赤いこうもり傘02

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 1 かくて、武勇伝始まる(土曜日)

 
 
 東京の電車は何時になっても、およそがら空きという事がない。早ければ早いなりに、遅ければ遅いなりに、乗客が集まり、結構席が埋まってしまうのだ。
 東京の国電山手線のその車両も、一通り席は一杯で、その他数えるほどの乗客が、そこここの吊り輪につかまっていた。時間はもう夜の十時半頃である。——だが、今、その車両は重苦しい沈黙にのしかかられて、誰《だれ》一人口をきく者もいない。
 それというのも、二駅ほど前から乗って来た二人のヤクザが、いくらかアルコールが入っているせいもあるのだろう、車両の中をいきがって歩き回りながら、乗客に片っぱしからちょっかいを出しているのだ。
 中年のサラリーマンと見れば、
「よっ! 親父さん、ご苦労だねえ!」
 と肩を叩き、相手が嫌な顔でもしようものなら、とたんにがらりと態度を変えて、
「おい! てめえ、そのツラ、何だよ」
 と絡んで来る。
 そのうち、二人は、ちょっと可愛いOLを見つけると、しつこく言葉をかけ始めた。最後には、彼女の両側の席の男を追い出して、二人で彼女を間に挟んで座ると、わざとぐいぐい身体を押しつけ始めた。娘は、もう泣きべそをかいているのだが、車内の乗客は誰一人、口を出そうとはしない。——運が悪いんだな、といった目つきで、チラチラその方を眺めては、自分は極力目立たないように身動きもしないのだった。
 次の駅のプラットホームが見えて来ると、その娘はハンドバッグをつかんで立ち上がろうとしたが、隣の男に肩をつかまれて、
「おい、逃げるなよ!」
 と押さえ付けられてしまった。
「だって……私……降りるんです……ここで……」
 娘が震え声で言うと、ヤクザの一人は有無を言わせぬ力で彼女の肩を抱いて、
「そう言わねえで付き合えよ、な!」
 娘がすすり泣きを始めた。その時、電車がホームに停まり、ドアが開くと、高校生らしい女の子が一人、乗り込んで来た。
 年齢は十八歳ぐらい、高校三年生といったところだろう。セーラー服ではないが、何かの制服らしい、紺のブレザーに、同色のスカートをはいている。やや小柄で、均整のとれた体つき、ちょっと見には冷たい感じさえする整った色白の顔立ち、髪は長く肩へ自然に流してある。彼女は左手にヴァイオリンのケースを下げ、右手には、赤いこうもり傘を持っていた。外はまるで雨の気配などなかったが、そんな事は全く気にしない様子でヴァイオリンを網棚に乗せると、ドアのすぐわきにもたれて立った。
 ——電車が動き始めた。
 その女子高校生は、すぐに車内の妙に気づまりな雰囲気を敏感に感じ取ったようだ。大声で歌ったり笑ったりしている二人のヤクザヘ目をやると、彼女はちょっと軽《けい》蔑《べつ》するように眉《まゆ》をひそめた。
 ヤクザたちはますます増長して、間に挟まれた娘の胸にさわったり、バーのホステスでも相手にしているように楽しみ始めた。
 その時、一人の若者が席を立つと、つかつかと男たちの前へと歩いて行った。車内の空気がピンと張りつめ、誰もが目を向ける。
「いい加減にしたらどうです!」
 二十歳になるかどうかの、その若者は、上ずった声で言った。二人のヤクザがニヤリとして目を見交わす。
「——おい、坊や、今、何か言ったのかい?」
「そんな事はよせと言ったんだ!」
「へえ……なかなか勇ましいなあ」
 小馬鹿にするような口調で言うと、男の一人が立ち上がった。
「もう一ペん言ってみな」
「だから、もうやめろと——」
 いきなり男の拳《こぶし》が若者の腹へめり込んで、若者はウッとうめいて床へ膝をついてしまった。男は鼻先でせせら笑うと、静まりかえった車内を、挑《いど》みかかるような目付きで見回した。——誰もが目を伏せ、顔をそむける。可哀そうに、と思いながら、下手に手を出してけがでもしたら……俺には女房も子供もあるんだ。そう意気地のない自分を弁護しているのだ。
 さっき乗り込んで来た少女は、と見れば、これも若者が殴られた時は、はっと息を呑《の》んだが、すぐに目をそらして——だが、どこかその様子は他の乗客とは違っている。唇を固く引き締めて、眼差しは並々ならぬ決意を秘めた輝きを放って、窓の外、正確には電車の前方に向けられていた。
「誰か他に文句のある奴はいるか!」
 調子に乗ったヤクザが、車内へ大声で呼びかける。「俺たちはこの女をいただいてくぜ。構わねえのかよ?」
 もう一人の方は声を上げて笑った。
「可哀そうに、誰もお前を助けちゃくれねえようだぜ」
 男の腕にがっしり押さえられたOLは、もう泣きじゃくるばかり。殴られた若者は、床に身体《 か ら だ》を折り曲げて倒れたままだった。
 次の駅が見えて来た。——赤いこうもり傘を手にした少女は、ゆっくり向き直ると、突っ立ったヤクザの一人の方へ歩き出した。
「おや、何か用かい、お嬢さん?」
 男は、相手が可愛い娘と見てニヤつくと、「俺たちに付き合ってくれるのかい?」
 少女は真っ直ぐに男の目を見返して、
「あなた方は虫けらだわ」
 と言った。
 きっぱりした、冷静そのものの口調だった。男の方は目を丸くして、
「何だって?」
 と訊き返した。自分の耳が信じられないのだろう。少女は至って穏やかに、
「見かけによらず年寄りなのね。耳が遠いの?」
 男の顔色が変わった。座っている方のヤクザが、
「おい! 痛い目に会わせてやれ!」
 と声をかける。言われなくとも、と男が少女の方へ手をのばしかけた——その時、少女は手にしていた赤いこうもり傘の先で、思い切り相手の足の先を突いた。
「痛えっ!」
 男が思わず片足を抱え込んでうめいた。ちょうどその時、電車がホームヘ滑り込んでブレーキがかかり、一本足になっていた男は体のバランスを失ってよろけた。少女の手の先でこうもり傘が一回転して、今度は先端の方をつかむと、丸くなった把《とつ》手《て》を、男の首へ引っかけ、体重をかけて、えいっと振り回した。男は堪《たま》らず、ドアの方へどっと倒れ込む。
 その時、ちょうどドアが開いて、男はそのままホームヘ転がり出てしまった。
「この野郎……」
 唖《あ》然《ぜん》として成り行きを見ていたもう一人が、OLから手を離して立ち上がった。「よくも、生意気な真似を——」
 二、三歩踏み出したとたん、少女の鋭く突き出すこうもり傘が腹へ食い込んで、ウッと男が身体を折る。その時、今まで床に倒れていた若者がばね仕掛けの人形のように飛び起きると、思い切り体当たりを食らわしたから、男は仲間に続いてホームヘ飛び出してしまった。
 ドアが閉まり、電車が動き出した。——車内にざわめきが広がって、乗客たちは、たった今、目の前で起こったことをしばらくの間、信じられない様子だった。
 やっと解放されたOLが、
「ありがとう!」
 と涙声で言うと、少女はちょっと微笑んで、
「いいえ」
 と肯《うなず》く。それから、少女は若者と顔を見合わせ、
「大丈夫?」
「ああ、もう何ともない」
 二人ともまだ息を弾ませている。何となく微笑をかわして、少女の方が頬《ほお》を染めた。
 
「フェンシング? そうか、それで……」
 若者が肯いた。
「もうよしましょう、そんな話」
 少女はきまり悪そうに、「先生にばれたら、破門だわ」
「でも勇気あるねえ。大したもんだよ」
「じっとしてられないの、ああいうのを見てると」
 コーヒーが来た。——二人は何となく次の駅で降りて、駅前の喫茶店に入ったのである。
「そのために、そのこうもり傘、持って歩いてるのかい?」
「護身用でもあるけど、それだけじゃないの。死んだ父のプレゼントだから、いつも持ち歩いてるのよ」
「お父さん、亡くなったの?」
「飛行機事故で。——母も一緒だったわ」
「そうか……」
 少女は明るく、
「もう三年前のことよ。——それより、あなた、お名前は?」
「え?」
「私、島《しま》中《なか》瞳《ひとみ》」
「瞳さん、か。素敵な名前だね」
「私みたいなお転婆には似合わないって、いつも言われるの」
「そんな事ないよ。ぴったりだ」
「嬉《うれ》しい! そう言われたの、初めてよ」
「僕は——裕《ゆう》二《じ》っていうんだ」
「裕二さん?」
「僕らは共通点がありそうだね」
 こんな笑顔をかわして、お互いを見つめ合った。
「そうね、一つは正義感の持ち主」
 瞳が言った。「もう一つはヴァイオリン」
 二人の傍に、ヴァイオリンケースが置かれている。
「本当だ、偶然だな」
「裕二さんは、どこのメンバー?」
「いやいや、僕はほんの趣味さ」
 裕二は慌てて手を振って、「君のように、名門、T学園に学ぶ人とは比べられないよ」
「あら!」
「そのブレザーに付いてるマークぐらい、僕だって知ってるさ」
「あ、そうか」
 と瞳は自分の服装を見降ろした。
「第一ヴァイオリン?」
「こう見えてもコン・マスなのよ」
「へえ!」
 裕二が目を見張った。コン・マス——コンサート・マスターの略である。コンサート・マスターはオーケストラの第一ヴァイオリンのトップ奏者で、技術的にもむろん優れていなくてはならないが、それだけでなく、オーケストラ全体のまとめ役という、重要な地位なのだ。単なる演奏の腕前の他に、リーダーとしての責任感と行動力が要求される。
「T学園オーケストラのコン・マスとは、大したもんだね!」
 裕二はまじまじと目の前の美しい少女を眺めた。そして、フッと思いついたように、
「そうか……島中さんっていったね。それじゃ、君のお父さんは島《しま》中《なか》正《まさ》雄《お》?」
「ええ。ご存知?」
「知ってるさ。僕だって少しはヴァイオリンをかじってる人間だもの」
 T学園が送り出した数多くの音楽家の中でも、その国際的なスケールの活躍で際立っていた天才ヴァイオリニスト、島中正雄。イギリスに客演の帰路、飛行機事故で島中夫妻が死んだ時、日本の楽壇は大きな失望を隠し切れなかったものである。
「お父さんの後を継いで、頑張ってるわけだね」
「別に、そんな風には考えてないわ。ただ好きだからやっているだけ。——そりゃあ、何かにつけて父の事を持ち出されるけど」
「今はどこに住んでいるの?」
「佐《さ》野《の》先生のお宅。ヴァイオリンの恩師で、父とも親しかった人なの」
「そう。——こんなに遅くなって、大丈夫かい?」
 裕二が腕時計を見た。「十一時過ぎだよ」
「平気よ。このところ毎晩これくらいですもの」
「何かあるの?」
「ほら、今度エリザベス女王が日本へみえるでしょ。その行事の一つで、BBC交響楽団の演奏会があるんだけど、日英親善ってことで、T学園の高校オケ(オーケストラの略)とBBCとで共演するのよ」
「そりゃ凄《すご》いね!」
 BBC交響楽団といえば、イギリス唯一の国立オーケストラで、その演奏水準の高さは世界のトップクラスに属している。
「で、毎夜特訓ってわけ」
 瞳は楽しげに、「でも嬉しいわ。こんなチャンス、めったにあるわけじゃないし」
「本当だね」
 しばらく、二人はオーケストラ談義に花を咲かせた。——話に夢中になって、気が付くともう十二時近くになってしまっている。
「送って行くよ」
「ありがとう。私なら大丈夫よ」
「それもそうだ。僕が送ってもらおうかな」
 二人は笑って立ち上がった。
「ちょっと、ごめんなさい。頭、直して来るから」
 瞳はトイレに行って、いささか乱れた髪を整えた。裕二は両手に二つのヴァイオリンを持って待っていた。
 喫茶店を出ると、二人はタクシーを拾って、そう遠くない、瞳の家に向かった。
「——どうもありがとう」
 立派な門構えの前で、二人は向き合った。
「遅くまで引き止めて悪かったね」
「いいえ、佐野先生、そんな事はちっとも気にしない人なの。とっても楽しかったわ」
「僕もだ。いつか君に教えてもらいたいな」
「ヴァイオリン? それともフェンシング?」
「ヴァイオリンだけにしといた方が無難のようだな」
 と裕二は笑った。「——じゃ、これで」
「私も教えてほしいことがあるんだけど」
「僕に? 何だろう?」
「キスの仕方、教えてちょうだい」
 あまりあっさり言われたので、裕二は思わず、
「え?」
  と訊き返した。
「おやすみのキスってどうするの?」
「それは——つまり、その——」
 裕二はまじまじと瞳の顔を見つめて、「本気なのかい?」
「ええ。一度してみたいと思ってたの」
 瞳の方はあっけらかんとしている。
「だけど……僕らは知り合ったばかりだよ」
「あら、いいじゃないの、何もホテルヘ行きましょうって言ってるわけでもあるまいし」
 裕二は目を丸くして、
「びっくりしたな、もう……。君って……」
「先生がね、よく言うの。恋を知らなきゃ、ヴァイオリンなんて弾けないって。恋人を抱きしめるように、ヴァイオリンを扱わなくちゃいけないんだっていうのよ。だから、一度経験してみないと」
「気楽に言うね」
 裕二も思わず笑い出してしまった。「じゃ、今夜のところはキスだけにしておこうよ」
「そうね。——はい」
 瞳は目を閉じて、裕二のキスを唇に受けた。
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