死体は眠らない31

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 31 わ な

 
 ええ、世の中には、色々と解釈というものがございまして……。
 いや、別に落語をやる気じゃなかったのだった!
 もちろん、現実というものは単純ではない。きちんと割り切れるわけでないことは、僕とて承知しているのだ。何しろ、この数日間で、豊富な人生経験をして来たので、人生経験が豊富になったのである。
 何を言ってるんだ?
 ともかく、吉野と話をしていた女が、祐子でないという可能性だって——あるだろうか?
 しかし僕は祐子の声なら、はっきり憶《おぼ》えているのだ。そりゃそうだろう。何度もベッドを共にしていて、それでも声一つ聞き分けられなかったら大変だ。
 その限りで言えば、今、吉野としゃべっていたのは祐子に違いない。
 もちろん、百パーセント間違いない、というわけではない。人生に百パーセントということはないのだから。
 広い世間を捜《さが》せば、祐子とそっくりの声の女だって見付かるだろう。
 しかし、その別の女が、この家の中にいて、吉野と話をしているという可能性はほとんど——いや、全く、ない。
 すると、やはりあれは祐子だったのか。
 そう、祐子だったのだ。そうとしか考えられない。
 理論的に話を進めよう。——あれが祐子と吉野だったとすると、二人の話の中身はどうなる?
 問題の部分は次のようだ。
 〓「あの人」とは誰を指すか?
 〓「私たちの未来」の「私たち」とは誰のことか?
 この二点である。
 〓から考えてみよう。「あの人」について、二人は、「意地汚い」「金持」だと言っている。
 これは問題だ。「意地汚い」人間というのはいくらでもいるが、「金持」は、そうざらにいない。
 たとえば、添田は意地汚いが、金持ではない。——ここの家の人間——つまり、今、ここにいる人間の中で、「金持」といえるのは——ちょっと自《じ》慢《まん》するようでいやだが——僕以外に考えられないのだ。
 では僕が「意地汚」くて「一《いつ》緒《しよ》にいると疲れる」男なのか? 断じて否である!
 否! 否! 否!……(以下略)
 まあしかし、これはある程度主観の問題だから、きめつけるわけにいかないのだ。
 一応、「あの人」を僕のこととしておこう。甚《はなは》だ心外ではある、と一応申し添えておく。
 次に〓の点だが、祐子が、
 「私たちの未来」
 というとき、その「私たち」は、「私」と僕の二人のことに違いない。
 しかし、どうして祐子が僕との未来のために、吉野にキスしているんだ?
 これはおかしい。実におかしな話だ。
 そこで考えに入れる必要があるのは、祐子は、僕が戸棚の中にいるとは思っていないということである。
 それは祐子の、
 「あの人は台所でケーキを食べてるわ」
 でも分る。
 つまり——「私たち」というのは、祐子と吉野のことなのだ。
 「私たちの未来」だって?——祐子と吉野の未来?
 どんな未来だろう? 少なくとも、バラ色でないことだけは確かだ!
 
 僕としては、これからどうすべきかは、分っていた。
 戸棚の中から出て、下へ行き、祐子を問いつめるのだ。
 いや、「問い詰める」というのは強すぎる。訊《き》いてみるのだ。やさしく、やわらかく訊くのだ。
 しかし、それには、ここから出なくてはならない。同じ部屋の他の戸棚に他の男が隠れているというのに!
 だが、急がなくてはならなかった。祐子も下へ行って僕がいないと分ると、寂《さび》しがるだろう。
 ここはともかく強引に出て行くという手である。吉野の奴は、まさか、同じ部屋に僕がいるとは思ってもいないだろうから、戸棚の開く音にギョッとしても、誰なのか、入って来たのか行ったのか、分りゃしないだろう。
 ここは一か八かやってみることにした。
 僕としては一大決心である。
 こういうときは、こっそりやると却《かえ》って怪《あや》しまれる。一気にパッと出るのがいいのである。
 僕は、まるでサーカスの花形の登場のように、格好をつけて、パッと扉《とびら》を開けたのだった。
 
 「——あら、どこにいたの?」
 台所に入って行くと、祐子がいつに変らぬ声で迎えてくれた。
 「うん……ちょっとトイレにね」
 「食べすぎたんじゃないの?」
 祐子はクスクス笑って、「じゃ、コーヒー飲む?」
 「ああ……」
 と僕は言った。 
 「どうしたの? 元気ないわね」
 「そうかい?」
 「元気出して! きっと何もかもうまく行くわよ!」
 祐子が僕の頬《ほお》にキスしてくれる。
 普通なら、これで僕もエネルギー百倍という、鉄《てつ》腕《わん》アトムみたいになっちまうところだが、今度ばかりは、あまり気も晴れなかったのだ……。
 「添田は?」
 と僕は訊いた。
 「何だか、犯人がお金を取りにきたら、罠《わな》にかけるんだと言って、何かやってるみたいよ」
 「ふーん」
 僕は居間の方へ行ってみることにした。
 祐子といるのが辛《つら》いのだ。——これは正に哀《かな》しい気分だった。
 「そうだ! いいか! 合図をしたら一《いつ》斉《せい》に飛びかかるんだぞ!」
 と添田が大声で喚《わめ》いている。
 誰に向って、しゃべっているんだろう? 添田の周囲には誰もいないのに。——ついにイカレちまったのか?
 いや、それはもともとのはずだ。
 「チャンスは一度きりだ! 分るか!」
 と、添田は、まるで高校野球の選手宣《せん》誓《せい》みたいに、手を高々と上げて、声を張り上げた。
 こっちへ背中を向けているので、僕が居間へ入ったのも気付かない様子だ。
 「添田さん——」
 と僕は、そばへ行って呼びかけた。
 「ワッ!」
 添田は、こっちがびっくりするような声を上げて、飛び上った。「な、何ごとですか!」
 「いや、僕は——」
 と言いかけたとき、部屋のあちこちに隠れていた刑事たちが、
 「ウォーッ!」
 と、猛《もう》獣《じゆう》の如き叫《さけ》びと共に、一斉に襲《おそ》いかかって来た。
 「やめろ! 今のは違う!」
 という添田の叫びは、たちまち、刑事たちの折り重なる体重の下に消えてしまったのである。
 いや、そんな呑気なことを言っている場合ではない。
 僕まで、数人の刑事にのしかかられて、アッという間もなく、床《ゆか》につぶされてしまったのだ。
 死ぬかと思った。——いや、死んだのかとさえ思った。
 しかし、死んだとしたら、思うこともないだろうから、やはり死ななかったのだった。
 当り前だ! こんなことで死んじゃやりきれない!
 「どいてくれ!——どいて——」
 必死で、押しのけ、かきわけ、這《は》いずり出す。
 「違うぞ」
 「人違いだ」
 と、刑事たちが口々に言っている。
 「当り前だろうが!」
 添田が、真っ赤になって怒《ど》鳴《な》っていた。「お前ら、どこに目をつけてるんだ!」
 だが、怒鳴られても、刑事たちは、一向にシュンとなるでもなく、ニヤニヤ笑っているのまでいる!
 こいつは、どうやら、分っていて、わざと添田をせ《ヽ》ん《ヽ》べ《ヽ》い《ヽ》にしてやろうとしたのではないか、と僕は思った。
 こっちがとばっちりではかなわない。
 「——ああ、びっくりした」
 と僕は体を少し動かしてみた。大丈夫。何とか手足は無事に動いているし、頭もちゃんとしている。
 「どうです?」
 と添田が言った。
 「どうって?」
 「この態勢で、金を受け取りに来た犯人を押えるのです」
 一体、この刑事は何を考えているんだろう?
 好きにしてくれと言いたいのを、ぐっとこらえた。
 もう、一億円なんかどうでもいい。——いや、良くはないが、どうでもいいと言ってもいい気分である。
 祐子が吉野と組んでいたとは!
 これこそが悲劇でなくして何だろう?
 いくら僕が祐子を愛しているからといって、ああまで、目の前ではっきりと、「意地汚い」などと言われては、僕も男だ。怒《おこ》ったぞ!
 もっとも、僕が怒ったところで、どうということもあるまいが。——いや、そんなことはない!
 少なくとも今は、僕の方が祐子より有利な立場にいるのだ。つまり僕は祐子が僕を騙《だま》していることを知っているが、祐子の方では僕が騙されていることを知っていることを知らない。ああ、ややこしい。
 ともかく、ここは僕の方が有利なのだ。それだけははっきりしている。
 「でも、そんなことをしても、犯人は金を持ち出すかもしれませんよ」
 と僕は添田に言った。
 「そんな馬《ば》鹿《か》な! どんな方法があるというんです?」
 「分りゃ苦労はしませんよ」
 「そりゃそうですな」
 添田は少し声を低くして、「あの脅迫電話はしかし、誰からでしょう?」
 「分りませんよ、そんなこと」
 「本当ですか?——しかし、あなたの奥さんはあなたに殺されたんでしょう? それなのになぜ誘拐されたんです?」
 「そんな大きな声で——」
 と僕はあわてて言った。
 「失礼。——なに、大丈夫ですよ」
 そっちは大丈夫でも、こっちは大丈夫じゃない!
 「それが分らないから、むずかしいんじゃありませんか」
 「犯人は奥さんが殺されたことを知ってるのかもしれませんな」
 「たぶんね」
 「それで、あなたを脅迫するのに、間接的な方法を取った」
 「でも、どうしてでしょう?」
 「それが好きなんでしょ」
 この刑事は、必然性というものを全く重んじない人物なのである。
 「社長さん」
 と、声がして、祐子が台所で僕を手招きしている。
 行ってやるもんか、とも思ったが、裏切られたからといってすぐに足の裏を返したように——いやてのひらを返したように態度を変えるのは、大人のすることではない。
 「何だい?」
 と、僕はいつもの優しい笑顔で、台所へ入って行った。
 「良かったわ。私ね、吉野さんを二階に置いて来たのよ」
 「吉野を?」
 知っていながら、知らんぷりをするのも、悪くない。「しかし、どうしてだい?」
 「しっかりしてよ! 吉野さんにお金を盗ませるためじゃないの」
 「ははあ……。吉野は何だって?」
 「ブツブツ言ってたわ」
 こっちもだよ、と僕は心の中で呟《つぶや》いた。「だけど大丈夫。ちゃんとこっちの狙い通りになるわよ」
 「君《ヽ》の《ヽ》狙い通りじゃないのかい?」
 「あら、だって、私とあなたは同じ狙いに決ってるでしょ?」
 「そうだね……」
 「本当に何だか変よ」
 と、祐子は言った。
 「何ともないよ」
 と、僕は英雄的努力で答えた。
 「ただね……」
 と、祐子は言った。「気がひけるの」
 「どうしてさ」
 答える代りに、祐子はいきなり僕に抱きついた。これにはびっくりした。
 「私——吉野さんと調子を合せるために心にもないことを言ってしまって、後《こう》悔《かい》しているの」
 と祐子は言い出したのである。
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