眠りを殺した少女14

 14 逃 亡

 
 翌朝、目が覚めると、智子は、ベッドにこずえが少し口を開けてぐっすり眠り込んでいるのを見た。
 
 カーテンは閉めてあるが、充分部屋の中が見えるくらい明るい。それも当然のことで、時計に目をやると、十二時を少し回っている。
 
 智子が起き上って伸びをしていると、こずえも寝返りを打って、目を開けた。
 
「——おはよう」
 
 と、智子は言って、「もうお昼よ」
 
「そうか……。智子、今起きたの?」
 
「見ての通り」
 
 智子は先にベッドを出た。
 
 ——二階の洗面所で顔を洗っていると、ゆうべの出来事が思い出されてくる。
 
 あれは本当に起ったことだったのだろうか?——一夜明けてみると、夢でも見ていたような気がするのだ。
 
「——智子」
 
 と、母の紀子が声をかけてくる。
 
「あ、お母さん。こずえも一緒」
 
 と、タオルで顔を拭きながら、「何か食べるもの、ある?」
 
「聡子から聞いたから、ホットケーキ、焼いてあるわ。匂わない?」
 
 そういえば、確かに甘い匂いが下から立ち上ってくる。
 
「お腹が鳴る! すぐ下りてく」
 
「はいはい」
 
 と、紀子が笑う。「沢山とってあるから、焦《あせ》らないで」
 
 智子は部屋へ入って、まだベッドにいるこずえに、
 
「ホットケーキだよ!」
 
 と声をかけた。
 
 ——二人して降りて行くと、
 
「ほら、紅茶いれてるから。出すぎない内に注いで」
 
 と、紀子が言った。
 
「うん」
 
「おはようございます」
 
 と、こずえが挨《あい》拶《さつ》する。
 
「おはよう。でも、もう昼よ」
 
 と、紀子は笑った。
 
「お父さんは?」
 
「お仕事よ、もちろん。そうそう休んでられないんですからね」
 
 と、紀子は言って、「たぶん、二、三日後の飛行機で」
 
「パリ? お母さん、ついてくの」
 
「まさか」
 
 と、紀子は笑った。
 
「でも、結構本気そうだった」
 
「親をからかうんじゃないの。早く食べて。——お母さん、出かけるから。お皿は重ねといてね」
 
「うん、洗っとこうか」
 
「あんたは洗濯機にでも放り込みそう」
 
 と、紀子は言った。
 
「ひどいなあ」
 
「いいわよ、帰ってから洗うから。お水にだけつけといてくれれば」
 
「はい」
 
 と、智子は椅子を引いて座った。「ね、今日は——」
 
「お母さん!」
 
 と、鋭い声が、智子の言葉を遮った。「智子! 来て!」
 
 姉だ。智子と紀子は一瞬戸惑った。
 
「ね、早く来て!」
 
 姉の声は切迫している。
 
 もちろん、こずえも一緒に居間へ入って行くと、
 
「今、ニュースで……」
 
 と、聡子が緊張した声で言った。
 
 あのホテルだ。——智子とこずえは、そっと目を見交わした。
 
「殺されたの、うちの大学生よ」
 
 と、聡子は言った。
 
「犯人、捕まったの?」
 
 と、紀子が訊《き》く。
 
 聡子が答えるまでもなかった。
 
「——通りがかった客が、犯人らしい男を見付け、ホテル側に通報しました。ところがその男は、客を突きとばして逃げ、入れ違いに駆けつけたホテルの従業員が急いで手配しましたが、結局、見付かりませんでした」
 
 というアナウンサーの話。
 
 画面に出ているのは「通りがかった客」の顔だった。内田三男だ。
 
「なお、犯人らしい男は、部屋に残されていた財布から、N女子大助教授、山神完一と分りました。目下、警察で行方を捜しています」
 
 ニュースが変った。
 
 しかし、しばらく誰も口をきかない。
 
「——山神先生が?」
 
 と、紀子が言った。「何てことでしょ!」
 
「やりかねないわよ」
 
 と、聡子は立ち上って、「出かけてくる」
 
 二階へ駆け上って行く。
 
 おそらく、小野由布子の所へ行くのだろう。
 
 しかし——智子は、もうそれを知っていたわけだ。ただ、山神が逃げたこと、それがショックだった。
 
「いやねえ……」
 
 と、紀子が首を振って、「こんなことがあると、N女子学園の評判が……」
 
「きっと、お父さん、呼び出されてるなあ」
 
 と、こずえが言った。
 
「こずえ、帰る?」
 
「いいよ。私が帰っても、どうにもなんないし」
 
「そうだよね……」
 
 智子はリモコンでTVを消した。そして、
 
「お母さん、出かけるんじゃないの?」
 
 と、訊いた。
 
「そうだった。忘れるとこだったわ!」
 
 紀子も、二階へ上って行く。
 
 智子とこずえは顔を見合わせた。
 
「——逃げたんだ」
 
 と、こずえが言った。
 
「うん……」
 
 山神が逃げた。ということは、やはり犯人と思われても仕方ない。
 
 姉が、急いで出かけて行く音がした。
 
「鍵かけといてね!」
 
 と、大声で言って、タタタッと駆けて行く足音。
 
 そして、十分ほどして、紀子も出かけて行った。
 
「夕ご飯はちゃんと作るからね」
 
 と言って出て行く母を、
 
「遅くなるようなら電話して」
 
 と、智子は見送った。
 
 ——居間へ戻ると、こずえと二人、しばし黙り込んで、それから朝刊を何気なくめくる。
 
「山神先生、私たちのこと、憶えてるかな」
 
 と、こずえが言った。
 
「さあ……」
 
 あのとき、山神の様子は普通じゃなかった。確かに、まともではなかったのだ。
 
 しかし——智子とこずえの二人を見たことは事実である。
 
 電話が鳴り出した。
 
 小野由布子からかな、と思いつつ、受話器を取ると、
 
「もしもし、小西さんのお宅ですか」
 
「そうです。あ、内田君?」
 
「君か。TV、見た?」
 
「うん、結構二枚目にうつってたよ」
 
「よせよ」
 
 と、内田は言った。「油断しちゃったんだ。あんな風だったろ。大丈夫だと思って、電話してたら、急にドンと突き飛ばされて。——畜生!」
 
 と、悔しそうである。
 
「けが、なかったの?」
 
「ああ、何ともない。でも、こっちも何の用でホテルに来たのか、訊かれてさ。困っちゃったよ」
 
 と、内田は言った。
 
「でも、あなた、どうしてあそこにいたの?」
 
「呼ばれてた」
 
「呼ばれて? 誰に?」
 
「良子の友だちだ、と言ってた。女の子だ。名前は言わなかったけど——。あの殺された子かもしれないな。分らないけど」
 
「そう。——じゃ、あの部屋へ行くところだったの?」
 
「うん。しかし——そっちはどうしてあそこにいたんだ?」
 
 智子は詰った。何と説明したものだろう?
 
「電話じゃ……。ね、一度会って話しましょう」
 
 と、智子は言った。
 
「ああ、そうだな。しかし、あの山神っての、どこへ隠れてるのかな」
 
「じき、捕まるでしょ」
 
「たぶんな。じゃ、また電話するよ」
 
 そばに誰かいるらしい、と智子は感じた。少しあわてた様子で切っている。
 
「——ゆうべの人?」
 
 と、こずえが訊く。
 
「うん」
 
 智子は肯いて……そう。考えてもみなかったが、山神はどこへ逃げたのだろう?
 
 何となく、漠然とした不安が、智子の中に広がる。
 
 それは、山神が見せた奇妙な笑顔——片倉の学校葬のとき、そして卒業式のときの、あの山神の、奇妙に親しげな視線のせいだった……。
 
 
 
「びっくりしたわ」
 
 と、聡子は言った。
 
「どうして?」
 
 小野由布子は平然とトーストを食べている。
 
「だって……」
 
「やりかねないじゃない。山神先生なら」
 
 二人は由布子の家に近い喫茶店に入っていた。
 
 由布子も遅く起き出して、TVのニュースを見ていたのである。
 
「殺された子は可哀そうだけど」
 
 と、由布子は言って、コーヒーを飲んだ。「何て言ったっけ?」
 
「田代百合子」
 
「そうそう。でも——よく顔、分んないな」
 
 と、由布子は首を振った。
 
「ひどい話よね」
 
 と、聡子は言った。「でも、田代さんって、私は知ってるけど、ホテルへ何しに行ったんだろ?」
 
「そりゃ、山神先生に誘われたんでしょ」
 
 と言ってから、「もう『先生』はいらないね」
 
「だけど……」
 
「何を悩んでるの? あの手紙が事実だったってことが分るじゃない、これで。一度に解決よ」
 
「そう? だけど、由布子。確かに、山神は片倉先生を憎んでたかもしれない。でも、だからって自分のとこの学生をあんな風に殺す?」
 
「田代って子が、いやがって暴れたんじゃないの?」
 
「そう……かもしれないけど」
 
「ともかく、これで片倉先生を殺したのも山神だってことが、警察にも分るわ。仇《かたき》をとったのよ。嬉しくないの?」
 
「嬉しいわよ、もちろん」
 
 と、聡子は言って……。
 
 しかし、聡子の奥には、引っかかるものがあった。
 
 片倉が出世の邪魔になったから殺す。女子大生をホテルへ呼び出しておいて殺す。——その二つが、どうにも結びつかない。
 
 山神が頭のいい男なら、片倉を殺したりしないかもしれない。いや、どこか異常なところを持った男というのなら、それなりに納得できないことはないのだが。
 
「——ああ、やっと目が覚めた」
 
 と、由布子は伸びをした。
 
「お客様の小野様。いらっしゃいますか」
 
 と、ウエイトレスが呼んだ。
 
「はあい」
 
 と、由布子が手を上げる。
 
「お電話です」
 
「え?」
 
 由布子は少しびっくりした様子だったが、すぐに立って行った。
 
「——よくここにいるのが分ったわね」
 
 と、電話に出て、しゃべっている。「——ええ。——そうね。大丈夫だけど。——じゃ、あと……二時間したら。——そう、いつもの所でね」
 
 由布子は電話を切って、戻って来た。
 
「彼氏?」
 
 と、聡子が言うと、
 
「そんなとこ」
 
 と、由布子は照れる様子もなく言った。「会社員だからね、夏休みはないの」
 
「へえ、年上?」
 
「そうよ」
 
「まさか妻子持ちってわけじゃないでしょ」
 
 冗談のつもりで聡子が訊くと、由布子はちょっと眉《まゆ》を上げて、
 
「そうだとしても、別に構わないでしょ」
 
 と、言ったのだった。
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