今日からマ王13-7

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 落ちてゆく瞬間は、誰《だれ》に押されたのかなんて考えもしなかった。
 頭から海水に突っ込み、視界が真っ暗になった時点で、背後には彼しかいなかったことに気付いた。荒《あ》れ狂《くる》う海上に反して中は静まり返り、何の音も聞こえなかった。聴覚《ちょうかく》が麻痺《まひ》していたわけではない。まるで映画で観《み》る宇宙空間みたいに、海中は暗く、しんとしていた。
 渦《うず》の中央に向かって身体《からだ》が吸い寄せられても、気持ちは安定していた。死に対する恐怖《きょうふ》が不思議と湧《わ》かず、ただ闇《やみ》の中にぽつりと浮《う》かぶ青い一点だけを見ていた。
 こんな海に落ちたら助からないと甲板《かんぱん》で思ったのは、ほんの数秒前だったのに。
 まだ死んでない、しかも自分は意外と冷静だ。そう思った途端《とたん》に右手首が激痛に襲《おそ》われ、思わず悲鳴をあげかけた。腕《うで》が抜《ぬ》けるかと思った。口を開けたのが裏目に出て、空気の代わりに海水が流れ込んでくる。悲鳴は押し戻され、喉《のど》にも鼻にも塩水を押し込まれた。
 痛いのは右手首だ。それから喉と鼻の奥だ。
 渦の力に反して、上へと引かれる。体重と、自然がおれを呑《の》もうとする強大な力の両方が、一気に手首に掛かってくる。耐《た》えきれないと、もうあと一秒だって耐えられないと、もういっそこの手を切ってしまってくれと、知らない神様に祈《いの》るところだった。
「……がっ……」
 顔が水面に出た。途端に両耳が轟音《ごうおん》に支配される。波に合わせて身体が激しく揺《ゆ》れた。水を吐《は》きだし、死にかけた魚みたいに口を開け、飛沫《しぶき》混じりの空気を吸う。何度か軽く沈《しず》みかけたが、今度はすぐに浮かび上がった。右手首に濡《ぬ》れたロープがしっかりと絡《から》み付いていて、上から誰かが引っ張っているからだ。
「陛下!」
「聞こえ、て……る」
 確かに聞こえた、生きてる証拠《しょうこ》だ。目も耳も正常に働いている。
「しっかり! 掴《つか》まってください、縄《なわ》を固定して。腰《こし》に巻いて!」
「ああ」
「引き上げます、いいですか!?」
「い……」
返事をしようとしたら、咳《せき》と一緒《いっしょ》に塩水が逆流してきた。こんなに飲んでいたのかというほど、後から後から溢《あふ》れてくる。肺まで浸水《しんすい》していたようだ。
 腰に回したロープが引き締《し》まり、ゆっくりと身体が昇《のぼ》り始める。船腹の板に何度もぶつかり、その度《たび》に腰や背中に打ち傷が増えたが、贅沢《ぜいたく》は言っていられない。船に戻れるだけでも運がいい。あんな荒れた海に放《ほう》りだされて、生きていられただけでも奇跡《きせき》だ。
 いや、放りだされたのではなく、おれは突《つ》き落とされたんだっけ。
「陛下!」
 殆ど抱《かか》えられる状態で甲板の柵《さく》を越《こ》えた。生還《せいかん》という単語が、ファンファーレつきで頭に浮かぶ。馬鹿みたいな黄色い明朝体で。たったいま死にかけたばかりだというのに、人の脳味噌《のうみそ》はどうなっているのか。
 いつもの陽気な口調も忘れ、ヨザックはおれの顎《あご》を乱暴に掴んだ。おれは痛くない方の手で、濡れたオレンジ色の髪《かみ》に触《さわ》る。
「陛下?」
「落ち着けヨザック……大丈夫《だいじょうぶ》だ、自分で呼吸できる……髭がないから、女の人かと思って人口呼吸を期待しちゃったい」
「陛下……坊《ぼっ》ちゃん、ああ」
 大きな溜息《ためいき》をつく。
「よかった、死なせてしまったかと」
「縁起《えんぎ》でもない。大丈夫、二、三秒沈んだだけだ。そんなに水も飲んでないし……竜宮《りゅうぐう》城も見てない」
 手を貸してくれたらしい船員が数人、柵やロープに掴まりながら覗《のぞ》き込んでいた。船が傾《かたむ》き慌《あわ》ててバランスを取る。まだ難所を脱《だっ》したわけではないのに、危険を押して協力してくれたのだ。敵対している国の者だと知っているだろうに。
「ありがとう、お陰《かげ》で助……」
 咳と一緒にまだ塩水がこみ上げてきた。喉と鼻腔《びこう》に沁《し》みる。
「あーあ坊ちゃんたら、鼻水まみれですよ。いい男が台無しね」
「元々だよ、ティッシュくれティッシュ」
 あるわけのない現代生活贅沢グッズを探して指が彷徨《さまよ》う。その先に、薄茶《うすちゃ》の瞳《ひとみ》があった。
 海は荒れても空は晴れやかだ。甲板には横波と共に、水を煌めかせる陽光も降り注いでいる。そんな中で見慣れた彼の瞳だけが、暗く沈み濁《にご》っていた。虹彩《こうさい》に散る銀の星が見えない。
 表情からは心が読みとれない。視線が合うと小さく唇《くちびる》が動いた。一歩踏《ふ》み出そうと片足が上がる。
「ティッシュったって、ちり紙なんか溶《と》けてドロドロですよ。大体なんで落ちるかねぇ、コンラッドが一緒にいてからに……」
 悟《さと》られまいとしていたのだが、不意に名前を聞いて身体が強《こわ》ばる。ヨザックは見逃《みのが》してはくれなかった。
 おれとウェラー卿《きょう》の間に入り、掠《かす》れた声で恐《おそ》ろしいことを口にする。疑問ではなく、確認《かくにん》だ。
「あんたか」
 相手は答えず、ただぐっと両手を握《にぎ》り締めて、踏み出しかけていた足を引いた。顎が僅《わず》かに緊張《きんちょう》している。背中は壁《かべ》だ。
「陛下のお命を狙《ねら》ったのか? あんたどこまで腐《くさ》っちまったんだ」
 抑《おさ》えた声が逆に怖《こわ》かった。
 三歩程《ほど》の間を素早《すばや》く詰《つ》めたと思ったら、次の瞬間ヨザックはウェラー卿の顔の脇《わき》に小さな銀の刃を突き立てていた。あんな物をどこに隠していて、いつのまに握ったのだろう。息が掛かるほど顔を近づけて言う。
「いいかウェラー卿、こいつは警告だ。陛下に二度と近づくな。もしも警告が破られた場合には」
 妙《みょう》に長く重い沈黙《ちんもく》の後に、おれには聞こえないくらい低く伝えた。
「……その生命、ないものと思えよ」
 ずぶ濡れで重い身体に鞭打《むちう》って立つ。ちょうど斜《なな》め脇から彼等の表情が覗けた。ヨザックは、抑えた怒《いか》りとは裏腹に笑っていた。いつか見た獣《けもの》の笑《え》みだ。
「よりによってあんたにこの言葉を向けるとは思わなかったぜ」
 賢《かしこ》い獣の笑みだった。
「違《ちが》う……違うんだ。おれの勘《かん》違いだと思う」
 物騒《ぶっそう》なものを収めてほしくて、やっぱり濡れたままのお庭番の袖《そで》を掴む。白い布地に船床《ふなどこ》の塗料《とりょう》がこびり付いていた。
「誤解だ、ヨザック。押されたんじゃない。うっかり足を滑《すべ》らせたんだよ」
 波が酷《ひど》くて甲板は濡れていた、おれはデッキの端《はし》まで行き、覗き込んだ渦の色に気を取られていた。事故が起こっても不思議ではない。
「おれを殺そうとするわけないじゃないか、コンラッドが。なあ?」
 頷《うなず》いてくれ。本当でも嘘《うそ》でも構わない、頷いてくれ。
 だがウェラー卿は笑みのひとつも浮かべずに、微《かす》かに首を振《ふ》り否定した。
「あなたは……そんな愚《おろ》かな方ではないでしょう」
 脳へと続く全《すべ》ての血管が一斉《いっせい》に膨《ふく》れあがった気がした。顔が熱くなり、目の前が真っ赤になる。こめかみの焼けるような痛みはすぐに治まりはしたが、爆発《ばくはつ》的に高まった鼓動《こどう》だけは静まらない。喉の奥に吐きたい言葉が突っかかった。
 金属音に似た耳鳴りがする。
「だったら……っ」
 声を絞《しぼ》り出す。できるだけ冷静でいなければと、おれはいつもそう思うのだが、うまく振る舞《ま》えた例《ためし》がない。致命的《ちめいてき》な欠点だし、今だってそうだ。小シマロンの船員や、船底から連れてきた神族の船乗りが見ているというのに、感情をコントロールできない。
「だったらあの時、助けなければよかったじゃないか!」
 貨物船に飛び移ろうとしていたおれを受け止めたりせずに、放っておけばよかった。
 それだけで済んだのに。
 仮面の兵士達の奇襲《きしゅう》を受けた時だって、あの教会でおれを助けたりしなければ、左腕《ひだりうで》を斬《き》られることもなかった。おれのためにいつも傷付くことはなかった。放っておけばよかったんだ。
 なのに何故《なぜ》、今になって!
「……畜生《ちくしょう》ッ」
 胸に触《ふ》れていた冷たい石を掴み、革紐《かわひも》を引きちぎって床に叩《たた》きつけた。痺《しび》れたままの右手首が、衝撃《しょうげき》で嫌《いや》な音をたてる。
 魔石《ませき》は失敗したフォークみたいに一度バウンドし、海水で濡れた甲板《かんぱん》に転がった。力任せに投げたのに、不思議と割れも砕《くだ》けもしなかった。
 陽《ひ》の光を受けて輝《かがや》いている。おれの胸にあったときよりも、心なしか白く見えた。
 誰《だれ》もが互《たが》いの次の言葉を待っている。事情を知らない船員達は傍観《ぼうかん》を決め込んでいたし、船底から連れてこられた神族の男は、いつ自分に災難が降りかかるのかとびくついている。彼等に囲まれておれたち三人は、それぞれ逃《に》げ出したいような気持ちでいながらも、口を開くのは誰かと牽制《けんせい》し合っていた。
 沈黙を破ったのは扉《とびら》の軋《きし》む音と、この惨状《さんじょう》に似つかわしくない笑顔のサラレギーだった。
 視界の端にいた神族の男が大きく震《ふる》え、壁に背を押し付けんばかりに後退《あとじさ》った。金色の瞳を恐怖《きょうふ》に見開き、汚《よご》れた額に汗《あせ》の雫《しずく》を浮《う》かべて怯《おび》えている。高貴な雰囲気《ふんいき》を纏《まと》う少年が、自分達を船底に閉じ込めた張本人だと知っているのだろう。
 だが王は、震える男になど眼《め》も向けない。
「ユーリ、揺《ゆ》れが少しだけ治まってきたようだね。それともこれは台風の目みたいな状態なのか……な」
 操舵《そうだ》室から顔を出したサラレギーは、転がった魔石とおれの顔を交互《こうご》に見比べる。
「どうしたの」
 長い裾《すそ》が汚れるのも気にせずに石の元へ行き、白い指で躊躇《ちゅうちょ》なく拾い上げる。
「落としたの?」
「落としたわけじゃない」
「じゃあどうして……綺麗《きれい》だね、とても椅麗だ。ねえユーリ、何かと交換《こうかん》しない?」
 若い王は無邪気《むじゃき》な顔で言った。花びらのような唇には、子供同然の欲求が浮かんでいる。欲しいならやるよ、そう吐《は》き捨てたいのを堪《こら》える。
「何かわたしの持っている装飾《そうしょく》品で……この美しい石に見合う物はあるかな」
 遠足に持っていく菓子《かし》を選ぶみたいに、サラは胸元《むなもと》や懐《ふところ》を撫《な》でて探す。ウェラー卿が現在の雇《やと》い主を渋《しぶ》い顔で諫《いさ》めた。
「渡すべきではありません」
「どうして? 友達の証《あかし》だよ」
 サラレギーは首を傾《かし》げる。こんなひどい事態でも美しい髪《かみ》が、頬《ほお》を掠めて肩《かた》に流れた。白く細い指先で後《おく》れ毛を絡《から》め、耳に掛《か》ける様はとても優雅《ゆうが》だ。その、顔の前を横切った右手を見てから、花が咲《さ》くような笑顔になった。
「ああ、これがいい。これはね、小シマロンでしかとれない珍《めずら》しい石だよ。幼い頃《ころ》に別れたきりのわたしの母が、絆《きずな》が永遠であるようにとくれたもの」
 薬指にあった薄紅色《うすべにいろ》のリングを外し、おれに渡《わた》そうとする。赤というより淡《あわ》いピンクだ。
「貰《もら》えない、そんな大事なもの貰えないって」
「いいんだ、ユーリに持っていてほしいんだから」
「まあ素敵《すてき》! グリ江にも見せて貸して触《さわ》らせてーえ」
「いいよ」
 割って入った女喋《しゃべ》りの男が、顎《あご》の横で両手を組んで科《しな》を作る。価値の判《わか》る相手が嬉《うれ》しかったのか、サラレギーはヨザックの大きな掌《てのひら》に指輪を落とした。
「……本当に素敵。でも残念ながらグリ江には小さすぎるみたい」
 彼はほんの短い時間で、輪の内側と外側全部に触れた。妙な細工がないか確認したわけだ。改めて、彼はやっぱり優秀《ゆうしゅう》な軍人なのだろうと思う。
 サラレギーはそんな大人の事情には気付いていない。重い物など運んだこともない綺麗な指が、おれの右手にそっと触れた。桜貝みたいに磨《みが》かれた爪《つめ》が、華奢《きゃしゃ》な輪っかを摘《つま》んでいる。同じ色をしているのだと気がついた。内側に何か文字が刻まれているが、細かすぎて読みとれない。表面には絡み合う蔓薔薇《つるばら》と、いくつもの太陽が彫《ほ》られていた。
 彼はおれの胼胝《たこ》だらけの指を握り、桜色の指輪を填《は》めようとした。
「いてっ」
 薬指の突《つ》きだした関節に引っ掛かり、皮が擦《す》れて痛みが走る。おれの草野球仕様の手には、王様の指輪はサイズが合わないのだ。小シマロン王はくすりと可愛《かわい》らしく鼻を鳴らす。
「……小指でないと駄目《だめ》だね。わたしと違って勇敢《ゆうかん》そうな手だから」
「そんなことないよ」
 本当に勇敢な男だったら、海に落ちただけでこんなにビビったりしない。
「震えてる? ユーリ」
 突然《とつぜん》サラレギーはおれに抱《だ》きつく。容姿から想像するよりもずっと、彼はスキンシップを好《この》んでいるようだ。しかし口を開けば泣き言しか出なさそうな今は、そういう態度がありがたい。
「可哀想《かわいそう》に! 寒いんだね、早く部屋に入って温まったほうがいい」
 そうしたかった。寧《むし》ろ今すぐ寝《ね》てしまいたかった。温かい風呂《ふろ》に浸《つ》かって塩水を洗い流し、柔《やわら》らかいべッドに身を投げて眠《ねむ》ってしまいたかった。乾《かわ》いた髪がおれの鼻をくすぐる。自分でも判るほど疲《つか》れ切っていた。
 それでもおれは、早くも始まった筋肉痛に堪《た》えながら、サラレギーの華奢な身体《からだ》を離《はな》す。
「そうもいかないんだ。船底にいた神族の中から航行経験のある人を捜《さが》してきた。この難所を越《こ》えたことがある人だ」
「奴隷《どれい》を解放したの!?」
「違うよサラ、彼は奴隷じゃない。ベテラン船員だ。舵《かじ》を取るのを手伝ってくれる。おれはそれに立ち会わなきゃならない。責任が、あるからね」
 彼を仲間の元から引き離し、奴隷扱《あつか》いする連中の直中《ただなか》に連れてきたのはおれだ。責任は、おれにある。
「その件は私にも……」
「近づくなと言ったろう!」
 歩み寄ろうとしたウェラー卿《きょう》の喉元《のどもと》に、割烹着《かっぽうぎ》姿の忠実なお庭番が切っ先を突きつけた。
「やめろヨザック! 彼は……」
 何故かサラレギーが息を詰《つ》めて、次の言葉を待っている。腫《は》れものでもできたみたいに喉《のど》が痛んだ。
「その人は[#「その人は」に傍点]、小シマロン王の護衛だし、大シマロンの使者だ。手を出すな、この程度のことで国家間の騒《さわ》ぎを起こしたくない」
 おれのお庭番は浅く頷《うなず》き、あっさりと剣を引いた。それから身体をこちらに向け、次はどうしたいんですかと問いかけてくる。
「小康状態に入ったとはいえ、まだ危険地帯を抜《ぬ》けたわけじゃない。船室でじっと我慢《がまん》……できないんでしょうねェ」
 呆《あき》れたように両肩を竦《すく》める。
「判った、わかりましたよ。服と毛布を持ってきてもらって、詰めましょ、操舵室に。お船の運転をじっくりと見まショ」
「わたしは船室にいるよ」
 肌寒《はだざむ》くなったのか両腕を擦《こす》り、ぶるりと身震《みぶる》いしながらサラが言った。
「もう塩水に濡《ぬ》れるのはたくさん。部屋で、打ち身を作らないように枕《まくら》を抱《かか》えている。温かい飲み物を運ばせよう、ユーリ。あまり無理をしないで」
 ヨザックは、如何《いか》にも好都合だという眼をサラレギーに向けている。それを理由にウェラー卿を追い払《はら》えるからだ。世話役は、それぞれ受け持つお子様の元へ。
 体重を支えた右手首が、鈍《にぶ》く痛んだ。筋でも違えたのだろうか、外端《そとはし》の筋肉を走る神経が、小指の先までずっと痺れている。
「手首が痛い。ヴォルフラムかギーゼラがいてくれたらなあ」
「ご自分でどうにかすることはできないんですか。坊《ぼっ》ちゃんはほら、魔力が強いんだし」
「人間の土地で魔力を使うのは危険なんだってさ。ましてやここは神族の国の近くだろ? 無茶なことはするなって、村田とヴォルフに嫌《いや》というほど言われてるんだ」
「へえ、結構不便なもんですねぇ」
 親指と人差し指を手首に回して、痛み具合を計るために数回擦る。少々無理をして前後左右に動かしてみると、加減を間違えて一瞬《いっしゅん》、強い衝撃《しょうげき》が走った。激痛にじわりと涙《なみだ》が浮かぶ。誰《だれ》にも文句の言いようはない。
 それでも、浅い角度なら動かせるということは捻挫《ねんざ》まではいっていない証拠《しょうこ》だ。運がいい、この程度の痛みなら、湿布《しっぷ》とテーピングでどうにかなるだろう。
「泣かないでください」
「おれが!? 泣いてねーよこの程度で!」
「だったらいいんですけど。でもまあそれ、半分くらいオレのせいかぁ。じゃあ一応舐《な》めときますー?」
「よせよ、動物じゃないんだから。舐めても治りゃしねーよ」
 任務で女装中のお庭番が、赤い舌を見せている様子を想像して、おれは苦笑《くしょう》した。ヨザックは自分の背中で操舵室のドアをピタリと閉める。中は少しだけ暖かい。
「痛み止めなんてありますかね、この船に」
「あのね、おれはスポーツマンですよ野球小僧《こぞう》ですよ? 些細《ささい》な怪我《けが》なんて日課のうちだって。元々頑丈《がんじょう》にできてるんだ、そっとしときゃ治るさ。さ、聞かせてもらおうか神族の人」
湿《しめ》った床《ゆか》に直接海図を広げて、舵取り達と覗《のぞ》き込んだ。
「ジェスチャーで頼《たの》むよ!」
多分、この痛みにはどんな薬も効かないだろう。自分自身が一番よく知っている。
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