キャンパスは深夜営業09

9 波乱含みの朝

 
 ん? 何だ、この匂《にお》い?
 良二は、鼻をピクピク動かした。——しかし、良二は眠っていたのである。目が覚めるより早く、鼻の方が(というよりお腹の方が)反応を示したというのは、至って健康で、食欲があるという証拠かもしれない。
「——ほら、起きて」
 と、良二はつつかれた。
「え?」
 目がやっと開くと、そこには可《か》愛《わい》い知香の笑顔が……。そうか! 僕らは新しい生活を始めたんだ。
「おはよう」
 と、まだはっきりしない頭をブルブルッと振って良二は言った。
「犬みたいよ、頭を振ったりすると」
 と、知香は笑って言った。「ほら、朝ご飯を食べて」
「うん……」
 アーアと大《おお》欠伸《あくび》。
 まず、いつもの通りマンションで目覚めるのに比べると、何かと不便なのは止《や》むを得ない。——何しろ、ここは屋根裏なのだから。
 屋根裏部屋なら、まだ分るが、ただの屋根裏。事情が事情とはいえ、大変なことを始めてしまったものだ、と良二とて思わぬでもない。
 しかし、総《すべ》てはこの知香の笑顔の前に帳消しになってしまうのである。
「顔、洗って来たら?」
 と、知香が言った。「早くしないと、さめるわよ」
 どこから運んで来たのか、段ボールを伏せて、その上に花柄のテーブルクロス。驚いたことに、皿やコップこそ紙製だが、目玉焼にトースト、コーヒーと揃《そろ》っている。
「おい、どうやって作ったんだい、これ?」
 と、良二は目を丸くした。
「だって、少しは用意して来たんだもの。材料だって。冷蔵庫がないから、今日一杯しかもたないけど」
「だって、フライパンとか——」
「それも持って来たの。下の化学実験室のガスバーナーを拝借してね」
「大丈夫かい?」
「まだ朝の七時よ。誰も来やしないわ。——ほら、早く顔を洗って来て」
「分ったよ」
「はしご、かけたままにしてあるわ。落っこちないでね」
「うん……」
「タオル、その紐《ひも》にかけてある」
 屋根裏の梁《はり》に、洗濯用のロープを渡して、そこにタオルだの上《うわ》衣《ぎ》だのがかけてある。
 良二は、屋根裏という一風変った環境で、それなりにきちんと生活が始まっていることに、オーバーながら、一種の感動を覚えていた。やっぱり女は逞《たくま》しい!
 こわごわはしごを下って、実験室へ入ると、ここにはちゃんと水道が来ている。顔を洗うぐらいなら一《いつ》向《こう》に不自由しないのだ。
 ゆうべだって、シャワーも浴びたんだし……。なかなか文化的な生活とすら言えるだろう。
 屋根裏へ戻ると、はしごを一《いつ》旦《たん》上へ引張り上げておいて、上げ戸を閉める。
「——洋服が、バッグに詰め込んだままじゃしわになっちゃう」
 と、知香がトーストをかじりながら、言った。
「洋服ダンスを置こうか」
「タンスは無理よ。上げられないわ。組立て式のファンシーケースを買って来ましょう」
「なるほど」
 良二は、アッという間に皿を空《から》っぽにしてしまった。
「——いかが? 初めての朝食の気分は?」
「最高だよ」
 と、良二は心から言った。
「口に卵がついてるわ」
「そう?」
「取ってあげる……」
 知香が、そっと顔を寄せて、唇を良二の唇に重ねた。
 天窓から、朝の光が射し込んで、ほのぼのと暖い。まずは申し分のない第一日だった……。
 ドン、と上げ戸に何かぶつかる音がして、
「おい、起きろ! 俺《おれ》だ!」
 と、小泉和也の声がした。
「——えらく早いじゃないか」
 と、はしごをかけて、和也が上って来ると、良二は言ってやった。
「だって、遅く来ちゃ人目につくだろ。——あれ?」
 と、和也は二人の「食卓」を見て、目をパチクリさせると、「参ったな! しっかり朝飯の最中か!」
「コーヒーだけなら、どうぞ」
 と、知香が言った。
「いや、お前らが腹を空《す》かしてるかもしれないと思って——ほら」
 和也が紙袋をあけると、「〈ほか弁〉だ。ちゃんと四人分ある」
「四人?」
「俺が二人分食うからな」
「いいわ、じゃ、私たちの分は今夜まで取っときましょ」
 と、知香は微《ほほ》笑《え》んで言った。「小泉君って優しいのね」
「今ごろ分ったの?」
 と、和也は真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。
「——今日は忙しいわ」
 と、知香がコーヒーを飲みながら言った。
 床に座り込んで足をのばして寛《くつろ》ぐというのもなかなか乙《おつ》なものだ。下はビニールを敷いてあるが、知香は、安物のカーペットを買って来て敷こう、と言っていた。
「その方が、物音たてても下に響かなくて済むしね」
「忙しいって、何するんだ?」
 と、良二は訊《き》いた。
「色々買いたいものもあるけど、手紙を書いて、出しとかないと」
「手紙?」
「そうよ。あなた、ご両親に出しておかなくちゃ」
「あ、そうか。でも何て出すんだ?」
「勉強の都合で、友だちの所にしばらく同居させてもらうことになった、とでも書いとけば? ともかく、あなたがわけも分らずにあのマンションから姿を消したら、心配して捜索願ってことになりかねないわ。そうならないように、予《あらかじ》め手紙を出しておくのよ」
「なるほど」
 良二は感心した。
「私の方は別にどうってことないけど。——子分たちが大学へ捜しに来るなんてこと、まず考えられないからね」
「来たって、どこを捜しゃいいか分んねえだろうしな」
 和也も、この事態を楽しんでいるようだった。
「——面白い! どこまでやれるか、やってみようぜ」
「面白いだけで済めばいいんだけどね……」
 と、知香が言った。
 良二と知香が顔を見合わせ、いやに深刻になって、肯《うなず》き合う。和也は不思議そうに、
「何だ、どうかしたのか?」
 と二人の顔を眺めて、「もう夫婦喧嘩か?」
「よせよ」
「じゃ——もしかして、できちゃったのか?」
「そんなんじゃないの」
 と、知香が真赤になって言った。「そうね。小泉君になら話しておいてもいいかもしれない」
「何だよ、一体?」
 ——知香は、ゆうべ良二と二人でシャワーを浴びに行って、通りかかった男女の会話を洩《も》れ聞いたことを、和也に話してやった。
「『先生を殺そう』って……。確かにそう言ったのか?」
「僕には聞こえなかったんだ。でも、知香は抜群に耳がいいからな」
「私だって、絶対って確信はないのよ」
 と、知香は首を振った。「でも、そう聞こえたことは確かだわ」
「話してたのが誰なのか、分らなかったのかい?」
「暗かったし、それに静かだから、二人とも声を低くしてしゃべってたもの。大体、大学の人を、私そんなに知らないわ」
「そりゃそうだ。まだ入りたてだもんな」
「心配しててもしょうがないよ。僕らでどうできるって問題じゃない」
 と、良二が肩をすくめて言った。
「同感だな」
 和也は、自分の弁当を食べ終って、「そろそろ出かけよう。誰かがこの棟へ入って来たら、出られなくなっちまう」
「うん」
 三人は、通学(?)の支度をして、上げ戸を開き、下の様子をうかがった。
「——OK、行こう」
 と、良二が言った。
 ゆうべの通り、はしごは近くの階段の下へ押し込んでおき、三人は表に出て行った。
「講義が始まるまでには、まだ時間があるけど」
 と、和也が言った。
「大学の裏手の喫茶店へ行きましょ」
 と、知香が裏門の方へ足を向けながら、「新聞を見たいの。それにできたらTVのニュースも」
「何かあるのかい?」
「うん……。もうどうでもいいことなんだけどね、本当は」
 と、知香が首を振る。
「ああ、あの宍戸とかいう子分が言ってたね」
 と、良二は思い出して、「何とかいう奴《やつ》が攻撃して来るとかって——」
「笠間っていう男よ」
 と、知香は肯いて言った。「戦争になるかもしれないの」
 ——穏やかな春の朝だった。風もなく、きっと昼間は暖くなるだろうと思わせる。
「戦争? 君はどこかの王女なのか?」
 と、和也は訊いた。「ついでに泥棒もやってるとか」
「泥棒同士の戦争よ」
 と、知香は言った。「でも、人が死ぬのは同じだわ。撃ち合ったり、日本刀で切り込んだり。——馬鹿馬鹿しいでしょ? でも本当に攻めて来たら、戦うしかないのよ。一一〇番するってわけにもいかないんだし」
「そりゃそうだな」
 と、和也が感心している。
 三人は、大学の裏手にある、小さな喫茶店に入った。
 良二と知香はコーヒーだけだったが、既に弁当を二つ食べている和也が、モーニングセットを取ったので、二人は目を丸くした。
 この喫茶店は、まずここの大学生しか利用しないので、大学が休みの期間にはほとんど閉ってしまう。普段は、まだ時間が早いので空《す》いているが、十時ごろからは、夕方までほとんど常に満員。
 先生たちもよくここに入っているのは、教職員用駐車場が、裏門を入った所にあるためだ。
 学生も結構マイカーの通学が多くて、駐車場もかなり用意されている。——教職員の駐車場より、学生用駐車場の方に、ズラッとピカピカの新車が並んでいるのが現実であった……。
「——今日のところは何も起こってないみたいだわ」
 新聞を見終った知香が、ホッとした様子で言った。
 店の中には、三人以外には、やはり学生らしい三人組、そして、ちょっと変った女が一人、窓際の席に座っていた。
 どう見ても学生じゃない、と何気なく眺めて、良二は思った。年齢も、もう二七、八歳というところだろう。顔色が冴《さ》えなくて、ひどく疲れている様子だ。
 この暖い日なのに、黒のコートをはおって、店の中でも脱ごうとしない。
 知香が、化粧室へ立った。そして、少しして出て来ると、その女の席の近くを通って、窓から裏門を眺め、
「先生たちも、遅いのね。ほとんど来てないんじゃない?」
 と言いながら、席に戻ってきた。
「大体、出席をやかましく言うのに限って、自分も時間にだらしがないんだよな」
 と、和也が言っている間に、知香は何やら紙ナプキンにボールペンで走り書きして、良二と和也の方へ回して見せた。
〈窓際の女、刃物を持ってる!〉
 良二と和也は、顔を見合わせた。
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