天使に似た人05

 4 出て行った男

 
 
「ハハ」
 と、ポチが笑った。「ドジなもんだな、天国も」
「そりゃ、たまには間違いもあるわよ」
 と、マリは言った。「あんただって、人のこと言えた義理?」
「ま、それを言われると辛《つら》いけどな」
「ちっとも辛そうじゃない」
 と言って、マリは笑った。
 ポチも一緒に笑ったが——もちろん、他の人間には、吠《ほ》えているとしか聞こえないのである。
「しかし、居心地いいなあ、やっぱり」
 と、ポチはカーペットの上で、長々と寝そべった。「天国だ」
「悪魔の言うセリフ?」
 と、マリが冷やかす。
 ——ポチを外に寝かせといて、また「野犬狩り」に引っかかっても困るというので、結局、二人はこのとてつもなく広い山倉家の一部屋に置いてもらうことになったのである。
「アーア」
 マリは欠伸《あくび》をして、「お腹一杯になったら、眠くなっちゃった。どうせ夜中に起きてなきゃいけないんだから、少し眠ろうかな」
「コンビニの仕事、続けるのか?」
「もちろんよ。約束は約束」
「だけど、人捜しはどうするんだ」
「仕事時間以外にやるわ」
「のびちまうぞ」
「あら、私のこと心配してくれるんだ。へえ、悪魔のくせに」
「誰《だれ》が」
 と、ポチは引っくり返った。「お前の面倒みるのなんてごめんだからさ」
「私が病気になったって、放《ほ》っときゃいいじゃない。あんた悪魔なんだから。私は天使なんだからね。恨《うら》んだりしないわ」
「フン、優等生だな、相変らず」
 マリは、フワフワのベッドにドサッと倒れ込んだ。
「すてき! でも、ここで寝ちゃったら、もう明日まで起きられないかも」
「かみついて起こしてやるぜ」
「ご親切に。——はい」
 マリは、ドアをノックする音で、起き上った。
「田崎です」
「あ、はい」
 マリはベッドから下りて、スカートの裾《すそ》を直すと、急いでドアを開けた。
「どうです、居心地は? 何か必要なものがあれば、用意しますよ」
 と、田崎は言って、「——どうやらポチは満足しているようですな」
 カーペットにドテッと長くなっているポチを見て、マリは少々赤面した。
「快適そのものです。ただ——コンビニエンスまで行くのが、ちょっと……」
「車で送りますよ」
「車で乗りつけるってのも……。地下鉄がまだあると思いますから、駅を教えてもらえれば」
「分りました」
 と、田崎は笑って、「いや、全く今どき珍しい人だ。——死体を捜してる、というのも珍しいですがね」
「すみません、妙なことばっかり。色々事情があって」
「構いませんとも。——で、今、知っている筋から返事がありました。あなたの捜している死体の置いてある場所が分りましたよ」
「本当ですか!」
 マリは目を輝かせた。
「しかし、別に消えてなくなった、なんてことはないらしいですよ。特に異常があったという報告はないということです」
「変だわ……。じゃ、大天使様、何か勘違《かんちが》いしてるのかしら」
「誰《だれ》が?」
「あ、いえ——こっちの話です。そこ、もう閉店[#「閉店」に傍点]してます?」
「さあ……。デパートじゃないけど、夜も誰かいるんじゃありませんかね」
「今から、連れてっていただけません? 夜中は仕事がありますし」
「いいですよ。じゃ、今からでも?」
「ええ、すぐに」
「ポチもですか?」
 ムックリとポチが頭を上げ、
「面白そうだ。俺《おれ》も行く」
 と、言った。
「行くそうです」
「はあ……」
 田崎は目をパチクリさせて、マリのことを眺めていた……。
 
 山本《やまもと》ミユキは、暗くなった建物の方を眺めながら、立ち去りかねて、行きつ戻りつをくり返していた。
 ミユキ。——久保は知らないが、姓は山本というのである。
 よくある名だし、ミユキは初めて久保に会った時、ちゃんと名前を言ったのだが、頭に残っていなかったのだろう。
 正直なところ、死体置場で働くなんて、気は向かなかったのである。ただ、親しい友だちが本当は就職することになっていて、間際で急に結婚することになり(子供ができちゃっていたのである)、ミユキに、代りに勤めてくれ、と頼んで来たのだった。
「一年も勤めてくれりゃいいから」
 と言われていたが——当日、ここへやって来るまで、ここが何なのか、知らなかった。
 初めの一日でやめてやろう、と決心したのだが……。
 その友だちはハネムーンに行ってしまって二週間帰らず、帰ってからは、えらく遠くへ引越してしまった。
 何となく、やめるきっかけを失って……一か月したら、先に勤めていた女の子がやめてしまった。で、結局、ミユキもやめるにやめられなくなってしまったのである。
 そして三年……。この一年は、久保との「特別な仲」が続いている。
 自分でも不思議だった。自分がファザコンだと思ったこともないし、特別に中年男にひかれるタイプとも思えない。
 それでも、久保と、こうなってしまうと、ミユキは真剣になってしまうのである。
 久保の方は、ミユキがただ「遊んでいる」だけだと思っている。ミユキもそう匂《にお》わせるように、ふるまって来た。たぶん——その方が久保も気楽なのだ。
 もし、ミユキの方が本気[#「本気」に傍点]だと知ったら、久保は面倒くさくなって、離れて行ってしまうかもしれない。ミユキは、それが怖かったのである……。
 建物はほとんど明りも消えて、二つ、三つの窓に明りが残っているだけだった。
 久保さん、いつになったら出て来るのかしら?
 ミユキは、戻ろうか、と思った。
 何となく戻りたくなって……。そう言えばきっと久保も喜んでくれるだろう。
 こんな所でウロウロしているより、思い切って……。彼がまだ仕事をしているのなら、手伝ってあげてもいい。
 もう三年も勤めているベテランのミユキである。たいていの仕事は、分っている。
 思い切ってミユキは建物の方へ歩き出した。
 正面の玄関はもうシャッターが下りている。裏へ回ると、〈通用口〉の辺りが、ポッカリと明るくなっていた。
 たぶん、中には久保一人しかいない。インタホンを押せば、館内のどこにいても、音は聞こえるだろう。
 ちょっとためらってから、ミユキはインタホンへ手を伸ばした。そして——足音だ。
 誰《だれ》かが出て来る! とっさに、ミユキは通用口の前から離れて、植込みのかげに隠れた。
 もし他の事務の人だったら、ミユキと久保のことをかぎつけてしまうだろう。
 カチリと音がして、ドアが開いた。
 明りが当ると、その男は少しまぶしそうに眉《まゆ》をひそめて、そのまま出て来た。
 変だわ、とミユキは思った。見たことのない人だ。まだ三十そこそこぐらいの男で、奇妙なのは、中で着る白衣を、そのままはおっていたこと。出る時に、ちゃんと白衣はクリーニング用のカゴの中へ入れることに決っているのに。
 それに、立場上、ミユキはここで働いている人間なら誰でも知っている。しかし、その男には全く見憶《みおぼ》えがなかった……。
 しかも、白衣を着たままで出て来る。——どうなってるんだろう?
 何となく、少し覚束《おぼつか》ない足取りで、その男は通りの方へ出て行く。——少しためらったが、ミユキはその男の後を追って、歩いて行った。
 しかし——通りへ出たところで、ミユキは戸惑《とまど》った。今歩いて行ったはずの男の姿が、どこにも見えないのだ。
 もともと寂しい道で、人通りは昼間も少ないし、車もあまり通らない。そんな所で、一体どこへ……。
「失礼」
 突然、後ろから声をかけられて、ミユキは飛び上るほどびっくりした。
「あ、あの……」
 あの男だ。一体どこにいたんだろう?——たぶん、通りへ出るまでの暗い小道で、追い越してしまったのだ。
「今晩は」
 と、男は頭を下げた。
「どうも……」
 まだ心臓が高鳴っている。きっと青くなっているだろうが、相手の方も、水銀灯の青い光のせいか、顔色は青いというより、白い[#「白い」に傍点]。
「ここは——どの辺ですか」
 男はいやにのっぺりした、単調なしゃべり方で訊《き》いた。
「あなたは……ここ[#「ここ」に傍点]の人?」
 と、ミユキは訊いた。
「え?」
「今、ここから出て来たでしょ?」
「そうですね……。でも、よく憶《おぼ》えてないんです。気が付いたら、ここ[#「ここ」に傍点]に立ってて……」
 何だろう? 少しおかしいのかしら?
 ともかく、ミユキとしては、放《ほう》っておくわけにはいかない。
「ね、中へ戻りましょう。それで、あなたのこと、ゆっくり考えましょう。ね?」
 と、子供へ言い聞かせるように、「中にはまだ人がいるから。私もね、ここで働いてるの。だから——」
 だが、建物へ向って二、三歩進んだところで、男は突然立ち止ると、
「いやだ!」
 と、大声を上げた。
 目を大きく見開いて、ひきつった顔は、はっきりと恐怖の表情を浮かべている。
「どうしたの? 別に怖いことなんかないわ」
「いやだ!——戻らない! 二度と——」
 男は後ずさった。
「落ちついて! ね、心配しなくともいいのよ!」
 ミユキは男の肩をつかんだ。しかし、もうミユキの声は男に届いていないようだった。
「やめてくれ! 触《さわ》るな!」
 男は、ミユキの手を振り払った。ミユキがもう一度男の肩へ手をかけたのがいけなかった。
 男は目を飛び出しそうなほど見開くと、いきなり両手でミユキの首を絞めたのだ。
 ミユキは必死でその手をつかんで呼吸しようとした。しかし、男の力は、とてもミユキなどでは抵抗し切れないものだった。
 意識が……薄れて来る。ミユキの膝《ひざ》から力が抜けて、路面に膝をついた。男はのしかかるようにして、さらに首を絞める手に力を入れた……。
 
「——何だか寂しい所ね」
 車の中から表を見て、マリは言った。
「地図だと、この辺りなんですがね」
 と、運転している田崎が、少し車のスピードを落とす。
 何しろガラ空きの道で、どうしてもスピードを出してしまうのである。
 後ろの座席には、マリと、隣で居眠りしているポチ。そして助手席には一緒について来た山倉純一が座っていた。
「もうそろそろじゃないのか」
 と、純一が地図を見て言った。
「坊っちゃんの目じゃ、あてになりませんからね」
 田崎に言われて純一は渋い顔をしている。見ていてマリはおかしかった。
「この塀《へい》がたぶん……。ぐるっと回ったところでしょうね、門は」
 田崎がハンドルを切って、道のカーブに合せる。
「しかし、死体置場に、もし本当に死体がなかったら、どうするんだい?」
 と、純一が振り向いて訊《き》いた。
「探して連れ戻します」
「じゃ——捕まえて、『あなたは死んでるんですよ』って言うのか」
「そこは私の仕事じゃないんです。見付けるだけなんです、私は」
「ふーん……。色んなボランティアがあるんだね」
 と、わけの分らない純一は感心している。
 ポチが頭を上げて、欠伸《あくび》をした。
「まだか」
「もうすぐよ」
「いい夢見てたんだ。——あと少しでいい女をものにできるとこだったのに」
 マリは苦笑いした。
「あそこか——。誰《だれ》かいるな」
 と、田崎は言って、「——あれは!」
 車のライトに男と女が浮かび上った。女は地面に膝《ひざ》をつき、男は女の首に手をかけている。そして車のライトで照らされると、ハッと顔を上げた。
 キーッとブレーキが鳴る。男が女から手をはなして、駆けて行く。白衣が翻《ひるがえ》っていた。
「あの男……」
 マリは愕然《がくぜん》としていた。
「大変だ、女が——」
 田崎は車から出ると、地面に倒れた女の方へと駆け寄った。
 マリたちも車から出る。——逃げた男の姿はもう夜の中に紛《まぎ》れて消えてしまっていた。
「どうだ?」
 と、純一が訊《き》く。
「息はありますが……。救急車を呼びましょう。——しまったな、電話のない車で来てしまいました」
「この中で、借りましょう。ポチ! 大声で吠《ほ》えて!」
「寝起きは、いい声が出ないんだ」
「つべこべ言わないの!」
「分ったよ……」
 マリとポチは、いくつかの明りの灯《とも》っている建物へと駆けて行った。ポチが派手に吠え立てたせいか、玄関の明りが点《つ》いて、戸が開いた。
「何だ、一体?」
 と、男が顔を出す。
「女の人がそこで襲《おそ》われたんです! 救急車を呼んで!」
「何だって?」
 そこへ、女をかかえて、純一と田崎がやって来る。
「ミユキ!」
 と、男が目をみはる。
「知ってる人?」
「ここで、働いてるんだ。どうして一体……。早く中へ」
 ミユキという女を、玄関わきのソファへ運んで、その間に、男が一一九番する。
「——今すぐ、救急車が来ます」
 と、男はやって来て、女の上にかがみ込んだ。「何てことだ……」
「あの——」
 と、マリは言った。「あなた、ここの方ですね」
「そう。久保といいます」
「久保さん。ここに宮尾常市と勇治っていう兄弟の死体がありますね」
 久保がサッと青ざめた。
「君は——何だ! どうしてそんなことを——」
「教えて下さい! 確かに二つとも、死体はここにあるんですね!」
 マリの気迫《きはく》に押された感じで、久保はペタンと床に座り込んでしまった。
「それが……一つ消えてしまった。ゆうべのことだ。何とか見つけようと、今、探してたんだが、……」
「一つ? じゃ、もう一つは、あるんですね? どっちが?」
 マリは答えを待った。——しかし、久保はガックリと肩を落として、
「それが——夜になって捜してみると——もう一つの方もなくなってしまっていたんだ。しかも……」
 と、言いかけて、言葉を切る。
 青ざめたまま、言葉が出て来ない、という様子である。——マリは言った。
「見たんですね。その人[#「その人」に傍点]を」
 久保がマリを見る。マリは肯《うなず》いて、言った。
「私も今、見ました。宮尾常市か、それとも勇治か分りませんけど、確かに、あの顔でした」
 久保は、全身で息をついた。
「君も——君も見たのか! そうか!」
 久保は笑い出した。自分が狂ったのかと思っていたのだろう。しかし、マリもその男を見たと知って、安心したのだ。
「しっかりして下さい!」
 と、マリは強い口調で言った。「この女の人の首を絞めたのは、その男[#「その男」に傍点]だったんですよ!」
「——何だって?」
 久保は愕然《がくぜん》とした。
 マリは、玄関から表に出た。ポチがノコノコついて来る。
「死体が二つとも逃げ出したって、どういうことだ?」
 と、ポチが言った。
「あの女の人を襲《おそ》ったのは、どっちだったのかしら?」
「そりゃ、悪《わる》の兄貴の方だろ」
「それは分らないわ、人間、生き返った時にどうなるか、なんて……」
 マリは夜空を見上げた。「とんでもないことになったわね」
「だけど、どうして二人とも[#「二人とも」に傍点]生き返っちまったんだい?」
 マリはポチを見て、
「分らない? もう一つ、手違い[#「手違い」に傍点]があったのよ。天国じゃない、もう一方[#「もう一方」に傍点]の受付でね」
 ポチは、目をパチクリさせて、
「じゃ——地獄でも?」
「そうとしか考えられないでしょ。本当にしっかりしてほしいわね。下っ端が苦労するんだから」
 マリは玄関の階段に、腰をおろした。ポチもその横へ、ペタッと座ると、
「そりゃ、えらいこった」
 と、呟《つぶや》いたのだった。
 そして救急車のサイレンが近付いて来た……。
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