不夜城(70)

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「来ないな」
 いつの間にか、孫淳が後ろに立っていた。くわえていた煙草を落としそうになりながら、おれは慌てて振り向いた。ずっと小蓮のことを考えていたのだ。おれが小蓮なら、とっくにずらかってる。だが、小蓮はやって来た。おれには理由がわからなかった。
「そうだな」
 腕時計を覗いた。小蓮とホモが通りすぎてから、二十分近い時間がすぎていた。
「これで呉富春も約束の場所に現れなかったら、おまえは大変なことになるぞ。おれはいろんな拷問《ごうもん》の方法を知っている」
「大丈夫だ。富春は小蓮みたいには頭が回らない」
「行くぞ」
 首筋にひんやりしたものが押しつけられた。おれは反射的に立ち上がった。立ち上がると同時に、項《うなじ》に押しつけられていた銃口がおれの腰の位置にまで下がった。
 おれと孫淳は公園を出た。少し遅れて秀賢がついてきた。靖国通りを渡って厚生年金会館の脇の路地を進んだ。靖国通りじゃ、あちこちでサイレンの音が聞こえた。おまわりの姿を探してみたが、銃で腰を殴られただけで終わった。小蓮の姿を見かけたような気がしたが、確かめたわけじゃない。見間違いの可能性の方が高かった。
 墓地は静かだった。静かすぎて、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。孫淳がおれのベレッタを秀賢に渡し、おれを見張っているように命じて墓石の陰に消えた。なにを確認しようとしているのかは知らないが、ご苦労なことだ。富春にそこまで頭が回るなら、いまごろおれはこんなところにはいない。もちろん、それは孫淳だって同じことだ。
 おれは秀賢に声をかけようと思ったが、顔を見てやめた。夜の闇の中でも、秀賢の顔が蒼ざめているのがわかった。汗でてかてかに光った顔の表面には血管が浮き上がり、目の下にどす黒い隈《くま》ができている。びびりまくっている。ちょっとしたことで引き金を引いてしまうに違いなかった。
 ベレッタにはまだ、弾丸が五発残っているはずだ。
 うすら寒い思いで、孫淳が戻ってくるのを待った。無性に煙草が吸いたかった。
 孫淳は十分ほどで戻ってきた。
「セイフティをかけて、拳銃をおろせ」
 秀賢にそう命じて、自分の銃をおれに向けた。
「煙草を吸ってもいいか?」
 孫淳は汗一つ浮かんでいない顔でうなずいた。おれは煙草をくわえた。
「呉富春は本当に来るな?」
「ああ、心配するなよ」
「おれたちは隠れる。銃はおまえに向けたままだ。死にたくなかったら、ただ突っ立ってろ。煙草が吸いたきゃ、好きに吸ってかまわん。だが、動くのはだめだ」
 頭を縦にふって恭順の意を示した。孫淳が暗闇に溶けた。だが、秀賢はそうはいかなかった。秀賢を連れてきたのは、孫淳のミスだ。騒がしい音を立てる秀賢のおかげで、孫淳が身を隠した場所にあたりをつけることができた。
 静かな五分が過ぎた。もうそろそろ富春が現れるはずだ。富春はたいていの物事には無頓着だが、どういうわけか時間だけは守る。おれは側の墓石に肘をのせ、煙草をくわえた。神経が引きつれるような感覚が腹の奥でくすぶっていた。
 風が吹いて、雑草がざわざわと音を立てた。虫の音が轟々と空気を震わせていた。今の今まで、虫の音はおれの耳を素通りしていた。途切れることなく墓地の闇を覆う虫たちの鳴き声。それが一瞬途絶えた。墓地の入り口の方から足音が聞こえた。
「健一、どこだ?」
 富春のダミ声が聞こえた。おれは短くなった煙草を声のした方に放り投げた。暗闇にオレンジ色の放物線が描かれた。富春はおれの位置を確認したはずだ。肺いっぱいに空気をため込んだ。指先が震えていた。心臓が口から飛び出そうだった。生唾《なまつば》を飲み込み、地面に身体を投げ出しながら叫んだ。
「富春、撃て!!」
 銃声がおれの語尾をかき消した。黒星特有の甲高い炸裂音《さくれつおん》が死者たちの眠りを引き裂いた。さっきまでの静寂は跡形もなかった。おれは地面を転がり、手近な墓石の裏にまわりこんだ。
 銃声は断続的につづいていた。孫淳と富春の銃口からのマズルフラッシュが巨大なホタルのように輝いては消えていた。墓石を遮蔽物にしながら、墓地の入り口へ向かった。孫淳が相手じゃ、奇跡でも起こらない限り富春に勝ち目はない。
「健一、どこだ!? くたばったのか!?」
 富春の怒声。おれは足をとめた。とめざるをえなかった。孫淳も、富春の声でおれを探しはじめているはずだ。墓石に背中を押しつけ、口の中で富春を罵った。
 いつの間にか銃声が途絶えていた。孫淳は闇雲に撃つのをやめて、富春とおれの位置を探ろうとしているのだ。息を殺して待った。富春が動くのを。富春の動きに、孫淳が気を取られた隙なら、おれにも逃げるチャンスがあるかもしれない。
 唇を舐めた。ざらついた感触が伝わってきただけだった。口の中もからからに干上がっていた。だれかのすすり泣く声が聞こえた。秀賢。
 左右に視線を泳がせた。拳大の石を掴み取り、墓石越しに後ろへ放り投げた。石が地面に激突する鈍い音。すぐに銃声。孫淳が撃ったのか富春が撃ったのかもわからなかった。かまわず、動いた。なにかにつまずいて転びそうになった。銃声がした。足元に銃弾がめり込んで、砂利が爆《は》ぜた。胃が痙攣《けいれん》しそうだった。呼吸が苦しかった。
 別の銃声がした。富春。喉元までせりあがってきた胃液をむりやり飲み下しながら、身体を丸めて走った。秀賢が銃を持っている。そいつを手に入れることができれば、なんとかなるかもしれないのだ。
「健一!!」
 撃ちながら、富春が叫んでいた。
「撃ちまくれ!!」
 叫びかえした。もう、居場所を隠す必要はない。富春が孫淳を釘付けにしている間に、秀賢を捕まえるのだ。
 孫淳の銃口が発するマズルフラッシュが見えた。最初に隠れた場所から、右に五メートルはずれていた。おれが石を投げなかったら、いまごろは富春の後ろに回っていたかもしれない。秀賢にはそんな真似はできなかった。涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、隠れていた墓石から顔と銃を突きだしていた。しきりに引き金を引いているのだが、撃鉄は落ちない。セイフティがかけられていることに気づいていないのだ。
 走った。孫淳がおれの意図に気づいて銃口を向けてきた。富春の弾幕がそれを遮った。孫淳は富春に応戦するしかなかった。顔が忌ま忌ましそうに歪んでいた。
 秀賢がおれに気づいた。顔半分に口を広げ、おれに銃を突きつけてきた。弾丸が発射されないことにようやく気づくと、地面に尻餅をついたまま、後退りはじめた。
 秀賢の腹を蹴った。うずくまった秀賢から銃をもぎ取り、セイフティを解除した。その瞬間、銃声がやみ、獣の咆哮《ほうこう》のような悲鳴が墓地の淀んだ空気を震わせた。
 おれは振り返りざま、孫淳のいた方に銃を突きつけた。孫淳が富春に向けていた銃口をこっちに向けるのとほぼ同時だった。おれたちは互いに銃を向けあったまま凍りついた。富春は胸のあたりを押さえて転げまわっていた。指の間から溢れてくる鮮血が夜目にも鮮やかだった。
「諦めろ、健一」
 孫淳がいった。目の色はいたってクールで、汗ひとつかいちゃいなかった。
「弾丸はそんなに残ってないはずだ」
 おれはいった。孫淳のそれとはくらべものにならないほどに声が震えていた。
「一発で充分だ」
 おれはその言葉を信じた。孫淳とおれの距離は五メートル、孫淳が外すわけはない。だが、おれは一メートル先の的にだって当てる自信がない。今だって、孫淳に向けた銃はぶるぶると震えていた。
 大きく息を吐きだし、ゆっくり銃をおろしはじめた。孫淳の目に勝利のきらめきが宿った。その瞬間、孫淳の身体の真ん中で電子音が鳴った。おれから取り上げていた携帯電話。孫淳の目が一瞬、それた。おれは銃を振り上げながら引き金を引いた。孫淳の上半身ががくんと揺れた。次の瞬間、孫淳の胸から血が噴きでた。それでも孫淳は倒れなかった。咄嗟《とっさ》に身を伏せた。孫淳の銃が火を噴いた。凄まじい風圧がおれの頭の上を駆け抜けていった。顔を伏せたまま、前に突き出した銃を撃った。それにわずかにおくれて、銃声が二つ続いた。
 銃声の数が合わなかった。顔をあげた。孫淳が険しい形相で後ろを振り返っていた。孫淳の後ろに影が立っていた。影は、初恋の相手にプレゼントを渡そうとしてる女の子のように、胸の前でしっかりと銃を構えていた。小蓮だった。
 小蓮の銃口が火を噴いた。おれは咄嗟に身を伏せた。孫淳の身体が血を撒き散らしながらこっちに吹き飛んできた。クールだった顔が驚愕《きょうがく》と憤怒《ふんぬ》に歪んでいた。その顔に銃を向けた。引き金を引いた。手の中で銃が跳ねた。孫淳の顔の半分が、西瓜みたいに破裂して消えた。
 悲鳴があがった。富春とは違って、甲高い悲鳴だった。おれは振り向いた。秀賢が目を大きく剥《む》いていた。半開きの口から、意味の取れない言葉が次から次へと漏れていた。
 おれは銃口を下に向け、撃った。秀賢の身体が電流にうたれたようにびくんと跳ねた。それっきり、動かなくなった。
「健一!!」
 小蓮が走ってくる。おれはそれには答えず、地面に倒れている富春に顔を向けた。
「終わったのか?」
 仰向けに倒れたまま、富春がいった。見た目より酷い傷じゃなさそうだった。孫淳の放った弾丸は、胸じゃなく肩にめり込んだらしい。
「小蓮がおまえに教えたのか?」
 おれは訊いた。
「ああ、途中でばったり出くわしたんだ。それで、おまえが上海のやつに掴まってるってな、聞かされた」
 小蓮の荒い息遣いがすぐそばで聞こえた。おれは小蓮の紅潮した顔を見つめた。
「どうしようと思って、ずっと後を尾けてたの。ずっと入り口のところで様子をうかがってて……そしたら、富春が来たのよ」
「ひとりで逃げればよかったんだ。そっちの方がよっぽどおまえらしい」
「何度もそうしようと思ったけど、足が動かなかったの」
 小蓮は挑みかかるような眼差しをおれに向けた。ヨーロッパの昔の絵に描かれた闘いの女神のようだった。だらりと垂れた右手に握られた銃と左手の中の携帯電話だけが、どこか場違いな感じを小蓮に与えていた。おれが富春に渡した携帯電話。
 孫淳の携帯電話を鳴らしたのは小蓮だった。おかげで、助かった。おれは小蓮を抱きしめたいという衝動に襲われた。踏みとどまったのは富春がいたからだ。
 だが、小蓮はそんなことに頓着はしなかった。おれ以外の人間なんか目に入らないといった仕種で、しっかりとおれに抱きついてきた。
「健一、嘘じゃないよ」
 小蓮の相手をしている暇はなかった。富春が、地獄から蘇ってきた亡者のような目でおれを睨みあげていた。
「どういうことだ、健一?」
 富春は、右肩を押さえながらもがいた。立ち上がろうとしているのだ。おれはその肩を蹴った。富春はくずおれ、獣のような悲鳴をあげた。
「こういうことだ、富春」
「なんでだ!? おれの女だぞ。それをなんだって……」
「小蓮はおまえの妹だ。そうだろうが」
 おれは小蓮を脇に押しやった。
「なんでそれを……」
 富春は絶句した。落ち窪んだ目が精一杯見開かれ、下顎がわなわなと震えていた。富春にもやっと、おれが友達なんかじゃないってことがわかったようだった。
「小蓮が教えてくれた」
 嘘をついた。嘘の効果はてきめんだった。富春はぎらついた顔を小蓮に向けて叫んだ。
「小蓮、なんだってこいつに教えたんだ!?」
「わたしの勝手でしょ」
 小蓮は憎悪に燃える瞳で富春の視線を跳ね返していた。
「そんな……小蓮……おまえ、健一に騙《だま》されてるんだ。そうだろう?」
「わたしが健一を選んだのよ」
「健一!!」
 富春が立ち上がった。傷ついた者とは思えない一瞬の動作。引き金を引く間もなく、おれは富春に引き倒された。銃がおれの手を離れて転がつていった。
「小蓮はおれの女だ。それをてめえ」
 富春の額がおれの鼻にめり込んできた。つーんとした痛みが鼻梁を駆け抜け、目に涙があふれた。
「おれはてめえのためなら、いつだって身体を張ってきた。それを、それを……」
 今度は左の頬だった。富春はおれの上に馬乗りになって、めちゃくちゃに頭を振り回していた。おれは両手で富春の胸を押し上げた。無駄だった。富春の身体は岩のようにごつくて重かった。ごつんごつんと鈍い音を立てて、富春の額がおれの顔を何度も打ちのめした。痛みはいまじゃ顔全体に広がっていた。痛みのせいで、なにも考えられなかった。おれの身体の表面は痛みに、内側は恐怖に冒されていた。鼻だけじゃなく口の中も出血していた。息ができなかった。おれは自分の血に溺《おぼ》れかけていた。
 いきなり、銃声がおれの鼓膜をどやしつけた。身体の上から重みが消えた。身体を横にして、口の中の血を吐きだした。音を立てて空気を吸い込んだ。視線を横に走らせると、富春が背中に穴を開けて突っ伏していた。
「小蓮……」
 空ろな目で地面を睨みつけたまま、富春はかすれた声でいった。
 小蓮は、黒星を富春に向けていた。銃口から硝煙がたちのぼっていた。
「お、おれは……」
「うるさいのよ」
 小蓮は、汚いものを吐きだすような口調で富春の声を遮った。
「昔からあんたはそうだったわ。馬鹿力はあるけど自分じゃなにもできない。頭が悪すぎるのよ。うんざりだわ」
「小蓮……おれは……か……」
「口を閉じてよ。あんたの声を聞いてると虫酸《むしず》が走るわ」
 痛みを堪えて立ち上がった。富春はぴくりとも動かないまま、目から涙だけを滾々《こんこん》と溢れさせていた。富春が泣いているのを初めて見た。富春に涙腺があるということすら、おれは今の今まで知らなかった。
「おまえは……おれが好きだっていった……」
「嘘に決まってるじゃない」
 おれは頭を振った。蜂の巣に頭を突っ込んだような痛みが襲ってきた。あまりの激痛に、手で顔に触れることもできなかった。
「健一、大丈夫?」
「ぐずぐずしてると、おまわりが来る」
 辛うじてそれだけをいった。小蓮がうなずく気配があった。
「じゃあね、兄さん」
 小蓮の黒星からマズルフラッシュが迸《ほとばし》った。乾いた銃声。富春の身体が激しく痙攣した。
「健一……」
 富春と目があった。富春は形容しがたい目でおれを睨んでいた。死ぬまで夢に見続けそうな目だ。
 銃声が富春の言葉をかき消した。小蓮は、弾丸がなくなるまで富春に向かって引き金を引き続けた。
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