不夜城(75)

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 春日通りから車が入ってきた。古ぼけた黒いベンツだった。おれの足が地べたに張りついた。小蓮がおれにぶつかってきた。それでも、おれは動けなかった。
「どうしたの?」
 小蓮がおれの顔を覗きこんだ。
「……崔虎だ」
 おれの目はベンツに釘付けになっていた。視界の隅に小蓮の顔がうつった。小蓮は笑みを浮かべたまま凍りついていた。
 ベンツがとまった。ベンツの後ろにもう一台。そいつもとまった。二台のドアが開いた。銃や刃物を持った男たちが飛び出てきた。一番最後に、ゆったりと、気取った仕種で崔虎が姿を現した。左腕を包帯で吊《つ》っていた。
「よお」
 崔虎がいった。顔には満面の笑みが浮かんでいた。手下どもがおれと小蓮を取り囲んだ。どの顔も血走っていた。
 小蓮が身体をくっつけてきた。その細い腰を抱き寄せた。
「楊偉民か?」
 おれはいった。それだけで崔虎には通じた。
「他にだれがいるよ?」
 崔虎はつまらない冗談をいったというように、喉の奥で短く笑った。
「香港の豚どもに襲われてこのざまだ」
 崔虎は包帯で吊った腕を揺らした。
「どう考えたって程恒生にチクったのはおまえしかいねぇ。おれもプッツンきてよ、楊偉民に怒鳴り込んだんだよ。あの爺い、別にびびったようには見えなかったが、あっさり教えてくれたぜ。葉暁丹の家を張ってりゃ、必ずおまえが来るってよ」
 唇を噛んだ。血の味が口の中に広がっていた。それでも痛みは感じなかった。おれは楊偉民からなにひとつ学んじゃいなかった。
「こんなとこで立ち話もなんだ。車に乗れよ」
 崔虎がいった。逆らえるはずがなかった。小蓮を促して、ベンツの後部シートに乗りこんだ。
 
「ずいぶん無口になったじゃねぇか。なにかいいたいことはないのか?」
 崔虎がいった。ベンツは音羽《おとわ》を走っていた。助手席の男が、暗い目をこっちに向けていた。なにかあれば、すぐにでもおれを撃ち殺すつもりなのだ。腰に挟んであった黒星は奪い取られていた。おれは小蓮の手を握った。
「聞いてもらえるのか?」
 崔虎は苦笑を浮かべた。ちらっと外を見つめ、右手で頭を掻いた。
「おれだっていろいろ考えるんだ、こう見えてもな。いってみろよ、なんだって程の野郎にちくった?」
「程はもっと利口だと思ってたんだ」
「おれにもわかるように話せよ」
「北京の崔虎のヤサを下調べもしないで襲うなんて、馬鹿のすることだ。おれは昨日、あいつにあんたのヤサを教えた。あんたを襲うまでに数日あると思ってた。その間に、あんたに教えるつもりだった」
「香港のやつらは蛇みたいにしつこいんだ」
 崔虎はひとごとのようにいった。
「程恒生はクールなタイプだって聞いていた」
「おまえの耳もあてにならねえな」
 崔虎はつまらなさそうに、窓の外に顔を向けた。崔虎が口を閉じると、ベンツが風を切る音とエンジン音しか聞こえなくなった。だれかの息遣いすら聞こえなかった。助手席の男は銅像みたいにぴくりとも動かずにおれを睨んでいた。
 さりげなく小蓮の手を引き寄せた。連中はミスを犯していた。小蓮の鞄の中を確かめなかった。その手をルイ・ヴィトンの上に置くと、小蓮の身体がかすかに震えた。ベレッタの存在を感じ取ったのだ。
「もしだぞ——」
 顔を外に向けたまま、崔虎が口を開いた。助手席の男の視線が崔虎に向かった。小蓮の手がルイ・ヴィトンの中にするりと潜りこんだ。
「おれがなにも知らなかったら、おまえ、どうしてた?」
「どういうことだ?」
 いいながら崔虎の方に身体を傾けた。これで、小蓮の手の動きは助手席からは死角になるはずだ。
「だからよ、程にチクったのがおまえだっておれが知らなかったらってことだ」
「なにもしない」
「そうだろうな。健一、おれはおまえが嫌いだ。だが、使えるやつだとは思ってた。笑うなよ、おい。おまえがおれに会いにきた時、おれは夢を見ちまった。おまえと組んで歌舞伎町を乗っ取る夢だ」
 笑い出すところだった。崔虎はびびっているのだ。それでおれの気を引こうとしている。崔虎は虎の皮をかぶった狐だ。虎を演じている時は威勢がいいが、皮を剥がれた途端に萎縮《いしゅく》する。
「おれとじゃ無理だ。あんたが歌舞伎町を仕切るための一番の方法を教えてやろうか? 楊偉民を殺すんだ」
 小蓮の手の動きはいらいらするほどゆっくりだった。それでも、小蓮がベレッタのグリップに指をかけたような気配が伝わってきた。
「楊偉民をバラすと、騒ぎ出すやつが大勢いる。あいつのバックには葉暁丹もいるしな。腐るほど金を持ってるやつにはかなわねえ」
 ちゃちな虚勢。本当のところは、手駒が減ったからには、嵐が通り過ぎるのをじっと待っていたいというところなのだ。
「葉暁丹はくたばったよ」
 崔虎の横顔に言葉を投げつけてやった。
「なんだって!?」
 崔虎がこっちを向いた。
「おれが撃った。それで死んでなかったとしても、楊偉民がとどめをさしたはずだ」
 小蓮の手がゆっくりとルイ・ヴィトンから抜き出されるところだった。
「あの爺さん、なにを考えてるんだ?」
「上海はがたがただ。元成貴がくたばって、孫淳も死んだ。銭波も、たぶん、楊偉民が殺した。あんたたち北京もおれがドジを踏んだおかげでかなり戦力を削がれた。葉暁丹が死ねば、歌舞伎町で楊偉民をとめるやつがいなくなる。そういうことだ」
「おれはすぐに北京から手下を呼ぶぞ」
「楊偉民だって台湾からだれかを呼んでるはずだ。ちょっと前までは、歌舞伎町は台湾人の天下だったんだ。日本でもう一度甘い汁を吸いたいと考える流氓はたくさんいる」
「くそおもしろくもねえ」
 崔虎はおれを睨《ね》めつけた。笑みはどこにもなかった。
「おまえが余計なことさえしなけりゃ、楊偉民も下手なことは考えなかったはずだ。明日の朝には、歌舞伎町はおれのものだったんだ」
「殺すのか?」
 おれはいった。小蓮の手が蛇のようにルイ・ヴィトンから離れていった。
「他にどうしろっていうんだ? おまえはとっくにくたばってるも同然だ。そっちの小姐の方は、生かしてやるがな。こんな女とやってみてえってやつらが腐るほどいる」
「いやよ」
 小蓮が口を開いた。
「いやたってな、小姐、こればっかりは……」
 崔虎の目が大きく開いた。薄い唇を真一文字に結んでおれの後ろを睨みつけた。助手席の男が動こうとした。崔虎はそれを手で制した。
「わたしの身体はだれの自由にもさせない」
 小蓮は吐きだすようにいった。頭に固いものが押しつけられた。
「見て、この銃。健一がわたしに渡したのよ。あなたを撃たせるために」
「それがどうした、小姐?」
「わたし、あなたを撃たなかった。そうでしょう? 代わりにこの銃を健一に向けてるのよ」
「だから、わたしだけは見逃してくれ。そういうことか、小姐」
「他になにかある?」
 崔虎が笑った。地獄を垣間見《かいまみ》た亡者が出すような笑い声だった。
「健一、おまえ、とんでもない女とつるんだもんだな、え?」
 おれはそれには答えなかった。身体をずらして、小蓮に顔を向けた。
「動かないで、健一。わたし、本気よ」
 小蓮の声は上ずっていた。目が濡れていた。頬が紅潮していた。身体全体でおれに許しを乞うていた。だが、おれに向けられた銃口はぴくりとも動かなかった。
 おれの喉元からなにかが迫《せ》りあがってこようとしていた。口の中に唾液が溢れてきた。背中一面に寒気が広がって、おれは凍えてしまいそうだった。
 だが、そんなものは錯覚にすぎなかった。おれが生きている世界は、昔からこれっぽっちも変わったためしがないのだ。おれがまともで小蓮と同じ立場なら、きっと同じことをしていたはずだ。小蓮——おれの分身。
「知ってる」
 おれはうなずいた。心臓を見えない手で握り潰されたようだった。くしゃくしゃになった心臓の代わりに、薄ら寒い空洞がおれの胸の中にぽっかりと広がっていった。
「てめえの男を撃てるもんならやってみなよ、小姐」
 崔虎が嘲笑った。
 小蓮は躊躇《ためら》ったりはしなかった。おれの目をまっすぐ見据えた。引き金にかけた指に力を込めた。
 おれは左手でベレッタの銃口を払った。小蓮の手の中で銃が跳ねた。つんざくような銃声。熱気が顔に襲いかかってきた。だが、痛みはなかった。ベンツの天井に穴が開いていた。そこから冷たい空気が流れ込んできている。
「う、撃ちやがった……」
 崔虎の魂消《たまげ》たようなつぶやきが聞こえた。小蓮は信じられないというように目を見開いていた。すぐに気を取り直しておれにベレッタを向け、引き金を引いた。
 だが、ベレッタは静かなままだった。スライドが途中でとまり、銃身が剥き出しになっていた。小蓮が撃ったのは、最後の一発だったのだ。
「健一……」
 小蓮の唇は震えていた。声はその唇の上をすべってまるで調子はずれだった。おれは小蓮の手からベレッタをもぎ取った。
「気にするなよ、小蓮。おまえは正しいことをしたんだ」
 できるだけ優しい調子でいってやった。おれの言葉と小蓮の息遣い以外はなにも聞こえなかった。
「健一……愛してるの、それだけは信じて」
「わかってる」
 うなずいた。胸の中の空洞は広がっていくばかりだった。それでも、おれにはわかっていた。自分が何をして、何をしないのかが。
「崔虎……」
 小蓮の目を見つめたまま、崔虎に言葉をかけた。
「あんたたちを香港に売ったのは、この女だ。それでいいだろう?」
 おれに見つけることができたのはそんな言葉だった。おれが通ってきた道には、それ以外の言葉は転がっちゃいなかった。
 返事はなかった。崔虎も、助手席の男も、運転手も、息をのんでおれたちふたりを見守っていた。
 小蓮の目には、怯えと憎しみと媚《こび》が宿っていた。だが、それもすぐに消えた。きっと、おれの目の中に同じものを見つけたのだ。小蓮の顔は恐怖に引きつった。
「崔虎?」
「あ、ああ。おまえがその女を殺《や》るってんなら、おれも納得してやる」
「殺るさ。それがルールだ」
 助手席の男に手を伸ばした。掌に銃がのせられた。黒星だ。おれは黒星を小蓮に向けた。
「馬鹿野郎、おれの車を汚す気か!?」
 崔虎が肩に手をかけてきた。おれは邪険にその手を振り払った。
「洗車代ぐらい、出してやる」
 もう一度黒星を小蓮に向けた。今殺らなきゃ、おれの意志は必ず挫《くじ》けてしまう。
「助けて、健一」
 小蓮は潤んだ目でおれを見つめていた。おれは首を振った。
「だめだ。おまえが助かるってことは、おれが死ぬってことだ。楊偉民は結慮おれを裏切った。なにがあったって、もうひとつ死体が必要だってことなんだ。おまえかおれの死体がな。おまえにはチャンスがあった。だが、おまえはしくじった」
「弾丸が一発しかないなんて知らなかったのよ!」
「だからおまえにあの銃を渡したんだ」
「健一!」
 小蓮が叫んだ。蒼ざめた顔の皮膚が細かく震えていた。やがて、小蓮は肩を落とした。小蓮も、本当におれが自分と同類だということを納得したのだ。
「小蓮、温泉に行きたかったな。おれは本当に行きたかった、おまえとふたりで」
 震える声でいった。小蓮が小さく微笑んだ。赤い唇がかすかに動いた。おれには、小蓮が「ごめんね」といったように聞こえた。
 引き金にかけた指に力をこめた。だが、穴の開いた風船のように力はどこかへ抜けていった。人差し指がおれの意志を無視していた。どこかで神経が切れてしまったかのように。
 小蓮の足がするっと伸びてきた。靴の爪先がおれの膝にぶつかった。小蓮は身体をねじってドアを開けようとした。
 おれの脳裏に、車から飛び降りる小蓮の姿が蘇った。もう、いつ起こったことかも思い出せなかった。それでも、小蓮が飛び降りるのを躊躇したりしないということだけはおれにもわかっていた。
「小蓮!!」
 叫んだ。指に力が蘇った。手の中で黒星が弾けた。鼓膜に痛みが走った。小蓮の肩口から血が迸った。
 だれかがおれの肩を揺さぶっていた。それを無視して、撃った。今度は小蓮の背中のど真ん中に穴が開いた。小蓮の頭がサイドウィンドゥに激突して跳ね返ってきた。
 銃を放り投げた。こっちに倒れかかってくる小蓮を抱きとめた。
 銃声でパンクした聴覚が戻ってきた。崔虎たちが早口の北京語で喚きたてていた。
「うるさい、黙れ!!」
 おれは小蓮の顔に耳を寄せた。小蓮の唇がわなないていたのだ。
「小蓮、小蓮!?」
「…………」
 小蓮の唇からは言葉の代わりに血が溢れてきた。凶々《まがまが》しいほどに赤い、魂が凍りつくような色の血だった。小蓮の目が閉じかけていた。
「小蓮!!」
 叫んだ。叫ぶことしかできなかった。おれの目は乾ききっていた。涙の一粒すら溢れてくることもなかった。
 小蓮の目が薄っすらと開いた。小蓮は微笑んでいた。
「……健一……寒いよ」
 小蓮はそう囁いた。おれは血に染まった小蓮の唇に自分の唇を押しつけた。小蓮の血をすすりながら、いつまでもそうしていた。小蓮の身体から力が抜けたことがわかっても、おれは唇を離すことができなかった。
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