魔女たちのたそがれ10

 9 幻《まぼろし》の都《と》会《かい》

 
「少し熱《ねつ》が出て来たね」
 と、医《い》師《し》が依子の額《ひたい》に手を当てて言った。
 小西警《けい》部《ぶ》は、肯《うなず》いて、
「少し、無《む》理《り》に話をさせてしまったかもしれませんね」
 と、椅《い》子《す》から立ち上った。
「あまり興《こう》奮《ふん》させると、まだ完《かん》全《ぜん》には回《かい》復《ふく》していないのですから」
 と医師が言った。「明日、改《あらた》めておいで下さい。少し眠《ねむ》らせた方がいい」
「分りました」
 小西は、快《こころよ》く承《しよう》知《ち》した。
 医師が出て行く。
 依子は、ベッドで、ちょっと目を閉《と》じて、息《いき》をついた。
「疲《つか》れさせてすみませんでしたね」
 小西が優《やさ》しく言った。
 およそ刑《けい》事《じ》らしからぬ口《く》調《ちよう》である。
「一《いち》度《ど》にお話しできなくて、すみません」
 と、依子は目を開《あ》けて言った。「何もかも思い出そうとすると、頭が混《こん》乱《らん》してしまいそうなんです。どうかなってしまいそう——気が狂《くる》ってしまうかと——」
 津田が、急《いそ》いでベッドに近《ちか》寄《よ》ると、依子の手を握《にぎ》った。
「心《しん》配《ぱい》するな。もう何も心配することはないよ」
 他《ほか》に言《こと》葉《ば》が見当らない。しかし、依子にとっては、言葉より、津田の手のぬくもりの方が、嬉《うれ》しいようだった。
「ありがとう。津田さん……」
 小西が、ちょっと咳《せき》払《ばら》いして、
「では、私《わたし》はお先に失《しつ》礼《れい》します。明日、またお邪《じや》魔《ま》することにしますよ」
 とドアの方へ歩いて行った。
「警《けい》部《ぶ》さん」
 と、ベッドから依子が言った。「私がこの病《びよう》院《いん》にいることは、みんな知ってるんでしょうか?」
「みんな、というと?」
「町の——人たちです」
 依子の言《こと》葉《ば》には、不《ふ》安《あん》げな響《ひび》きがあった。
「いや、ここを知っているのは私たちと、あなたのお母さんだけですよ」
 依子は、
「そうですか」
 と、安《あん》堵《ど》の息《いき》と共《とも》に言った。
「念《ねん》のため、夜間は、警《けい》官《かん》を一人、病院の入口に置《お》きます」
 と、小西はドアを開《あ》けながら言った。「目立たないようにしますから、ご心《しん》配《ぱい》なく」
 小西が出て、ドアが閉《しま》る——と思ったら、またヒョイと小西の顔が覗《のぞ》いて、
「津田さん」
「はあ」
「あまり、彼《かの》女《じよ》を興《こう》奮《ふん》させないようにして下さい」
 ——ドアが閉ると、津田と依子は顔を見合わせて、笑《わら》った。
「いい人ね」
 と、依子は言った。
「ああ。刑《けい》事《じ》ってのは、もっと無《ぶ》愛《あい》想《そう》なもんだと思ってたよ」
 津田は、依子の手を、もう一《いち》度《ど》しっかりと握《にぎ》った。
「——痛《いた》いわよ」
「ごめん。しかし——君《きみ》の話を聞いてて、凄《すご》いショックで——何といっていいか、分らないけど——」
 津田は、頭を振《ふ》った。
 裸《はだか》にされた依子が、冷《つめ》たい雨の中に放《ほう》り出されている様《よう》子《す》を想《そう》像《ぞう》するだけで、津田の胸《むね》は煮《に》えくり返《かえ》るようだった。そんなことをした奴《やつ》を、決《けつ》して許《ゆる》すものか、と思った。
 妙《みよう》なものだ。依子からの、あの電話があるまでは、珠江との気《き》楽《らく》な情《じよう》事《じ》にうさ晴らしをして、依子のことなど、思い出しもしなかったというのに、なぜ、急《きゆう》にこんなにも、依子のことが愛《いと》おしく思えるのか、津田自《じ》身《しん》にも分らなかった。
「津田さん」
 と、依子が微《ほほ》笑《え》んだ。「優《やさ》しいのね」
「これからはね」
 と、津田は、そっと依子の、少し熱《あつ》い頬《ほお》に手を触《ふ》れながら言《い》った。「今まではともかく、だ……」
 津田の唇《くちびる》が、依子の唇に重《かさ》なった。熱い吐《と》息《いき》が混《まじ》り合った。
「——また熱が出たかな」
「少しぐらい、高くなってもいいわ」
 依子は、手を伸《の》ばして、津田の頭を抱《かか》え込《こ》んだ。もう一《いち》度《ど》、二つの唇が出会った。
 ——病《びよう》室《しつ》に、黄《たそ》昏《がれ》が音もなく忍《しの》び入っている。
 二人は、しばらく手を握《にぎ》り合っているだけで、何も言おうとしなかった。
 やがて、津田が窓《まど》の外《そと》へ目をやった。
「暗《くら》くなって来たね」
「明りを点《つ》けて」
「まぶしくないかい?」
 依子は頭を軽《かる》く左右へ動《うご》かした。
「暗いのは怖《こわ》いの。明るくしておいてくれた方が落《お》ちつくわ」
「分った。カーテンを閉《し》めようか?」
「ええ」
 津田は、病室の明りを点けておいて、窓《まど》辺《べ》に寄《よ》った。
 依子の入っている病室は、二階《かい》である。窓から、表《おもて》の道《どう》路《ろ》が見下ろせた。
「——どうしたの?」
 依子が声をかけたのは、津田が、道路を見下ろして、突《つ》っ立っていたからだった。
「いや、何でもないよ」
 と、津田はゆっくりカーテンを引きながら言った。
 ちょうど窓《まど》から見下ろした路《ろ》上《じよう》に、車が一台停《とま》っていたのだ。
 ごくありふれた、白い——いや、最《さい》初《しよ》は白かったのだろうが、今は薄《うす》汚《よご》れてしまった乗《じよう》用《よう》車《しや》だった。
 車の窓が開《ひら》いて、男の顔が覗《のぞ》いていた。どんな男かは分らなかったが、津田が見下ろしているのに気《き》付《づ》いて、急《きゆう》に頭を引っ込《こ》めた。
 いや、そんな風に見えただけなのかもしれない。実《じつ》際《さい》のところはどうだったのか……。
 そして、車は、走り去《さ》ってしまった。
 まるで、この病《びよう》室《しつ》を見張っていたようだ。——そんな気がするだけかもしれない。あんな話を聞かされた後だからか。
「——今夜、ずっとついててやろうか」
 と、津田は言った。
「どうして?」
 と、依子が目を少し見《み》開《ひら》いて、言った。
「いや——もし、その方が安《あん》心《しん》できるんだったら、ってことさ」
「大丈夫よ。それより、母についていてくれる?」
「お母さんか。そうだ。忘《わす》れてた」
「いやねえ。母は、こんな町のホテルに一人で泊《とま》ったことなんてないんですもの」
 と、依子は笑《わら》って言った。「——ね、母をよろしくお願《ねが》い」
「分ったよ」
 津田は、椅《い》子《す》に腰《こし》をおろした。
 ドアをノックする音がした。
「夕《ゆう》食《しよく》です」
「どうぞ」
 と、津田は立って行って、ドアを開けた。
 病《びよう》院《いん》の食《しよく》事《じ》時間が早いのは、どこも同じことらしい。
「食《しよく》事《じ》が終《おわ》るまで、そばにいていいかい?」
「ええ」
 依子は、ちょっとけだるい様《よう》子《す》だったが、頬《ほお》の赤みは、少しさめかかっているように見えた。
「元気を出してくれよ」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。若《わか》いんだから」
 依子は肯《うなず》いて見せた。「——あなたのことを聞きたい」
「僕《ぼく》のこと?」
「そう。だって、ずっと音《おん》信《しん》不《ふ》通《つう》だったじゃないの」
「そうか。いや——仕《し》事《ごと》が忙《いそが》しくてさ、つい……。といっても、大した仕事をしてるわけじゃないんだ」
 依子は、冷《さ》めたスープをゆっくりと飲《の》みながら、
「独《どく》身《しん》でしょ?」
 と訊《き》いた。
「もちろんだよ」
「恋《こい》人《びと》は?」
「そんなもの——」
 いないよ、と言おうとして、つい、ためらった。
「いるのね」
「いや——恋人といっても、そんな、結《けつ》婚《こん》だの何だのって仲《なか》じゃないんだ。遊《あそ》び相《あい》手《て》っていうのかな」
 苦《くる》しい言い方だった。
「ホテルに行ったり?」
 依子が冷《ひ》やかすように津田を見た。
「うん……。まあ、ごくたまに、ね」
 津田は頭をかいた。「どっちかというと、僕《ぼく》の方が遊ばれてる感《かん》じなんだよ、本当の話——」
 依子は愉《ゆ》快《かい》そうに笑《わら》った。津田は、ホッとした。
「怒《おこ》られるかと思ったよ」
「仕《し》方《かた》ないわね、男の人って」
「もう彼《かの》女《じよ》とも別《わか》れるよ。お互《たが》いに、そろそろ飽《あ》きて来てたんだ」
 どうしてだろう? なぜ珠江と別れようという気になったのか。
 もちろん——そう、依子のためだ。
 依子のことで、今は頭が一《いつ》杯《ぱい》だった。今まで、依子のことをほとんど忘《わす》れていたのが、嘘《うそ》のような気がした。
「何もかも片《かた》付《づ》いたら——」
 と、津田は、自分でも気《き》付《づ》かない内《うち》に言っていた。
「え?」
「いや——つまり、この事《じ》件《けん》が片付いたら、東京へ帰るだろ?」
「そうね……」
 依子は、ふと目をそらした。「そのときになってみないと分らないけど……」
「帰ろうよ。そして結《けつ》婚《こん》してくれないか」
 依子は、ちょっと目をしばたたいて、津田を見た。
「——どうだい?」
「また熱《ねつ》が上るわ」
 と言って、依子は微《ほほ》笑《え》んだ。
 
 大《だい》都《と》会《かい》——特《とく》に東京などに住《す》んでいる人間にとって、夜とは、真《ま》夜《よ》中《なか》のことだ。
 六時とか七時、八時ごろまでは「夜」の内《うち》に数えないようになってしまっている。
 いや、場《ば》所《しよ》によっては深《しん》夜《や》、十二時でも一時でも、真昼のように明るい。そんな場所の住人たちにとっては、夜は、もう明け方近くになって、ようやく始《はじ》まる、といってもいいだろう。
 だが、こんな小さな田舎《 い な か》町では、暗《くら》くなり始めれば「夜になった」のである。
 夜も九時を過《す》ぎれば、あたかも真夜中の如《ごと》く、ひっそりと静《しず》かになる。
 この町の夜は、長いのである。
 ——ごく普《ふ》通《つう》の、小さな会社に勤《つと》めているOL、石《いし》井《い》恵《え》美《み》にとって、こんな時間に帰ることは、滅《めつ》多《た》になかった。
「いやんなっちゃう」
 と、足を早めながら呟《つぶや》いたのは、遅《おそ》くなったから、というよりは、ちょっと遅くなると、バスもなくなり、こんな暗い道を歩いて帰らなくてはならなくなるからだった。
 高校時《じ》代《だい》の同《どう》級《きゆう》生《せい》は、東京に就《しゆう》 職《しよく》、夏休みには、一週《しゆう》間《かん》くらい帰って来て、夜も休むことのない都会の愉《たの》しさを、あれこれと話してくれる。
 それを聞くたびに、東京へ出たい、と石井恵美は思った。もちろん、そんなことを言い出そうものなら、父も母も、目をむいて反《はん》対《たい》するに違《ちが》いない。
「そんな危《あぶ》ない所《ところ》に行くなんて!」
 というわけだ。
 でも、危《き》険《けん》も何もない町なんて、同時に魅《み》力《りよく》もない、ってことだ。恵美にとっては、この町は正《まさ》にその見本みたいなものだった。
 どうして一人っ子なんかに生れちゃったんだろう、といつも悔《くや》んでいる。
 どうせなら、五人 兄《きよう》姉《だい》の末《すえ》っ子ぐらいに生れたかった。それなら、少々気ままに家を出たって、文《もん》句《く》も言われないだろう。
 不《ふ》公《こう》平《へい》だわ、人生なんて。
 恵美は、上り坂《ざか》にかかって、足を止めた。まだここから十五分も歩かなくてはならないのだ。
 仕《し》事《ごと》なら、こんなに遅《おそ》くなることはない。
 結《けつ》婚《こん》退《たい》職《しよく》する同《どう》僚《りよう》の、送《そう》別《べつ》会《かい》だったのである。
 二《に》次《じ》会《かい》まで付《つ》き合って、こんな時間になってしまった。
 しかし、ワイワイと騒《さわ》ぎながら飲《の》むこと自体は楽《たの》しかった。その結婚する同僚が、東京に出て結婚生《せい》活《かつ》を送ると聞くまでは、のことだが。
 おかげで、この帰り道が、一《いつ》層《そう》長く感《かん》じられる。
 ああ、いやだいやだ。——このまま、どこかへ行っちゃいたい。
 もし、見も知らぬ男が車で寄《よ》って来て、
「乗《の》らないか?」
 と誘《さそ》って来たら、恵美は喜《よろこ》んでついて行ったろう。
 しかし、現《げん》実《じつ》には、そんなことは起《おこ》らないのだ。現実は、家で渋《しぶ》い顔で待《ま》っている両《りよう》親《しん》と、明日、いつもの通り九時に始《はじ》まる会社のタイムカード……。
 やれやれ、とため息《いき》をつきながら、恵美は坂《さか》道《みち》を上り始めた。急《きゆう》な坂《さか》ではないが、えらく長いのである。
 ——住《じゆう》宅《たく》地《ち》、といえば聞こえはいいが、まだ雑《ぞう》木《き》林《ばやし》が大分残《のこ》っている。町の外《はず》れ、というわけだ。
 ろくに街《がい》灯《とう》もない、暗《くら》い寂《さび》しい道である。
 一歩、一歩、息をつきながら上って行くと——林の中で、何かが動《うご》くような音がした。
 野《の》良《ら》犬《いぬ》か何かかしら。
 よく、飼《か》っておいて、面《めん》倒《どう》くさくなると、この辺《へん》の雑木林に捨《す》てて行く人がいるのだ。
 また、ザザッと音がした。
 恵美は足を止めた。犬にしては、音が大きい。
 誰《だれ》かいるのだろうか? 目をこらしたが、ともかく暗く、静《しず》まり返《かえ》っているばかりで、何も見えない。
 肩《かた》をすくめて、恵美はまた歩き出した。
 女の子にしては、度《ど》胸《きよう》のある方だが、やはり、あまりいい気分でもない。いつしか、足《あし》取《ど》りは早まっていた。
 ポツン、と灯《あか》りが見えた。——うちの玄《げん》関《かん》だわ、とホッとした。
 もう少しだ。
 そのとき、何か、布《ぬの》でも引きずるような音が背《はい》後《ご》から近《ちか》付《づ》いて来た。振《ふ》り向《む》くのと、鋭《するど》い刃《は》が恵美の喉《のど》を切り裂《さ》くのと、ほとんど同時だった。
 恵美の目に何か映《うつ》ったとしても、それは、一《いつ》瞬《しゆん》の白い幻《まぼろし》でしかなかったろう。
 すぐに視《し》界《かい》は黒く閉《と》ざされて、二度と光を取り戻《もど》すことはなかった。
 都《と》会《かい》へ出してやっていれば、と両《りよう》親《しん》を嘆《なげ》かせることになる、恵美の突《とつ》然《ぜん》の死《し》だった……。
 
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