとさして変わらないデザインの、だが光沢《こうたく》や織り目から明らかに質の違う服を着た人物が、オーバーアクションで馬から降りて、こちらに向かって二歩進み出る。
 アメフトだアメフト、この人絶対アメリカンフットボールやってるよ。というような二の腕と胸板。まぶしい金髪《きんぱつ》とトルキッシュブルーの瞳《ひとみ》、少々左に傾いてはいるが、高く立派な鷲鼻《わしばな》、白人美形マッチョらしく薄《う》っすらと割れたアゴ。この場に外人好きな日本人女子がいたら写真を求めて列を作るだろうし、この場に日本人熟女がいたら彼のビキニパンツにおひねりをねじ込んでしまうだろうなという容姿だ。欠点は、これまた白人特有の三角で巨大な鼻の穴。
 この男のことは密かにデンバー・ブロンコスと呼ぼう、おれが知ってるNFLのチームはそれだけだから。彼は村人に一言二言なにか告げると、地面に膝《ひざ》をついて覗《のぞ》き込んでくる。
「……あの……みなさんを宥《なだ》めてくれて、マジでありがとうござい……」
 男の、ガタイに釣《つ》り合う巨大な手が、おれの頭をぐっと掴《つか》む。
 このまま90ヤードくらいロングパスされるのかと思った。しかもそのままタッチダウンされるかも。だが掴まれた前頭葉(まさか)は投げ飛ばされはせず、指に力が加わった状態で、何秒間か動けなかった。
「……いッ……」
 五箇所から一気に痛みが襲《おそ》ってきて、思わず小さく声を上げる。痛みというよりは衝撃《しょうげき》かもしれない。間違えて指をホチキスでとじてしまったような、痛みよりも恐怖《きょうふ》が先走る衝撃だった。やっと男の手が離《はな》れる、と同時に音が流れこんできた。耳から脳にかけてのルートが、まるで水が入ったようにツンと痛い。
 風、木々、動物の鳴き声、同じくらい動物的な幼児の泣き声、そして言葉。
 いきなり皆さんが日本語で話し始めた。なーんだ皆さん、日本語できるんじゃん。そりゃそーだよね、単身(家族連れかもしれないけど)日本に来て観光客相手に働こうっていうんだから、日常的な会話くらいマスターしてるはずだよね。だったらどうして今までロシア語(?)で喋《しゃべ》り続けていたんだろう。まったく人が悪い。美形マッチョがにやりと笑った。
「どうだ? 言葉がわかるようになったか」
「ああーやっぱ外人の口から流暢《りゅうちょう》な日本語が出てくると違和感《いわかん》あるなぁ」
 言葉が通じたことで、これまでの緊張感《きんちょうかん》からやや解放された。とにかく状況《じょうきょう》を把握《はあく》しなければならない。おれは彼等が聞き取りやすいように、エセ外人風アクセントにしながら訊《き》く。
「それでですね、おれは自分でも知らないままに此処に捨てられちゃって、場所も時間も……あ、時間は時計持ってるから判りますが……えーとーぉ……スーイマセェン、コーコドーコデースカーァ? ワタシドーヤッタラ、オウーチカエーレマースカーァ?」
「なんだ」
 デンバー・ブロンコス(もしくはアメフトガイ)は、腰《こし》に両手を当ててこちらを見下ろした。
「せっかく見目《みめ》いいと思ったのに、今度の魔王《まおう》はただのバカか?」
 バカ?
「……初対面の、傷つきやすい年頃《としごろ》の少年に向かって、バカとはなんだバカとは」
 おれの悪い癖《くせ》が頭をもたげる。小学生の頃からそうなのだが、脳味噌の演算処理能力がオーバーになって、赤いランプが点滅《てんめつ》すると、恐《おそ》ろしい勢いで話し始めるのだ。きっと喋ることで考える時間を稼《かせ》いでいるのね、四年生の音楽教師がそう感心した。ついたあだ名はトルコ行進曲。後にも先にもそう呼んだのは彼女だけ。
「まあ確かに中堅《ちゅうけん》どころの県立高校|在籍《ざいせき》で、その中でも誰かに妬《ねた》まれるほどの飛び抜けた成績ってわけじゃないよ。帰国子女だって言い張ってはいるけど、ボストンに居たのは生後半年。だからってバカはないだろ、いきなりバカは。こう見えても親父《おやじ》はエリート銀行家で、兄貴は現役で一橋《ひとつばし》だぞ」
 自分自身の平凡《へいぼん》さを棚《たな》に上げて、家族|自慢《じまん》で勝負にでてみる。
「ちなみにおふくろはフェリス出だ!」
「フェ……なに? どっかの田舎《いなか》貴族か?」
 そう返されてしまい、言葉に詰《つ》まる。学歴問題はグローバル的には効果なし。
「だからって……ッ」
 だからってテーマパークの役者が客をバカ呼ばわりしていいってことにはならない。基本的にサービス業の就労者にとって、お客様は神様なのだ。その日本的経営法を説教してやらねばと、おれはなんとか立ち上がった。
 村人役の人々の、尋常《じんじょう》ではない叫《さけ》び声。
「魔族《まぞく》が立ち上がった!」
「黒を身に纏《まと》う本物の魔族が立ち上がったよ早く子供を家の中へっ!」
「もうだめだもうこの村も焼かれちまうんだ二十年前のケンテナウみたいに」
「待ちなよけどまだこいつは若いし丸腰《まるごし》だししかも見てごらん髪《かみ》も眼《め》も黒い双黒《そうこく》だよ双黒の者を手に入れれば不老不死の力を得るって西の公国では懸賞金《けんしょうきん》をかけてるらしいぞ」
「ああそれはオレも聞いた小さな島の一つくらい買えちまうような額だった」
「気をつけろいくら丸腰だからってこいつは魔族だ魔術を使うはずだ」
「いやこっちにはアーダルベルト様がついてるアーダルベルト様この村をお守りくださいこの魔族をどうか神の御力《おちから》で我々に害の及《およ》ばぬよう封《ふう》じ込めてください」
 何を言ってるんだこの人たちは!? 句読点を入れる場所が掴めなくて、日本語には聞こえるのに、スムーズに頭に入ってこない。おれは無意識に右手首を確かめた。堅《かた》くて武骨なGショックがある。動いているかどうかはわからないけれど、これで殴《なぐ》ったら少しは攻撃《こうげき》力がアップするだろうか。待てよそんな、殴るなんて、ちょっと待て、何考えてるんだ!? けどこいつら、どう見てもおれに敵意を持ってるし、身を守る権利は誰にでもある。緊急事態だ、違う、緊急|避難《ひなん》ってやつだ。あれ、正当防衛? 完全にパニック状態。
 村人が凶器をかまえて、決死の形相でにじり寄る。アーダルベルトと呼ばれた奴《やつ》は農具や石は手にしていない。その代わり、腰には長い剣《けん》を帯びていた。攻撃力の高そうな男は言う。
「まあ、落ち着けよお前ら。こいつはまだ何も飲み込めちゃいねぇんだ。今のうちに説得すればもしかすると……」
 背中を向けた遠くから、何か規則的な音が聞こえてきた。急速に大きくなるその音に全員が戸惑《とまど》いうろたえた。聞き覚えがある。蹄《ひづめ》の音だ。複数の馬が地を蹴《け》って駆《か》ける、地響《じひび》きにも似た力強い、蹄の音だ。
「ユーリ!」
 名前を呼ばれて振《ふ》り返る。
 白馬に乗った上様《うえさま》が、おれを助けに……。
「……がっ……」
 それを見た感想が「が」で終わってしまったのも無理はない。駆け付けた三|騎《き》は白馬でも上様でもなかったし、しかもちょっと目線を空に向けると、とんでもないものが迫《せま》ってきていたのだ。そこには「あるもの」が飛んでいた。生まれて十五年と九ヵ月あまり、見たことも想像したこともないような代物《しろもの》が。
 使い込まれて薄茶色《うすちゃいろ》くなった骨格見本に、竹ヒゴに油紙をはりつけたような翼《つばさ》が生えている。しかもそいつは羽根をバタバタさせて、当たり前のように空を飛んでいた。
 ガイコツ、に羽根をつけると、飛べるもんなんですか?
 素晴《すば》らしい、素晴らしく精巧《せいこう》にできている。支えているピアノ線も、浮力源《ふりょくげん》であるホバーやプロペラも見当たらない。この仕組みはどうなっているのだろう。
「離れろアーダルベルト!」
 駆け付けた三騎はいずれも額に黒のある栃栗毛《とちくりげ》に近い馬で、抜《ぬ》き身の剣をかまえた兵士らしい男達を乗せていた。もっとも栃栗毛なんてJRA的な呼び方は、ここの住民たちには通じないだろう。リーダーらしき青年が、顔は見えないけれど厳《きび》しい声で、続く二人を制する。
「住民には剣を向けるな! 彼等は兵士じゃない」
「ですが閣下っ」
「散らせ!」
 村民役の人々に割って入った三頭の馬は、一声いなないて前肢《ぜんし》を上げる。あまりの砂埃《すなぼこり》に口を覆《おお》って、おれは情けなく咳《せ》きこんだ。ベージュの霧《きり》の中で、青とオレンジがスパークする。追うようにガツンと、金属のぶつかりあう重い響き、集団が逃《に》げ惑う、乱れた悲鳴と草の音。
 誰かに腕《うで》を掴まれる。周囲の幕が徐々《じょじょ》に薄くなる。
「フォングランツ・アーダルベルト! なんのつもりで国境に近付く!?」
「相変わらずだなウェラー卿《きょう》、腰抜けどものなかの勇者さんよッ!」
 あ、解《わか》った。戦国時代の合戦の決まりごとみたいに、やあやあやあ我こそはなになにのなんたらかんたらなーりーと名乗ってからでないと勝負できないルールなんだな? と考えている間に、おれの身体《からだ》をゆっくりと地面から持ち上げられていった。埃の晴れた斜面《しゃめん》では、騎兵に追われた村人が家を目ざして走り、馬から飛び降りた青年がアメフトガイと剣を合わせていた。大地が遠くなったと思ったら、急に反転してその場から運び去られる。自分の体重がかかった腕が猛烈《もうれつ》に痛んだ。
「おれなんで飛んで……うそ!?」
 おれの両腕を掴んで運んでいるのは、仕組みがわからないほど精巧な骨格見本だった。茶色の油紙に似た翼《つばさ》を動かして、よたよたと前方に飛んでいる。そいつはどこからどうみても、羽根のついた骸骨《がいこつ》に他《ほか》ならなかった。真下から見上げても脊椎《せきつい》の先にあるのは表情のつくりようがない顎骨《あごぼね》と頭蓋骨《ずがいこつ》だったし、うつむいた顔の眼窩《がんか》の部分には暗い空洞《くうどう》があるだけだが。
「なんかえーと、どーも」
 攫《さら》われている身分にもかかわらず、礼を言いたくなるくらい、一生|懸命《けんめい》な気がしたのだ。ちょっとでも気を抜くと落ちそうになるのか、飛行骨格見本はパタパタと、必死で翼を動かしている。ちらりとこっちを見たアーダルベルトが、兵士のリーダー格らしいウェラー卿とチャンバラしながら言い捨てた。
「うまく仕込んだものだな! 骨飛族《こつひぞく》に人を運ばせるとは!」
「彼等は我々に忠実だ。私怨《しえん》にとらわれて自分を見失うこともない」
「貴様はどうだ、ウェラー卿? おぉっと」
 運搬《うんぱん》中のおれが首をねじって見たところによると、アーダルベルトと呼ばれたミスター肉体派は、ウェラー卿というリーダーの切っ先を、すんでのところで飛びすさって避《よ》けたようだ。
「あんな連中のために使うには、その腕、惜《お》しいと思わねえのか?」
「あいにくだったなアーダルベルト」
 ウェラー卿のほうは、相変わらずカーキ色の背中とダークブラウンの頭部しか見えない。それなのに何故《なぜ》か、彼が一瞬《いっしゅん》、笑ったのが判《わか》った。
「お前ほど愛に一途《いちず》じゃないんでね」
 村人を残らず追い払《はら》った部下達が駆け戻《もど》ってくるのと、二人が互《たが》いに剣を引くのとは同時だった。アーダルベルトは馬に飛び乗り、木の高さを移動中のおれに叫んだ。
「少しの間の辛抱《しんぼう》だぜ、すぐに助けてやるからなっ!」
「助けて……ってーとおれは今、善悪どっちの組織に連れ去られようとしてるわけ!?」
 眼下では敵を追おうとした兵士が、茶髪《ちゃぱつ》のリーダーにとめられている。
「よせ、深追いするな!」
「奴は一騎です。分が悪いと思ったからこそ引いたのでしょう、今追いつけばおそらくは」
 ウェラー卿(依然《いぜん》として顔は不明)は、ビシッと言い放った。かーっこいー。
「今はなにより陛下の御身《おんみ》を、ご無事にお連れするのが最優先だろう!」
 オンミをゴブジにオツレされるヘーカというのは、もしかしてこのスーパー歌舞伎《かぶき》みたいになってるおれだろうか? 超斬新《ちょうざんしん》なテーマパークで、超|凝《こ》った演出のアトラクションに参加しながら、陛下役のおれは密《ひそ》かに呟《つぶや》いた。
「……とりあえずこの、超よくできてる空中ライドから降ろしてくんねーかな」
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