トットチャンネル(09)

 恋人《こいびと》からの手紙

 
 NHKの内玄関の外に立てられた合格者発表用の、木の立看板は、最初のときと、くらべると、随分《ずいぶん》、小さくなっていた。トットの五千六百五十五番という受験番号が、本当とは思えないくらいだった。第二次の筆記試験を受けた人が五百人という話で、それから、更《さら》に少なくなったわけだから。それにしても、到底《とうてい》ダメと思っていた、あの筆記試験に、受かった、とわかったときの驚《おどろ》きといったらなかった。(やっぱり、長所と短所を正直に書いたのが、よかったのだ)と、トットは勝手に決めていた。
 今日は、パントマイムの試験だった。二度と同じあやまちをくり返さないため、トットは、今日の試験場が、NHKであることを、合格発表のとき、確かめてあった。
 今日の試験から、ママに報告したので、心は、少し罪の意識から解放されていた。二次の試験が通った、とわかったとき、トットは、もう、黙《だま》ってはいられなくなった。(うれしい)というより、これから先、どうしたものか恐《おそ》ろしくなってきたからだった。
「NHKの専属俳優の試験を受けている」
 と、トットが打ち明けると、ママはいった。
「そうでしょう。なんか、やってると思ったわ」それからトットは、パパには、反対されるから当分の間、秘密にしてほしいこと、ママも知ってるように、自分がお母さんになったとき、上手に絵本や童話を読んでやれる人になりたいので、NHKだったら、それを教えてくれると思うので受けたのだとも話した。ママは、よくわかってくれた。
「若いうちよ。なんでも、やってみるのがいいのよ」そんなわけで、トットは、少し気分が楽になってNHKに着いたのだった。
 着いたものの、パントマイムがどういうものか、わからなかった。しかも、人数が減ったとはいっても、まだまだ女の人は沢山《たくさん》いた。そして、廊下《ろうか》や待合室で、それぞれ夢中《むちゆう》になって演技のことを喋《しや》べり合ったり、反対に頭をかかえて、うずくまって考えたりしていた。トットは、教えてくれそうな人を探して廊下をウロウロした。一階から二階へ上る階段の手すりのところに、プロ的な身のこなしで、一人で練習してる女の人を見つけたので、トットはそばに近よってみた。その人は、丁度、練習をやり終って、一人で満足気に、こういったところだった。
「まあ、こんなとこじゃないの」
 トットは、おずおずと聞いた。
「あの、パントマイムって、どんなこと、やるんですか?」その人は、こなれてる調子でいった。「ああ、セリフをいわないで、体の動かしかたと表情で、表現するのね。筋書、もらったでしょ? 自分で創作するの。カンタンよ」
(カンタン?)トットは手の中の紙を見た。カンタンどころか、こんな難かしいこと、生まれて、見たことも聞いたこともなかった。筋書は、こうだった。
「あなたの恋人から手紙が来ました。あなたは、ワクワクして、早く、その手紙を読もうとします。でも、まわりに人がいるので、誰《だれ》もいない部屋に行って読むことにしました。さあ誰もいない部屋に来ました。手紙を読み始めます。最初は、うれしいことが書いてありますが、段々、読むうちに、それが別れを告げる手紙だとわかります。絶望! 嘆《なげ》くあなた」……こんな一本の映画が作れるくらい物凄《ものすご》い分量と内容。それを、笑ったり、泣いたりして、赤の他人の前で演《や》って見せようというのだから、俳優という職業も、かわってるといえば、変ってる。見るほうも御苦労《ごくろう》なことに違《ちが》いない、と、トットは思った。
 この日もセリフの試験と同じように、五人ずつ部屋に入って、順番に試験官の前でやる、という方法だった。トットたちの十分くらい前にやった女の人が、「別れの手紙だ」とわかった途端《とたん》、悲嘆《ひたん》にくれるあまりの演技で、試験官の机の上にあった一輪挿《いちりんざ》しの赤いカーネーションを、ムシャムシャ喰《た》べちゃった、というニュースが、廊下で待ってたトットたちのところに伝わってきていた。部屋に入ると、本当に、机の上のカーネーションは、茎《くき》しかなかった。どう悲嘆にくれても、
(カーネーションは喰べないわ)と、トットは思った。ただ、人と違うことをやって見せようとする女優さんの気持は、わかるような気がした。五人が入って横に一列に並《なら》ぶと、男の試験官の一人が、いった。少し東北ナマリが入っていたけど、やさしそうな声だった。
「スカート、ちょっと、まくってね、足、足、見せてね。膝《ひざ》まで」
 突然《とつぜん》のことに、びっくりしたトットは、(まるで、ミス・ユニヴァースみたい)といいたかったけど、生意気と思われそうなので、やめた。
 それにしても、トットは、例によって、一張羅《いつちようら》のパラシュート・スカートだけど、ペチコートをはいていたから、まくっても、まだ恰好《かつこう》がよかった。でも、トットの右横の人は、袴《はかま》に着物だったので、モジモジした。東北弁の先生は、もう一度、いった。
「恥《はず》かしがらないで。はい、ちょっと」
 草履《ぞうり》と足袋《たび》と、すねが、チラリと見えた。
「はい、結構ですよ」
 今なら、水着かもしれないけど、当時は、こんなものだった。パントマイムが始まった。一人がやってる間、他《ほか》の人は、邪魔《じやま》にならないように、壁《かべ》にくっついて、見ているのだった。トットの番になった。うまくいくわけはなかった。それでもトットは、女事務員が会社で受けとった手紙というつもりで一生懸命《いつしようけんめい》やった。人がいるところでは、わざとゆっくり歩き、誰も見ていないとわかったとき、猛《もう》スピードで走って、空《あ》いてる部屋にとびこむんじゃないかと想像して、トットは走った。丁度、試験官の机の前あたりを、空き部屋と決めて、走りこんだ。部屋にとびこんだとき、木の床《ゆか》に靴《くつ》がすべった。両足が左右に、どんどん拡《ひろ》がって、床にペタンとくっつき、丁度、フレンチカンカンのグラン・テカール(大股《おおまた》びらき)の形で止まった。試験官は、セリフのときのように、のけぞっては笑わなかったけど、我慢《がまん》できないように、口々にアハハハハ、と笑った。トットは、どうしようもないので、そのままの形で手紙を読み、床の上にいるのを幸い、まるまった形で嘆き、絶望し、終った。
 東北弁の先生は、救うようにいってくれた。
「大丈夫《だいじようぶ》? 怪我《けが》はしなかった?」
 
 それでも、このパントマイムの試験、その次の第四次の歌の試験と、信じられないまま、パスして、トットは、とうとう最後の面接まで、こぎつけた。
 もっとも歌の試験も、すんなりいった訳では、なかった。ラジオのスタジオのマイクの前で、渡《わた》された音階的のものを歌ったら、終ると同時に、おじさん風の試験官の人が、ゾロゾロ、ガラスのむこうの調整室から出て来て、トットに、こう聞いた。
「この、あなたの履歴書《りれきしよ》に、音楽学校の声楽科[#「声楽科」に傍点]ってあるけど、間違いないのね?」
 
 でも、放送に出たい、というような憧《あこが》れも、希望も持っていない人間の強みは、気軽なことだった。今度こそ、落ちるかも知れない、と思いながらも、試験場や待ってる間の、いろいろな出来事が、いちいち新らしく、心たのしく感動的だった。友達《ともだち》は出来なかった。今日、一緒《いつしよ》になってドキドキした仲間を、次の試験のとき発見することは、なかった。毎回、知らない人と隣《とな》り合せになった。受験番号が、何百番も離《はな》れている同士が、次のとき、隣り合せになることで、その間の何百人もの人が落ちたのだとわかった。みんな口々に、「あなた何番?」と聞きあい、「もう、私、これで落ちるわ」と、必ず、いった。
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