今日からマ王11-5

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 言葉が通じないというのは、相当なストレスだ。
 単独で海外旅行に行ったことがないおれにとって、こんな経験は初めてだった。
「これまでで一番困ったのって、最初にスタツアした時だもんな……」
 当時はあっという間にアーダルベルトが現れて、翻訳《ほんやく》機能を回復させてくれた。良からぬ方法だったとはいえ、非常に便利なのは確かだ。
「そうだ、アーダルベルトがおれの|脳《のう》味噌《みそ》鷲掴《わしづか》みにした|技《わざ》だよ。あれ確か法術だって言ってただろ? この子達が神族って人種ならさ、法力に優《すぐ》れているはずだよな。だったら自分達で脳味噌鷲掴みして、あっという間に話せるようになってくんねーかな」
「あれはユーリの|魂《たましい》の襞《ひだ》に、|蓄積《ちくせき》言語があったからできたんだ。こいつらの魂は聖砂国から出たことがないかもしれない」
「そうか。あー|畜生《ちくしょう》、困ったなっ」
 多少のニュアンスの|違《ちが》いがあったとはいえ、眞魔国で話していた言語が人間の土地でも通じていたので、この世界には共通語は一種類しかなく、通訳も必要ないのだと思いこんでいた。だけど、魔族と人間の文化は共通していても、神族だけは別らしい。
 海から引き上げられた子供達は、ダカスコスの簡易ベッドに身を寄せ合って座っている。人目を避《さ》けてここに連れてきたのだが、ただでさえ|狭《せま》い部屋は五人も入るときちぎちになってしまった。それでもあの|小舟《こぶね》の上よりはましだ。食堂から持ち込んだ|椅子《いす》を三つ並べれば、座る場所はちゃんとある。
「本当なら真っ先に熱い風呂《ふろ》なんだけど」
 まだ宵《よい》の口《くち》だ、艦内の大浴場には利用者も残っているだろう。白い二人はやむなく着替えと食料だけを与《あた》えられて、少しでも|身体《からだ》が温まるように防寒具にくるまっている。渡《わた》された熱いカップを両手で抱《かか》える姿は、髪《かみ》の長さの差さえなければ同一人物かと思うくらいによく似ていた。
「もう一度|訊《き》くよ。きみたちは何を言いたいんだ?」
 少年はおれの掌をとり、人差し指「魔族」「たすけて」と書いた。どうやらこの二つの単語だけをどこかで教えられたらしい。おれは頭を抱えた。
「てにをはが判んないんだよ、てにをはがー! きみらがおれたち魔族を助けてくれるのか、それともおれたちに誰かを助けて欲しいのか、そこんとこがはっきりしないんだよなあ」
「やっぱり|艦長《かんちょう》に相談したほうがよかないスかね」
 タオルだ着替えだ夕食の残りのスープだと走り回ってくれたダカスコスが、二|杯《はい》目のお茶を、淹《い》れながら|眉毛《まゆげ》を下げた。彼は最初からサイズモア艦長に報告したがっている。
「けどそうしたらこの子達をシマロン船に引き渡さなきゃならないよ。すぐ近くにいた巡視船《じゅんしせん》の救助を避けて、仲間と別れてまでうちの艦に泳いできたんだぞ。きっと何か複雑な事情があるんだよ」
「だったらせめて、ギュンター閣下に」
「それだけは|駄目《だめ》だ!」
 この提案はヴォルフも同時に否定する。おれたちの密航を知られたら、たちまち眞魔国に送り返されてしまう。
「……ほんとに困ったな。ジェイソンとフレディは共通語を話せたのに」
「あいつらは大シマロン育ちだろう」
 そうだった。いくら同じ神族とはいえ、育った|環境《かんきょう》で文化や教育は変わる。そういえばあの双子は無事に故郷に帰れたのだろうか。ドゥーガルド兄弟の|高速艇《こうそくてい》で送り届けるよう告げたはずだが。彼女達の生まれ故郷も聖砂国だというのなら、送り届けたドゥーガルド兄弟も出島までしか入れなかったはずだ。
「実際の鎖国ってどんな状態なのか、ちょっとでも訊いてくればよかったか……ん?」
 我々の耳に「糞転《ふんころ》がし糞転がし」としか聞こえない言葉を吐きながら、神族の少年がおれの肩《かた》を揺《ゆ》すった。|先程《さきほど》よりも強い力で、手首をぎゅっと|握《にぎ》られる。
「……じぇ、じぇい……?」
「え、違う違う、おれはジェイソンじゃないって。ジェイソンとフレディはきみたちと同じ神族の女の子だ。ここにはいない、ていうかきみたちの国へ送り届けたはずなんだが」
「すーさまらかしー!」
 ……何言ってるんだかさっぱり判らないが、とりあえず音を文字に表す「すーさまらかし」だ。姉弟(仮定)はぱっと顔を輝《かがや》かせて、興奮気味に何事か唖《ささや》き合った。少年は握ったままのおれの手首を、自分の冷えた胸に押し付けて短く言った。
「ゼタ」
 手はすぐに隣《となり》の少女に移され、彼女の胸に強く押し当てられる。もう一言。
「ズーシャ」
 呆然《ぼうぜん》としているおれの背後で、ダカスコスが低《つぶや》く呟いた。
「名前かな」
 名前? 目の前の子供達を|交互《こうご》に見ると、はにかみながらも|微笑《ほほえ》んでいる。
「名前!? そうだよダカスコス、そう、きっと彼等の名前だよ! じゃあきみがゼタで女の子がズーシャ? お姉さんがズーシャで弟がゼタなのかな。よかったゼタ、名前だけでも教えてくれて嬉《うれ》しいよ。おれはユーリ、こっちの美形はヴォルフラム、頭がツルッとしてる人がダカスコス。リピートアフターミー」
「ぴーと?」
「いやおれはピートじゃないけどね」
 急すぎて繰《く》り返せはしなかったが、彼等はニコニコと|頷《うなず》いた。
「何だよ自己|紹介《しょうかい》までなら、|身振《みぶ》りだけでも通じちゃうもんだな。多分ジェイソンが人名だってことが判ったからだと思うけど」
 今度こそゼタが繰り返した。姉らしきズーシャの手を握り、得意満面で嬉しそうだ。あまり弾《はず》んだ声なので、ついついおれも返事をする。
「ジェイソン」
「ジェイソン!」
「じぇいそーん」
「えじそーん!」
 さながら十三日の金曜日祭りだ。最後の一人だけ仲間外れ。
 けれどやっと名前を教えてくれた異国の子供は、すぐに真顔になり姉弟で暘き合う。意を決したのか互《たが》いに深く頷いて、ズーシャが脱《ぬ》ぎ捨てた服に指を入れた。小さく折り畳《たた》んだ薄黄色《うすきいろ》の紙片《しへん》を探し、怖《お》ず怖ずとこちらに差しだす。
「おれに?」
「……ジェイソン……フレディ……」
「うん? なに、何だって、ジェイソンとフレディが書いたの?」
 焦《あせ》る指を必死で宥《なだ》めながら、濡《ぬ》れて貼《は》りついた四つ折りの紙と格闘《かくとう》する。どうにか破れずに広げられはしたものの、海水で字は消えかかっている。大きな紙から破りとったのか、きちんとした長方形ではなかった。
「これまた解読不可能な手紙だな」
 ごく短いシンプルな文章が、大きく辿々《たどたど》しい文字で書かれていた。まるで左手で書いたような下手……いや個性的な|筆跡《ひっせき》だ。赤茶に変色したインクは所々滲《にじ》んで広がり、単なる丸い染《し》みになってしまっている。一番下に|遠慮《えんりょ》がちに、筆者のものらしき署名があった。
「あー……微《かす》かに……じぇい、そって読める。もう一人はしっかりフレディって読める。本当だ、本当にあの子達からの手紙なんだな! どうしてきみたちが手紙を預かったんだ? 知り合い? 聖砂国で友達になったのかな。|双子《ふたご》は元気かい、|一緒《いっしょ》に送っていった年少の子達も」
「貸せ」
 本文を読もうともせず問いかけるおれに焦《じ》れて、ヴォルフラムが紙片を|奪《うば》い取った。といっても形を損《そこ》なわないように、丁寧《ていねい》にだ。テーブル代わりの椅子の上にそっと広げる。
「やはりあの双子はシマロン育ちだ。これも共通語で書かれている。ただし、きちんと教育を受けているとは思い難《がた》い字だが」
「大部分が消えちゃってる。濡れる可能性もあるんだから、油性インクで書いてくれればいいのにな」
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 当たり前のようにそんな不平を言うと、ヴォルフラムにじろりと睨《にら》まれた。|坊《ぼっ》ちゃん育ち我が|儘《まま》元プリンスにだ。
「……悪かったよ。こっちではまだ油性インクが開発されてないんだな。けどそんな眼《め》で見なくたって」
「血だ」
 辛《かろ》うじて判読可能な部分に指で触《ふ》れ、|匂《にお》いを嗅《か》いでみてからもう一度呟く。
「血で書かれてる」
「血? 血って|誰《だれ》の。なにそれ、えー、呪《まじな》いとか|儀式《ぎしき》とかそういう」
 ダカスコスが苦しげに呻《うめ》き、お二方とも気を悪くなさらないでくださいと前置きしてから話し始めた。
「|恐《おそ》らく筆記具がなかったんだと思います。ペンもインクも|便箋《びんせん》も無かったんでしょう。この紙も、袋《ふくろ》か何かの片隅《かたすみ》を破ったもんです。染みこみが悪い用紙に、血で、多分|爪《つめ》で書いたんだ。そりゃ海水ですぐに消えますよ。オレはこういう手紙を前にも|扱《あつか》いました」
 |居心地《いごこち》が悪そうに頭を撫《な》でる。
「戦地から、還《かえ》ってきた者達の懐《ふところ》に入ってたり、するんで。大体の場合……物言わぬ|帰還《きかん》ってやつですが」
「だ……」
 ダカスコス、と呼びかけて失敗した。二人の子供は肩をくっつけ身を寄せ合い、じっとこちらを窺《うかが》っている。
「それは遺体の懐にってことだよな……じゃあ、ジェイソンとフレディは」
 飲み込んだ言葉が喉《のど》を下りてゆく。死んでる、という辛《つら》い動詞だ。
「早とちりをするなユーリ、そう決めつけるものじゃない。今の段階ではまだ、好ましくない環境下に置かれているとしか言い切れない。兵士の場合は|覚悟《かくご》の上の遺言《ゆいごん》だ。あの双子は激戦地にいるわけじゃないんだぞ。第一、死んでいたら手紙など書くものか」
 ヴォルフラムは読める部分を指差して、おれの代わりに推理しようとした。署名と、ほんの|僅《わず》かの本文だ。
「ここにも、これも多分そうだ。助けるって単語だろう。動詞の活用が正しくないが。ここにほら、ユーリ、お前の名前がある……ああ」
 おれの名を表す文字列の横に、幽《かす》かに見えている単語。
「謝ってる」
「……何を謝ることがあるんだ」
 右掌をいっぱいに広げて、悲しい手紙を覆《おお》い隠《かく》そうとした。もう読みたくなかったし、誰かに内容を知られるのも嫌《いや》だった。
「あの子達が何を、おれに謝るんだ。謝ることなんかない、何一つない。こんな手紙書いて。帰りたいって言った故郷に戻《もど》れたのに、なんでおれに謝ることがあるんだ」
 初めて会ったときを思い出す。彼女達の周りには、冬の薄日の戯《たわむ》れだったのか純白でとても薄い光の幕が躍《おど》っていた。ずっと視線が外せなかった。何もかもが左右|対称《たいしょう》で、覗《のぞ》き込むと虹彩《こうさい》は濃《こ》い金色、細かい緑が散っていた。その美しさは人間|離《ばな》れしていて、かといって魔族《まぞく》の凜々《りり》しさ力強さとは異なり、どこか病的で儚《はかな》さを感じさせた。
 語尾《ごび》を略す|特徴《とくちょう》のある話し方には、最初のうちはかなり苛《いら》ついたものだ。
 あの子達が。
 怒《いか》りに任せて払《はら》った|椅子《いす》が、|派手《はで》な音をたてて|壁《かべ》にぶつかった。
「くそっ!」
 怒りが治まらずに|拳《こぶし》で壁を叩《たた》くと、ベッドに座る二人が、大きく肩《かた》を震《ふる》わせた。触れるほど頬《ほお》を寄せ合い、互いの両手を|握《にぎ》り締《し》めて俯《うつむ》いてしまう。怯《おび》えているのだと気付く。
「|違《ちが》うんだ、きみたちを責めてるんじゃない」
 それでもおれは、やりきれない気持ちを|制御《せいぎょ》できなかった。これでは命拾いをしたばかりの子供達を、必要以上に怖《こわ》がらせてしまう。言葉が通じれば説明もできるが、意思の疎通《そつう》もできないまま、目の前で感情的な姿を見せるのはまずい。
 言い訳する|余裕《よゆう》もなく部屋を出て、夜の|甲板《かんぱん》で手摺《てす》りに当たる。慌《あわ》ててついてこようとしたダカスコスを、短い指示でヴォルフラムが止めるのが聞こえた。
「|畜生《ちくしょう》ッ! |冗談《じょうだん》じゃねえ! どーなってんだこの世界はッ」
 壁を叩き、甲板を|蹴《け》り、壁に掛《か》かった救命具を投げた。
 さっき使ったばかりのロープを海に投げ捨て、水溜《みずた》まりに踵《かかと》を突《つ》っ込んだ。
 激しい感情の起伏《きふく》に反応して、胸の魔石が熱を持つ。
 決して暑くなどないのに、右目の脇《わき》を嫌な|汗《あせ》が流れ落ちる。見苦しく肩で息をするおれの背中に、冴《さ》え冴《ざ》えとした声が掛けられた。
「気が済んだか」
「済むわけねーだろっ!」
 白く冷たい手摺りを握り締め、黒い波間を睨んだまま吐《は》き捨てる。とてもヴォルフラムの方を向けない。意識して長く息を吐き、どうにか|心拍《しんぱく》を平常に近づける。
「……悪かったな、短気で。おれってほんとに短気で直情型で」
「知ってる」
 相手は驚《おどろ》くほど冷静だ。彼はいつもこんな声だっただろうか。違うな、声というよりも、喋《しゃべ》り方が|長兄《ちょうけい》に似てきたのかもしれない。
「お前にはいつも……みっともないとこばかり見られてる気がするよ」
「そうか? だが子供達には気を遣《つか》った。そういう点は尊敬できる」
「褒《ほ》めんなよ、そんな当たり前のこと」
 平常な思考能力が戻ってくるまで、海と夜空に慰《なぐさ》めてもらう気でいた。少なくとも棒を握り締める十本の指から、不自然な力が抜《ぬ》けるまでだ。シマロン船はまだ近くにいて、うみのおともだち号との間には、艀《はしけ》の行き交《か》う灯《ひ》が見えた。大型|艦《かん》の甲板からすると、ずっと下の海面だ。
「前にも言ったとは思うが」
 恐らく腕組《うでぐ》みをして壁に寄り掛かっているのだろう。二人の兄のうち物腰《ものごし》が柔《やわ》らかなほうと同じ姿勢で、フォンビーレフェルト|卿《きょう》は抑《おさ》えた口調で言った。
「神族に関《かか》わると、ろくなことにならないぞ」
「聞いたよ、判《わか》ってる。大シマロンでも酷《ひど》い目に遭《あ》った。別におれがぶっ|倒《たお》れたわけじゃないけど、あれは|普段《ふだん》となんか違った」
 達成感とか爽快《そうかい》感には程遠《ほどとお》いものだった。残ったのは疲労《ひろう》と|脱力《だつりょく》だけだ。確かに神族絡《がら》みになると、おれの中の魔王の|魂《たましい》は調子を崩《くず》すらしい。それでもだ。
「それでもお前は|黙《だま》っていないんだろうな。ああもういい、聞かなくても判ってる」
 ランプの灯《あか》りに|金髪《きんぱつ》を|煌《きら》めかせ、魔族の元王子は|呆《あき》れたように頭《かぶり》を振《ふ》った。もしくは、呆れたふりを装《よそお》って。
「|双子《ふたご》を助けに、聖砂国へ行くと言うんだろう? まったくお前ときたら、誰も彼もに手を伸《の》ばして! この調子ではいずれ生命|皆《みな》兄弟とか言いだしそうだな!」
 そうなったらどんなにいいか。あ、待て、そうなったら|食糧《しょくりょう》がなくなる。
 菜食主義になった自分を想像して、無理に気分を変えようとしたが、血で書かれた文字に囚《とら》われた|脳《のう》味噌《みそ》は、そう簡単に元に戻りはしなかった。
「でもヴォルフ……約束したんだ。絶対に|途中《とちゅう》で離さないって、おれは約束したんだよ」
「ああそうだろうな」
「行かせてくれ」
「ぼくに言うことじゃないだろう」
 ヴォルフラムは顎《あご》を上げた。放蕩息子《ほうとうむすこ》に説教する主人みたいだ。
「だが忘れるなよユーリ、お前は魔王だ。眞魔国の王なんだぞ。世界中のあらゆる問題すべてに手を差し伸べるのもいいが、自らの国と民《たみ》を蔑《ないがし》ろにはするな」
「忘れたことなんかないよ」
 世界中の問題を解決できるなんて思ったことはない。地球での生活では想像もつかない|奇妙《きみょう》な力を知っても、王様だと崇《あが》められて持ち上げられても、何かを救えるなんて考えたこともないんだ。おれはまったく自分に自信がないし、相変わらずその辺の野球|小僧《こぞう》だと今でも思っている。
「でも眞魔国にはグウェンが……フォンヴォルテール卿がいるだろう? お前だって、ギュンターだってアニシナさんだっている。おれが頑張《がんば》らなくっても、問題なくやっていけるだろ」
「まあ、お前は歴代|稀《まれ》に見るへなちょこ魔王だからな。兄上も気苦労が絶《た》えないご様子だ」
「うん。でもときどき……」
 時々、不安になる。
 おれの役割は何なんだろう、おれの居場所はどこなのだろうと。
「ユーリ?」
「ああごめん、なんでもないんだ。いやはー、それにしても散らかしちゃったなー! 我ながらお恥《は》ずかしい限りです」
 冷静になって見回すと、周囲は|惨憺《さんたん》たる有様だった。投げ飛ばされた救命具や蹴られたバケツが転がっていて、迂闊《うかつ》に歩けば蹟《つまず》きかねない。殊勝《しゅしょう》な態度で一つ一つ拾い、元の位置に戻していく。見た目と違って親切な三男の手を借りて、ばらけたロープを束ね直した時だった。
「待ってくださいったら! ひー、助けて|坊《ぼっ》ちゃん方ーっ! ああ乱暴はやめてくださいったらー!」
 ダカスコスの情けない悲鳴は、明らかにおれたちを呼んでいた。
 残ったバケツを飛び越《こ》して廊下《ろうか》を走ると、背中を|扉《とびら》に押し付ける姿が見えた。五人の男達の前に立ちはだかり、必死で船室を守っている。
 傍《そば》には部下を一人連れたサイズモア艦長が、ダカスコスの頑固《がんこ》な|抵抗《ていこう》に|狼狽《ろうばい》していた。見慣れた顔なのにどうも違和《いわ》感があると思ったら、指の下で|薄茶《うすちゃ》の顎鬚《あごひげ》が伸びていた。ザビエル・レベル1の髪型《かみがた》を気にするあまり、顎で植毛でも始めたのだろうか。
 後ろ姿しか見えないが、相手は小シマロンの兵士のようだ。あの両脇を|刈《か》り上げたポニーテールは遠くからでも身分が判る。正面に回ればきっと丁寧《ていねい》に|揃《そろ》えた髯《ひげ》が、もみあげから細く長く繋《つな》がっているだろう。
 両脇刈り上げポニーテールは、小シマロン兵士の公式ヘアスタイルなのだ。
「この付近の船室は|全《すべ》て調べた。残るはここだけなのだ。聖砂国からの難民を、この部屋に|匿《かくま》っているとしか思えん」
「だからなんなん難民なんか、かくかく匿ってないって言ってるじゃないスかぁー」
「だが確かに貴艦が神族の子供を二人、綱《つな》で引き上げるのを見た者がいる!」
「何を意地になっておるのだダカスコス、隠《かく》していないというのなら、さっさと部屋を捜《さが》させてしまえばいいことではないか。そうすればこちらの巡視《じゅんし》官も自分の船へと引き取るだろう」
「だーめーでーすーっ! どうしてもどうしてもどうしても|駄目《だめ》なんです。船室に子供なんか隠しておりませんッ! 理由はーそんなことしたと知られたらー、うちの嫁《よめ》さんに半殺しにされるからでーっす」
 少なくともサイズモア艦長はそれで|納得《なっとく》した。ナイスだお嫁さん。というツッコミは後にして、おれは責任者としてその場に割って入ろうとした。子供達は渡《わた》さない。ゼタとズーシャは魔族を指名して、おれに助けを求めて来たのだ。十六年も生きてくれば、嘘《うそ》の一つくらい簡単につける。
「ちょっと待て、あんたら、他人の艦ででかい面《つら》すんなっ。おれたち子供なんか助けてねーかんな!」
 |一瞬《いっしゅん》早く艦長の目がおれを捉《とら》えて、口が驚きの形に変わった。顎鬚を撫《な》でる指先が、焦《あせ》って忙《せわ》しなくなる。
「へ、い、か!?」
 もちろん声は出していない。ヴォルフラムが自分のコック帽《ぼう》を、おれの頭にすぽりと|被《かぶ》せた。
 さんきゅープー。異国の人間に|黒髪《くろかみ》を見られるのはまずい。|瞳《ひとみ》は伏《ふ》せていれば|誤魔化《ごまか》せるが、髪は|完璧《かんぺき》には隠し難《がた》い。
「さっきから聞いてりゃ勝手な言い掛かりつけやがって。難民の子供なんて匿ってません、かーくーしーてーまーせーんー。第一どうして難民の子供を助けたら、あんたたちに引き渡さなきゃならないんだよっ」
 ところが失礼なことに、鼻息|荒《あら》く食ってかかるおれに、小シマロンの巡視官三人は鼻もひっかけてはくれなかった。
「艦長、皿洗い風情《ふぜい》が何事か喚《わめ》いているようだが」
「なんだと!? 皿洗い|馬鹿《ばか》にすんなー!」
「そうだ、無礼なことを言うな! ぼくは自分で皿など洗わないぞ」
 言われてみればこちらは|厨房《ちゅうぼう》見習いユニフォームだ。しかもぱっと見たとごろまだ十代、下っ端《ぱ》も下っ端、ジャガイモの皮剥《かわむ》きクラスだろう。だがサイズモア艦長にとっては話は別だ。
 彼は暴れるおれと|憤慨《ふんがい》するヴォルフラムの素性《すじょう》を知っている。どう受け答えをしていいものやらと、眼《め》を白黒させている。黒くないけど。
 その間にも小シマロンの巡視官は、決死の|覚悟《かくご》ながら及《およ》び腰《ごし》のダカスコスに|迫《せま》っていた。この男は本来、気が|優《やさ》しくて小心者だ。ピッカリングヘッドは|脂汗《あぶらあせ》で艶《なま》めかしくテカり、今にも陥落《かんらく》しそうに震《ふる》えている。
 おれの登場といかにも|胡散《うさん》臭《くさ》い言い訳で、艦長は何かを察したようだ。どうにか突《つ》っぱねようと声に|威厳《いげん》をこめるが、どうやら巡視官の階級が意外に高いらしく、なかなか強気で断れない。そんな|偉《えら》い人が現場にいるのも不思議だが、会話の中では提督《ていとく》と呼ばれている。
 周囲には野次馬が集まり始めていた。|無頼《ぶらい》で鳴らした船乗りたちの中には、聞こえよがしに相手を口汚《くちぎたな》く罵《ののし》る者もいる。酒の入った兵士達は腰の武器に指をかけ、一触即発《いっしょくそくはつ》という雰囲気《ふんいき》だ。このままではいけない。提督だか|堤防《ていぼう》だか知らないが、王様相手なら少しは|遠慮《えんりょ》もするだろう。ていうか、してくれ。お願いします。
「やいやいやい、我こそは……」
「この夜分に一体なんの|騒《さわ》ぎですか!」
 見得《みえ》を切ろうとしたおれは、皆の後ろから響《ひび》いてきた台詞《せりふ》に肩透《かたす》かしを食った。
 海の男達の人垣《ひとがき》が左右に分かれた。薄灰《うすはい》色の長い髪と|僧衣《そうい》の裾《すそ》を靡《なび》かせて、長身の男が|優雅《ゆうが》に歩いてくる。
 麗《うるわ》しの王佐《おうさ》にして|超絶《ちょうぜつ》美形教育係、必殺|技《わざ》は鼻血ボンバーという|優男《やさおとこ》。フォンクライスト|卿《きょう》ギュンターその人だった。
 
 |不愉快《ふゆかい》そうに低めた美形ボイスで、フォンクライスト卿は問いかけた。
「何事ですか|艦長《かんちょう》」
「ギュンター閣下!」
 明らかにほっとした表情のサイズモアと、安堵《あんど》のあまり|涙《なみだ》ぐんで鼻水を垂らすダカスコス。あああああ来ちゃったよとばかりに頭を抱《かか》え、俯《うつむ》いてしゃがみ込むおれとヴォルフラム。
 教育係は書類仕事の最中だったのか、細くて小さい眼鏡《めがね》を掛《か》けていた。|黙《だま》っていれば知的で秀麗《しゅうれい》な彼の|美貌《びぼう》に、銀のグラスはとても似合っている。この場にいるはずのないおれとフォンビーレフェルト卿の姿を見つけると、細く形良い|眉《まゆ》がきゅっと上がった。寧《むし》ろその程度の反応で済んだのが|驚《おどろ》きだ。
 高い位置にある腰をわざわざ屈《かが》め、耳の近くで声を潜《ひそ》める。
「どうしてここにいらっしゃるんですッ」
「うー、えーとそのー……その老眼きょ……じゃなかった眼鏡、すごく似合うよ。三倍くらい美人に見える」
「陛……貴方《あなた》にお褒《ほ》めいただいて、|普段《ふだん》なら天にも昇《のぼ》る心地《ここち》でしょうが、今回ばかりはお世辞などで誤魔化されませんよ。ヴォルフラムもです」
「悪かったよギュンター、反省してる。後でちゃんと説明する。でも、今はそれどころじゃないんだ。|滅多《めった》にないようなピンチなんだよ」
 助けてくれ、と熱い思いをこめて、頑張《がんば》って両目を潤《うる》ませてみた。小学生の頃《ころ》に新しいスパイクをおねだりした要領だ。この歳《とし》になって効果があるとは思えないけど。
「う」
 ギュンターは口元に指を当て、中腰のままでおれから離《はな》れた。
「あ、貴方がたがここにいらっしゃる理由は、あああっ、後でたっぷりと聞かせていただきますからねッ」
 少しは効果があったようだ。まあ百何十歳のギュンターにとって、十六歳のおれは孫みたいなものだ。幾《いく》つになっても孫は孫、少々の我が|儘《まま》は聞いてしまうのかもしれない。だったら最初から涙ながらに頼《たの》みこんで、同行させてもらえば良かったよ。
 不自然な|咳払《せきばら》いひとつで、|優秀《ゆうしゅう》な文官の顔に戻《もど》ったフォンクライスト卿は、命令し慣れた口調で周囲の野次馬を散らした。多くは不満げな様子だったが、麗しの王佐閣下に命じられては仕方がない。持ち場や船室、酒のある場所へと、思い思いの場所へと戻ってゆく。
「さて、お話を伺《うかが》いましょうか。て、い、と、く、とやら」
 シマロンの巡視官はあからさまな態度に気分を害したようだが、新たに加わった男の高貴な身分にも気付いたのだろう。我々が難民の一部を救助した疑いのあること、船室に匿った可能性があるが、ダカスコスが|扉《とびら》の前を退《ど》こうとしないこと等を、掻《か》い摘《つま》んで語った。
「そうでしたか……しかし当艦で騒ぎを起こすことは、この私、王命により眞魔国全権特使に任じられたフォンクライスト・ギュンターが許しません。しかもこの私、王命により眞魔国全権特使に任じられたフォンクライスト・ギュンターの乗艦する、うみのおともだち号に、あらぬ疑いをかけるとは、この私、王命により眞魔国全権特使に任じられたフォンクライスト・ギュンターのみならず、眞魔国海軍全体に対する|屈辱《くつじょく》的な|行為《こうい》です。いいですか、なんとやら提督、なんとやら巡視官。当艦は難民など救助してはいないと言っているのです。この私、王命により眞魔国全権特使に任じられたフォンクライスト・ギュンターの言葉が信じられないというのですか?」
 あまりに長々と続「王命により任じられました」|自慢《じまん》に怯《ひる》んだのか、ポニーテールが複雑に揺《ゆ》れる。
「だ、だが我等にも、シマロン巡視官の面子《メンツ》というものが!」
「ええそうでしょうとも。ですから」
 また「王命により以下略」が続くのかと、巡視官達は一歩引いて身構えた。
「こうしましょう。担当者の皆《みな》さんは小シマロンの兵士を何名でも動員して、艦内至る所をお|捜《さが》しになるといい。食堂であろうが|一般《いっぱん》浴室であろうが、常設展示黄金便所であろうが、どこに入ろうとも構いません。もちろん艦長室のカツラ部屋も例外ではありませんよ」
 サイズモアがぎょっとして頭を押さえた。
「ええそれはもう、艦内ありとあらゆる場所をお捜しなさい。這《は》いつくばって捜せばいいでしょう。ただし、この私、王命により眞魔国全権特使に任じられたフォンクライスト・ギュンターの部屋は除きます」
「何!?」
 シマロン人は鼻白んだ。ギュンターは|綺麗《きれい》な線を描《えが》く顎《あご》を上げ、居丈《いたけ》高《だか》な物言いだ。
「当然のことでしょう。この私は、王命により眞魔国……」
「わ、判った。|貴殿《きでん》の名誉《めいよ》を重んじ、一室だけは捜さないこととしよう。上級士官の居住区全体を除外してもいい」
 決まり文句を垂れ流されたくなかったのか、巡視《じゅんし》官は慌《あわ》てて遮《さえぎ》った。それにしてもギュンターときたら、使者に選ばれたのがそんなに嬉《うれ》しかったのだろうか。
「では今すぐこの厨房見習いをどかしてくれ。|甲板《かんぱん》近くで隠《かく》れられそうな場所は皆調べた、残るはこの部屋だけなのだ」
「それはできません」
 いやーやめてーと|訴《うった》えかけるダカスコスの顔を見るまでもなく、|魔族《まぞく》の優秀な王佐はきっぱりと答えた。
「この私の部屋ですから」
 えええーっ!?
 慌てたのはポニーテールの巡視官達ばかりではなかった。おれとヴォルフラムは元より、消えかけていた野次馬の最後の数人も、動かしかけた足を宙で止めてしまうくらい驚いた。ダカスコスは口を開けすぎて顎を外し、気の毒なサイズモア艦長は、左右両方の眼球が裏返ってしまった。ちょっとしたホラーだ。
「ま、待て。貴殿はあのその王命により眞魔国全権特使に任じられたフォンクライスト卿ギュンター|殿《どの》であろう? そのような身分の文官が、こんな一般兵、しかも新兵や見習い船員ばかりが寝起《ねお》きする下層区域に居室を与《あた》えられるわけがないではないか。我々小シマロン軍ではとても考えられん」
「もちろん、私も艦長室の隣《となり》の|貴賓《きひん》室を宛《あてが》われてはおります。ですがこう見えて私も男です。男の甲斐性《かいしょう》のひとつとして、艦長や他の乗員には知られたくない、大人の関係も持ち合わせているわけですよ!」
「大人の……」
「そう、しかも熱々です」
 えええーっ!? それって愛人アリってこと!?
 知られたくないどころか、自分の口から言っちゃってるよギュンター。一拍《いっぱく》遅《おく》れてサイズモアが耳を塞《ふさ》いだ。|遅《おそ》い。
「そ、そのための部屋ということなのか……ま、待て待てっ」
 小シマロン兵士達の|狼狽《うろた》えぶりは滑稽《こっけい》なほどだった。一番|偉《えら》そうな中年の男は、顎鬚《あごひげ》を摘んでは引っ張っている。
「だ、だが、大人の関係のための部屋だとしても、このような場所にあるのは不自然だろう。ベタつく潮風が吹《ふ》きつけ、床《ゆか》は鴎《かもめ》の糞《ふん》で汚《よご》れ、|壁《かべ》は薄《うす》く睦言《むつごと》まで丸聞こえだぞ。こんな|劣悪《れつあく》な環境《かんきょう》下に、愛の巣を設けるとは思えない!」
 愛の巣、という言葉を口にした直後に、公式|髯《ひげ》スタイルの巡視官は首まで真っ赤になった。見た目を裏切って純情なおっさんだ。
 だが、フォンクライスト卿ギュンターは胸を張って答えた。
「私はそういう|趣味《しゅみ》なのです!」
 |素敵《すてき》だ。ギュンター、|珍《めずら》しく男前だぞ。ちなみに部屋番号は一〇八だ。
「そ、そういう趣味なのか……い、いいやあ待て待て待てッ! まだ|納得《なっとく》したわけではないぞ。貴殿がそういう趣味だとしてもだ。趣味だとしてもだっ。ご婦人とは常に|恋愛《れんあい》にろまんちっくさを求めるもの。貴殿と爛《ただ》れた関係を……う、いや失礼、愛を育《はぐく》んでおる美しいご婦人が、これこのような」
 茶色のポニーテールを振《ふ》り回して、彼は周囲に残った男達を指差した。
「海の男あらため、むくつけき筋肉|野郎《やろう》どもがしこたま徘徊《はいかい》する、|汗《あせ》と埃《ほこり》と筋肉|汁《じる》にまみれた場所で、ろまんちっくな気分になれようはずが……はっ、ままままさかっ!? 貴殿のお相手というのはッ!?」
 フォンクライスト|卿《きょう》ギュンターは鼻息荒《あら》く答えた。
「ですから私はっ、そういう趣味……え?」
 赤から青、ついには白へと、シマロン男は可笑《おか》しいくらいに顔色を変えた。もっともこの頃になると、動揺《どうよう》しているのは一番偉そうな中年巡視官だけで、他の年若い部下達は緩《ゆる》みかける頬《ほお》を必死で抑《おさ》えている有様だった。
「そ、そーゆーりゆーならこの扉を開くわけにはいかないであろーなー」
 室内にどんな人物がいると予想したのか、小シマロン巡視官はくるりと背を向けた。一目散に自分達の船へと戻ってゆく。
 彼等の胸の中「|衝撃《しょうげき》の事実! 魔族の貴人の性的|嗜好《しこう》」みたいなスキャンダルでいっぱいだろうが、今ここでそれを話し合うわけにはいかなかった。きっと船に戻ってから、全員できゃーきゃー騒《きわ》ぐのだろう。一刻も早く|誰《だれ》かに話したいに|違《ちが》いない。そのせいか来たとき以上に早足で、ポニーテールは振り向かない。
「え、ちょっと? ちょっとお待ちなさい。|皆様《みなさま》は何かを誤解されたのでは?」
 見事な手腕《しゅわん》を発揮した|王佐《おうさ》に感謝し、肩《かた》を軽く叩《たた》いてやる。
「そう落ち込むなよギュンター、マッスル好きは別に恥《は》ずかしいことじゃないさ」
「えええっ!?」
「そうだぞギュンター、母上だって大好きだ」
「えええええーっ!?」
 遠くの空の下でツェリ様が『あたくしはぁ、筋肉、だぁい好きー』と|叫《さけ》んでくれている気がした。……ギーゼラには報《しら》せないでおこう。
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