眠りを殺した少女18

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 18 衝撃の日

 
 ルミは、赤い傘を振り回しながら、表からマンションの中へ入って来た。
 
 目の前に誰か立っている。——女の人だ。
 
 大きな帽子を、少し目深にかぶっているので、顔がよく見えなかった。
 
 ルミは傘を振り回すのをやめた。前に、マンションの人の服に雨の水が飛んでしまったことがあって、おじいちゃんに叱《しか》られたからだ。
 
 まあ、おじいちゃんが怒っても、ルミは大して怖くない。叱るといっても、おじいちゃんは本気でルミをぶったりはしないからだ。
 
 でも、一応ルミも泣いたりするし、やはりそういうことはしたくない。
 
 でも、その女の人は、ルミの前に立って、じっとルミのことを見下ろしていた。——何だろう、この人?
 
「今日は」
 
 と、その女の人が言った。
 
「今日は……」
 
 と、ルミも答えたが、子供の鋭い本能は、この女の人が、ルミに何か言おうとしている——それも、うまくだましてやろうという気持でいる、と教えた。
 
 ルミは警戒心を抱いた。
 
「ルミちゃんでしょ」
 
 と、女の人は言った。
 
 どうして名前を知ってるんだろう? ルミはますます不安になった。
 
「お願いがあるの。その赤い傘、おばちゃんにゆずってくれない?」
 
 傘?——この傘?
 
 どうしてみんなこの傘をほしがるんだろう?
 
「ルミのだよ」
 
 と、傘を後ろへ回して隠す。
 
「知ってるわ。取っちゃおうっていうわけじゃないのよ」
 
 と、女の人は言って——まるで手品みたいに、真新しい、可愛いアニメのキャラクターのついた傘をルミの前に開いて見せた。
 
「——可愛いでしょ?」
 
「うん」
 
 と、ルミは肯《うなず》いた。
 
「よかったらあげるわ。これと、その赤い傘と、とりかえっこしましょ」
 
 その人はルミの方へかがみこんで、言った。
 
「それならいいでしょ?」
 
 ルミは、もうちょっとで、「ウン」と肯くところだった。でも——おじいちゃんは当然気が付く。
 
 そして、何て言うだろう? いつもおじいちゃんは言っている。
 
「人からものをもらっちゃいけない」
 
 って。
 
「——ね、いいでしょ?」
 
 女の人がくり返す。
 
「おじいちゃんに訊いてみる」
 
 と、ルミは答えた。
 
「そう。——でも、大丈夫よ。こっちの傘の方がずっと高くて、いい傘なのよ。とりかえても、怒られたりしないわ」
 
「でも……。それなら、どうしてとりかえるの?」
 
 ルミの言い方が、女の人を苛《いら》立《だ》たせたようだった。
 
「そんなこと、ルミちゃんと関係ないでしょ」
 
 と、そっけない言い方になって、「さあ、その傘をちょうだい!」
 
「いやだ!」
 
 と、ルミは後ずさった。
 
「じゃあ……。これで、ルミちゃんの好きなものが買えるでしょ」
 
 女の人の手に、千円札があった。——お金?
 
 ルミの目が輝いた。おじいちゃんは、ルミに決して「こづかい」を持たせないのだ。
 
「小さい子供に、金はいらん」
 
 と、いつも言っていた。
 
 ルミは、それがいつも不満だった。友だちは、クミちゃんだってマキちゃんだって、いつも二百円も三百円も持ってて、ジュースとか買ってるのに……。ルミはじっと我慢しなくてはならないのだ。
 
 それが——千円! ルミにとっては、目の回るようなお金だった。
 
「この傘と、千円。——ね?」
 
 差し出されたお金にルミは手を出そうとした。でも……。
 
「おじいちゃんに叱られる」
 
 と、ルミは言った。
 
「見せなきゃいいでしょ。ルミちゃんのお金なんだから」
 
 と、女の人は早口になって、「さあ、その傘をちょうだい」
 
 ルミはまだためらっていた。しかし、新しい傘と千円札の力は大きかった。
 
 そろそろと赤い傘を女の人の方へ差し出そうとすると——。
 
「どうしたんだ、ルミ?」
 
 受付けのカウンターに、おじいちゃんが出て来たのだ。
 
 ルミはパッと赤い傘を引っ込めると、タタッと駆け出した。
 
「ただいま!」
 
 と声を上げると、奥へ入って行った。
 
 女は、もうロビーから表に出ていた。
 
 おじいちゃんは、何だかポカンとして、空になったロビーを眺めていた……。
 
 
 
「由布子!」
 
 聡子は、足早に行きかける由布子の後ろ姿に呼びかけた。
 
「——聡子。どうしたの?」
 
 と、小野由布子は、振り返って言った。
 
「話があるの」
 
 と、聡子は言った。
 
「出かけるの。約束があるのよ」
 
「でも——。見たでしょ、TV?」
 
 由布子は、ちょっと肩をすくめて、
 
「山神先生の奥さん? 自殺したんですってね」
 
 と、由布子はそっけなく言って、「じゃ、一緒に歩こう。歩きながらでも話せるわ」
 
 聡子は、由布子の口調に、全く知らなかった一面を見たような気がした。
 
 ともかく、一緒に歩き出す。
 
 穏やかな日だった。——聡子の重苦しい気持と正反対だ。
 
「それで?」
 
 と、由布子は言った。「聡子としては、心が痛むわけね」
 
「由布子、平気なの?」
 
「だって、仕方ないでしょ。何も私たちが殺したわけじゃなし」
 
「でも、あの手紙のせいで——」
 
 由布子は肩をすくめた。
 
「あれはあれよ。中身は正しかったんだし」
 
「そうかしら」
 
 由布子はチラッと聡子を見て、
 
「どういう意味?」
 
「山神先生が三人も殺したとは思えないわ。それに、片倉先生と山神先生の奥さんが関係があったなんて、想像できない」
 
「変な人ね」
 
 と、由布子は苦笑した。「あんなに片倉先生の犯人をあばいてやるって、張り切ってたのに」
 
「そうよ」
 
「じゃ、何が不満なわけ?」
 
「由布子」
 
 聡子は足を止め、由布子の腕をつかんだ。
 
「何よ」
 
「あなた、片倉先生のことが好きだったんじゃないの? それなのに、妻子のいる人と恋愛中?」
 
「いけない? 聡子にそんなこと言われる覚え、ないわよ」
 
 と、由布子が言い返した。
 
「何か、他に目的があったのね。そうなのね?」
 
 由布子が初めて動揺した。
 
「私、急ぐの」
 
 と、歩き出す。
 
「待って!」
 
 聡子は、足どりを速めて並ぶと、「——ゆうべ、私、山神先生の家へ行ったのよ」
 
「ゆうべ?」
 
「見付けて知らせたのよ、私が。奥さんが首を吊ってるのを」
 
 由布子は聡子をびっくりしたように見つめた。
 
「その前、誰かが山神先生の家から出て行ったわ。庭で、すれ違った。暗くて分らなかったけど、誰かがあの勝手口から逃げて行ったの。もしかしたら、奥さんは自殺じゃないのかもしれない」
 
「それなら、何だっていうの」
 
「殺されたのかもしれないわ」
 
 由布子は、少し青ざめた顔で聡子を見ていたが、
 
「——TVの刑事ものの見すぎじゃないの?」
 
 と、笑って言った。
 
「由布子。あの庭へ勝手口から入れるってこと、誰に聞いたの?」
 
 由布子はカッとした様子で、
 
「そんなこと、答える必要ないでしょ!」
 
 と言い返した。「放っといて!」
 
「由布子!」
 
 聡子は追いすがるようにして、「何なの、一体? あなたの本当の目的は何?」
 
 由布子はキッとなって振り向くと、聡子をにらみつけたが、やがて皮肉っぽい笑みを浮かべると、
 
「どこまでついて来るの?」
 
 と、言った。
 
「どこまでって?」
 
「ベッドの中まで一緒に来る? これから彼と会うけど」
 
 聡子は真赤になった。
 
「まさか!」
 
「そうよね。ちょっとまずいわね。聡子と彼とじゃ」
 
 聡子は、由布子の言い方が気になった。
 
「どういうこと?」
 
「だってそうでしょ? 父親と娘じゃ、恋人同士ってわけにはいかないものね」
 
 ——聡子は、由布子の言葉の意味が、しばらく分らなかった。
 
「由布子……」
 
「じゃ、失礼。私のこと待ってるから。あなたのパパがね」
 
 由布子は足早に行ってしまう。聡子は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》と見送って——もう後を追おうとはしなかった。
 
 
 
「もしもし」
 
 智子は、重い口を開いた。
 
「待ってたよ」
 
 と、山神の声が答えた。「今、どこにいる?」
 
「——ホテルの前です。公衆電話」
 
「何だ。じゃ、上って来いよ。せっかくそばまで来てるのに」
 
 智子はためらった。山神がちょっと笑って、
 
「心配するな。僕の趣味は片倉とは違う。何もしないよ」
 
 と、言った。「部屋は分ってるね? じゃ、待ってる」
 
「あの——」
 
 と言いかけて、智子はため息をついた。
 
 もう切れている。
 
 ボックスを出て、ホテルを見上げる。——新しいビジネスホテルで、フロントが無人である。
 
 チェックイン、アウトも自動的に処理をするので、泊り客も顔を見られなくてすむ。昼間はラブホテル同様の使い方をされている、と聞いたことがあった。
 
 仕方ない。——智子は、ホテルの中へ入って行った。
 
 部屋はすぐに分った。ノックするより早く、ドアが開いた。
 
「待ってたよ」
 
 山神は智子を促して、中へ入れた。
 
 新しいからきれいだが、泊るだけ、という部屋で、狭い。
 
「——金は?」
 
 と、山神が言った。
 
 智子は、バッグを開けて、封筒をとり出した。
 
「これ……」
 
 山神が引ったくるようにして、
 
「——これだけか」
 
「十万円あります。私の貯金、おろしたんです」
 
 と、智子は言った。「うちのお金は無理です」
 
「そうか」
 
 山神は、意外にあっさりと肯いて、「そりゃそうだろうな。じゃ、いただいとくよ」
 
 と、ポケットに金をしまった。
 
「山神先生……。TV、見てないんですか?」
 
 と、智子は言った。
 
「自分の顔なんか見たって、面白くもないからね」
 
「奥さんのことです」
 
「女房? 久里子がどうかしたのか」
 
 山神はベッドにゴロリと寝た。——服は多少しわになっているが、ひげもちゃんと当ってあり、さっぱりした顔をしていた。
 
「奥さん……自殺したんですよ」
 
 智子の言葉を聞いても、山神はよく分らないようだった。
 
「——自殺? 自殺、と言ったのか?」
 
「そうです。ゆうべ、首を吊って」
 
 山神が起き上る。——笑みが消えている。自信ありげな表情も。
 
「久里子が——死んだ?」
 
 と、呟《つぶや》くように言った。
 
「病院へ運ばれましたけど、手遅れで——」
 
「嘘だ!」
 
 突然、山神が大声を出したので、智子はびくっとした。
 
「いや……。すまん」
 
 山神は、ゆっくりベッドからおりると、「本当なんだな。本当に久里子は死んだんだな」
 
「本当です」
 
「そうか……。君がそんな嘘をついても仕方ない。——そうか」
 
 山神は窓辺へ寄って、表へ目をやった。
 
 ショックを受けている。それも少々のことではない。智子は、意外な感じを受けた。
 
「山神先生……」
 
 と、智子は言った。「奥さんと片倉先生の間に、何かあったんですか」
 
 山神はゆっくりと振り向いた。
 
「片倉と久里子? まさか!」
 
「でも写真が……」
 
「写真? 何の写真だ」
 
「二人のです。先生がとったんじゃないんですか」
 
「馬鹿言うな! どうしてそんなことするんだ? もし本当なら、写真なんかとらずに片倉をぶん殴ってやる」
 
 山神の怒りは「本物」だと思えた。そうなると、写真は何だったのだろう?
 
「その写真を見たのか」
 
 と、山神は、少し落ちついた様子で訊《き》いた。
 
「いえ……。でも警察へ届いたんです。匿《とく》名《めい》の手紙と一緒に」
 
「手紙?」
 
「先生が片倉先生を殺した、という内容の手紙です」
 
「そこに、女房と片倉の写真が?」
 
「ええ。同封してあったそうです」
 
 山神は、何を考えているのか、狭い部屋の中を歩き回った。
 
 智子は、山神が本当に写真のことを知らなかったのだと思った。しかし、姉と小野由布子が、写真を山神の部屋で見付けているのである。
 
 どういうことなのだろう?
 
 山神は、急に足を止めると、
 
「僕は出かける」
 
 と、言った。「君、ここにいてくれないか」
 
「私が? どうしてですか」
 
「誰かにいてほしいんだ。証人としてね」
 
 山神の口調は真剣そのものだった。
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