死体は眠らない29

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 29 犯人は発《はつ》狂《きよう》した?

 
 自宅で泳ぐというのは、かなり優《ゆう》雅《が》な趣味の一つに数えてもいいだろう。
 それは、「泳ぐ場所」が自宅にある——つまり、家にプールがあることを意味しているからである。
 しかし、このとき、僕が泳いでいたのは、水びたしになった地下室であった。どう見ても、優雅とはほど遠い状況である。
 「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
 刑事にやっと引っ張り上げられて、僕はハアハアと喘《あえ》いでいた。いきなり水の中へ突っ込んだので、たらふく水を飲んでしまった。
 砂《さ》漠《ばく》で水を求めてさまよってでもいたのなら、水も旨《うま》いだろうが、こんな所で水を飲んでも、ちっとも旨くない。
 「大丈夫ですか?」
 と刑事がしつこく訊く。
 返事もできないくらいなのに、大丈夫なわけがあるか!
 どうも日本の警官には、思いやりの心に欠けた奴が多いらしい。
 そこへ、「ミスター・思いやりのなさ」が走って来た。もちろん添田のことだ。
 「池沢さん、何してるんです!」
 と、いやな声で怒鳴る。
 「いえ、声をかけたら、びっくりして、水に落ちてしまって——」
 と、もう一人の刑事が説明すると、
 「そんな呑《のん》気《き》なことをしている場合ではないですよ」
 と、添田は僕の肩《かた》をつかんで、ぐらぐら揺《ゆ》さぶった。「電話ですよ! 誘《ゆう》拐《かい》犯《はん》から、電話なんですよ!」
 こいつ! 僕を殺そうってのか……。
 ずぶ濡れの人間を、電話へ引っ張って行こうというのだ。これこそ正に非人道的な行《こう》為《い》という他はない。
 「ちょっと——待ってくれ」
 僕はやっとの思いで言った。「水を飲んじまって——苦しくて——」
 だが、添田は冷《れい》酷《こく》にも、
 「相手は待ってるんですよ。奥さんが殺されてもいいんですか?」
 と僕を脅《きよう》迫《はく》したのだ。
 僕は仕方なく、よろけつつ立ち上った。添田は、腕《うで》をぐいとつかんで、
 「さあ、早く早く」
 と引っ張って行く。
 危うく転びそうになりながら、僕は、やっとの思いで歩いていた。
 居《い》間《ま》へ入ると、みんな静まり返っている。僕の、ひどい様子を見ても、みんな平然としている。——世の中から、同情という心は失われてしまったのだろうか?
 だが、もちろん祐子だけは違《ちが》っていた。
 僕を一目見ると、目を丸くして、駆《か》け寄って来た。
 「その様子——」
 と言いかけるのを僕は抑えて、
 「大丈夫。ちょっと転んだだけだよ」
 笑顔すら見せた。
 男というものは、決して弱音を吐《は》いてはいけないのだ。
 「さあ早く」
 と、添田は非情にせき立てる。
 僕はここに至って、一種の英雄的心情にまで高められた。
 なんて、あんまり大《おお》袈《げ》裟《さ》に言うこともないが、ここは、濡れたままでいる寒さも、不快さも、じっと堪《た》え忍《しの》んで、電話に出ることにしたのである。
 「早くして。向うが切ってしまうと困りますから」
 添田が受話器を僕の方へ差し出した。
 僕は、エヘンと一つ咳《せき》払《ばら》いをすると、受話器を受け取った。別に、もったいぶっているわけではないのだが、何しろ水を飲んでいるので、まともに声が出ないのだ。
 「もしもし」
 できるだけ落ち着き払った声で僕は言った。現在の状況からいうと、実に堂々たる声だった。
 「池沢だけど」
 「もしもし」
 と、相手は言った。
 「池沢だ」
 「いつまで待たせるんだ」
 と、文句を言われて、僕はムッとした。
 こっちの事情もちっとは考えろ! といっても無理な注文かもしれないが。
 「まあいいや」
 と、相手は続けて言った。「いつになったら届くんだ?」
 「届くって……まだ場所も聞いてないじゃないか」
 と僕は言い返した。
 「何だと? さっきから何度も電話して言ってるじゃないか」
 「さっきから?」
 「ともかく、天《てん》丼《どん》を三つ出前するのに、一時間もかかるソバ屋なんて聞いたこともないぞ」
 「待ってくれ。——どこへかけてるんだ?」
 「何だって? そこは池田屋だろ?」
 「うちは池《ヽ》沢《ヽ》だ」
 「え?——ああ、間《ま》違《ちが》えた。失礼」
 電話は切れた。
 このとき、僕が添田を殺さなかったのは、正に英雄的行動と誉《ほ》められて良かったと思う。美奈子を殺した罪を相殺してもらって、まだおつりが来るんじゃないかと思うくらいである。
 ——正直なところ、怒りが沸《わ》き上って来るまでに少々時間がかかった。そこへ、すかさず添田がやって来て、
 「いや、ちょうど一時だったし、声も似てましたからね。あれじゃ間違えるのも無理はない。責めては可哀《かわい》そうというものです」
 誰《だれ》のセリフだ!——僕は呆れて添田を見守っていた。
 そこへ吉野が戻って来た。
 「社長! 間違いなく七千万円、引き出して来ました」
 と敬礼でもせんばかりである。
 「ああ、ご苦労」
 寛《かん》大《だい》な気持になっていた僕は、ねぎらいの言葉さえ、かけてやったのである。
 「全く銀行って所は勝手ですね。預けるときはニコニコしてるのに、引き出すとなると、たったポケットティシュー三つしかよこさないんですよ」
 と、吉野は言った。
 「ともかく、まだ電話はかかって来ないよ。金は一応金庫へしまっておこう」
 「社長さん」
 と、祐子が声をかけて来た。「服をおかえになった方がよろしいですよ」
 祐子の優しい心づかいが、冷え切った僕の心を暖めた。
 「そうだね。そうしよう。君、その金の入った鞄《かばん》を持って来てくれる?」
 「はい」
 祐子は嬉しいほど従順だ。
 僕は添田の方へ向いて、
 「今度電話が鳴ったら、相手を確かめてから僕を呼んで下さい」
 と言ってやった。
 僕の、せめてもの仕返しである。
 「七千万ね。——大金だわ」
 寝室に入ると、祐子はドアを閉めて、言った。
 「全くだ。くれてやるなんて惜《お》しいな」
 「大丈夫よ。きっとうまく行くわ」
 祐子は、僕に軽くキスをした。「さあ、早く着《き》替《が》えて。そうしないと風邪《かぜ》ひくわ」
 「うん」
 僕は、下着やシャツ、ズボンなどを出して来た。
 「あと、靴下と、それに……。でも、ねえ」
 「何だい?」
 僕は濡れた服を脱《ぬ》ぎながら訊いた。
 「体が濡れたままじゃ、新しい服を着ても何にもならないわ。熱いシャワーを浴びて来たら?」
 「そうだね」
 僕は、祐子の言葉に、一も二もなく三もなく、同意したのだった。
 「さあ、脱いで。——よく暖まった方がいいわ」
 「でも——」
 と僕はふと思いついて、「もし風《ふ》呂《ろ》に入ってる間に電話がかかって来たら?」
 「そしたら、呼んであげるわよ。急いで出て来れば間に合うわ」
 「そうだね」
 僕は、安心して浴室へと入った。浴《よく》槽《そう》にたっぷりとお湯を入れ、ゆったりと体を浸《ひた》す。——確かに祐子の言う通り、よく暖まるのが何よりである。
 「どう?」
 と、浴室のドアから祐子が顔を出す。
 「いい気分だよ。君もどう?」
 「馬鹿言わないで」
 と祐子は笑った。「いくら何でも、のんびりし過ぎてもまずいわよ」
 「分った。今出るよ」
 と、僕は肯いた。
 「——ほらバスタオル」
 「ありがとう。いや、やっと生き返った」
 僕は服を着ると、鏡の前で髪《かみ》をとかした。悲劇の主人公というやつは、常に女性の心に、ひきつけを起こす——いや、女性の心をひきつける。
 だから、決して、見っともない格好はできないのである。
 「電話がかかって来なくて良かったな」
 と僕は言った。
 「きっと、向うも気をきかせて待っていたのよ」
 「そうかもしれないな」
 と、僕は笑った。「さて、これでいい、と——」
 すると、そこへドアをノックする音。
 「はい」
 と、祐子がドアを開けると、刑事が立っていた。
 「誘拐犯から電話です」
 正に絶《ぜつ》妙《みよう》のタイミングである!
 「今度は確かなんでしょうね?」
 「大丈夫です。添田さんが何度も念を押していました」
 僕は、吹き出したくなるのをこらえていた。電話した奴は、さぞかしびっくりしているだろう。
 僕は下へおりて行った。
 受話器を取って、
 「池沢だけど」
 と言うと、
 「おい! 一体どうなってるんだ?」
 と、不《ふ》機《き》嫌《げん》な声が飛び出して来た。「さっき出たのはデカか? 『本当に誘拐犯さんですか?』と、十回も訊いてやがった!」
 「まあ、ちょっと事情があったんだ」
 「何だか知らねえが、金の方はどうなんだ、ええ?」
 「うん、仕度できてる」
 「一億か」
 「うん」
 「さすがだな」
 と、向うも多少機《き》嫌《げん》を直したらしい。
 「で、どうやって渡《わた》せばいいんだい?」
 「ああ、それなら心配いらねえ」
 と、相手は呑気である。
 「心配いらないって言われても……」
 「こっちから取りに行くよ」
 「——何だって?」
 僕は、やや間を置いて、訊き返した。
 「取りに行くから、そっちへ置いといてくれ」
 「取りに——来るの? ここへ?」
 「そうさ。そうだな。夕方までには行けると思うぜ」
 「あ、そう」
 何だか、どこかの偉い人の口ぐせみたいだが、この場合、他にセリフが出て来なかったのだ。
 向うだって、この家に刑事がいることぐらい、分っているはずだ。そこへノコノコやって来れば、当然捕まる。
 こんな理《り》屈《くつ》は僕だって分る。——いや、僕が分るのは当然だが、添田にしたって分るかもしれない。
 僕としては、向うに忠告してやりたかったが、どう考えてもそれはおかしいので、一応やめておくことにした。
 「じゃ、それまで一億円はきちんと保管しておいてくれよ」
 と、相手は、とぼけているのかどうか、至って真《ま》面《じ》目《め》な口調で言っている。
 「ご心配なく」
 と、僕は、あたかも銀行員の如《ごと》き口調でそう言って、電話に向って、頭を下げていたのである。
 
 「いや、めでたい!」
 添田はもう有頂天だった。「向うからやって来てくれるというのだから、こんな楽な話はない!」
 全くこの刑事も変っている。
 もう、僕が美奈子を殺したことも分っているんだから、美奈子の誘拐という事件が、もともとでたらめな話だと知っているはずなのに、一向に気にしていない様子なのだ。
 「いや、添田さん」
 と、言い出したのは、新しくやって来た上田という刑事だった。「喜ぶのは早すぎますよ」
 「何だ、また君か」
 どうやら添田は、この上田に反感を持っているようで、しかもそれを隠そうともしないのである。
 「私の担当ではありませんから、余計なことかもしれませんが——」
 「余計だよ」
 「しかし、聞いて下さい」
 と、上田の方も粘《ねば》っている。「向うが強気なのは人質がいるからです」
 「そりゃ分っとる!」
 「たとえ、犯人が、のんびりと手ぶらでやって来たとしても、逮捕できますか?」
 「君は——君は——」
 添田は一人でカッカして、言葉が出て来ないようだ。
 「いや、捕まえるのは簡単でしょう」
 上田は冷静に話を進める。「しかし、もし無事に帰さなければ、人質を殺す、と言われたら? まず人質の命が大事でしょう」
 「それぐらい分っとる!」
 「じゃ、帰してやるしかないじゃありませんか」
 「そのときは——」
 と、言いかけて、添田はグッと詰った。
 何を言うか、考えていないのだ。下手な作家の小説みたいに、行き当りばったりでやっているから、時として、にっちもさっちもいかなくなってしまうのだ!
 「どうします?」
 上田にたたみ込まれるように訊かれて、添田は、
 「うむ——私が、札《さつ》束《たば》に化けて行く」
 と、落語みたいなことを言い出した。
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