赤いこうもり傘03

 2 幻の調べ(土曜日)

 
 
「キスして来ました、先生」
 居間へ入るなり、瞳は言った。ソファで本を読んでいた佐野俊《とし》夫《お》は顔を上げ、
「お帰り。何だって?」
「今、そこでキスしました」
「今? 相手は誰だね?」
「裕二さんです」
「——知らないな」
「ええ、今夜知り合ったばかりですから」
「また急だったね」
「変な人じゃありません。ヴァイオリンをやってる人なんです」
「そうか。それなら悪い人間はいない」
 生徒も生徒なら教師も教師である。
「で、どんな感じだったね?」
「何だか、よく分かりませんでした」
「何も感じなかったのか?」
「胸がドキドキしましたけど」
「ならいい。初めての時はそんなもんだ」
「この次はもっと気を付けて、色々研究してみます」
「研究など必要ない。成り行きに任せればいいんだ」
「でも、それじゃあんまり自主性が無さすぎませんか?」
 瞳は不満げに言った。——他人が聞いたら、一体何の話をしているのか、さっぱり分からないに違いない。
 佐野俊夫はT学園の理事で、弦楽科の教授も兼ねている。五十代の半ばというところだが、およそ繊細な芸術家というイメージからは程遠い外見であった。
 ずんぐりとした体つき、よく陽焼けしたいかつい顔は、その辺の工事現場でよく見かける感じである。半分白くなった髪が、洗いっ放しのようにボサボサに突っ立っていて、ちょっとくしの歯も通らないのではないかと思われた。
 佐野は瞳の父、死んだ島中正雄とは親友の間柄で、ヴァイオリンの兄弟弟子として、子供の頃からの付き合いだった。しかし佐野は三十代の初めに、ヴァイオリニストにとって致命的な腕の筋肉の病気にかかり、ほぼ回復はしたものの、プロの演奏者の道は断念せざるを得なかったのである。だが佐野には優れた教育者の資質が備わっていたらしく、母校T学園のヴァイオリン教師として、次々に優秀な人材を送り出していた。そして瞳もまたその一人、というわけである……。
「——風呂に入って、早く寝なさい。疲れていては、ヴァイオリンも良く鳴ってくれんぞ!」
「はい、先生」
 瞳は素直に肯いた。「おやすみなさい」
「おやすみ」
 佐野は独身である。女嫌いというわけではない。むしろ次々と違う女性を恋するあまり、ついつい結婚せずに来てしまった、といったところだ。通いの家政婦に家事一切を任せ切って、夜は一人のんびりと読書やレコードに時を忘れている。
 瞳が居間を出て行くと、佐野は読みかけの本を取り上げて、ページをめくった。
 
 風呂から出ると、花柄の可愛いパジャマにガウンをはおって、瞳は二階の部屋へ行った。六畳ぐらいの広さの洋間に、ベッドと机、それにファンシーケース、譜面台などがところ狭しと置かれている。十八歳の女の子にふさわしく、ベッドの上にパンダのぬいぐるみが転がっていたりしているが、机の上には、写真立てに入った両親の写真だけが置かれていた。
 瞳は机に向かうと、引き出しから日記帳を取り出した。もう時間はずいぶん遅かったが、これだけは一日も欠かしたことがない。瞳は新しいページにペンを走らせた。
「お父さん、今晩は。今日は色々報告することがあって、何から始めたらいいのか、困っちゃうくらい。国電の中で、タチの悪い酔っぱらいを二人やっつけたし、生まれて初めてキスもしたし……。でも、ともかく学校のことから始めるわね。
 BBCとの共演まで一週間。みんなやる気十分で張り切っています。BBCは昨日、九州で公演して、たまたま出張していて聴いて来た先生が、凄い凄いと舌を巻いていたわ。こっちも負けずに頑張らなきゃ。BBCまで行かなくても、せめてCCD(?)ぐらいには、ね。でも本当にかなりアンサンブルも良くなって来て、これなら恥ずかしくない演奏ができると、コン・マスとしては自負しております。エヘン!……」
 瞳はこうして、毎夜、両親ヘ一日の出来事を報告する。兄弟もなく、身近に親《しん》戚《せき》もない彼女には、このひとときが一家の団らんであった。——時折、寂しい思いがその胸を北風のように吹き抜けることもあったが、そんな時、瞳はヴァイオリンで、思い切りセンチメンタルなメロディーを弾くのだった。
 お転婆といわれ、オーケストラの人気者、アイドル的な存在ではあっても、一方では、やはり十八歳の多感な少女なのである。
「……こういうわけで、私のキスの初体験は終了。お母さん、気が気でないんじゃない? 瞳ちゃんはまだ子供なのに、って。心配しないで。私、もう大人《 お と な》なんですもの。お父さんなら分かってくれるわね? そうだ、佐野先生は恋を知ると音につやが出て来るって、いつも言ってるけど、本当かどうか、験《ため》してみましょうか? 一曲弾いてみたら分かるかな。クライスラーの『愛のよろこび』でも」
 瞳はペンを置くと、ヴァイオリンのケースを取った。一人、部屋で奏《かな》でるのも悪くない——瞳はケースを開けた。
 
「何だって?」
 佐野が目を丸くした。
「ヴァイオリンが入れ替わってたんです」
 瞳はすっかりしょげていた。
「だが、ケースは……」
「ケースは私のです」
「すると、つまり——」
「あいつがすり替えたんです。私がちょっと席を外している間に」
「あいつ? 誰のことだ?」
「分かりません。——今夜会ったばかりで」
「すると、お前が初めて——」
「言わないで下さい!」
 首筋まで真っ赤にして、瞳は叫んだ。「ああ! 恥ずかしいわ! 私、泥棒なんかと……」
「まあ、そう自分を責めるな」
「だって、せっかく先生からいただいたヴァイオリンだったのに……」
「代わりに入っていたヴァイオリンを見せなさい」
「はい……。きっと安物なんですわ」
 瞳からヴァイオリンを受け取ると、佐野は裏返しにしたりして眺めていたが、そのうち、いやに熱心に目をこらして調べ始めた。そして、急に立ち上がると、ヴァイオリンを手に居間から出て行った。
 瞳が呆《あつ》気《け》に取られて、立ちつくしていると、少しして佐野が戻って来たが、その顔には、何とも言いがたい奇妙な表情が浮かんでいた。
「先生、どうしたんですか?」
「これを弾いてみたかね?」
「いいえ」
「では、ちょっと弾いてみなさい」
「はい……」
 少々面食らったものの、瞳はヴァイオリンを受け取ると弦をピンと張り、軽く指ではじいてから弓を手にして、
「何を弾きますか?」
「何でもいい。そうだな、できるだけメロディーのよく歌う曲がいい」
「はい」
 ハンカチを添えて顎《あご》当てを挟むと、瞳は静かに弓を弦に当てた。ちょっと迷ってから、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のテーマを弾き始める。——しかし、瞳は一小節を弾き終えないうちに弓を止めた。すばらしく豊かな音が流れ出したのに驚いてしまったのである。
「先生!」
 と思わず声を上げた。「これは——」
「良く鳴るじゃないか」
「信じられません! こんなのは初めてです」
「そうだろう」
 佐野は肯いて、「わしには見《み》憶《おぼ》えがある。たぶん間違いあるまい。それはストラディヴァリだよ」
「ストラ……」
 終わりまで言わずに、瞳は手にした楽器をまじまじと見つめた。
 ストラディヴァリ! ヴァイオリンの銘器中の銘器として、あまりにも有名である。買うとなれば、何千万、何億……いや、もう値段のつけようもない、宝物のようなものだ。ストラディヴァリというのは十七世紀から十八世紀にかけて、ヴァイオリン製作で優れた作品を残した職人の名前である。その手になるヴァイオリンで現在残っているのは三百数十個といわれ、一流の奏者たちは全財産を抛っても、手に入れようとする。
 そのストラディヴァリが、今、自分の手の中にある! 瞳が呆然としたのも無理はない。
「でも……そうすると、あいつは、いえ、あの人は、わざわざ——」
「そうだ。わしの持っていた大して値打ちもないヴァイオリンの代わりに、何千万の銘器を置いて行ったわけだ」
「どうしてでしょう? どうして、そんな事を?」
「わしにそんなことが分かるはずはなかろう。大体、そんな若者が、なぜストラディヴァリを持っておったのか、それも問題だな」
 瞳は考え込んだ。——あの「裕二」という若者——それも本当の名前かどうか——どうみてもヴァイオリン泥棒には見えなかった。それに泥棒であろうとなかろうと、どうしてヴァイオリンをすり替える必要があったのか。
 瞳には、何が何やら、さっぱり分からなかった。
「先生、どうすればいいんでしょう?」
「そうだな」
 佐野も、さすがに考え込んだ。「——まあ明日の新聞を見てみるんだな。誰かが盗まれたか、失くしたかしていれば大騒ぎだろう。それを見てから届け出ればいい」
「そうですね」
「少なくとも今夜一晩はお前の手にあるわけだ」
 佐野はニヤリと笑って、「ま、一生に二度とない事かもしれん。たっぷり弾いておくんだな」
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