トットチャンネル(19)

自分の声

 
 トット達《たち》は、今日、とても興奮していた。それは、自分の声を聞かせてもらえる実習が、あるからだった。
(自分の声を聞く!)
 それは、みんなにとって、生まれて初めての経験だった。今なら、小学生でも、自分用の録音機、カセット・レコーダーや、テープ・レコーダーを持っていて、自分の声を聞いてるけど、この、昭和二十八年当時は、NHKとか、他《ほか》の放送局など、特別のところにしか、まだ、テープ・レコーダーというものはなかった。また、あっても、ラジオの放送に使うことは、まれで、ほとんど全部が、ナマの時代だった。
 トット達は、NHKのラジオの第五スタジオに連れて行かれた。第四次の歌の試験も、ラジオのスタジオだったけど、あのときは、五人くらい一緒《いつしよ》にスタジオに入り、順番に、ハクボクで描《か》いてある足形の中に立って、あたえられた楽譜《がくふ》を必死に見ながら歌ったので、あまり、まわりを見ていなかった。今日の第五スタジオを、よく見ると、スタジオのまん中に、グリーンのカーテンが天井《てんじよう》から垂《た》れていたり、床《ゆか》から、すっくと立った、大きなマイクロフォンがあったり、ガラス窓のむこうの小さい部屋には、いっぱい機械があったり、折りたたみ式の椅子《いす》が沢山《たくさん》ならんでたり、重たいドアが、いくつもあったり、木のついたて[#「ついたて」に傍点]があったり、とても珍《めず》らしかった。トットは、キョロキョロして、隅《すみ》から隅まで観察した。当然だけど、窓がなくて、電燈《でんとう》は、いっぱいついてるけど、
(なんとなく薄暗《うすぐら》い感じだ)と、トットは思った。
 大岡先生は、みんなに声のテスト用の紙を配った。二十八人の生徒は、椅子に、少し固くなってすわり、その紙を見た。女性用のは、こういうセリフだった。
「まあ、嫌《いや》な方。妾《わたし》がその事について、何故《なぜ》だまってるかとおっしゃるの。そして、そのわけを、いま、あなたは、何気なく妾からきき出そうってわけなのね。冗談《じようだん》じゃないわ。ほほほゝゝゝ。何て身勝手な話なんでしょう——。そんならおききしますけれど、一体あなたは、妾の敵なの、味方なの。え。どっち。まずそれをはっきりしていただきたいわ——」
 ……前後がよくわからないけど、(なんだか、この女の人は怒《おこ》ってるらしい)と、トットは判断した。男性のほうのは、
「晴れた日は、朝ごとに富士がよく見える」
 といった、朗読だった。みんな口々に紙を見ながら声にして、よみ始めた。ひとしきり声が大きくなったところで、大岡先生が、いった。
「さ、それじゃ、そろそろ、声の録音、始めましょうか」
 ガラス窓のむこう側から、中年の男の人が、二つもドアを開けて、こっちのスタジオの中に入って来た。エレベーターの中で見かけたことのある人で、茶色の大きいサンダルをズルズルひきずるようにして、マイクのそばに来た。頭の毛が沢山あって、上のほうに突《つ》っ立って生えていた。その、少しユーウツそうに見える人は、
「マイクから三十センチくらい、離《はな》れて」とか、「持ってるセリフの紙を、マイクにさわらせないように」とか、「なるべく下を見ないで、しゃべるように」とか、いろいろ注意してくれた。トットたちは、ひとつひとつに感心して、うなずき、おじさんの言う通りにしよう、と思っていた。
「じゃ、始めの人から、おねがいします」
 その人は、また、サンダルをズルズルさせながら、ガラス窓のむこうの部屋に、もどって行った。トットは、
(自分の名前を、セリフの前に言うのかな?)
 と思ったから、大岡先生に、小声で聞いた。
「あの、名前は、いうんですか?」
「ああ、そうしましょうね」
 と、大岡先生は、軽くいった。
 トットは、もう一つ質問があったので、また、大岡先生に聞いた。
「いまの、おじさん、下を見ないで、っておっしゃったけど、少しは見ても、いいですか?」
 大岡先生は、いつものように小腰《こごし》をかがめ、手の甲で口をかくす喋《しや》べりかたで、トットに近づくと、いった。
「あなたさま、あの方《かた》は、おじさん[#「おじさん」に傍点]じゃございません。あの方は、声や音を調整なさる、ミクサーさん。よろしゅうございますか? みなさんも。あの方は、ミクサーさんです」
 トットは真赤《まつか》になった。しかも、こっちの話してる声が、マイクを通して、むこうに聞こえてるらしく、こっちむきに座《すわ》ってる、そのミクサーさんは、ガラス窓ごしにトットのほうを、チラリと見た。
 それから大岡先生は、適当に順番を決めた。この頃《ころ》、大岡先生は順番を決めるとき、プロ的な人を先にして、トットは、いつも、ビリだった。というのも、トットを先にしたときに、必ずゴタゴタが起るので、みんなの模範《もはん》になるような、馴《な》れてる人から先にすることに、したようだった。従って、トットは、いつも、最後になるのだった。短大を中退という、プロ的なトップバッターの女性は、右手に紙を持ち、左手を腰にあてた恰好《かつこう》で、ガラス窓のミクサーさんに、会釈《えしやく》をすると、
「よろしくお願いしまーす」と、いった。
 ミクサーさんは、指で輪っかを作って、「OK」という、しぐさをした。プロ的な人は、うなずくと、自分の名前を言い、大きく息を吸ってから、高い、しっかりした調子の声で始めた。
「まあ、キライな方《かた》。メカケが、その事について、何故だまってるかとおっしゃるの。そして、そのわけを、いま、あなたは、何気なく、メカケからきき出そうってわけなのね」
 そこまでいったとき、大岡先生が、足音をしのばせて、その女の人に近より、
「ちょっと、ちょっと。始めから、もう一度! ミクサーさん、ご免《めん》なさい。テープ、もどして下さいね。あの、あなた、これね、�キライな方�じゃなくて、�イヤな方�それから、�メカケ�じゃなくて、�わたし�と読んで頂戴《ちようだい》。じゃ、お願いします」と、いった。
 トットは、自分では、「わたし」と読むつもりだったけど、プロ的な人が、「メカケ」と読んだので、
(大変! もう少しで、間違《まちが》えて、『わたし』と読むところだった……)と思った瞬間《しゆんかん》だったので、少し混乱したけど、静かにしていた。
 そして、トットの番になった。銀色の、蜂《はち》の巣《す》模様みたいな形の穴の沢山ある四角いマイクを、「相手の人間」と思ってしゃべるのは、とても難かしかった。それでも、とにかく、トットが終ったので、全部が終了《しゆうりよう》した。
 大岡先生は、満足そうに、うなずくと、マイクに近より、ミクサーさんにいった。
「じゃ、テープの送り返し、お願いします」
 いよいよ、自分の声が、出てくるのだ。みんな、心配なのと、照れるのと、期待するのとで、はしゃいだ声を出していた。
 当然、プロ的な女の人から始まった。スピーカーから、声が出た。ひびきのある、大きい声だった。その人は、首をすくめて、
「あら、私、こんな声かしら……」といったけど、みんなが、「上手ねえ」とか言ったので、だまったまま、聞き入った。そんな風に、順々に送り返しが来て、そのたびに、みんなが反応して、とうとう、トットの番になった。前の人のセリフが終ったところで、少しゴトゴトという音が入った。
「あれは、私の靴《くつ》の音でーす」と、トットが言ったので、みんな笑った。ちょっとした間《ま》があり、女の人の声が聞こえた。
「黒柳徹子」
 鼻にかかったような、ヘンな声だった。甘《あま》ったるいようでいて、愛想のない、不思議な声だった。トットに、それが自分の声だ、とわかるまでに、随分《ずいぶん》、時間がかかった。トットは立ち上ると、ミクサーさんのほうを向いて叫《さけ》んだ。
「すいません。これ、機械がヘンですから、直して下さい!」
 ガラスのむこうのミクサーさんは、顔をあげると、こっちを見て、いった。
「なんです?」
 トットは、いそいで、いった。
「あの、NHKの機械が、こわれてるみたいですから、ちょっと直してから、私の声、出してほしいんですけど」
 ミクサーさんは、きっぱりとした調子で、こういった。
「こわれていません。これは、あなたの声です」
 トットは、いいはった。
「だって、私の声、こういうんじゃないんです。絶対、NHKの機械こわれてます!」
 ミクサーさんのおじさんは、機械を点検してみる風もなく、くり返した。
「これが、あなたの声です」
 突然《とつぜん》、トットは、泣き出した。泣きながらいった。
「だって、こんな声じゃ、放送に出られない」
 あとから、あとから涙《なみだ》が出た。自分の声を、いい声とは、決して思っていなかったけど、こんな聞いたこともない、不思議な声とは思っていなかった。そのとき、ミクサーさんが、いった。前より、声は少しやさしくなっていた。
「自分の耳で聞いてるのと、実際の声とは、誰《だれ》でも違って思えるんです。あなただけじゃなくてね。口や顔の中で共鳴したのが自分の耳に聞こえるからね。もう一度、出してみましょうか?」
 ミクサーさんは、親切に、もう一度、始めから、トットの声を出してくれた。それを聞くと、トットは、更《さら》に泣いた。
「こんな声じゃない。こんなヘンな声じゃない」
 実習が終り、みんなが、興奮しながらスタジオを出て歩く後ろから、トットは、一人だけ、みじめに泣きながら、ついて行った。
「あんな声じゃない。あんなヘンな声じゃない」
 その日、一日中、トットは泣いて暮《くら》した。機械を調べもしないで、
「これが、あなたの声です!」と、なんの慰《なぐさ》めもなく言ったミクサーのおじさんも、意地悪に思えた。「あら可愛《かわい》い声よ」という、友達の言葉も、嘘《うそ》に聞こえた。泣いてない友達が、うらやましかった。
 これが、生まれて初めて、トットが自分の声を聞いた日の出来ごとであり、このあと、何年たっても、トットは、自分の声を聞くたびに、
「やっぱり、NHKの機械は、こわれてる」と、思うのだった。
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