今日からマ王10-1

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    1 一九三八年・春、ボストン

 
 名前はエイプリル・グレイブス。
 でも四月生まれじゃない。
 両親は、あなたが若葉の季節を思わせるような可愛《かわい》い女の子だからよなどと、苦しい言い訳をしていたが、縮れた焦《こ》げ茶《ちゃ》の髪と陰鬱《いんうつ》そうな青灰色の瞳が、今日のようなボストンのささやかな春にさえ似つかわしくないことは、幼いながらもすぐに判った。
 祖母がこだわったという名前の由来に気付いたのは、十歳を過ぎてからだった。別荘《べっそう》がお隣《となり》だったペンドルトン家は大家族で、歳《とし》の近かった四男のニックでさえ、子供のことなら何でも知っていた。三人目の弟か妹ができたらしい、でも生まれるのは十ヵ月後。そう話してくれた友人と|一緒《いっしょ》に数えると、自分の誕生日はまさに四月から十ヵ月後。つまりエイプリルという可愛い名前は、彼女が母親の胎内《たいない》に芽生えた月からとられていたのだ。
 まぎらわしい。いっそ|普通《ふつう》にアンとでもつけてくれればよかったのに。生まれて十八年|経《た》った今でも、ときどきそんなことを考える。
 しかし祖母の意見は絶対だった。グレイブス家の権力ピラミッドの頂点には、常にヘイゼル・グレイブスが君臨していて、誰も異論を唱えることは許されない。事実そうやって一族は財を成し、移り住んだアメリカでそれなりの地位を築いた。祖母の得た金を元手に祖父が事業を興《おこ》し、それを継《つ》いだ娘婿《むすめむこ》であるエイプリルの父が、今日まで堅実《けんじつ》な経営を続けてきた。十年前に始まった大恐慌《だいきょうこう》も乗り切ったし、ヨーロッパからの相次ぐ不穏《ふおん》な情報にも、今のところ早めに手を打てている。それもこれも皆、グレイブス家が|一致《いっち》団結して祖母の教えを守ってきたからだ。二年前に彼女が天に召《め》されてからも、その姿勢は変わらない。
 そう、大切なことは何もかも祖母に教わった。
 絶対に安全だと思っても、あと五つ数えてから動けということも』
 窓の下の低い壁に身を押し付けて、エイプリルは喉《のど》の奥でカウントを始めた。一、二、三……四で慌ただしい靴音《くつおと》が|響《ひび》き、|脱出《だっしゅつ》するはずだった方向から警備が走ってきた。息を殺し、慎重《しんちょう》に覗き見ると、四人は銃《じゅう》の引き金に指をかけている。あと五秒を急いて駆《か》けだしていたら、確実に蜂《はち》の巣《す》になっていただろう。
 連中が立ち去るのを待ってから、彼女はその場を後にした。目的の品は首にかけ、シャツのボタンを一番上まで墳《は》めている。
 故買で建てた城と囁《さきや》かれる|屋敷《やしき》から持ち出したのは、亡国の王家に伝わる装身具だった。縞《しま》瑪璃《めのう》の珠《たま》を中心にしたネックレスは、華《はな》やかで美しいとは言い難《がた》いだが祭礼用の石は不思議な力を宿し、|純粋《じゅんすい》な乙女《おとめ》の生気を吸って赤く輝くという。平気で身に着けていられるのは、自分が純粋さに欠けている|証拠《しょうこ》だろう。唇《くちびる》を歪《ゆが》めて軽く笑う。
「エイプリル!」
 高い塀《へい》の下でパートナーが手を振っている。どこから手に入れたのか陸軍の制服姿だ。彼の脇《わき》には軍用の緑のジープが、エンジンをかけたまま待機している。
「飛び降りるよ、DT《ディーティー》」
「なに!?」
 相棒が|狼狽《うろた》えた表情になった。アジア系民族は普段でも年齢不詳《ねんれいふしょう》だが、そういう顔をすると彼は五つは若く見える。もうとっくに三十を過ぎているのに、華僑《かきょう》の|坊《ぼっ》ちゃんみたいな童顔になるのだ。
「待てよエイプリル、今、マットか何かを……」
 言い終わらないうちに煉瓦《れんが》を|蹴《け》り、四、五メートルはある塀から飛び降りた。慌てながらもDTは|両腕《りょううで》を差し出し、どうにか彼女を受け止める。
「うう、腕が折れる」
「|大袈裟《おおげさ》ね。重いのはあたしじゃなくてネックレスでしょ」
「重いとかそういう問題じゃねえよ! 飛び降りるか普通!? あの高さから! 大体な、お前さんはちょっとやり方が大雑把《おおざっぱ》で乱暴すぎるんだよ。今だけのことじゃねーぞ? この二年間ずーっとそうだ。優雅《ゆうが》さとか、緻密《ちみつ》な計画ってもんが欠片《かけら》もない。そもそも『獲物《えもの》』が隣の州にあるんなら、どうしてはるばるメキシコまで行く必要があったんだよ」
「ほんと、それには|驚《おどろ》いたよね。笑っちゃう」
「笑うな! もうちょっとオレに相談して、事前に手間かけて調査すりゃあ良かったんじゃねーか。あーあ。聞くところによるとヘイゼル・グレイブスの果たす仕事は、そりゃあエレガントだったらしいのに。その孫がこれってどういうことよ……」
 説教めいた泣き言を続ける相手を遮《さえぎ》って、エイプリルは汚れたジープに飛び乗った。
「なによ、自分の非力ぶりを棚《たな》に上げて。その細腕、フットボールでもやって|鍛《きた》えたらいいのに」
「オレのせい? オレのせいだって言いたいのか?」
 日常生活でエイプリルの周囲にいる男達、つまり|親戚《しんせき》や高校の同級生と比べると、アジア系の人間は小柄《こがら》で手足も細い。エイプリル自身もあまり恵《めぐ》まれた体格とは言えなかったので、どっちもどっちというところだ。
「いーんだよ、生まれ故郷じゃこれで標準なんだよ。そっちこそ十八にもなって、ボーイスカウトみたいな体型しちゃってさ。そんなに胸のない白人の女とは付き合ったことがない」
「胸は仕事と関係ないでしょっ!?」
 言い終わるよりも先に、ぼそぼそと|呟《つぶや》く年上の相棒の後頭部を叩《たた》いた。
「し、しかも暴力女……辞めさせてもらう、オレはもう絶対に辞めさせてもらうからな。ヘイゼルには色々と世話になったから、頼《たの》まれたとおりに二年間お守りをしてきたけども……」
 彼の祖国がどこなのかは知らなかった。それどころか彼の本名も、|年齢《ねんれい》さえ|訊《き》いたことはない。判《わか》っているのは|中華《ちゅうか》料理屋を経営する、信じられないほど美人の妻がいることくらいだ。彼の妻の店に行ったのは、DTと知り合う前だった。祖母はお気に入りの孫を連れて、チャイナタウンで食事を楽しんだのだ。
 店で初めて会ったときには、合衆国に来る前はきっと東洋のお姫様《ひめさま》だったのだろうと思った。彼女ほど深紅《しんく》のチャイナドレスが似合う人はいない。たとえスープ皿の載《の》った銀の盆《ぼん》を抱《かか》えていても、優雅な動きは皆《みな》の目を引きつける。結《ゆ》い上げられた髪《かみ》は艶《つや》やかに黒く、露《あら》わになった項《うなじ》は温かな白だった。あの独特な形のスプーンを使いこなす様は、同性のエイプリルから見ても官能的だ。
 美しい妻と|繁盛《はんじょう》している店を持っているのに、|何故《なぜ》こんな|稼業《かぎょう》を続けるのかと訊くと、DTは当たり前のようにこう答えた。
 あっちは、女房の仕事だし。
 彼とは祖母がまだ生きていた頃《ころ》に、フェンウェイ・パークで|突然《とつぜん》引き合わされた。
『DT、この娘《こ》がエイプリル。私の後継者《こうけいしゃ》よ。二年間だけ一緒に行動してやって』
 十六歳で|謙虚《けんきょ》さを知らなかったエイプリルは、祖母のやり方に|憤慨《ふんがい》した。何もかも自分一人でできると思い込んでいたのだ。実際には、初心者が一人でできることなど何一つなく、やっと正しい判断が下せるようになったのは、最初の一年をどうにか生き延びてからだった。
 だが、残りの一年ももうすぐ終わる。
 アクセルを踏《ふ》みながらDTが言った。
「来週だ、来週には約束の二年が過ぎる。そしたらオレは晴れて自由の身、また元の気楽な一人働きに戻《もど》れるんだ。もう暴れん|坊《ぼう》お嬢様《じょうさま》の|面倒《めんどう》はみなくてもいい。お前さんにゃ悪《わり》ィけど、もう十代の女の子とは組まないからな」
「こっちから願い下げ。これでやっと年寄りに指図されずに済むかと思うと、あたしも十歳は若返るってものよ」
「十歳若返ったら、走り回るだけのただの猿《さる》じゃ……」
「うるさい」
 エイプリルが肩《かた》を叩いたので、ジープは|極端《きょくたん》に右に寄った。その|途端《とたん》、今まで車のいた場所で、数発の銃弾《じゅうだん》がアスファルトを抉《えぐ》った。
「あらら」
 二人同時に首を引っ込め、できるだけ座高を低くする。ちらりと背後を窺《うかが》うと、光るほど磨《みが》き上げられた黒のフォードから、男が二人、身を乗り出している。
「あんなピカピカの車で追ってきたのね。DT、あたし撃《う》ち返すけど」
 返事を待たずにモスグリーンのライフルを手にしている。小柄な|身体《からだ》に不釣《ふつ》り合《あ》いなサイズの小火器だが、新兵よりはうまく|扱《あつか》う自信があった。
「|反撃《はんげき》してもいいー? とか訊く乙女心はお前さんにゃないのね……あー、はー、いーですよ。いーですよ。ただし州境までにしてね。ベイステイトの警察にはオレ顔が効かないからね」
 そんな乙女心がどこにある。
 まったくどうしてヘイゼルはこんな荒《あら》っぽい子を後継者にしたんだろうと、運転手は口の中で呟いた。
 
 最近のビーコン・ヒルは|目障《めざわ》りな高級車ばかりだ。
 だから暮れかけた土曜の夕方とはいえ、その中をバイクで突《つ》っ切るのは痛快だった。特に可愛《かわい》らしい看板の並ぶチャールズ・ストリートでは、軍|払《はら》い下げの埃《ほこり》まみれの乗り物は異様に目立った。上品そうな老婦人が|眉《まゆ》を顰《ひそ》め、腕を組んで歩く恋人《こいびと》達が噺き合う。
 好きなように|噂《うわさ》をすればいい。陰口《かげぐち》にはもう慣れた。
 エイプリルは煉瓦《れんが》敷《じ》きの車回しに二輪を乗り付け、緑が禿《は》げて黒っぽくなったヘルメットを取った。裏口であるにもかかわらず、|扉《とびら》の前には初老の男が待ちかまえていた。どこにも|隙《すき》のないスーツ姿だ。エイプリルの|記憶《きおく》が確かならば、彼のネクタイは一ミリたりともずれていたことはない。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
 白髪《しらが》の増えた頭を下げてから、軽く腰《こし》を屈《かが》めヘルメットを受け取った。
「ただいま、ミスター・ホルバート。バイクを車庫に回すよう|誰《だれ》かに頼めるかしら」
 執事《しつじ》を始め、使用人には敬意をもって接すること。これも祖母に教えられた。実際、ホルバートは|完璧《かんぺき》な執事だ。人生の|先輩《せんぱい》として尊敬できる。それに自分が生まれる前からこの家にいるので、どの知人よりも長い付き合いだ。
 彼はエイプリルの最初の友人で、両親よりも身近な存在だ。
「どうぞベンヌヴォートとお呼びください。それよりお嬢様、お約束の時間を大幅《おおはば》に過ぎております。旦那様《だんなさま》と奥様は一時間前にお出になられましたよ」
「|嘘《うそ》っ!? 一時間も前に? 大変、今日は誰のパーティーだっけ。えーとえーと何の寄付金集めだっけ」
 重い扉を開きながら、ホルバートは少しも慌《あわ》てたところのない口調で続けた。
「博物館の建設でございます。お部屋のクローゼットに本日用のドレスが。奥様がお選びになったものだそうです。ルイーザが娘の出産で実家に戻っておりますので、お許しをいただけるならエスタがお手伝いいたします」
「ああ、でも髪を結ってる時間はなさそうよ……エスタってこの間来たばかりのブルネットの娘よね。彼女、スペイン語が話せるかしら。頼めばあなたみたいに教えてくれると思う?」
「もちろんですとも」
 エイプリルのドイツ語教師はホルバートだった。祖母は幼い孫娘《まごむすめ》に、週に六時間の授業の間は、彼を先生と呼ぶように命じた。母親はきちんとした家庭教師を雇《やと》うべきだと主張し、祖母の案にいい顔をしなかった。だが、|優秀《ゆうしゅう》な指導者のお陰《かげ》でドイツ語の成績は飛躍《ひやく》的に上がり、今では英語と同じくらい流暢《りゅうちょう》に話せる。
 同じ方法でスペイン語もマスターできれば、通訳なしで歩ける国も増えるだろう。
「後でエスタに言っておきましょう。念のためにDT様のディナージャケットもご用意いたしましたが?」
 祖母の代からこの家にいるホルバートは、エイプリルの行動と相棒を知っていた。
 娘婿《むすめむこ》であるエイプリルの父親も、会社や財産を守る都合上、妻の両親に秘密を打ち明けられてはいる。だが、祖父母がこの世を去った現在、彼女の裏稼業について一番|詳《くわ》しいのはこの執事だろう。
「いいえ、いつもどおり彼は来ないの。でもありがとう、聞いたらきっと喜ぶわ」
 あなたも来る? と訊く度《たび》に、アジア人は暖昧《あいまい》な笑《え》みを浮《う》かべる。オレがお嬢さんとビーコン・ヒルに乗り込んだら、あらゆる意味で大騒《おおさわ》ぎだろうな、と言うのだ。否定できない自分が恥《は》ずかしかった。そういう社会に属している自分自身が、時々たまらなく嫌《いや》になる。
 エイプリルははしたなくも靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ捨てて、裸足《はだし》で階段を駆《か》け上がった。踊《おど》り場で|一旦《いったん》足を止め、手摺《てす》りに身を乗り出してホルバートに|尋《たず》ねる。
「ねえ、ママが選んだドレスって、もしかしてあのピンクの派手なのかしら。だったら最悪。多分|袖《そで》が入らない」
「……お見受けしたところ、体型が変わられたようには……」
 首を傾《かし》げる長年の友人に、彼女は肘《ひじ》を曲げてみせた。
「おめでとうと言って。二の腕に筋肉がついたのよ」
 
「エイプリル! なんなのその格好は」
 そっと侵入《しんにゅう》したはずなのに、たちまち母親が駆け寄ってくる。
「あれだけ約束したのにまた|遅《おく》れて。やっと現れたと思ったら、なんなのその流行|遅《おく》れの服装は? まるで開拓《かいたく》時代の歌姫《うたひめ》みたいじゃないの!」
「ママったら、アンティークの良さを判ってないのね。おばあさまのお気に入りのドレスじゃないの。ほら見て、この襟《えり》のレースの精巧《せいこう》なこと。この服を覚えてないの? おばあさまはこの深いブルーでヨーロッパの社交界を……」
「覚えていますとも! だってあなたは先週のパーティーにもまったく同じ格好で現れたんですからね」
 言われてみればそんな気もする。
 お嬢様育ちの母親は|大袈裟《おおげさ》に眉を顰め、この世の終わりとでもいいたげな顔をした。つっと胸元に指を伸《の》ばされて、エイプリルは反射的にそれを避《よ》けた。どうせ渡《わた》す相手もこの場に来ているのだからと、身に着けたままで来てしまったのだ。
「それにその無骨なネックレスはどこの国の民芸品なの? またどうせ|怪《あや》しげな古物商で見つけたんでしょうけれど。いやだわ、呪《のろ》いの|儀式《ぎしき》でもするつもり? 若い娘のするようなデザインじゃなくてよ。ねえ、ルビーのチョーカーはどうしたの。今夜に合わせて選んだ衣装《いしょう》一式を、上から下までクローゼットに|揃《そろ》えておいてあげたでしょう」
 母にはこの装身具の価値が判《わか》らない。そのせいで銃撃戦《じゅげきせん》が繰《く》り広げられ、しかも主役が自分の娘《むすめ》だったなどと知れば、白目を剥《む》いて|卒倒《そっとう》してしまうだろう。
「いやよあんなピンクの|間抜《まぬ》けなドレス。第一あんなデザインの服を|被《かぶ》ったら、布が余ってますますチビに見えちゃうわ。ただでさえ貧相な体格なんだから、もっと個性的で締《し》まったものを着なくっちゃ」
「まあ、そんな、この子ったら……なんて可愛げのないことを」
 彼女はオロオロと周囲を見た。何人もの「お嬢さん」方の視線が、グレイブス母娘《おやこ》に向けられていた。ゆったりとした裾《すそ》の長いドレスと|手袋《てぶくろ》で、頭には上品な|帽子《ぼうし》をちょこんと載《の》せている。あんなもので|砂漠《さばく》を歩いたら、三分と経《た》たないうちに日射病だ。
「ごきげんようー、みなさまー」
 エイプリルはにこやかに右手を振《ふ》った。従姉妹《いとこ》が心配そうにこちらを見ている。一族で|唯一《ゆいいつ》のブロンド美少女、麗《うるわ》しのダイアン・グレイブスだ。
 彼女は|素直《すなお》でとても|優《やさ》しい。多くの場合エイプリルの味方だが、この場を救ってくれるほど饒舌《じょうぜつ》ではない。
「あなたも少しはダイアンを見習って欲しいものだわ。女の子らしいし、マナーも完璧だし、男性ともきちんとお話できるし」
「あたしだって男と……いいえ、わたくしだっていつも男性と対等にお話していますわ。おかあさま」
「それが問題なのよ」
 エイプリルだって必要なときにはお嬢様《じょうさま》らしく振舞《ふるま》うし、裾を踏《ふ》みそうな|鬱陶《うっとう》しいドレスだって着る。フォーマルなパーティーにも臆《おく》せず踏み込むし、男性とのお|喋《しゃべ》りだってそつなくこなす。文化人気取りの男を言い負かすのも大得意だし、酒の飲み比べで破れたことはない。
 もっともこの州での飲酒が知られれば、たちまち逮捕《たいほ》されてしまう|年齢《ねんれい》だが。
「大体ねえ、あのクローゼットの中身は何? 牛追い娘とジャングル探検隊の集団みたいじゃないの。あなたはテキサスの農場にでもお嫁《よめ》にいくつもりなの? カウボーイごっこが|微笑《ほほえ》ましいのは六歳までのことよ。ママが十八歳の頃《ころ》には、|結婚《けっこん》相手を探し始めていましたよ」
 昔の男女関係を持ち出されても困る。
「それでエイプリル。下見に行った大学はどうだったの? いい加減に学校を選んでくれないと」
「ああ、ニューヨークの大学にすごくユニークな考古学の教授が……」
「まあ、教授! 教授では少し年上過ぎない?」
 母親は大学の存在意義を理解していない。
「いいこと、エイプリル。ダイアンのように落ち着いて、女の子らしくして、素敵なお相手を選んでちょうだい。それで一刻も早くお父様とお母様を安心させて。判っているでしょう? あなたはグレイブス家の大切な一人娘なのよ。お祖母様《ばあさま》の名前を継《つ》ぐのはあなたなんですからね」
 でもね、ママ……。
 エイプリルは聞こえないように溜《た》め|息《いき》をついた。
 母親を始め一族の|殆《ほとん》どの人間は、祖母の本当の姿を知らない。事業の元手となった|莫大《ばくだい》な額を、あの女傑《じょけつ》がどうやって手に入れたのか。結婚、出産した後も続いたヘイゼル・グレイブスの正体を知っているのは、一族の人間では祖父と父、それに孫娘の自分くらいだ。
 その上、ヘイゼル・グレイブスの最期《さいご》に居合わせた者は、エイプリルをおいて他《ほか》にいない。あのときのことを思い出すと、今でも背筋が寒くなる。全身を火に包まれた姿が夢に現れ、うなされることもしばしばだ。
 手に入れたばかりの邸宅《ていたく》を、コレクションの展示室にしようと改装していた最中だった。
 あの日は彼女が最も大切にし、家族にさえ|滅多《めった》に見せなかった幾《いく》つかの品を、自らの手で運び入れていた。悲鳴を聞いたような気がして、エイプリルは階段を駆け上がった。祖母のいる部屋のドアを開けると、そこには小さな|棺《ひつぎ》ごと火に包まれたヘイゼルがいた。
 青い炎《ほのお》をまとった祖母の表情は、不思議なことに苦しげではなかった。カーテンや敷物《しきもの》に燃え移るまでは、近くにいたエイプリルさえ熱さを感じなかったほどだ。あれはこの世のものではなかったのかもしれないと、ふと神秘主義的な気持ちになることもある。
 夢の中で祖母は必ずこう言う。エイプリルを見詰《みつ》めて悲しげに首を振る。
 
『触《ふ》れてはいけない』
 
 確かにあたしはグレイブスの家と、ヘイゼル・グレイブスの遺《のこ》した財を継ぐだろう。でも受け継ぐのはそれだけじゃない。遺言書や目録に書かれてはいないが、エイプリルには判っていた。祖母が自分に託《たく》したのは、数字では表現できないものだ。
 母は娘の|中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な長さの髪《かみ》に手を伸ばし、またまた長い溜め息をついた。他の女の子のように短くしてウェーブをつけるか、ゴージャスに結《ゆ》い上げて欲しいのだ。
「髪もばさばさ。しかもエイプリル、一週間会わない間にあなたったらどれだけ日に焼けたの……そういえば何だか変な|匂《にお》いが……埃臭《ほこりくさ》い、というよりなにか……なにかカビ臭いわ」
 ああ、おかあさま、ごめんなさい。かろうじてシャワーは浴びたものの、髪まで洗っている|余裕《よゆう》がなかったの。
「エイプリル、あなた一体どこの大学を下見に行ったの? それにこの貧弱な髪飾《かみかざ》りは何なの。もっと華《はな》やかなものを幾らも持っているで……」
 小言は悲鳴に変わった。全長五センチ程の八本足が、白い絹の手袋を這《は》っている。
「いやぁぁぁ! 蜘蛛《くも》よっ! 蜘蛛クモっ! 手に毒蜘蛛がッ」
「落ち着いてママ、毒なんかないわ。|普通《ふつう》の蜘蛛よ。ほら、下水道とか廃屋《はいおく》とかに巣を張ってるやつ……」
「なんでそんなものがあなたの髪に住んでいるのっ!?」
「失礼ね、棲息《せいそく》しているわけじゃないわよ」
 近くにいたダイアンがとんで来た。周囲を巻き込んだ大騒《おおさわ》ぎになる前に、どうにか取りなそうと思ったのだろう。
「伯母様《おばさま》、しっかりして。|大丈夫《だいじょうぶ》ですわ。蜘蛛なんて庭の木にいくらも居ますもの。さ、あちらで少しお休みになったらどうかしら。テラスの近くは風が通って気持ちがいいし」
 伯母の手を引き親切に|椅子《いす》まで連れて行ってから、人を縫《ぬ》ってわざわざ戻《もど》ってくる。母親と揉《も》めたエイプリルを責めるのではなく、慰《なぐき》めるために来てくれたのだ。二つ年上の従姉妹は底抜《そこぬ》けにいい人で、ときにはそれが鬱陶しくなる。
「エイプリル、あんまり落ち込まないでね」
 |誰《だれ》が? と胸の内だけで突《つ》っ込んだ。
「わたしも小さい頃はお転婆《てんば》で、髪に蜘蛛の巣を絡《から》ませてはママに|怒《おこ》られたものよ。伯母様だってきっとちょっと|驚《おどろ》かれただけ。もう怒ってはいらっしゃらないわ」
 くるりと内側に巻いた黄の強いブロンド、ふっくらとした薄紅色《うすぺにいろ》の頬《ほお》。知性と慈愛《じあい》に|輝《かがや》く濃《こ》いブルーの|瞳《ひとみ》。とても従姉妹同士とは思えないくらい、自分とダイアンは似ていない。その上、彼女は性格の良さも聖人なみだ。誰かの人格を否定したり、陰口《かげぐち》を言ったりするところを見たことがない。
 ダイアン・グレイブスこそ理想の女性だ。国中の男は競って彼女にプロポーズすべきだが、残念ながら売約済みである。
 彼女のお相手というのがまた物語の中から抜《ぬ》け出してきたような男で、太股《ふともも》の膨《ふく》らんだズボンを履《は》かせ羽根のついた帽子を|被《かぶ》らせれば、たちまち王子様のできあがり。毎週月水金の夕方に空色の車で迎《むか》えに来て、ぴったり十時には送り届けるので、ついたあだ名はミスター・スケジュールだった。
 ハーバードの王子様とカレッジの理想の女性。一体どうすればこんな恐《おそ》ろしいカップルが成立するのだろう。
「伯母様はああ|仰《おっしゃ》るけれど、わたしとしては大学はじっくり選ぶほうがいいと思うの」
 ダイアン・グレイブスにただ一つ問題があるとすれば、エイプリルが年下のか弱い従姉妹であると|勘違《かんちが》いしている点だ。あのねえダイアン、いい加減に気付いてよ。年に十回くらいはそう言ってやりたくなる。
「エイプリルのやりたいこと、学びたいことを学ぶべきだわ。伯母様だってきっと判《わか》ってくださるわよ。わたしも|微力《びりょく》ながら応援《おうえん》する。できることがあったら何でも言ってね。そうだわエイプリル、南北戦争の映画の話を聞いた?」
 お姉さんぶって|拳《こぶし》を|握《にぎ》り締めた後は、楽しい話題を必死に探している。|眉《まゆ》を寄せて|黙《だま》り込む従姉妹を見て、まだ落ち込んだままだと勘違いしているのだろう。
「すごい大規模な撮影《さつえい》なんですって。|一緒《いっしょ》に見学に行きましょうよ。俳優の誰かに会えるかもしれないわよ。ああそれとも、来月ヨーロッパに行く予定があるのだけれど、良かったらあなたも一緒にどう? あら……エイプリル、これ素敵ね……なんだか……みょうな、いろづかいだけども……」
 一生|懸命《けんめい》喋《しゃべ》っていたダイアンの口調が、酔《よ》ったみたいに舌足らずになる。気付いたエイプリルが|身体《からだ》を捻《ひね》るより先に、従姉妹の指は縞《しま》瑪瑙《めのう》の装身具を掴《つか》んでいた。
「|駄目《だめ》よっ」
「あ……」
「ダイアン!?」
 |一瞬《いっしゅん》で頬から血の気が引き、腕《うで》がだらりと脇《わき》に垂れた。四肢《しし》の力が抜き取られ、糸の切れた操《あやつ》り人形みたいに頽《くずお》れる。
「大変! どうしようダイアン、しっかりして!」
 慌《あわ》てて抱《だ》きとめようとするが、|脱力《だつりょく》した身体は予想以上に重い。自分も床《ゆか》にへたり込みながら、エイプリルは従姉妹《いとこ》の息を確かめた。顔は紙のように白く、唇《くちびる》も青紫《あおむらきひ》に変わっているが、辛《かろ》うじて浅い呼吸を繰《く》り返している。
 一方で胸にある縞瑪瑙は赤茶に輝き、再び若い女性の生気を吸い取ろうと、虜《とりこ》にした獲物《えもの》を呼んでいる。ダイアン・グレイブスの細い指が、意識もないのに宝石を求めて持ち上がる。
「だめ!」
 思い思いに過ごしていた人々が、何事かと集まってきた。すぐに醜聞《しゅうぶん》好きな連中に取り囲まれ、いくつもの|好奇《こうき》の目で見下ろされる。
「誰か医者を、救急車を呼んで!」
 助けなどあるはずがないと判断し、エイプリルは全力で従姉妹の身体を抱《かか》え上げようとした。どこかゆっくりと横になれる場所へ、自分一人ででも運ばなくてはならない。
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「お願いよ、医者を」
「そのままでいいよ」
「え?」
 いきなり声をかけられて顔を上げると、ちょうど人垣《ひとがき》の中央を割って、風変わりな男が現れたところだった。
「きみ一人の力じゃ無理だ、腰《こし》を痛めるよ。とりあえずそのまま、身体を伸《の》ばしてやって様子をみようか。なーに、気を失ってる人間は、ベッドのスプリングにまで文句はつけないものさ」
 老いも若きも着飾《きかざ》ったホールの中で、一人だけ泥《どろ》のこびり付いた革靴《かわぐつ》を履いている。どこかくたびれた感じのストライプのスーツは場違《ぱちが》いだし、頭にはパナマ帽《ぼう》を載《の》せたままだ。
 遠く長い、旅の|途中《とちゅう》。エイプリルの目にはそう映った。
 男はしゃがみ込んでダイアンの手首を握り、秒針と比べて脈を確かめた。|目蓋《まぶた》を押し開け、首筋に触《ふ》れてみてから、帽子を脇に置いて顔を上げた。黒い髪に一筋だけ白髪が混ざっているが、眼鏡《めがね》の奥の黒い瞳や、顔の皮膚《ひふ》の張りは若々しい。両親よりも年下だろう。三十代の終わりくらいか。
「大丈夫だ、しっかりしてる。心配ないよ、軽い貧血だろう」
「あなた誰?」
 あまりにも不信感を露《あら》わにした問いかけだったせいか、楕円《だえん》形のレンズ越《ご》しに苦笑する。
「信用ならないかい? 僕は医者だ。きみが生まれた頃《ころ》から医者をやってる」
 笑うと目尻《めじり》に細かい皺《しわ》ができた。年齢《ねんれい》より若く見えるのは、撫《な》でつけていない前髪《まえがみ》のせいかもしれない。医師にしては|威厳《いげん》の足りない話し方だ。それに聞き慣れない|訛《なま》りもある。
「誰か、お嬢《じょう》さんをベッドにお連れして。念のために主治医を呼びなさい。ご家族が心配するといけない。それからエイプリル……」
 |何故《なぜ》、名前を知っているのか訊《き》くよりも先に、医者の指が縞瑪瑙の装身具を引っ掛けた。純粋《じゅんすい》な乙女《おとめ》以外[#「以外」に傍点]なら、生気を吸われる恐れもない。
「あまりいい趣味《しゅみ》とはいえないね」
「余計なお世話よ」
 エイプリルは身体を反らし、医者の手から暗色の宝石を取り戻した。駆《か》けつけたダイアンの恋人《こいびと》に場所を|譲《ゆず》り、ゆっくりと立ち上がる。
「従姉妹を診《み》てくれたことには感謝する。でもそれ以外のことは、あなたには関係がないでしよう。|素人《しろうと》が口を出すものじゃない」
 男は口笛でも吹《ふ》きたそうな顔をした。
「なるほど、ヘイゼルがきみを後継者《こうけいしゃ》にした理由が判る気がするよ」
「どういう意味?」
 祖母の名と、明かしていない稼業《かぎょう》のことを仄《ほの》めかされて、気付かないうちに身構えている。
「あなた誰? おばあさまの知り合い?」
「彼はヘイゼルの友人だよ、エイプリル」
 聞き覚えのある声に振《ふ》り返ると、何度も会った男がいつもどおりに|微笑《ほほえ》んでいた。
「それは私が頼《たの》んだ品だね?」
「そうよ、ボブ」
 |誰《だれ》もが彼を愛称《あいしょう》で呼び、誰も彼をファミリーネームで呼ぼうとはしない。本当は先祖から続く名前があるのだが、|契約書《けいやくしょ》にサインをするとき以外、並んだ文字に意味はないのだという。
 多くの人にはボブと呼ばれ、一部のごく限られた人間のみに「|魔王《まおう》」と呼ばれる男は、しばらく前から突《つ》き始めたステッキを片手に、穏和《おんわ》な表情で立っていた。
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