長い夜03

 3 トラック

 
 久井武彦は、ガタッと音をたてて椅《い》子《す》をずらすと、立ち上がって、歩き出した。
 ——別に、大して珍しいことでもない。ここが授業中の教室でなければ、である。
「久井」
 と、教師が顔を上げて、「どこへ行くんだ?」
「タバコをすって来るんだ」
 と、久井武彦は言った。「ここですっちゃまずいだろ」
 いくら教師が注意してもザワザワの消えることのない教室の中が、シン、と静まり返った。
 生徒たちは、興味津《しん》々《しん》の目つきで、久井武彦と教師の間に飛び散る火花を眺めている。
 もちろん、とんでもない、と叱《しか》りつけるのが教師の役目だろうが、この生徒に関しては、どの教師も、おっかなびっくりだった。
 おとなしく、言うことを聞いて席に座るような少年ではない。やり合えば、教室の中はたちまち蜂《はち》の巣をつついたようになって、しばらくは授業どころではあるまい。
 たとえ、力ずくで席につかせたところで、授業など聞くわけもないのだし……。
 教師は、軽く肩をすくめた。
「よし。行け」
「どうも」
 久井武彦はニヤッと笑って、「心配いらないぜ。ちゃんと、タバコもライターも持ってるからさ」
 と、ポケットから出して見せる。
 ワッと生徒たちが笑った。
 つい三十分ほど前の昼休みに、抜き打ちで所持品検査をしたばかりなのである。
 久井武彦が、少しノッポの、しかし骨格のしっかりした体を少し前かがみにして教室を出て行く。教師が、その後ろ姿へ、
「この時間中は戻って来るな」
 と、声をかけた……。
 ——誰が。頼まれたって、戻るもんか。
 廊下をのんびりと歩いて、久井武彦は校庭へ出た。
 木立ちにもたれて、タバコに火を点《つ》ける。——少し風は冷たくて、乾いていた。
 晴天だった。武彦は空を見上げて、もともと細い目を、もっと細くした。
 十七歳。——普通で行けば高校二年生だが、一年留年しているので、今、高一である。
「畜生……」
 と、武彦は呟《つぶや》いた。「面白くねえな」
 何だかむしゃくしゃした。——いつもは、そう喧《けん》嘩《か》っ早いわけじゃないのだが、今は誰かが肩をぶつけただけで、殴りつけそうな気がする。
 タバコをすったって、気分が落ちつくわけでもないが、教室の中で、じっと座ってるよりはずっといい……。
 武彦には、どうして苛《いら》々《いら》しているのか、そのわけもよく分っていた。だからといって、どうすることもできない。だからこそ、苛立っているのだった。
 ——どこへ行っちまったんだ?
 武彦は、タバコを足下へ投げすてて、ギュッと靴で踏みつぶした。もう一本取り出して、火を点けようとしていると——。
「だめ」
 ポン、と肩を叩《たた》かれた。
 武彦は、ポカンとして——今のが、空《そら》耳《みみ》だったかと思いながら、それにしちゃ、空耳で肩を叩かれることもないしな、と振り返っていた。
「またさぼってんのね」
「お前……どこ行ってたんだよ!」
 武彦は顔を真赤にして、「心配してたんだぞ! 黙ってどっかへ行っちまいやがって!電話一本ぐらいかけたっていいじゃねえかよ!」
 一気に言ってしまったものの、よく考えりゃ、武彦自身の方が、よっぽど風来坊なのである。
「ごめん」
 と、白浜仁《ひと》美《み》は言って微《ほほ》笑《え》んだ。「一応、心配してくれてたんだ」
「当り前だろ。一家で急にいなくなりやがって……。前から、聞いてたしよ、親父さんの会社がどうとかって。だから、もしかして——」
「もしかして?」
「もしかして……」
 と、言いかけて肩をすくめ、「ま、元気なんだな。良かった」
「ちょっとお話があって。——もしかしたら、さぼってるかな、って」
「さぼってんじゃねえや、休憩してるんだ」
 と、武彦は言った。
「裏へ行こうよ。教室から見える」
「ああ」
 二人は、校舎の裏手に出た。
「今、どこにいるんだ?」
 と、武彦が訊《き》いた。
「今のとこ、住所不定」
「どうして?」
「引越しの途中なの」
 と、仁美は言った。「トラックが、この近くで待ってる」
「そうか。——遠くに行くのか」
「近くはないけど、車で行ける範囲だから」
「そうか。落ちついたら、知らせろよ。見物に行く」
 ——仁美と、久井武彦。
 奇妙な取り合せだが、実は、小さいころ二人は近所に住んでいて、仲が良かった。二つ年上の武彦を、仁美は「お兄ちゃん」と呼んで、よくくっついて歩いていたものだ。
 武彦が両親の離婚などで転居して行き、再び二人が会ったのは、中学校だった。一年生の仁美は、三年生の札つきの不良が武彦だと知って、びっくりしたものだ……。
「どうもね、そんなわけにはいきそうにないの」
 と、仁美は言った。
「どうして?」
「——さよなら、を言いに来たんだ」
 と、仁美は言った。
 武彦は仁美を見つめた。
「どういうことだよ?」
「私にもよく分らない。でも、危険なことが待ってるの。もしかしたら、三人とも死ぬかもしれない」
「ええ?」
 武彦はすっかり混乱している様子。
「いいのよ」
「よかねえよ」
 武彦は、仁美の腕をつかんだ。「はっきり言えよ」
「私たち——心中するつもりだったの」
「三人で? 馬鹿!」
「そうね。でも、不思議なことがあってね……。うまく生きのびられたら、また親子三人でやり直せるかもしれない」
「さっぱり分んねえよ。分るように説明するまで、離さないぞ」
「私だって、よく分んないのよ」
 仁美は、あの不思議なサングラスの男のことを話してやった。
「——じゃ、その何とかいう小さな町に住んでくれ、って……。それだけか」
「その町に、何かがあるのよ」
「やくざでもいるのか?」
「知らないわ。ともかく、三人で決めたの。どうせ死ぬ気だったんだし、一つ、賭《か》けてみようって……」
 武彦は、戸惑いながら、
「ともかく……死ななくて良かったな」
 と、言った。
「そうね、今は私もそう思ってる」
 と、仁美は肯《うなず》いた。「じゃ、もう行かなくちゃ。武彦も、授業に戻って」
「戻るな、って言われて来てら」
「それを戻るのが、武彦らしいところじゃないの」
 武彦は、ちょっと笑った。
「それもそうだな」
「じゃ、手を離してくれる?」
 武彦は、まだ仁美の腕をつかんだままだったのだ。
「ああ……」
 武彦が、そう言って——急に仁美を引き寄せると、キスした。
「——何するのよ」
 急いで後ずさって、仁美は真赤になった。「中学生にそんなことして!」
「だって、お前が……死ぬ、とか言うからだよ」
 武彦も、照れて目を伏せている。「——怒ったか?」
「ううん」
 と、仁美は首を振った。「なかなかだったよ、今のキス」
「からかうなよ」
 武彦は頭をかいた。「だけど——本当に危いのか? 何か、武器持ってるのか?」
「まさか。そういう相手じゃないみたいよ」
「ふーん」
「ともかく……何カ月か、それともアッという間に片付くか、分らないけど。——もし、生きて帰れたら、会いに来る」
 武彦は、肯いた。
「分った。——死ぬなよ。絶対に死ぬな」
 仁美は、武彦の、真剣そのものの口調に打たれた。
「分ったわ」
 と、肯く。「死なないで、帰って来る」
 足音がした。
 裏門から、母親の千代子が入って来たのだった。
「仁美、もう行かないと……。まあ、武彦君ね」
 武彦は、ちょっと頭を動かした。会釈したつもりらしい。
「じゃ、またね」
 と、仁美は言って、「——お母さん、行こう」
「ええ。じゃ、武彦君」
「どうも……」
 武彦は、ぼんやりと母娘を見送っていた。すると、急に仁美が振り向いて、タタタッと駆け戻って来たと思うと——武彦に抱きついて、しっかりキスしたのだった。
「バイバイ!」
 仁美が駆けて行く。呆《あき》れ顔の千代子の手を引張るようにして、裏門から出て行ってしまった……。
 武彦は、しばらくその場に突っ立っていたが——やがて、我に返ったように左右を見回して……。
 そして仁美たちの後を追って、駆け出したのだった……。
 
 全く、厄介なこった。
 電話ボックスに入って、広沢は十円玉を入れながら、ため息をついた。
 口やかましい依頼人ってのは、やりにくいよ。
 ——もちろん、払うものさえ、きちんと払ってくれりゃ、こっちとしては文句ないわけだが。
「——もしもし。——ああ、広沢ですが」
「どうだ?」
 と、不機嫌そうな声が飛び出して来る。
 初めに会った時は、一体何をこいつは怒ってるんだろう、と面食らったものだ。
 すぐに、それがいつもの声、顔なのだと分ったが——。全く、話していて、気分の良くなる相手ではなかった。
「トラックは停ってます」
 と、広沢は言った。「昼飯でしょう。運転手も一緒に、レストランに……」
「行先は分らんのか」
「まだ都内です。分りませんよ」
「必ず突き止めろよ。見失うな」
「分ってます。任せて下さい」
「ちゃんと連絡を入れろよ。——五分、遅れたぞ」
 と言って、相手は電話を切った。
「——やれやれ」
 広沢は肩をすくめる。
 ボックスを出て車に戻ると、広沢は欠伸《あくび》をした。
 尾行してる最中に、そうそうきちんと連絡できるもんか! 何も分っちゃいねえんだからな、全く……。
 広沢は、いわゆる「取り立て屋」の一人である。
 もともとは興信所に勤めていたのだが、情報を顔見知りの暴力団員へ流してやったのがばれて、当然クビ。成り行きで、「組」の仕事の下請けのようなことをやるようになったのだ。
 あれこれやったが、今はサラ金などの業者や、たちの悪い不動産業者に頼まれて、借金の取り立て、住人の追い出し、いやがらせ、といった仕事をしていた。
 もちろん、人に好かれる商売でないことは百も承知だ。——女房、子供もいたのだが、広沢の仕事を嫌って、出て行ったきりだ。
 勝手にしろ、と広沢は思った。一人になりゃ、気楽でいいぜ。
 ——もうそろそろ四十代も半ば。少し金をためて、何かのんびりできる商売でも始めたい、と思っていたが……。なかなか、うまくはいかない。
 借金の怖さは、身をもって(?)知っているから、誰からも借りたくなかった。
 今度の話は、広沢にとっては正に渡りに船、というところだった。報酬がべらぼうにいい。
 もちろん、ちゃんと取り立てられれば、の話だが。
「しかし——妙な連中だな」
 と、広沢は首をひねっていた。
 五億円からの借金。
 家を引き払って姿をくらます、というのはよくやる手だが、どこで買い込んだのか、トラックに家財道具一式、積み込んで、一家で引越すらしい。
 どこへ行くんだ?——まず、それを突き止めるのが第一だった。
 もちろん、今のあの連中——確か、白浜とかいったな——に、何億もの金はあるまい。しかし、たいてい経営者ってものは、倒産しても何とかなるように、色々な形で、財産を隠し持っているものだ。
 広沢の仕事は、白浜たちを監視して隠し財産を突き止め、それを絞り取ることである。
 ——あれは白浜の女房と娘だな、とレストランへ入って行く二人を見ながら、広沢は思った。
 あの女房は、なかなかの女だ。それに娘の方はまだ十五、六か……。
 この仕事も、徹夜の見張りは日常茶飯事。決して楽じゃない。
 多少の「役得」があるとすれば、
「今は見逃してやるから、その代り——」
 と、女房や娘をい《ヽ》た《ヽ》だ《ヽ》く《ヽ》ことぐらいだ。
 あの母娘は、どっちも悪くなさそうだ。
 あわてることはない。——じわじわと、追い詰めて、楽しんでやる……。
「ん?」
 広沢は、目をパチクリさせた。「何だ、ありゃ?」
 
「じゃ、先にトラックへ戻ってるからな」
 と、白浜省一は立ち上がった。
「でも、あなた——」
「運転手さんと、道を研究しておく。ゆっくり食べてから来いよ」
 白浜は、トラックの運転手と二人で、先にレストランを出て行った。
「お父さん、すっかり張り切っちゃってる」
 と、仁美は笑った。「お腹《なか》空《す》いたな。何を食べようかなあ……」
 母の千代子が苦笑して、
「朝も、ちゃんと食べたじゃないの」
 と、言った。
「いいの。さっきのキスでエネルギー使ったから」
「まあ」
 ——二人は、軽くカレーを食べておくことにした。
「でも——」
 と、千代子が言った。「本当に、お父さん、別人のようね」
「そう。——もともと、お父さんって、社長とかに向いてないんじゃないの?」
「かもね」
 と、千代子は肯いた。
 本当に、と千代子は思う。会社が危くなりかけてからの何カ月か、夫のやつれ方は、見ている方が辛《つら》くなるほどだった。
 そして、一《いつ》旦《たん》死を覚悟して、やっと夫は落ちついたように見えたのだが……。
 あの不思議な紳士の申し出を受けて、三人で、新しい生活を始めることになると、仁美の言った通り、夫は、別人のように張り切り出したのである。
 上に立って人を動かすよりは、自分で動く方が、夫の性に合っているのかもしれなかった。
「でも、仁美」
 と、千代子は思い出して、「あなた、武彦君と……」
「え? ああ、あれ? 挨《あい》拶《さつ》代り」
 と、仁美はケロッとしている。
「そんなこと言って……。怒らないから、本当のこと、おっしゃい」
「あれが初めてよ。いやねえ、そんな目で見て。私、まだ中学生よ」
「ならいいけど……」
「武彦って、悪い奴じゃないよ」
「知ってるわよ。お母さんだって好きよ、あの子。ただ——色々あったからね」
「すねてんのよ。うちのお父さんと似てるのかもね」
「どうして?」
「自分のすることが分ってない、っていうのかな。そんな感じがあって」
「ふーん」
 と、千代子は感心したように言った。
 なかなか仁美もよく見てるわ、と思ったりしたのである。
 カレーが来て、二人は食べ始めた。
 仁美が、途中でちょっと一息つくと、
「もし……この仕事が無事に終ったら」
「なあに?」
「一番高いレストランに行こうね」
「何言ってるの」
 千代子は笑った。
 ——もちろん、不安はあった。
 しかし、ともかく、今の千代子たちには「行くべき場所」があるのだった……。
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