今日からマ王13-2

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 野球小僧《こぞう》に似合うべきなのは、泥《どろ》にまみれたユニフォームとジャージだ。
 だから丈《たけ》の長いエプロンを前で結び、バンダナで頭部を覆《おお》った無国籍《むこくせき》風料理人の出《い》で立ちが似合うと褒《ほ》められても、正直言って嬉《うれ》しくはない。
「ユーリにはそれがとても似合うから、厨房《ちゅうぼう》係に言いつけて持ってこさせたんだ」
 たとえ相手が花のように儚《はかな》げな、絶世の美少年であっても。
「あなたにも着替《きが》えが必要でしょう?」
「……ありがとう」
 僅《わず》かに小首を傾《かし》げ、花が綻《ほころ》ぶように笑うサラレギーから、おれはきちんと畳《たた》まれた布を受け取った。広げてみると案の定、パリッと糊《のり》の利《き》いた厨房服だ。
「わー、新品だ!」
 いかんいかん、棒読みになりかかっている。好意はありがたく受けなくては。
「けどもっと汚《きたな》い服でよかったんだよサラ、どうせすぐに汚《よご》しちゃうんだし。こんな真っ白だと動き回るのに気にしちゃいそうだな。あ、それともいっそ本当に料理人見習いとして、食堂でジャガイモの皮でも剥けばいいかも」
「何を言っているの、ユーリ!」
 サラレギーは白くて細い指で、おれの右手をぎゅっと握《にぎ》った。リアクションとスキンシップが意外と激しい。儚《はかな》げな外見に反して、結構熱い部分も持ち合わせている子だ。
「あなたはわたしの大切な客人なのだから、船員に混じって外で働くことなんてないんだよ。海の上は日差しも潮風もひどい。あなたに風邪《かぜ》でもひかせたら、眞魔国《しんまこく》の人々に申し訳が立たない」
「そうは言ってもおれたち一文無しだから、交通費も手土産《てみやげ》も渡《わた》してないし。どうもタダ乗りしてるみたいで心苦しいんだよね」
「タダ乗りだなんて、そんなこと思う者はこの船に一人としていないよ。あなたとご友人はわたしの命を救ってくれた。いわば小シマロンの恩人なのに」
 ご友人とはヴォルフラムのことだ。借りていたマントのせいでサラレギーと間違われたヴォルフラムは、反乱を起こしたマキシーンの手先に胸を射られた。毒女《どくおんな》の守護のおかげで事無きを得たが、あの時は本当に頭の中が真っ白になった。
 その結果として、日本からこっちの世界へと緊急《きんきゅう》出張していたおれは、長いこと敵国想定されていた小シマロンの船に、わけあって乗り合わせることとなった。それも弱冠《じゃっかん》十七歳にして大国の専制君主である、小シマロン王サラレギー陛下と、ほぼ二人きりという状態で乗り合わせることとなったのだ。
 めざすは詳《くわ》しい地図さえない海の果て、二千年余りも鎖国《さこく》を続けているという聖砂国《せいさこく》。謎《なぞ》に包まれた神族が住む土地へと、国交再開の会談を求めて旅立った。
 とはいえ、王の率いる使節団にしては、おれたちの乗る船は些《いささ》か粗末《そまつ》だった。
 三日前の時化《しけ》ではびくともしなかったから、見た目よりも頑丈《がんじょう》なのは確かだ。だが少々、いやかなり旧式で、ところどころ塗装《とそう》も剥《は》げかかっている。舳先《へさき》に美しい女神像もなければ、帆柱《ほばしら》の根本に動物を模した彫刻《ちょうこく》もない。それもそのはずだ。元々この船は王の旗艦《きかん》ではなく、聖砂国への献上品《けんじょうひん》を積んだ貨物船だったのだから。
 予期せぬアクシデントのせいとはいえ、仮にも王の乗る船を、一隻《せき》でクルージングさせるわけにはいかない。そこで外洋にいた小シマロンの中規模艦を呼び寄せて、途中《とちゅう》から護衛につけた。そのため自衛の装備は必要ない。また、軍艦や客船でなくとも船員達の居住空間は必要だから、雨露《あめつゆ》をしのぐ部屋もきちんとある。王を前にして恐縮《きょうしゅく》しきった船長は、王と客人のために一番広く綺麗《きれい》な居室を提供してくれた。もちろんそれでもサラレギーは、呆《あき》れたような溜息《ためいき》をついた。豪華《ごうか》な寝室《しんしつ》でしか休んだことがないのだろう。おれんちのリビングよりずっと広いんだけどね。
 しかしいくら貨物船にはあらざる好待遇《たいぐう》とはいえ、知り合ったばかりの相手と二十四時間一緒にいるのは辛《つら》い。しかもサラレギーは若くして大国を治める王様で、おれとは違《ちが》って由緒《ゆいしょ》正しいロイヤルファミリーの後継者《こうけいしゃ》だ。昼夜を問わず一つの部屋に閉じ込められていては、気詰《きづ》まりを通り越《こ》して息苦しくなってくる。
 パブリックスクールにでも通っていれば話も合ったのだろうが、生憎《あいにく》こっちは庶民《しょみん》の生まれ、小中高とそこらへんの公立学校だ。貴族のご学友もいなければ馬術の嗜《たしな》みもない。修学旅行はいつも京都、枕《まくら》投げは教師が怒鳴《どな》り込むまで続く。
 おまけにサラレギーときたら、夜はお約束どおりネグリジェだった。美少年の寝間着《ねまき》はネグリジェに限るという慣習が、こちらの世界にはあるんだろうか。パンツとシャツで寝ちゃう面倒《めんどう》くさがりのおれにとって、スケスケネグリジェは目の毒だ。夜中のトイレに行く時に、寝惚《ねぼ》けて女子部屋に入っちゃったのかと慌《あわ》ててしまった。
 元々サラレギー軍港で身の回りの物を積み込んだのは、絵に描いたような豪華客船だったのだが、出港直後に悪夢のクーデター騒《さわ》ぎに遭《あ》い、命からがら併走《へいそう》中だった貨物船に乗り移った。もう十日以上前になるが、あの時のことを思い出すと今でも胸が締《し》めつけられ、脳の奥の一点が熱くなる。
 砂に棒を突《つ》き刺《さ》すような表現しがたい音と共に、握り合っていた手から力が抜《ぬ》け、隣《となり》にあった身体《からだ》がゆらりと傾ぐ。
 炎《ほのお》に巻かれた甲板《かんぱん》に背中から倒《たお》れるヴォルフラムの胸には、たった一本の鉄の矢が突き立っていた。
 中央を掴《つか》むと、ひやりと冷たい。
「……リ、ユーリ!」
「ああ」
 サラレギーの白く細い指が、おれの肩《かた》を揺《ゆ》さぶっていた。心配そうに覗《のぞ》き込んでくる。薄《うす》い色つきレンズ越しなので、瞳《ひとみ》の色は判《わか》らない。このサングラスは、光や熱に弱いという彼なりの自衛策だ。眠っている時以外は、肌身離さずかけている。
「どうしたの、気分でも悪い? 船酔《ふなよ》いはしないと言っていたのに」
「平気平気、何でもないよ。ちょっと息苦しかっただけで」
「息が? 大変、戸を開けようか」
「ああ、いいのいいの! おれが外に出るから。やっぱこう大人しく部屋にこもってるっつーのが、どうにも落ち着かないんだよなッ」
 不満げなルームメイトを振《ふ》り切って部屋を出る。背中でドアを閉めると、自然と長い息が漏《も》れた。肩から力が抜ける。サラレギーと二人きりでいると、何故《なぜ》か緊張《きんちょう》を強《し》いられるのだ。広い甲板で海風にあたりながら、スクワットの自己最高記録でも更新《こうしん》しょう。
「どうかしましたか」
「おうわっ」
すぐ脇《わき》からいい具合に掠《かす》れた声がかけられて、恥ずかしい悲鳴をあげてしまう。
「きゅきゅきゅ急に話しかけんなよ! び、びっくりした」
「レディーはバタバタ足音を立てないものなのよん。グリ江《え》、お淑《しと》やかだから」
 眞魔国のお庭番は、惚《ほ》れ惚れするような上腕《じょうわん》二頭筋をくねらせた。
 あるときは他国に潜入《せんにゅう》する敏腕《びんわん》スパイ、またあるときは最少人数外交使節団の頼《たよ》りになるボディガード、またまたあるときは派手《はで》なドレスでパーティーの花……それがグリエ・ヨザックだ。恐《おそ》ろしいことに大概《たいがい》誰《だれ》かに誘《さそ》われていて、壁《かべ》の花でいることは滅多《めった》にない。人の好みとは実に様々だ。
「なんでそんな廊下《ろうか》の角から突然《とつぜん》出てくんの!?」
「だってこの船、床下《ゆかした》も天井《てんじょう》裏もないんですもん。お庭番は暗くてじめじめした場所が得意なのにィー」
「しかもヨザック……どうして食堂のおばちゃんの割烹着《かっぽうぎ》を……」
 彼が凄《すご》いのは完壁に着こなしている点だ。既《すで》に何の違和感もない。
「決まってるじゃないですか。坊《ぼっ》ちゃんとお揃《そろ》いにしたかったんですよ。もちろんお残しは許しまへんでー」
 額に梅干しでも貼《は》り付けていそうだ。ちょっと服装倒錯《とうさく》気味だが、武器を握らせれば最強の武人だとおれも知ってはいる。今握っているのはフライパンとお玉だけど。
「ところでどうしました、なっがい溜息ついちゃって。坊ちゃんらしくない」
「まるで普段《ふだん》は悩《なや》みがないみたいじゃないか。えーえー、どうせおれは脳味噌《のうみそ》筋肉族だよ」
「そんな失礼なこと言ってませんってぇ。あ、でもグリ江、筋肉は好きよ。いい暇《ひま》つぶしにもなるしね」
「まさかあんたも、暇な時には胸をピクピクさせてるんじゃ……」
 左右交互《こうご》に。
 おニューの厨房服と割烹着姿のおさんどん二人組は、寒風の吹《ふ》き渡るデッキに出た。日は高く、時間的には昼過ぎなのだが、この海域は一年を通して気温が低いらしい。海は青灰《あおはい》色で、波もかなり高い。
「寒流ですからね。眞魔国よりずっと北だ。寒かないですか?」
「寒い? ああ、そうだよな」
言われて初めて全身の筋肉が強《こわ》ばっているのに気が付いた。空気が冷たいせいで自然と身体を縮めていたのだ。このまま激しい運動をすれば、肉離《にくばな》れを起こしかねない。
「よーし、ちょっと暖まるかー。まずは軽くストレッチとジョギングから」
 ヨザックは眉《まゆ》をハの字形に下げる。無理もない、この航海中、暇さえあればランニングに付き合わされていたのだ。
「また走るんですかー! まったく、こんなに走らされたのは兵学校のシゴキ以来だね」
「別に付いてこなくてもいいって」
「いーえ是非ともお供させてもらいます。本当なら寝室もご一緒させてもらいたいくらいだ」
「……寝室は、マジやめておいたほうがいいと思うぞ」
 視線を空に向け口籠《くちご》もるおれに、ヨザックは「どうして」と訊《き》き返してきた。あまり広めることでもないけれど。
「サラがスケスケ助三郎《すけさぶろう》だからさー」
 妙《みょう》なところで自信喪失《そうしつ》されても困るし、対抗意識を燃やしてセクシー割烹着になられても困る。
 軽いストレッチの後にデッキを走り始め、二度目に船尾《せんび》の柱にタッチした時だった。足元のロープに躓《つまず》いて、おれは大きくバランスを崩《くず》した。
「おっと」
 タイミングよくヨザックが腰《こし》を抱《かか》えてくれる。助かった、雨晒《あまざら》しの荷に突っ込まずに済んだ。頭を振って上半身を起こそうとすると、特に覗く気もなかったのだが、目線が偶然《ぐうぜん》、木箱の陰《かげ》に向いた。
「あれ」
 箱に縋《すが》り付くようにして、若い女性がしゃがみ込んでいた。
 塗装《とそう》の剥《は》げた木にピタリと両手を這《は》わせ、細い身体を小さくして息を潜《ひそ》めている。おれと目が合うと悲鳴を呑《の》み込み、膝《ひざ》を使って後退《あとじさ》った。睫毛《まつげ》も唇《くちびる》も震《ふる》えている。
「だ……」
 誰だと訊くよりも先に、相手が尻《しり》を浮《う》かせた。見開いた瞳が恐怖《きょうふ》に揺れる。翳《かげ》った日差しの下でも判るほどの金色だった。走りだそうと後ろを振り返った拍子《ひょうし》に、長い髪《かみ》がおれの顔の前を過《よ》ぎった。こちらも金だが、汚《よご》れて薄灰色になっている。
「ちょっと待っ、待てって! 何もしないって!」
「おっとと、坊ちゃん、あんまり無理な体勢とられると……ああでも追うまでもなかったみたいですよ。良かったね」
 ヨザックの言葉どおり女性はすぐに戻《もど》ってきた。走りだしたばかりの急な方向転換《てんかん》で、枝みたいな両脚《りょうあし》が左右にぶれる。不意に気付いた。彼女は裸足《はだし》だ。しかもこの寒空に、服らしい服も着ていない。弥生《やよい》時代の貫頭衣《かんとうい》みたいな布を被《かぶ》り、腰を紐《ひも》で縛《しば》っているだけだ。腕《うで》も首もひどく細く、意味不明な悲鳴をあげた声にも力がない。
 荷の陰に駆《か》け込んで縮こまり、腕を回して頭を庇《かば》った。丸めた背中が震えている。何をそんなに怯《おび》えているのだろう。
「あのさ」
 伸ばしたおれの手が触《ふ》れてもいないのに、びくりと両肩が跳《は》ねた。船倉に続く階段の方から、男達の怒声《どせい》が聞こえたからだ。会話は徐々《じょじょ》に近くなる。明らかに誰かを捜《さが》していた。女性はますます身を縮め、耳を押さえて動かなくなる。間違いない、追われているのは彼女だ。
「物陰ったって、このままじゃ時間の問題だな……せめて箱の中なら誤魔化《ごまか》せるかもしれないけど。畜生《ちくしょう》、どこが蓋《ふた》だよこれッ!?」
 入口を探して荷物を撫《な》で回すが、どの面も釘《くぎ》でがっちり打ち付けられていて外せそうにない。
見かねたお庭番が木の縁《ふち》に手を掛《か》け、力任せに引き剥がす。
「やれやれ。神族と関《かか》わるなってのは、親の代からの家訓なんですけどね。もっとも……うおりゃ! 親の顔どころか、美人だったのかどうかさえ思い出せやしないけど」
 側面丸ごとあっさり外《はず》れた。彼の上腕二頭筋は万能だ。
「助かったよヨザック、あんたのお母さんならきっと、ゴージャスなドレスの似合う美人だったと思うな」
「今のは親父《おやじ》の話です」
 痩《や》せた身体《からだ》を急いで箱の中に押し込んで、素知らぬ顔で板を元どおりに立てる。倒れかかるのをどうにか背中で支えた。先程《さきほど》から大声をあげていた船員達が、こっちに気付いて駆け寄ってきた。袖《そで》をわざと引きちぎったみたいなノースリーブで、腕の太さを見せつけている。海の荒《あら》くれ男スタイルなのだろう。でも髪型は、特有の刈《か》り上げポニーテール。
「誠に失礼ですが、お客人方」
「な、なんであるかな?」
 しまった、またしても時代劇口調だ。威厳《いげん》を保とうと意識すると、どうしてもこんな喋《しゃべ》り方になってしまう。一国一城の主《あるじ》として相応《ふさわ》しい態度ってものが身についていないからだ。
「若い女を見かけませんでしたか」
「見てない見てない。み、密航者なんて誰も見てないから!」
 おれの返事に船員二人は首を傾《かし》げた。薄茶《うすちゃ》のポニーテールが可愛《かわい》らしく揺れる。何か失言があっただろうか。
「この船に密航者などおりません」
「そう、なのか? だったらまあ、何よりだ。困ったことに密航は最近の若者文化だからさ、日本じゃあ密航をしてから結構と言えって諺《ことわぎ》もあるくらいだしね」
 ねえよ。
「ですから我々が探しているのは密航者ではなく、聖砂国に連れ……」
「聞こえなかったかー? うちの坊ちゃんはご存じないそうだ」
 おれの言い訳に呆《あき》れたヨザックが、実力行使とばかりに指をポキポキ鳴らした。
「で? どっちが先に人喰《く》い魚人姫《ひめ》の昼食になりたい?」
船員達の顔色が悪くなる。知らなかった、魚人姫は肉食だったのか。
「ちゅ、ちゅちゅちゅちゅ昼食などとわッ」
「そこじゃない。操舵《そうだ》室の方に逃《に》げるのを見た」
マストよりも舳先《へさき》側の船室から、見慣れた歩き方の人影《ひとかげ》が出てきた。この船で一人だけ誰とも異なる服を着ている。水色を基調とした小シマロンの軍服とは違《ちが》い、砂を思わせる黄色と白の組み合わせだ。
 大シマロンの特使として同行することになった、ウェラー卿《きょう》コンラートだった。
「見当違いの場所を捜しているようだな」
 隣国《りんごく》、それも自国よりも上位に位置する王家の使者だ。ここで従わなければ相手の面子《メンツ》を潰《つぶ》すと悟《さと》ったのか、船員達は目線を下げて走り去った。木箱を背にしたおれたちの前に立って、ウェラー卿は低く抑《おさ》えた声で言った。
「あまり感心しませんね」
 密航者隠匿《いんとく》を咎《とが》められているのかと思ったが、どうもその件ではないらしい。眺《なが》めた後に、自分の羽織っていた茶色の外套《がいとう》を差し出す。
「風邪《かぜ》をひきますよ。そんな恰好《かっこう》で海風に曝《さら》されていては」
 おれはゆっくりと首を横に振《ふ》った。
 彼の思惑《おもわく》が言葉にしなくても理解できたのは、もう何カ月も前の話だ。
「結構だ、余所《よそ》の国の軍服を借りる気はない」
「これは俺の私服です」
「遠慮《えんりょ》しておくよ」
 ウェラー卿がヨザックに視線を向ける。お庭番は面白《おもしろ》がるような軽い口調で、おれの全身をそんな眼《め》で見ないでーと言いつつ両手を挙げた。
「オレはなーんにもしてませんよ。入れ知恵《ぢえ》なんか、なーんにもね」
「本当だ、何の助言も受けていない。おれは寒くもないのに他人の服は借りないし、必要ならサラレギーから借りる、それだけだ」
「……では、なるべく早くそうしてください。体調を崩されてからでは遅《おそ》い」
「心配する相手を間違えてる」
 問い返す代わりに、少しだけ眼を眇《すが》めた。眉の横の傷が僅《わず》かに引きつる。
「サラは寝室《しんしつ》だ。張り付いていなくていいのか?」
「これは彼の船です。余程のことが起こらない限り、小シマロン王サラレギーは安全だ。そう、余程のことが起こらない限りは」
 感情を読ませない表情のまま、ウェラー卿は左腕を引っ込めた。あれは本物なんだろうか。ごく自然に動く関節を眺めながら、頭の隅《すみ》っこでぼんやりと考える。
 彼の左腕は、本物なのだろうか。それとも生身の肉体と変わらぬ機能を果たすほど、精巧《せいこう》に作られた義手だろうか。柔《やわ》らかく、人の肌《はだ》と同じだけ温かい。そんな義手が存在するのか。
 肘《ひじ》の辺りにフォンカーベルニコフ印が捺《お》されていたりして。
 アニシナ女史の知的な笑《え》みが浮かんだところで想像は途切《とぎ》れる。背中の木箱から微《かす》かな震動《しんどう》が伝わってきたからだ。大変だ、密航中の女性を閉じ込めたままだった。酸素が足りなくなりでもしたら一大事だ。急いで板を外してやる。
 箱から転がりでてきた女性は、新鮮《しんせん》な空気を思い切り吸ってから大きなくしゃみをした。一度や二度では済まない。匿《かくま》ったこちらが申し訳なくなるほど、いつまでも止まらなかった。
「ごめん、中身は胡椒《こしょう》だったのかな」
 ぐらつく膝を両手で押さえて立ち上がろうとしている。改めて見直すと潜伏《せんぷく》中の密航者は、女性と呼ぶには少々若かった。おれと同じか、一つ二つ年下だろう。怯えたように向けてくる金色の瞳《ひとみ》ばかりが大きい。縄文《じょうもん》時代か弥生時代風の服の下から、枯《か》れ枝みたいに細い四肢《しし》が伸びている。痩せているのに胸だけがやけに強調されていて、目のやり場に困って宙を見た。
「胸が、デカい、です、ね、ってうわぁ、すすスミマセン」
 おれとしたことが、とんでもないセクハラ発言を!
「やだわ坊《ぼっ》ちゃん、あんな偽胸《にせむね》で赤くならないで。あれは明らかに詰《つ》め物です。素人《しろうと》ならともかく、このオレは騙《だま》せませんぜ」
「あんたの胸は正真正銘《しょうめい》本物の筋肉だも……ぎゃ」
 薄着の巨乳《きょにゅう》にドギマギするおれの足に、硬《かた》くて重い物が落ちてきた。赤と自のラベルを巻いた缶詰《かんづめ》だ。女の子が慌《あわ》てて膝《ひざ》をつき、転がる缶を拾って懐《ふところ》に突《つ》っ込んだ。その拍子《ひょうし》に服の隙間《すきま》から、胸に詰めたパンが覗《のぞ》く。
「あ、人工乳《ちち》」
「ほらね」
 それ見たことかと言わんばかりに、男は黙《だま》ってDカップ主義のお庭番は笑った。どうやら密航中に空腹に耐《た》えかねて、厨房《ちゅうぼう》から食糧《しょくりょう》を失敬してきたらしい。おれたちに奪《うば》われまいと、両腕で必死に守っている。
「取らないよ、取りゃしないから寄せて上げるのやめてくれ。あっ鼻からギュ……ギュン汁《しる》たれちゃうからっ」
 偽乳《ニセチチ》と、知りつつときめく虚《むな》しさよ。セクハラ川柳《せんりゅう》より。
 おれのみっともない動揺《どうよう》をよそに、ウェラー卿は素早《すばや》く周囲を窺《うかが》った。船員達の目が無いの
を確認《かくにん》すると、女の子の背中を押して促《うなが》す。彼女は神族だ、恐《おそ》らく言葉は通じない。
「早く戻《もど》ったほうがいい」
「戻るって何処《どこ》へ? おれの部屋に匿《かくま》ってあげたいのは山々だけど、厄介《やっかい》なことに今回はサラと同室だからなあ。ああそうだ、さっきのコートを」
 剥《む》き出しの肩《かた》には鳥肌《とりはだ》がたっている。
「彼女に。あんたさえ良ければ貸してあげてくれないかな」
「ええ」
 ほんの一瞬《いっしゅん》だけ、コンラッドが笑ったように思えた。強風に目を細めただけかもしれない。嫌味《いやみ》のない所作で女の子に外套を羽織らせる。そういうところは相変わらず紳士《しんし》だ。
「とにかくきみが寝泊《ねと》まりできる部屋を探そう。ヨザックんとこには隠《かく》せる余裕《よゆう》ないの?」
 返事の代わりに肩を竦《すく》める。おれとサラレギーのとばっちりを喰った船長あたりが、やむなく同居しているのかもしれない。
「ウェラー卿の所はどうだろう。乗員並みとはいえ個室を貰《もら》ってるだろ。大シマロンの特使なんだからさ」
「彼女一人なら匿えないこともありませんが」
「え、何、単独密航じゃな……あっ!」
 用心深く左右を見回していた女の子が、おれたちの手を振り切って駆《か》けだした。胸に抱《かか》えた食糧を落とさないように前屈《まえかが》みになって走ってゆく。兎《うさぎ》みたいに速かった。
「ちょっと!」
 慌てて後を追うと、彼女は船尾《せんび》の梯子《はしご》を降り、おれが行ったこともない船倉を通り抜《ぬ》け、一番奥の床板《ゆかいた》を持ち上げた。潮風よりももっと強く、海の中の匂《にお》いがした。
「きみ、待って」
「陛下、あまり深くまで行かれるのは」
 ベルトを掴《つか》まれる前に、腐《くさ》りかけた梯子を下り始める。木を握《にぎ》った掌《てのひら》に棘《とげ》が刺《さ》さるが、落ちないようにするのが精一杯《せいいっぱい》で、そんなこと気にしてはいられない。少女はどうしただろう、まさか足を踏《ふ》み外してコンテナの上に転落してはいなかろうなと、恐る恐る下を向いた。すると。
「え……っ」
 船底に貼《は》りついた無数の灯《ひ》が、一斉《いっせい》にこちらを見上げていた。夜光虫や海洋生物の発する輝《かがや》きではない。あれは目だ、意思ある者の瞳だ。下水道で鼠《ねずみ》に取り囲まれた時を思い出して、背筋を嫌な汗《あせ》が伝う。指が震《ふる》えて自分が落ちそうになった。
「陛下」
「坊ちゃん、ご無事で……おーやおや、厄介な積荷を発見しちまったもんだ」
 珍《めずら》しく慌てた感じのヨザックとウェラー卿が、船倉から身を乗りだしておれの服を掴んだ。
「どうしてこんな船底に、人間がたくさん……こんな団体で密航してんのか!?」
「好んで潜《もぐ》り込んだわけではありませんよ」
 ウェラー卿は多少は事情を知っているらしい。
 無理やり引き上げられながら、おれは痛いほどの視線を感じていた。突き刺さるような鋭《するど》い眼差《まなざ》しだ。憎悪《ぞうお》なのか好奇《こうき》なのかは判《わか》らない。
「彼等は皆《みな》、神族です。聖砂国からシマロンへと漂流《ひょうりゅう》してきたものの、今また故国へと戻されようとしている神族達です」
 瞳は全《すべ》て、金色だ。隙間から漏《も》れる微かな明かりに、押し黙って眼だけを光らせている。
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