天使に似た人02

 1 手違い

 
 
 アーア……。
 マリは、欠伸《あくび》をした。
 眠いのだ。——ま、当り前のことではある。何しろ午前三時なのだから。
 しかし、あと三時間は起きていなくてはならない。これはこれで、そういう生活パターンが身につけば、どうってことはないのだろうが。
 何しろマリがこの二十四時間営業のコンビニエンスで働き出してから、まだ二日目なのだ。
 本当にね。——人間って、何て夜ふかしの好きな生きものなんだろう。
 マリは、改めて感心してしまう。
 ともかく、ここで働いていて、こんな真夜中から、明け方までお客の途切れるということが、ほとんどないのである。この辺りは、別に繁華街というわけでもなく、外は真暗。それでも、どこからともなく、大学生らしい男の子だの、ドライブ帰りのアベックだのが、店にやって来る。
 昨日の第一日目は、マリも緊張していたせいか、途中でくたびれてしまって、少しお客がいなくなった時、椅子《いす》にかけて眠ってしまった。——お客が起こしてくれて、少し青くなったが、幸い、何も持って行かれなかったようでホッとしたものだ。
 二日目の今日は、大分リラックスして、やって来る客を眺めたりする余裕もできた。
 ——でも、天国にもこんな〈二十四時間営業〉のストアができたら、天使たちもきっと「深夜族」になっちゃうだろうね。
 確かに、便利といえば便利である。特に一人暮しの学生なんか、どんな時間でも、ここへ来れば、カレーライスだのカツ丼《どん》だの、電子レンジで二、三分あっためて、すぐに食べられるのだし、日用雑貨、必要な物は一通り揃《そろ》っている。
 マリは以前から悩《なや》んでいるのである。——深夜まで起きてる人がふえたから、こういう店ができたのか、それともこういう店ができたので、深夜まで起きてる人がふえたのか……。
 ま、どっちにしても、天国を揺がすほどの大問題ってわけじゃないが。
「いらっしゃいませ」
 独り住いらしい大学生。ひげがうっすらとのびて、およそ日に当ることのないような青白い顔をしている。
 この人、ゆうべもカップラーメン買ってったわ、とマリは思った。——そう、もの憶《おぼ》えがいいというわけでもないマリが、この男の子のことを憶えているのは、狭苦しいアパートでカップラーメンをすすっている図が、これほどぴったり来る人も珍しいだろう、と思ったからである。
「カップラーメン三つ、ですね」
 と、マリは言ってやや慣れない手つきでレジを打った。
 おつりを渡して、カップラーメン三つ、ビニールの手さげ袋に入れて渡すと、
「ありがとう」
 思いがけず、その男の子がニッコリ笑って礼を言ったので、マリはびっくりしてしまった。意外に人なつこい笑顔である。
「どういたしまして」
 あわてたマリは、つい頭を下げ返していた……。
 ああ、やれやれ。——突然あんなこと言われると焦《あせ》っちゃうわね。
 お店の方は少し閑散として来た。面白いもので、客が来る時は、夕方の買物どきかと思うほど来るし、来ない時はパタッと人の姿が消えてしまう。どうやら今は「ひけどき」らしい……。
 少し気がゆるむと、アーアと欠伸《あくび》をして……マリは、一人、男が店の中を歩いているのに気付いた。
 いつ入って来たんだろう?——もちろん、出入口はこのレジのすぐわき、一か所しかない。さっきのレジを打ってる間に? でも、記憶がなかった。
 ともかく、ああして棚の間を歩いてるからには、入って来たに違いないのだ。
 何だか少しくたびれたコートを着て、えりを立て、顔が半ば隠れている。ポケットに両手を突っ込み、棚の品物を見ているようないないような……。
 マリは、ふと緊張した。もしかすると——強盗?
 こういう店が、よく狙《ねら》われるのは事実である。そんなに大金があるわけではないが、レジに少々の現金はいつもあるし、こんな風に客が途切れることがあれば、格好の標的になる。
 マリは、そっとレジの下へ手をのばした。撃退用のバットが置いてあるのだ。もちろん向うが拳銃《けんじゆう》でも持ってたら、おとなしくお金を渡す。でも、刃物をちらつかせるぐらいなら、やっつけるか、ワーワー大騒ぎすりゃたいてい相手は逃げる……。
 甚《はなは》だ危険な方針[#「方針」に傍点]ではあるが、マリはここで雇ってもらう時、そう教えられたのである。
 ——大きなチェーンのコンビニエンスではない。こんな時間帯に女の子を一人で置いておくのだから、危いのは分り切っている。そこを無理に雇ってもらっているのだから、マリとしても、文句は言えないのである。
 でも——やっぱり怪しいわ、あの男。
 その男は、店の中を見回し、客が他《ほか》にいないことを確かめると、レジの方へ真直《まつす》ぐにやって来た。——やっぱりそうだ!
 品物を何も持っていない。レジの方へ、真直ぐにやって来る。そして右手はコートの内側へ入れられて——。
 マリだって、もちろん怖い。「天使」だって死ぬのはいやなんである。
 先制攻撃だ! マリはパッとバットを取り出すと、両手で振り上げ、
「ヤーッ!」
 と、一刀流よろしく、真直ぐ振り下ろした。
 ゴーン、と除夜の鐘みたいないい音がして、手に震動が伝わって来た。
「いた……いてて……」
 男は、よろけつつ後ずさると、ドテッと仰向《あおむ》けに引っくり返る。
「やった! ざま見ろ!」
 マリは、しっかりバットを握りしめると、カウンターから出て、大の字にのびている男の方へ、こわごわ近付いて行った。
「ウーン……」
 気絶はしていないらしく、男は、呻《うめ》きながら、上半身を起こした。
「おとなしくしないと、もう一回ぶん殴《なぐ》るからね!」
 マリはバットを振り上げた。
「よせ! 馬鹿《ばか》! 誰《だれ》だと思ってるんだ!」
 と、その男[#「その男」に傍点]が怒鳴《どな》った。「この——劣等生[#「劣等生」に傍点]が!」
「え!」
 何かどこかで聞いたことのある声……。
「私だ……。おお、痛い……」
 コートのえりに半ば隠れていた顔が出て、マリは——唖然《あぜん》とした。
「ああっ!」
 コトン、とバットが落ちる。その拍子に、また男の頭のわきへコチンと当った。
「いてっ!」
「あ、すみません!——大天使様[#「大天使様」に傍点]!」
 マリは、あわててその男[#「その男」に傍点]を助け起こしたのだった。
 
「全く……天使が暴力を振うとは」
「ごめんなさい」
 マリはシュンとしている。「あの……カレー、あっためて食べます?」
「いらん」
 と、その男[#「その男」に傍点]は、頭を振って、「まだクラクラする」
「だって……てっきり強盗だと思ったんですもの。そんな格好で来るから」
「仕方あるまい。何か上にはおらんと」
 店の中は幸い客がいない。——それにしても、マリとしては青くなっても当然である。
「研修に出したのは、人間について学ぶためだ。人を殴《なぐ》るためではないぞ」
「でも……人間と同じようにして生活しないと、人間の苦労も分らないだろうと思って……。やっと、ここで働けるようになったんですもの」
 その男は苦笑して、
「ま、仕事熱心は悪いことではない」
「そうですよね!」
「天国へ戻っても、天使を殴るなよ」
「はあい」
 と、マリは頭をかいた。「でも——大天使様、どうしてこんな所へ?」
「うむ……。緊急事態だ」
「何かあったんですか」
 その男は、新聞を売っているスタンドの方へ歩いて行くと、一部抜いて来て、広げた。
「これだ」
 大々的な文字で派手に社会面を占めているのは、〈凶悪殺人犯・宮尾、警官と撃ち合って死ぬ〉という記事。
「ああ、見ました。四人殺してて……」
「しかも、ここで子供を一人撃って殺している。それと自分の弟も」
「ひどいですね。何の罪もない子供まで。母親の目の前で撃ったとか」
 マリは首を振って「もちろん地獄行きでしょ?」
「当然だ」
 と、その男は肯《うなず》いた。「ところが、その弟の方は、福祉のために一生を捧《ささ》げて来た男でな。ともかく、問題なく天国で受付けることになっていた」
「兄弟でも、そんなに違うんですね」
「そのくせ、この二人は双子でな。正に瓜《うり》二つ、そっくりなんだ」
「へえ」
「しかも、弟が兄に撃たれたのが、胸と脇腹《わきばら》に一発ずつ。兄が警官に撃たれたのも、胸と脇腹に一発ずつ。——これで混乱してしまったのだ」
「というと?」
「天国で受付をしていると、途中の検問所から連絡が入ったのだ。どうやら兄と弟を間違えたらしい、と」
「ええ?」
「こんなこと、何百年に一回の出来事だ。係員があわてて、つい間違ったボタンを押してしまった」
「間違った……?」
「うむ」
 と、その男は肯《うなず》いて「生き返って[#「生き返って」に傍点]しまったのだ」
 マリは唖然《あぜん》として、
「じゃあ……その悪いのが、生き返っちゃったんですか?」
「そこもはっきりせん。生き返ってしまったからには、もう天国では調べることもできんのだ」
「じゃ——正しい方だったのかも?」
「もし、間違っていると、大変なことになる。天国へ召されるべき人間が地獄へ堕《お》ちてしまったのだからな」
「そうですね……。じゃ、どうするんですか?」
「そこで、お前の出番だ」
 マリが目をパチクリさせていると、ガラッと扉が開いて、客が入って来た。——少し背中を丸めて、うつむき加減に、棚の間を歩いて行く。
「私の出番って、どういうことなんですか?」
 と、マリは訊《き》いた。
「客だぞ」
「いいんです。あの人、いつもこれくらいの時間に入って来て、何も買わずに帰って行くんです。三十分くらい、棚の間をウロウロしてますから」
 この客のことは、前任者から聞かされているのだ。少し気味は悪いが、害はない、ということだった。
「ふーん。妙な人間もいるものだな」
 と、〈大天使〉が感心している。「数百年前までは、考えられなかった」
「二十四時間営業のコンビニエンスもなかったでしょ」
「うむ。全く休まないというのは、やはり神のご意志に背くものだな。少なくとも自然が眠る時間にはここを閉めてだな——」
「私のものじゃないんですから。それより——」
「ああ、すまん。いや、ともかく、生き返ったその男を、何とかして見付け出してくれんか」
「私が、ですか?」
「お前はもう人間の世の中にも大分慣れたろう。上から時々見とるが、えらく無鉄砲なこともしとるようじゃないか」
「大天使様、覗《のぞ》いてるんですね」
 と、マリはにらんで、「私がお風呂《ふろ》へ入ってるとことか、覗いてません?」
「馬鹿《ばか》。いいか、ことは重大なのだ。一週間以内に見付けて、訂正[#「訂正」に傍点]しないと、大問題になる」
「分りました。じゃあ、生き返った人を見付けて……。どうするんですか?」
「私に報告すればよろしい。後はこっちでやる。いいな?」
「はあい」
 いや、とも言えない立場である。「——でも、大天使様」
「何だ?」
「もしかすると、その人、悪い兄貴の方かもしれないんでしょ?」
「そうだ」
「じゃ……見付けたはいいけど、こっちが殺される、って可能性も——」
「それはまあ、ないでもない」
「簡単に言わないで下さい! 私、今は生身の体なんです。撃たれりゃ痛いんですよ」
「こっちだって、殴《なぐ》られりゃ痛い」
「それを言われると……」
 と、マリが口を尖《とが》らす。
「いいか、天国がこの大切な仕事をお前に任せるということは、お前のことを大いに注目しているということなのだ。分るか?」
 と、肩をポンと叩《たた》かれたりして、マリも悪い気持はしない。
「はあ……。じゃ、見付けるだけでいいんですね」
「そうだ。もちろん、天国の常として、ほうびは出ないが、その仕事そのものが——」
「喜びとなる。まだ、ちゃんと憶《おぼ》えてます」
「よろしい。では頼むぞ」
「ええ。——でも、この人、そんなに悪い人にも見えないわ」
 と、マリは新聞の写真に見入った。「ねえ、大天使様——あれ?」
 もう、目の前から、あの姿[#「あの姿」に傍点]は消えてしまっていた。マリは、手にした新聞に気付いて、
「これ——売物だったのに! 勝手に持って来ちゃって」
 仕方ない。自分の給料から払っとこう。
「天国に帰ったら、ちゃんと返してもらおう」
 と、マリは呟《つぶや》いた。
 もっとも、天国にはお金というものがない。
「何か——大事な物でももらおう」
 ただじゃすまさない、と決心している。
 すると——。
「これ……ちょうだい」
 目の前にシェービング・クリームと、カミソリが置かれた。
「はい、いらっしゃいませ。——あれ?」
 マリは、びっくりして、ついそう言ってしまった。目の前に立っていたのは、例の「何も買わない客」だったのである。
「いくら?」
「あ——ちょっと待って下さい」
 マリは、あわててレジを打った。
 こうして目の前で見ると、ずいぶん若い。せいぜい二十歳。ただ、顔は青白くて、頬《ほお》がこけた感じだ。
「僕が買物したんで、びっくりしてんのかい?」
 と、訊《き》いた口調は、少し面白《おもしろ》がっているようですらある。
「いえ、別に……。気を悪くされたら、すみません」
「いいんだ」
 と、その若者は微笑《ほほえ》んだ。
 元気のない笑みだったが、微笑んだには違いない。
「君と話したくてね」
「え?」
「だって——今までいた子は、僕が店へ入ると、まるで汚《きたな》いものみたいな目で見てたんだ。近寄ろうとも思わなかったよ」
「そうですか……」
「でも、君は違ってた。僕のこと、当然聞いてるだろうにね」
「でも——変った人って沢山いるんですよ。変った人がいるから、世の中って面白いんです。私、下界へ来てから、そう思うようになったんです」
「下界[#「下界」に傍点]へ来てから?」
「あ——いえ、私のくせ[#「くせ」に傍点]なんです。そう言っちゃうのが。変ですね」
 マリは笑ってごまかした。「私も——変な人[#「変な人」に傍点]の一人なんだわ、きっと」
 若者は楽しそうに笑った。
「じゃあ……またね」
「ありがとうございました!」
 マリは、精一杯元気な声を出したのだった……。
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