トットチャンネル(20)

サイン・プリーズ

 
 トットと鈴木|崇予《みつよ》さんは、授業が終って、夜の道をNHKから新橋にむけて歩いていた。鈴木さんは、最後の面接の試験のとき、黒いスーツの胸に赤いバラをつけていた人だった。
 二人が、新橋の第一ホテルの近くのビルとビルの間の細い道にさしかかったとき、前のほうから、背の高い大柄《おおがら》の外人の男の人が歩いて来た。その人は、トット達《たち》を通してくれるために立ち止った。外燈《がいとう》の下で、何気なく、その人の顔を見て、トットは驚《おどろ》いた。
「あっ! あの……映画に出た人!」
 鈴木さんも、ほとんど同時に気がついた。その人は、その頃《ころ》、大ヒットしたアメリカ映画、「花嫁《はなよめ》の父」で、エリザベス・テイラーの恋人役《こいびとやく》をやって大人気の、ドン・テイラーという俳優だった。その人は、やさしくトット達を通らせてくれると、ドンドンと第一ホテルのほうに向かって歩き出した。有名なスターなのに、たった一人だった。(こういうときの心理というのは不思議なものだ)と、あとからトットは思ったけど、熱狂《ねつきよう》的なファンではないにしろ、�素敵《すてき》だと思ってる有名な人に逢《あ》った�ということは、ショックであり、そのまま行き過ぎるのは、勿体《もつたい》ない、という、そんな気持だった。とっさに、トットは鈴木さんに、いった。
「ねえ、サインして貰《もら》おう? 今日の記念に」
 サインをして貰う、というようなアイディアは、当時としては、よく見ていたアメリカ映画の影響《えいきよう》だった。とにかく二人は、走って後《あと》を追った。大きな背中にむかって、トットが声をかけた。
「エックス・キューズ・ミー」
 その人は振《ふ》り返った。明るいところで見た顔は、映画と同じだった。トットは勇気を出して聞いた。
「アー・ユー・ミスター・ドン・テイラー?」
 ふっくらとした顔をほころばせて、その人は答えた。「イエス」
「わあー、よかった」と、トットは日本語で言ってから、いそいで、つけ足した。
「ウイル・ユー・ギヴ・ミー・サイン?」
 本来なら、オートグラフとかいうのだろうけど、たしか、(サインとかいうのだな)と思って言ってみたら、通じた。なにしろ、ドン・テイラーが、にっこりして、
「オブ・コース」と、いったんだから。
 それからが大変だった。何に書いてもらうか、だった。トットは考えたあげく、ノートより、その日の吉川義雄先生の授業の教材、「花伝書《かでんしよ》」が、いい、と考えた。トットは鈴木さんに、「お先に、どうぞ」といった。鈴木さんは、勉強のノートを出し、
「ウイル・ユー・プリーズ?」と丁寧《ていねい》にいった。鈴木さんは、実践《じつせん》女子大の英文科に在学中だし、トットは、一生懸命《いつしようけんめい》の生徒ではなかったけど、英国系のミッションスクール「香蘭《こうらん》女学校」で、典型的なイギリス夫人から英語を習ったから、二人あわせれば、なんとかなったのだった。
 鈴木さんのノートを手にすると、ドン・テイラーは、�何か書くもの……�という仕草をした。(本当だ! なんて、私ときたら、気がきかないんだろう)トットは大急ぎで、バッグの中に頭をつっこむようにして、書くものを探した。鈴木さんも、ゴソゴソ、バッグに手をつっこんだ。でも、それより早く、ドン・テイラーが、自分の上着の内ポケットから、万年筆を取り出すと、はっきりとした、読みやすい字で、大きく、ドン・テイラー、と書いた。鈴木さんは顔を赤くして、
「サンキュー」と、いった。トットは、文庫本の花伝書の、最初のページを開いて渡《わた》した。ドン・テイラーは、それが日本の本とわかると、あっちこっち、パラパラ、ページをめくった。そして、「まるっきり歯が立ちませーん。チンプンカンプン!」という風な、滑稽《こつけい》なジェスチャーをした。「花嫁の父」の中の、しっかりとした真面目《まじめ》な青年という印象より、今のほうが、トットには面白《おもしろ》かった。トットも鈴木さんも声を出して笑った。ドン・テイラーも笑った。そして、トットの花伝書に、たっぷりと、世阿弥《ぜあみ》先生もびっくりなさるほどの、ドン・テイラーのサインが入った。トットはお礼をいい、大きく、おじぎをして失礼しようとした。ところが、そのとき、ドン・テイラーが、なにか、いいにくそうにしながら、トットに、話しかけた。(なんだろう……)トットは緊張《きんちよう》した。ドン・テイラーは、トットのカバンを指して、
「ファウンティン・ペン」と、いった。
「ファウンティン・ペン?」トットが聞き返すと、ドン・テイラーは、さっきと同じ、�書く�仕草をした。あわててバッグに手をつっこんで、トットは、すべてを了解《りようかい》した。
「アイム・ソーリー」
 要するに、サインをして貰って興奮したトットが、ドン・テイラーの万年筆も、花伝書と一緒《いつしよ》にカバンにしまってしまったのだった。トットが銀色のピカピカ光る万年筆を返すと、ドン・テイラーは、「サンキュウー」といい、もう一度にっこりして、ホテルの中に入って行った。トットも鈴木さんも、夢《ゆめ》を見ているように思って、しばらく動けなかった。
 次の日、NHKに行って、この話を報告すると、男の子は、
「ケチだなあー、ハリウッドのスターなんだから。なんだい、万年筆の一本くらい!!」と、口惜《くや》しまぎれの調子でいった。でも、トットは、むしろ、
「万年筆を返して」
 という、人間っぽい人が、ハリウッドのスターとわかって、うれしかった。(私達と同じだ)と思って。第一、言ってくれないで、あとでバッグの中に万年筆を発見したら、トットは、(泥棒《どろぼう》のようだ)と、自分を、せめたに違《ちが》いなかった。
 それにしても、ハリウッドのスターが、何故《なぜ》、新橋にいたか? ということは、後になって新聞などでわかったことだけど、朝鮮《ちようせん》戦線の慰問《いもん》のためだった。同じ頃「若草物語」のマーガレット・オブライエンだとか、ダニー・ケイ、ボブ・ホープ、マリリン・モンローといった人達も、そのために日本に立ち寄っていた、と、わかった。
 それから数年後、ドン・テイラーは、ウィリアム・ホールデンと、「第十七|捕虜《ほりよ》収容所」に出演した。ドイツの収容所から、アメリカ軍のドン・テイラーやウィリアム・ホールデンが、脱走《だつそう》しようとする、ビリー・ワイルダーのサスペンス喜劇だった。暗い映画館の中で、トットは、(ドイツ兵に見つかって殺されたら、どうしよう)と、ハラハラ、ドキドキしていた。トットは、人一倍こわがりだけど、特に、一度でも話をしたことのある人が、気の毒な目にあうのは、つらかった。こわくて、たまらなかった。だから、時々、トットは、自分に、こう、いい聞かせた。
(いい? あの人は、花伝書を見て、「チンプンカンプン」って冗談《じようだん》やった人なんだから。しかもこの映画は、戦争中の映画で、私が逢う前の話だし、もし、この映画の中で殺されたとしても、実際には、その後に逢ってるんだから、安心なの!)そう思っても、やっぱり心配で、脱走が成功したとき、トットは、誰《だれ》よりも、大きな拍手《はくしゆ》をした。
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