魔女たちのたそがれ12

 11 〈谷〉へ

 
 雨の中で襲《おそ》われてから、依子の心の持《も》ち方が、ガラリと変《かわ》った。
 これまでは、他《よ》所《そ》者《もの》として、この町の問《もん》題《だい》に、どこまで口を出していいものか、という迷《まよ》いが残《のこ》っていたのだが、もう、その点は、ふっ切れていた。
 もし、あの脅《おど》しで、依子が町を逃《に》げ出すと期《き》待《たい》していた者《もの》があったのなら、当て外《はず》れだったに違《ちが》いない。
 依子という娘《むすめ》の性格を、よく知らないのだ。
 依子は、決《けつ》して、後に退《ひ》くものか、と思った。もちろん、正面切って、町の人々に対《たい》抗《こう》するような真《ま》似《ね》はしないが、逆《ぎやく》に、こしらえものの愛《あい》想《そう》良《よ》さで、接《せつ》することを覚《おぼ》えた。
 ともかく、誰《だれ》をも信《しん》じない、という決《けつ》心《しん》が却《かえ》って、依子を明るくしたのである。
 現《げん》に、水谷から、
「中込先生、何かいいことでもあったんですか?」
 と訊《き》かれたほどである。
 しかし、依子は油《ゆ》断《だん》しなかった。
 毎日、町を歩き、買《かい》物《もの》し、立ち話をしながら、この中に、自分を襲《おそ》って、裸《はだか》にし、雨の校《こう》庭《てい》に放《ほう》り出した犯《はん》人《にん》がいるのだ、と思うと、改《あらた》めて怒《いか》りを覚《おぼ》えるのだった。
 おそらく、当の犯人だけでなく、その周《しゆう》囲《い》にも、事《じ》件《けん》を知っている人間がいるのだろう。
 その人々は、いとも平《へい》然《ぜん》としている依子を、どう見ているだろうか?
 依子は、注《ちゆう》意《い》深《ぶか》く、町の人々の表《ひよう》 情《じよう》を観《かん》察《さつ》していたが、さすがに、依子の顔を見て、あからさまにギョッとするような、単《たん》純《じゆん》な犯人はいないようだった。
 学校での日々は、何事もなく過《す》ぎた。
 生《せい》徒《と》たちにも変《かわ》りはない。授《じゆ》業《ぎよう》も、以前の通りだ。
 ただ、職《しよく》員《いん》室《しつ》に、野《や》球《きゆう》のバットが置《お》かれるようになった。
「中込先生、野球をやるんですか」
 と、水谷がびっくりしたように訊《き》いて来たので、
「美《び》容《よう》体《たい》操《そう》の代《かわ》りです」
 と、依子は言《い》った。「このところ、少し太《ふと》っちゃったんで」
 もちろん、このバットは、護《ご》身《しん》用である。
 それから、白《はく》墨《ぼく》の粉《こな》をつめた小さな封《ふう》筒《とう》を依子は持《も》ち歩いていた。
 いざ、というとき、目つぶしぐらいにはなるだろう。
 まあ、武《ぶ》器《き》を持ち歩くわけにもいかないので、後は、度《ど》胸《きよう》でぶつかるしか、手はなかった。
 ——土曜日になった。
 栗原多江が、〈谷〉へ依子を案《あん》内《ない》してくれる日である。
 本校へ出向く用事があって、依子は、午《ご》前《ぜん》中《ちゆう》、十一時で授《じゆ》業《ぎよう》を終《おわ》りになると、
「遊《あそ》びは二時までよ」
 と、生徒に言《い》い渡《わた》した。
 校《こう》舎《しや》の外《そと》に、河村が制《せい》服《ふく》姿《すがた》で立っていた。
 依子が本校へ行くので、子供が遊んでいるのを、見ていてほしいと頼《たの》んだのである。
「じゃ、河村さん、申《もう》し訳《わけ》ありませんけど」
 と、依子は表《おもて》に出て言った。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。任《まか》せて下さい」
 河村は上《じよう》機《き》嫌《げん》に肯《うなず》いた。
 わざと河村に何かと頼《たよ》って行くように、依子はつとめていた。その方が、河村の警《けい》戒《かい》心《しん》を解《と》くことになるだろう、と思ったのである。
 事《じ》実《じつ》、河村の態《たい》度《ど》に、一時見られた、よそよそしさが消《き》えて、以《い》前《ぜん》のように、目つきも優《やさ》しくなっていた。
「ちゃんとお昼を食べに帰るように言って下さい。食べないで遊《あそ》ぶ子もいるんですから」
 と、依子は言った。
「承《しよう》知《ち》しました」
「それで——私《わたし》、本校へ出たついでに、町に寄《よ》って来ようと思ってますの。少し帰りが遅《おそ》くなるかもしれません」
「ゆっくりしていらっしゃい。先生は少し働《はたら》き過《す》ぎてるんじゃないか、と、この前も町の連《れん》中《ちゆう》が心《しん》配《ぱい》してましたよ」
「まあ、それはどうも」
 と、依子は笑《わら》って言った。「生れつき、怠《なま》け者《もの》なんですから、ご心配には及《およ》びませんわ」
 ——学校を出て、本校まで、バスを乗《の》り継《つ》いで、一時間はかかる。
 本校へ着《つ》いたのは、十二時を少し回ったところで、昼食時間だった。
 応《おう》接《せつ》室《しつ》で、しばらく待たされる。——依子は、ちょっと苛《いら》々《いら》した。
 本校での用《よう》事《じ》は早く済《す》ませて、多江と落《お》ち合いたいのである。もう少し早く来れば良《よ》かった、と思った。
 一時まで待《ま》つのかしら、と腕《うで》時《ど》計《けい》を見ていると、秘《ひ》書《しよ》の女《じよ》性《せい》に呼《よ》ばれて、校長室へと通された。十二時四十分だった。
「やあ、お待たせして」
 校長の大《おお》崎《さき》が立ち上って、依子を迎《むか》えた。
 一見して、校長というより、会社の社長というイメージの紳《しん》士《し》である。
 なかなかのお洒《しや》落《れ》で、いい背《せ》広《びろ》を着《き》ている。人当りも、至《いた》って柔《やわ》らかい。
「——どうです、その後?」
 仕事の話が済むと、大崎が訊《き》いた。
「分校の状《じよう》態《たい》、ということでしょうか?」
「ええ。あの事《じ》件《けん》の後、何か変《へん》化《か》はありましたか」
「いいえ。みんなとても元気にやっていてくれます」
「それは良《よ》かった」
 と、大崎は肯《うなず》いた。
「でも——」
 と、依子は目を伏《ふ》せた。「犯《はん》人《にん》はまだ捕《つか》まっていません。それなのに、どんどんみんなの記《き》憶《おく》が薄《うす》れて行くのは、どうも……」
「確《たし》かにその点はありますね。また油《ゆ》断《だん》したときが危《あぶ》ない」
「充《じゆう》分《ぶん》に気を付《つ》けてはいるのですけれど、私《わたし》一人の力では、できることは限《かぎ》られていますので」
「私も、時々、県《けん》警《けい》の人と会うことがあるので、今《こん》度《ど》、よく言っておきましょう」
 大崎は、メモを取《と》った。——何でもメモするのが、この校長のくせらしい。
「捜《そう》査《さ》の進《しん》展《てん》について、何か報《ほう》告《こく》はないんでしょうか?」
「変りばえしないようですよ。あの一《いつ》帯《たい》の変《へん》質《しつ》者《しや》を中心に、当ってみてはいるようですがね」
「そうですか……」
 正直、依子はがっかりした。河村はともかく、県《けん》警《けい》の捜《そう》査《さ》には期《き》待《たい》していたのである。
「何か、希《き》望《ぼう》があれば、言ってみて下さい。すぐにどうとは返《へん》事《じ》できなくても、うかがっておきますよ」
 依子は、ちょっと考えてから、言った。
「あの悲《かな》しい事件のことは、とても忘れられませんけど、それ以《い》外《がい》は、満《まん》足《ぞく》しています」
「それは結《けつ》構《こう》」
 大崎は、肯《うなず》いて言った。「あなたのような、教えることに喜びを見出すタイプの先生がこのごろは少なくなりましたからね」
 依子は、微《ほほ》笑《え》んだ。
 大崎は、少し間をあけて、続《つづ》けた。
「——特《とく》に、あの町はむずかしくて、何人も辞《や》めているのでね。あなたが頑《がん》張《ば》ってくれて、助《たす》かります」
 これは、依子には意《い》外《がい》な話だった。
「初《はじ》めてうかがいました。そんなに何人もですか?」
「ああ——いや、それほどでもありませんがね」
 大崎は、しまった、という表《ひよう》 情《じよう》で言った。
「三、四人、でしょうか」
「なぜ辞《や》められたんでしょう、その先生方は?」
「色々ですよ」
 と、大崎は肩《かた》をすくめて、「結《けつ》婚《こん》でやめた人もあるし、やはり都《と》会《かい》の学校でないと、という人もある。——何といっても、退《たい》屈《くつ》な所ですからね」
 わざとらしく笑《わら》う。
 何か、他の理《り》由《ゆう》があったのだ、と依子は思った。教えたくない理由が。
 ともかく、今日はゆっくりしていられない。
 依子は、早々に大崎校長の下《もと》を辞《じ》した。
 大崎は愛《あい》想《そう》良《よ》く、しかし、どこかホッとした様《よう》子《す》で、依子を送《おく》り出した。
「——何かあるんだわ」
 と、歩きながら、依子は呟《つぶや》いていた。
 あの町には、やはり、何か秘《ひ》密《みつ》めいたものがあるのだ。
「そうだわ」
 依子は、思い付《つ》いた。——前、あの分校にいて、やめて行った先生たちの名前や連《れん》絡《らく》先《さき》はどこかに残《のこ》っているはずだ。
 調《しら》べて、手紙を出すか、それとも会いに行ってもいい。話を聞くことができれば、何か分って来るかもしれない。
 依子は、バスを待《ま》っていた。
 コートをはおった若《わか》い男が、依子のすぐ後ろに並《なら》んだ。たぶん、依子と同じくらいの年《ねん》齢《れい》だろう。
 きりっとした顔立ちの青年である。
 依子は、バスが来ると、どうせ終点まで行くので、一番後ろの座《ざ》席《せき》に座《すわ》った。
 すると、その青年も、一番後ろにやって来て、依子の隣《となり》に座《すわ》ったのである。
 依子は、初《はじ》めて、その青年をまじまじと見た。何だか、わざと隣へ来たように思えたのである。
 しかし、バスが走り出すと、青年は頭を垂《た》れて、居眠りを始《はじ》めた。
 どうやら、思い過《すご》しだったらしいわ。
 その内、青年が、依子の方へもたれかかって来た。依子がぐいと押《お》し戻《もど》すと、何となくムニャムニャと呟《つぶや》いて、一《いつ》旦《たん》、元に戻るのだが、またすぐにもたれかかって来る。
 もう! 図《ずう》々《ずう》しいんだから!
 押《お》し返《かえ》すか、それとも、サッとわきへどいて、引っくり返らせてやるか。
 そう迷《まよ》っていると、急に、
「中込依子先生ですね」
 と、その青年が低《ひく》い声で呟《つぶや》いた。
「え?」
 依子はびっくりした。
「しっ。静《しず》かに」
 青年は、相《あい》変《かわ》らず居《い》眠《ねむ》りだ。目を閉《と》じたまま、そっと、呟《つぶや》くように話している。
「あの——」
「こっちを見ないで!」
 と、青年は強い口《く》調《ちよう》で言った。「知らん顔をしてて下さい。——中込先生ですね? 小さな声で」
「ええ、中込依子です」
「ちょっとお話をうかがいたいことがあるんです」
「あなたは?」
 青年は、腕《うで》組《ぐ》みをした。手がスッとポケットへ入って、黒い手《て》帳《ちよう》を少し引き抜《ぬ》いて見せる。
「刑《けい》事《じ》さん?」
 依子はびっくりして言った。
「田代といいます」
「なぜ私《わたし》を……」
「あの町のことを調べているんです」
「町のこと?」
「そうです。あなたに訊《き》けば、少しは事《じ》情《じよう》が分るかと……」
「私《わたし》、まだ新《しん》任《にん》ですもの」
「しかし、殺《さつ》人《じん》がありましたね」
「教え子でした」
「犯人は見当もつかないようです」
「あなたも——」
「県《けん》警《けい》の人間です。しかし、あまり騒《さわ》ぎ立てたりしませんから、ご心《しん》配《ぱい》なく」
「何のお話ですか?」
「どこかで、ゆっくりお話しできませんか?」
 依子は迷《まよ》った。——刑《けい》事《じ》と話ができる。それも興《きよう》味《み》はあったが、しかし今日のところは、多江との約《やく》束《そく》がある。
「今日はどうしても……」
 と、依子は言った。
「そうですか」
 と、田代という刑事は残《ざん》念《ねん》そうに言った。
「お話はしたいと思いますけど……」
 と、依子は、言った。
「いつなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
「明日なら日曜日ですから……」
「出て来られますか?」
「ええ。でも、どこへ——」
「あの町では、うまくありません。どこか他《ほか》の町で……」
 依子は、妙《みよう》な気分だった。まるで、外国のスパイ映《えい》画《が》にでも出ているようだ。
 これが現《げん》実《じつ》の出《で》来《き》事《ごと》なのだろうか?
「そうだわ」
 依子は、多江が働《はたら》いているレストランを教えた。
「そこなら——大丈夫だと思いますけど」
「分りました。捜《さが》します」
 田代は、相《あい》変《かわ》らず居《い》眠《ねむ》りしているように、前へ頭を垂《た》れていたが、やがて、ちょっと依子の方へ目をやって、
「あなたも充《じゆう》分《ぶん》、用心して下さい」
 と言った。「危《き》険《けん》なことがあるかもしれません」
 田代は、ふっと目が覚《さ》めたような様《よう》子《す》で、キョロキョロと周《しゆう》囲《い》を見回し、大《おお》欠伸《 あ く び》をした。
「もう、危《あぶ》ない目には遭《あ》いましたわ」
 と、窓《まど》の外を見ながら、依子は言った。
「何ですって?」
「襲《おそ》われて裸《はだか》にされました」
 田代が、さすがに驚《おどろ》いた様《よう》子《す》で、ちょっと依子を見た。が、すぐに、うつむいて、床《ゆか》に手を伸《の》ばすと、落《お》ちていたバスの切《きつ》符《ぷ》を拾《ひろ》い上げて、
「あなたのでは?」
「いいえ」
「そうですか。じゃ、誰《だれ》か捨《す》ててったんだな」
 田代は肩をすくめた。「——届《とど》けたんですか」
「いいえ」
「どうして?」
「却《かえ》って、危険です」
 田代は、頭を振《ふ》って、
「——では、ここで降《お》ります。明日の二時に、そのレストランで」
「ええ」
 田代は、
「降ります!」
 と、大声を上げて、つかれて、うっかりしていたという風に、走って行った。
 バスが走り出す。
 依子は、窓《まど》の外の田代を、目で追《お》った。
 刑《けい》事《じ》か。——依子の心は、少し軽《かる》くなっていた。
 私は一人じゃないんだわ!
 
 依子は、裏《うら》の山道から、校《こう》舎《しや》を見下ろした。
 バスで町へ戻《もど》って来れば人目につく。
 タクシーで、町の外《はず》れまで来て、後は歩いて来た。くたびれたが、見られていないという自《じ》信《しん》はあった。
 校《こう》庭《てい》は、もう静《しず》かになっていた。誰《だれ》も遊《あそ》んでいないのだろう。
 多江はどこへ来るのだろうか?
 校《こう》舎《しや》の中で待《ま》った方がいいのかもしれないと思ったが、あの雨の日の記《き》憶《おく》が、それをためらわせた。
 もちろん、まだしばらくは明るいし、二度も襲《おそ》われることはあるまいと思ったが……。
 後ろに足音がした。ギクリとして振《ふ》り向《む》くと、多江が立っている。
「先生、来たのね」
 多江の笑《え》顔《がお》に、ホッとした。
「教《きよう》師《し》は約《やく》束《そく》を守《まも》るのよ」
 と、依子は言った。「さあ、案《あん》内《ない》してちょうだい。その〈谷〉っていう所へ」
「いいわ」
 多江は肩《かた》をすくめた。「先生の意《い》地《じ》っ張《ぱ》りにはかなわない。私も相《そう》当《とう》なもんだけど、先生の方が上《うわ》手《て》だわ」
「意《い》志《し》が強いとか、言い方があるでしょ」
 と、依子は言い返《かえ》した。
 多江が先に立って、歩いて行く。
 山の中の、依子など、まるで知らない道だった。
 おまけに、道はどんどん狭《せま》くなって行くのだ。——そしてついに、ただ林の中を分け入って進《すす》んで行くだけになってしまった。
 いくら若《わか》くて元気とはいえ、依子も都《と》会《かい》っ子である。しばらく行くと、息《いき》が切れて来た。
「先生、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》? 少し休もうか」
「平《へい》気《き》よ」
 と、言ってみたものの、「後、どれくらいあるの?」
「まだ半分」
「じゃ、休むわ」
 依子は素《す》直《なお》に言った。
 
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