眠りを殺した少女02

 2 仮 面

 
 目を覚ますと、もうお昼近くだった。
 
 一瞬、智子は焦った。
 
「遅刻だ!」
 
 パッとベッドで起き上って——。「そうか、試験休みだ……」
 
 学年末試験が終って、二日間の休み。一番のびのびとできる日である。
 
 でも……。こんなにぐっすり眠ってしまった。
 
 カーテンを通して射してくる日射しで、部屋の中はかなり明るい。
 
 あれは、夢だったのかしら? 雨の中、濡《ぬ》れながら走ったのは……。
 
 いや、そうじゃない。——パジャマを脱いで、智子は膝《ひざ》の辺りにあざができているのを見下して、思った。本当に起ったことなのだ。何もかも。
 
 こんなにぐっすり眠って……。自分でも信じられないようだった。
 
 人を殺したことが、こんなに何でもないものだなんて。
 
 あれは仕方のないことだった。私のせいじゃないんだわ、と智子は自分に向って呟《つぶや》いた。
 
 でも、それはそれとして、本当ならば、ちゃんと名のり出なければいけない。
 
 分っている。でも……。
 
 カーテンを開けると、まぶしさに智子は目を細めた。
 
 ともかく顔を洗おう。シャワーを浴びて、さっぱりするんだ。
 
 そして考えよう。どうしたらいいのか。
 
 とはいえ、今さら警察へ届け出るわけにもいかないし、また自分が決してそうはしないだろうということも、智子には分っていた。
 
 ——一階へ下りていくと、
 
「お目覚めですか」
 
 と、やす子が、階段の手すりを拭いている。
 
「うん……。お母さんは?」
 
「お出かけです」
 
「お姉さんは——お出かけね」
 
 と、智子は、やす子が、
 
「お出かけです」
 
 と答えるのに重ねて言った。
 
 二人はちょっと笑った。
 
「よく出るわねえ、二人とも」
 
「あまり他の方のことは言えないんじゃありませんか?」
 
 と、やす子がからかう。「何か召し上ります?」
 
「うん。コーンフレークみたいなもんでいい。新聞は?」
 
「居間のテーブルです」
 
 ——もちろん、朝刊に事件のことが出るわけはない。
 
 分っていても、智子はつい社会面を開き、記事をざっと眺めて、死亡欄にまで目を通していた。死体が見付かれば、当然記事になるだろうし、学園だって大騒ぎになるはずである。
 
 そうか。姉は大学へ出て行ったのだ。
 
 片倉道雄教授へ、バースデープレゼントを渡しに。
 
 でも、姉たちは(たぶん何人もいるだろうから)、待ち呆《ぼう》けを食わされることになる。
 
 今ごろ、おかしいね、と首をかしげ合っているかもしれない……。
 
 まだ死体は見付かっていないだろうか?——あのまま、深々としたカーペットに、倒れたままだろうか。
 
 血を吐《は》いて倒れた片倉……。うつ伏せに倒れて、動かなくなった片倉。
 
 もし——もし、片倉が死んでいなかったら? 重傷を負いはしたが、生きていたとしたら?
 
 でも、そんなことはあり得ないと、智子にもよく分っている。頭をあれだけひどく割られて、生きていられる人間はいないだろう。
 
 あれは弾みだった。もちろん夢中でもあったけれど、智子の力では、とてもあの重い彫像は持ち上げられない。
 
 激しい勢いでサイドボードにぶつかったとき、たまたま安定が悪かったのだろう、あの彫像が落ちて来て、片倉の後頭部に当ったのだ……。
 
 智子は目を閉じた。
 
 君はプレゼントさ……。そう言ったとき、片倉の顔は、今まで見たこともないような、別人のそれに変っていた。
 
 のしかかってくる片倉。その重さは、智子の想像もつかないほどだった。まるで地球そのものが自分の上にのっかったような——。
 
 セーターの上から智子の胸をわしづかみにする手、膝の間に割って入る足。
 
 警戒心を起す間もなかったことが、却《かえ》って抵抗を可能にした。もし、じわじわと片倉が迫って来ていたら、恐怖で身がすくんで、智子には何もできなかったろう。
 
 突然の嵐のような暴力に、智子は反射的に抵抗していたのだ。何が自分に起ろうとしているのかさえ、分らなかった。
 
 幸運だったのは、もみ合ったのが、手狭なソファの上だったということだ。身をよじった拍子に、一緒になって二人は床へ落ちた。片倉は、テーブルの足に膝頭をしたたか打ちつけたのだった。
 
 その痛みにしかめた顔を、今でも智子は憶えている。おかしい顔だった。普段のときに見たら、笑い出していたかもしれない。
 
 ともかく、その痛みで、片倉の手が力を失ったのである。
 
 智子は床を転って、片倉から逃れた。
 
 玄関へ。玄関へ。それしか考えなかった。玄関へ!
 
 スリッパが脱げていて、カーペットに靴下が滑った。よろけた智子の腰を、片倉が後ろから抱きしめた。
 
 振り回され、投げ出されたのが、あのサイドボードの前で、智子は膝と肩を強く打ちつけた。
 
 痛さで涙が出た。片倉はもう自分のペースになったと知って、余裕を見せ、智子に馬乗りになった。そして……。
 
 智子は、思い出して身震いした。
 
 スカートの下を探って来る手、胸もとへ忍び込んで来る指の感触……。
 
 抵抗しようとした。
 
 君はプレゼントさ。——片倉はもう一度、そう言った。
 
 その意味が分ったのは、ゆうべ姉が、片倉のための「プレゼント」を買って来た、と言ったときだ。
 
 片倉を押し戻そうとする智子。それに苛《いら》立《だ》った声を上げて、片倉は手を振り上げた。殴《なぐ》りつけるつもりだったのだろう。
 
 しかし、手を振り上げたとき、肘《ひじ》がサイドボードに当った。たぶん、智子が転ってぶつかったとき、あの彫像は少し揺らいで不安定になっていたのだ。それが、片倉の肘の一撃で——。
 
 バキッ、と何かが折れるような音がして……。片倉がぐったりとわきへ倒れた。
 
 もし、智子へおおいかぶさるようにして倒れて来たとしたら、智子はとても片倉を押しのけられなかったかもしれない。あるいは吐《は》いた血をもろに浴びていただろう。
 
 しかし……。
 
「召し上って下さい」
 
 やす子の声。
 
 ハッと智子は目を開ける。
 
「どうかしましたか?」
 
「何でもない。別に」
 
 そうだ。もう終ったことだ。
 
 ダイニングで、智子は、ミルクをたっぷりかけたコーンフレークを食べた。
 
 冷たいミルクが、胃を目覚めさせる。
 
 そう。——私のせいじゃない。片倉が死んだのは。
 
 あのとき、もう片倉は死んだも同じだったのだ。放っておいても、死んだだろう。
 
 あのショック。——やっと起き上り、血を吐いて倒れている片倉のわきを、這《は》って逃げようとして、突然足首をつかまれたとき。
 
 あれが、智子をパニックに陥れた。
 
 叫んだとも思うし、暴れもしただろう。しかし——何も思い出せない。
 
 ともかく気が付くと、自分は立ち上っていて、手に大理石の重い灰皿を持ち、その角には血と髪の毛がこびりついていた。
 
 片倉は、それこそもう全く動かなくなって……。
 
 智子は玄関から出て、マンションの階段を駆け下り、雨の降りしきる戸外へと飛び出したのだった……。
 
 もう忘れよう。何もかも、すんでしまったことだ。
 
 コーンフレークをほぼ食べ終って、智子は人の気配に振り向いた。姉がダイニングの入口に立っている。
 
「びっくりした。——いつ帰ったの?」
 
 智子の問いが耳に入らない様子で、聡子は、
 
「先生が……」
 
 と、言った。「片倉先生……」
 
「え?」
 
「片倉先生……死んじゃった!」
 
 智子は、姉がすすり泣きながら、その場にしゃがみ込んでしまうのを、呆《ぼう》然《ぜん》と眺めていた。……
 
 
 
「変だよ」
 
 と、言い出したのは、阿部ルミ子だった。
 
 ——いや、それは阿部ルミ子一人の意見ではなくて、その場にいた全員の考えていたことでもあったのだ。
 
「来ないわけないよ。片倉先生が」
 
 と、ルミ子は続けた。
 
 普段から、人一倍どころか「人三倍」くらいよくしゃべるルミ子なので、たいてい、みんな適当に聞き流しているのだが、今日ばかりは同感という様子だった。
 
 ガランとした教室には、十人近い女子学生が集まっていた。その中には四年生もいて、今三年生の聡子は、顔ぐらいしか知らなかったのだが、いずれにしても、ここにいる女の子たちは、みんな片倉の「ファン」であり、誕生日のプレゼントを用意して、休み中にわざわざ大学へ出て来たのである。
 
「そうよね。どうしたんだろ」
 
 と、四年生の子が心配そうに言って、「分ってるはずだもんね。私たちがプレゼント持って来るってことは」
 
「昨日だって、会ったときに言ってたよ。『何くれるんだ? 楽しみだな』って」
 
「具合悪そうとか、そんなこと、なかったんですか?」
 
 と、ルミ子が四年生に訊く。
 
「全然」
 
 そこへ、足早に教室に入って来たのは、電話をしに行っていた四年生の女の子だ。
 
「——どう? 先生、いた?」
 
「いない」
 
 と、息を切らしつつ、首を振る。「いくら鳴らしても、誰も出ない」
 
 みんな一様に、落ちつかない様子で沈黙した。
 
「——行ってみましょ」
 
 と、言ったのは——。
 
「由布子……。行くって?」
 
 と、聡子が振り向く。
 
「先生の家へ行ってみるのよ」
 
「ええ? だって……。そこまでやったら迷惑じゃない?」
 
「だけど、片倉先生は一人暮しよ。もし、病気にでもなって、熱出して寝込んでいたら……」
 
「そんなこと……」
 
 とは言ったものの、聡子もそう思っていないわけではなかった。
 
 家まで訪ねて行くという決心がつかないだけだ。
 
「行くのなら、みんなでね」
 
 と、四年生の子が言った。「どうする?」
 
「私、行きます。誰も行かなくても」
 
 小野由布子の言い方は、四年生からは「生意気」ともとられかねないものだったが、この大人びた娘には、何となく文句をつけにくい雰《ふん》囲《い》気《き》があった。
 
 実際、集まっている十人の中でも、知らない者が見れば、小野由布子が一番年上と思えただろう。
 
「そうね」
 
 と、四年生の子が息をついて、「じゃ、行こうか。どうせ、みんな時間、あるんでしょ?」
 
 結局、二人は後に予定があるというので、他の子にプレゼントを預けて帰ることになった。それでも、八人の女子大生がゾロゾロと訪ねていったら、向うはびっくりするだろう……。
 
「——何でもなきゃいいけどね」
 
 と、阿部ルミ子が、駅への道を歩きながら言った。
 
 ルミ子と聡子は、小学校のころからの仲良しである。——一見、幼なく見えるルミ子は、美人とは言えないが、至って気のいい、サバサバした子だった。
 
 聡子はルミ子と並んで歩き、小野由布子は一人で、誰とも話をせずに歩いている。
 
 ピンと背筋を伸して、じっと真正面を見て歩く由布子には、「キャリアウーマン」の雰囲気さえ、感じられる。
 
「大丈夫でしょ」
 
 と、聡子は肩をすくめて、「大方、本を読みながら眠ってたとか、そんなことよ」
 
「そうね」
 
 と、ルミ子が言った。
 
 暖かい、いい日《ひ》和《より》である。少し歩くと、暑く感じられるくらいだ。
 
「——由布子、本気だね」
 
 と、ルミ子がそっと言った。
 
「え?」
 
 聡子はルミ子を見た。
 
「本気でものにする気よ、片倉先生を」
 
 聡子は、小野由布子の後ろ姿を見て、
 
「まさか」
 
 と、言った。
 
「あの子ならやるわよ。結構、大人の女って感じだし」
 
「でも、先生の方が——」
 
「片倉先生だって男よ」
 
 と、ルミ子は言って、「ね、もしさ、行ってみて、片倉先生が誰か女の子と一緒だったら? 由布子がどんな顔するか、見ものだね」
 
「しっ、聞こえるわよ」
 
 しかし、たとえ聞こえたとしても、小野由布子は全く気にしなかっただろう……。
 
 ともかく、電車に乗り、約一時間かけて、八人は片倉道雄の住んでいるマンションに着いたのである。
 
 ——インタホンにも、全く応答はなかった。
 
「留守かね」
 
「どうする?」
 
 インターロックの扉が開いて、買物に行くらしい主婦が出て来た。
 
 小野由布子が、その扉が閉る前に、素早く中へ入ってしまう。
 
「由布子!」
 
 と、聡子が声をかける。
 
「部屋へ行ってみる。心配なの」
 
「じゃ、みんなで行こうよ。開けて」
 
 と、四年生が言うと、由布子は少し気の進まない様子で、扉を開けた。
 
「〈305〉だったね」
 
 と、ルミ子が言った。
 
 エレベーターで三階へ上り、〈305〉の部屋を見付けるのは簡単だった。ここでもチャイムを鳴らしてみたが、何の返答もない。
 
 ドアを叩《たた》いていると、隣のドアが開いた。
 
「——何してるの?」
 
 と、中年のおばさんが顔を出す。
 
「学生なんです。片倉先生に教わってる。先生、お留守ですか」
 
「さあ……何だかゆうべドタバタやってたけど」
 
「ドタバタ?」
 
 と、由布子が眉《まゆ》を寄せた。
 
「そう。何してんのかしら、と思ったわ。でも、今日は見てないわね」
 
 誰もが顔を見合わせる。——と、突然、由布子がドアを開けた。
 
「鍵、かかってない」
 
「由布子! 待ちなさいよ」
 
 聡子が止める間もなく、由布子は中へ入って行ってしまった。
 
 続いて四年生たちが次々に中へ入る。——聡子はまだためらっていたが、廊下に立っているわけにもいかず、玄関へ入った。
 
「勝手に上っていいの?」
 
 とルミ子が言って、聡子も、
 
「ねえ、ちょっとそこまでは——」
 
 そのとき、悲鳴が(誰が上げたのか、よく分らなかったのだが)聞こえて、二人は立ちすくんだのだった……。
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