今日からマ王13-3

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 湿《しめ》った石段を大股《おおまた》に降りてくる靴音《くつおと》がする。
 この場所まで兵士が来るのは何日ぶりだろう。光もろくに差し込まない地下牢《ろう》の苔生《こけむ》した石床には、縁《ふち》の欠けた椀《わん》が一つだけ置かれていた。半分ほど残された中の水は、随分《ずいぶん》前から嫌な臭《にお》いを放っている。
 階段の終わり、城の最下層にある格子《こうし》戸が軋《きし》む音に続き、二人分の足音が徐々《じょじょ》に近付いてきた。一つは聞き慣れた軍靴《ぐんか》のものだが、もう一方は牢番の歩き方ではなかった。踵《かかと》の材質も本人の体格も違《ちが》うのだろう。囚人《しゅうじん》の首を斬《き》りにきた処刑《しょけい》人か、あるいは新たに捕《つか》まった同胞《どうほう》かもしれない。
 途切れがちな意識でそこまで考えたが、男はじめついた石床に横たわり、扉《とびら》に背中を向けたまま動けなかった。度重《たびかさ》なる尋問《じんもん》と暴行で衰弱《すいじゃく》しきっていたのだ。たとえ四肢を拘束《こうそく》されていなくとも、とても逃げられはしなかったろう。
 錆《さ》びた蝶番《ちょうつがい》が耳障《みみざわ》りな金属音をたて、地下牢の扉が開かれた。松明《たいまつ》のものらしき揺《ゆ》らめく光が、濡《ぬ》れて変色した床を照らす。
「ああ、こいつだ」
 どこかで耳にした声だと思ったら、何の手加減もなく背中を蹴《け》られた。呻《うめ》いて俯《うつぶ》せになると、今度は爪先《つまさき》で脇腹《わきばら》を蹴られ、転がった身体《からだ》が正面を向く。
「やれやれ」
 男は左手に明々と燃える松明を掲げ、可笑しそうに呟《つぶや》いた。
「やっぱり死んでねえな」
「……ア……」
 囚人は唇《くちびる》を動かしかけてやめた。どうせ声になどなりやしないからだ。
 霞《かすみ》のかかった視界には、橙《だいだい》の炎《ほのお》に、金の髪《かみ》が輝いている。
「おい、知らん顔してお寝んねかよ? こんな最下層の地下牢まで来るために、オレがどれだけ罪を重ねなきゃならなかったと思ってるんだ?」
 番兵を従えた長身の男、アーダルベルト・フォングランツは、場にそぐわない楽しげな声で続けた。
「無銭飲食だろ、城内の器物損壊《そんかい》だろ、焼き菓子《かし》の無許可販売《はんばい》・飲み物つきだろ?」
 そんな軽犯罪者と、国家騒乱《そうらん》罪の首謀者《しゅぼうしゃ》を、同じ房《ぼう》に入れるものか。
「それにしても酷《ひど》い有様だ。どこの国でも囚人てのはこんなもんかね」
「この男はサラレギー様のお命を狙《ねら》った大罪人だ、他《ほか》とは違う」
 番兵が、憤慨《ふんがい》したように答えた。どこにも嘘《うそ》はなく、心からそう信じている声だ。
「だがいくら尋問しても仲間の名を吐《は》かない」
「紳士的な尋問か? 興味あるな。だがこいつは、ついこの間まで軍の上層部だった人間だろう。転落というのはあっという間だな」
 アーダルベルトは膝を折ってしゃがみ込み、話を聞こうともしない男の顎《あご》を掴んだ。無精髭《ぶしょうひげ》に覆《おお》われている。以前は綺麗《きれい》に刈《か》り上げられていたものだが。本来なら小シマロン軍人としてあるまじきことだ。
「確かにこいつだ、貰ってくぜ」
「そんな、話が違……」
 慌てて取りすがる番兵は、腕《うで》の一振《ひとふ》りで鉄格子に叩《たた》きつけられた。ついでという風にもう一度囚人の腹を蹴飛ばしてから、アーダルベルトは芋虫《いもむし》状に縮こまる身体を担《かつ》ぎ上げながら言った。男にとっては聞き慣れた口調だ。
「そうだ、お前の喜びそうな話がひとつある。聞きたいか?」
「……どう……」
 どうでもいいと答えたつもりだった。だが相手はやめない。やめないところも以前のままだ。
「お前等を出し抜いた王様の乗った船だが」
 ぎくりと、我知らぬうちに背筋が跳《は》ねた。自分で招いた痛みに呻く。
「ありゃあ駄目《だめ》だ。難破するな」
「何故《なぜ》!?」
「おや、嬉《うれ》しかねえのかよ」
 思ったよりも深刻な声がでてしまったらしい。
 そういえば、ずっと昔にもこんなことがあった。
 それがどんな状況《じょうきょう》だったかを思い出す前に、ナイジェル・ワイズ・マキシーンは意識を手放してしまっていた。
 
 そんな胡散臭《うさんくさ》い話を信じる阿呆《あほう》がいるか。
 携帯電話を肩《かた》に載《の》せて、渋谷勝利はわざとらしい大声をだした。弟の友人が告げた衝撃《しょうげき》の事実を、脳味噌《のうみそ》の中で反芻《はんすう》しながら。聞こえているのは単なる時報だ。
「もしもしサップ? 俺俺、俺だけどさー」
 案の定、村田健が喰《く》いついてくる。冗談《じょうだん》を冷笑《れいしょう》で受け流す余裕《よゆう》がないらしい。
「僕が頼んだのはそっちのボブじゃないよ。大体ね、ロボット警官相手にオレオレ詐欺《さぎ》ふっかけてどうしようってのさ」
「……お前、そりやロボ・コップだろ」
「ロボでもボロでもミルコでもフランシスでもどうでもいいから、早いとこボブに繋《つな》ぎをつけてくれ。そっちだって弟の安否は気になるだろう、友人のお兄さん。頼むよ、同じ眼鏡《めがね》組仲間じゃないか」
「萌《も》えねーな。眼鏡っ娘倶楽部《こくらぶ》とかなら萌えるんだけどな」
 小煩《こうるさ》いガキに辟易《へきえき》しながらも、アドレス登録の「ボ」の欄《らん》を目で追う。凡田鉄郎(友人)、ボストン屋(居酒屋)、ボーリング大将(ボーリング場)、ボリス・アカデミー(留学生)。
「ボブ、ボブ……っと。いいかムラケン、通じなかったらそれでやめっからな。国内にいなけりゃ俺のケ一夕イは繋がらないし、あっちのだってヨーロッパは非対応なんだから」
「それでいいよ。構わないからとにかくかけてくれ」
「まったく。子供はおとなしくメールでもしてやがれって……」
 勝利の文句はいきなり途切《とぎ》れた呼出音で終わった。何故だか凄《すご》い雑音の向こうから、陽気なアメリカ人の挨拶《あいさつ》が聞こえる。運が悪い、捜《さが》していた相手に繋がってしまったのだ。
『やあシブーヤ! 久し振《ぶ》りだな。どうしたんだねこんな時刻に』
「ボブ!? あんたいったい何処《どこ》に居るんだ!」
 ヒューだの、ぱぴぱぴーだのと喧《やかま》しい。機種が古いのか、周囲の音をひろいまくりだ。リズミカルな太鼓《たいこ》も聞こえてくる。
『その声はジュニア、ジュニアだな? おーぅひーほーぉ! 私は今、サンバの真っ最中なのだよ! 歌おうサンバ、踊《おど》ろうサンバ』
 ブラジル? 勝利は携帯電話を持ち直した。
「ジュニアって呼ぶな、あんたの息子じゃないんだから。それより今リオか、リオデジャネイロにいるのか?」
『いいやショーリ、現在地は……商店街だ。昨日から商工会の催《もよお》しで……商店街ご利用のカーニバルに参加しているのだよ。はひゃっほーぅ! サンバのリズムで皆《みな》、安産』
「駄酒落《だじゃれ》かよ!? しかも日本語で。あんたの行動範囲《はんい》は一体どうなってんだ」
 渋谷家長男は電話口で舌打ちした。こんなふざけたグラサン野郎《やろう》に牛耳《ぎゅうじ》られていて、世界経済は大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか。しかもこのおっさんが全世界の魔王《まおう》だというのだから、地球の未来も高が知れている。
「ボブ、ボブ出た? ボブ本物出た?」
 隣《となり》では村田がレンズを輝《かがや》かせて待っている。松茸《まつたけ》の初物でも見つけたみたいな反応だ。
「あー、実は今ここに村田っていうガキが来てるんだけどー。しかもどうも熱烈《ねつれつ》にあんたを求めてるみたいなんだけどね」
『ムラタ? 誰《だれ》だ……』
 サンバカーニバル中のアメリカ人が記憶《きおく》を手繰《たぐ》るより先に、村田は勝利から携帯を奪《うば》ってしまった。通話口に向かって叫《さけ》びながら、見えない男に手を振った。
「ボブ? アンリだ。正確に言えば違《ちが》うけど、こう名乗ったほうが判《わか》りやすいだろう」
 また知らない名前が飛びだして、勝利は眉《まゆ》を顰《ひそ》める。
「そう、アンリ・レジャンだ。ていうか今は村田健。ムラケンとしては初めまして」
 やっぱり初対面だったのか。自己紹介が仏語で、その先はなんと、流暢《りゅうちょう》な英語だ。偏差値の高い友人とは聞いていたが、英語までぺらぺらだとは思わなかった。
「いきなりで悪いんだけどねボブ。誰か、あちらへ行く手助けになる人を貸して欲しいんだ。人がなければ物でも場所でもいい。ウェラー卿《きょう》が往《い》き来した時の場所とか、地球に喚《よ》ぶ時に一役買った実力者とかいるだろう?」
 向こうの世界と地球を往き来した男の話なんぞしている。あっちと地球だぜ? あちらって何処だ、火星か金星かよ。亜《あ》空間通路でも抜《ぬ》けて異世界に行くのかよ。宇宙暦《れき》をカウントし始める前に、スタートレックの時代がきてしまったのか。弟が行方《ゆくえ》不明な理由を聞かされたとき、勝利はそう思って訊き返していた。
「はあ? ナニそれじゃ、ゆーちゃんは宇宙船にも小型カプセルにも乗らず、生身でワームホールを通り抜けたと」
「そういうこと。ワームホールじゃないし、最初は水洗トイレからだったけどね」
「ふざけんな、寝言《ねごと》は寝て言え」
「寝言じゃないんだよ、友達のお兄さん」
 十六年間、自分の元にいた弟が、実は異世界の大国の王様だなんて。しかも没落《ぼつらく》した王家の末裔《まつえい》とかいうロマンチックな話ではなく、強大な力を持つ種族の魔王だなんて、到底《とうてい》信じられる話ではない。そんな夢物語を意外とあっさり納得《なっとく》してしまうのは、子供の頃《ころ》に父親が地球産魔族であると報《しら》された上、地球の当代魔王に後継《こうけい》を迫《せま》られている人間くらいだ。
 つまり、俺。
 勝利はパソコンデスクの上にあったラベルシールを右手で軽く握《にぎ》り潰《つぶ》した。ヘビースモーカーだった曾祖父《そうそふ》なら、一服して気分を落ち着かせているところだ。
 煙草《たばこ》は吸わない。家族にスポーツマンがいるから。副流煙が弟の成長の妨《さまた》げになったら、それこそ自分で自分を責めてしまいそうだし。
「だからボブ、いつもは二、三分で戻《もど》ってきてたんだ。あっちのピー時間では何日も過ぎてたけどね。あのピー忌々《いまいま》しいスタツアしたのと同じ地点に、ピー紐《ひも》パン履《は》いてぽっかり浮《う》かんでたんだ。それが今回ばかりは十分経《た》っても二十分経っても……」
 他人の携帯電話を握り締《し》めて、村田は珍《めずら》しく声を荒《あら》げている。
 そこらの高校生が、アメリカ人相手に、流暢な英語で話しているのは凄い。しかし黙《だま》って聞いていると、どうにも汚《きたな》い言葉が多い。言ってはいけない四文字や排泄《はいせつ》物やらが頻繁《ひんぱん》に飛びだす。日本の高校生がどこでそんな俗語《ぞくご》を覚えてきたのだろうか。放送禁止音《ピー》の連発で聞き苦しい。
「おい、もっと美しい英語を使え。糞《くそ》とか腐《くさ》れとか言うんじゃない」
 年長者の警告にも、弟の同級生はちらりと目を遣《や》っただけだ。
「何でもない。蚊帳《かや》の外にされてジュニアがちょっと苛《いら》ついているだけだよ。それより問題は僕がどうやって向こうに行くかだ。前回は渋谷の……有利だ、リトルのほう。彼の存在を要領よく手繰り寄せたら、案外簡単に移動できた。楽なものだったよ、彼は特別だし、魔力《まりょく》が強いから。彼自身が気付いていないだけで、有利はもう自分の力で往き来しているんだ。あらゆる条件とタイミングが合えば、自力でどうにかできるんだ。体力とか気力の充実《じゅうじつ》は必要だけどね。けど今回は深刻だ。どんなに彼の意識や魂《たましい》を掴《つか》もうとしても届かないんだ。僕の探知できる範囲内には、渋谷と思《おぼ》しき魂が存在しない。こんなのは初めてだ。人間の土地でもどうにか感知はできたのに。どんな強い障壁《しょうへき》に阻《はば》まれているのか、それとも本当に魔族の力の及《およ》ばない場所へ、唆《そそのか》されて行ってしまったのか」
「おい」
 勝利の呼び掛《か》けなど聞きもせず、村田は電話に向かって否定の意味で首を振った。日本人だなと痛感する瞬間《しゅんかん》だ。
「向こうの魔族に属する物? どうだろう……ああ一つだけ心当たりがある。鷲《わし》か鷹《たか》を象《かたど》った金の細工物だ。一番最初に有利が身に着けてた」
「おーい」
 新作ゲームの予約特典のカレンダーが、メモ代わりに使われている。まあいいだろう、些細《ささい》なことだ。
「……うんメキシコ……その近辺だろうね。ロドリゲスの勤務地は把握《はあく》してるかい?」
 我慢《がまん》ならずに客から携帯電話を引ったくり、勝利は教科書どおりの受験英語で捲《まく》し立てた。
「ボーブ、ロバート! 俺が行く方法も教えてくださいプリーズ。ヒーイズ俺のブラザーですよ。どう考えても俺が行かないのはおかしいだろが。有利は俺の弟だ。ここ数カ月連《つる》んでただけの俄《にわか》親友に、大事な兄弟を任せるわけにいかねーだろっ!?」
 返事は質問に見合った堅苦《かたくる》しい言葉だ。
『残念だがショーリ、きみには無理だ』
 何故《なぜ》と問い返す声が震《ふる》える。濃紺のプラスチックを握る手にじっとりと汗《あせ》が滲《にじ》んでいる。
『きみは純粋《じゅんすい》にこちらの存在だ。血も肉も、繰《く》り返し生きる魂も、本来地球にある要素だけでできている。太古の昔に分かち合った細胞《さいぼう》も、何世代、何十世代と生きる内に、限りなく純血に近くなる。先方に属する要素を持たない者は、多少の力では移動できない。強い、大きな力が必要だ』
「多少って……じゃあどれくらいの衝撃《しょうげき》があれば異世界とやらに行けるんだ。もの凄《すげ》え高い所から落ちればいいのか? 都庁とか、ランドマークタワーから。それとも爆弾《ばくだん》か。核《かく》か? 核兵器の爆発で吹《ふ》っ飛《と》ばされれば、有利のいる馬鹿《ばか》げた世界に行けるのか」
 向こうで長めの沈黙《ちんもく》があった。背後の騒音《そうおん》はとっくに遠ざかり、電波の途切れかける不快な音が入るばかりだ。
「ロバート」
『……残念だが』
 終了ボタンも押さないまま、携帯を床《ゆか》に叩《たた》きつけた。
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