赤いこうもり傘01

 プロローグ

 
 ドーヴァー海峡を深い霧が流れていた。
 霧笛が息苦しいような叫びを上げて、ドーヴァー連絡船は霧の中を進んでいる。ロンドンからパリヘ向かう列車を丸ごと飲み込んだ巨体は、なおも、その他に自動車、一般乗客も乗せて、いかにも重たげに波を押し分けて行く。
 霧の冷たい午後で、甲板にもほとんど人影がなかった。ただ一人、グレーのコートに身を包んだ中年のイギリス紳士が手すりにもたれて、白い霧の壁を眺めている。そのうち、紳士はふと、背後の足音に気付いて振り返った。
 甲板にも霧が立ちこめているので、足音の主の姿はかすかな輪郭が見えるだけだ。イギリス紳士はしばらく相手の様子をうかがっていたが、霧の裂け目に黒いコート姿がのぞくと、声をかけた。正確な英 国《キングズ・》 英 語《イングリツシユ》である。
「ドーヴァーはいつも霧ですな」
 黒いコートの男が答えた。
「ロンドンは晴れでしょう」
 ドイツなまりの、固い英語であった。
 紳士の方は、ほっと肩の力をゆるめて、
「新しい顔なので、ちょっと心配したよ」
 と微《ほほ》笑《え》んだ。黒いコートの男は、ゆっくり歩を進めて、イギリス紳士と並んで、手すりに両手をのせた。
 際立った対照の二人である。イギリス人の方は長身で、大柄。ビール好きらしい赤ら顔に、人の好さそうな笑みを浮かべた四十代半ばの中年男だった。一方の黒いコートに身を包んだ男は、年の頃《ころ》こそ同じに見えたが、透き通るような金髪に、狐《きつね》を連想させる細い碧《あお》い眼と、尖《とが》った鼻。薄い唇は無表情に結ばれたままだ。中肉中背の体つきは、見るからに敏《びん》捷《しよう》そうで、強いバネを内に秘めているようだった。
 イギリス人は言葉を続けて、
「『伯爵』に伝言してほしい。——彼の相手は日本へ発《た》った、と」
「日本へ?」
「女王陛下の日本ご訪問に関連した任務のようだが、詳しい事は分からない」
 黒いコートの男はゆっくり肯《うなず》くと、
「確かに伝えよう」
「——君は伯爵を知っているのか?」
 イギリス人がタバコに火をつけながら訊《き》いた。黒いコートの男は、相手の勧めるタバコを手を振って断ると、
「いくらかは知っている」
 と答えた。
「そうか。私は噂《うわさ》しか聞いていない」
 イギリス人は首を振って、「もっとも、直接顔を合わせた時は死ぬ時だそうだから、会いたくもないが。……優秀な殺人者だそうだね」
「プロだというだけさ」
「殺人を楽しむ男だと聞いたよ」
「そんな事はない」
「赤ん坊を殺した事もあるというじゃないか。私はいかに祖国のためと言われても、そこまではやりたくない。——スパイとしては失格かもしれないが」
「伯爵も普通の人間だ。ただ、仕事をしている時はプロに徹する。それだけの事だ」
「——ずいぶん伯爵のことに詳しいようだね」
「そうさ」
 黒いコートの男はイギリス人の顔を真っ直ぐ見据《す》えて、「私が伯爵だからね」
 イギリス人は一瞬目を見開いて、相手を見つめたが、次の瞬間にはその鈍重な印象からは思いもよらぬ素早さで、黒いコートの男から数メートルも離れた所へ飛びすさった。同時に、右手に鋭いナイフが光る。
「君を殺すように言われて来た」
『伯爵』と名乗った黒いコートの男は静かに言った。「——すまないが」
 その手にも、いつしかナイフの刃が銀色の光を放っている。二人は油断なく身構えると、三メートルほどの間隔をじりじりとせばめて行った。そして、イギリス人が躍りかかるように飛び出して来ると、伯爵の方は巧みにその下をかいくぐって、相手の背後へ出る。だがイギリス人もすぐに向き直って、鋭く突き出される刃をかわした。
 濃い霧が流れ込んで来て、甲板を白く覆い始めると、争う二人の姿もしだいにその中へ溶け込んでしまう。
 物静かな戦いである。助けを求める声も、ののしり合いもなく、ただ聞こえるのは二人の荒い息づかいと、甲板をこする靴音ばかり。突然、霧のヴェールを通して、激しくもつれ合う格闘の音が響いた。そして絞り出すような、かすかなうめき声が……。三十秒足らずで決闘は終わった。霧はますます濃くなるばかりである。
 静寂が戻ってから、ややあって、何かが水に落ちる音がした。それから、落ち着き払った足音が霧の奥へと遠ざかって行き、やがてそれも絶えた。
 当分晴れそうもない、濃霧のドーヴァー海峡を、連絡船はのろのろと進んで行く。——霧笛が哀《かな》しげに鳴った。
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