キャンパスは深夜営業06

6 逃亡計画

 
「あれは、夢じゃなかったんだね」
 と良二は言った。
「ええ」
 知香は、良二にコーヒーを出しながら、「あなたを殺さなきゃって、ずいぶん古顔の子分に言われたわ。でも、できなかった」
 良二は、ソファに身を沈めて、部屋の中を見回した。
「いい……部屋だね」
「そう? 男の人を入れたの、初めてよ」
 と、知香は言った。「もちろん、宍戸とか主な子分はたまに来たけど。——もう今は来ないわ。ここに来るとやばいから」
「だけど、——それじゃ、小泉の奴《やつ》は、嘘《うそ》をついたのか」
「小泉君も脅したのよ。悪いと思ったけど、でも、そうしないと殺されるところだったんだもの」
「信じられないよ!」
 と、良二は、首を振って、言った。
「私だって」
 知香は肩をすくめて、「父が二年前に死ななかったら、私は今でも平凡な女子大生だったわ、きっと」
「君が大勢子分を従えてるの?」
「大勢といっても、そんなにいないわ。父が死んで、抜けた人も沢山いるし。やっぱり一八歳の女の子じゃ、信用できないっていってね」
「なるほどね」
「でも、そんなにゾロゾロ引き連れて泥棒に行くわけじゃないもの」
 そりゃそうだろう。遠足じゃないのだから。
「大きな仕事でない限り、直接は手を出さないわ。この間は、ちょっと大仕事だったの」
「そう……」
「本当に——申し訳ないと思ってるわ」
「いや、僕のことなんか、構わないよ。でも——僕は君が手錠をかけられるのを見たくない」
 良二は、やっと言葉が出て来るようになった。
「今からでも、何とか足を洗えないのかい?」
 知香は、微《ほほ》笑《え》んだ。その笑顔は、良二が今までに見たことのない、優しい、嬉《うれ》しそうな笑顔だった。
「優しいのね! 私のこと、心配してくれるの」
「そりゃあ、好きだからね、君が」
「私もよ」
 と、知香は言うと、ソファから立ち上った。
 そして良二の方に手をのばすと、
「来て」
 と、言った。
「どこへ?」
「来て」
 知香はくり返した。
 良二が彼女の手を軽く握ると、居間から奥のドアへと導かれて行く。そこは寝室だった。
 カーテンが引いてあって、薄暗い。セミダブルぐらいのベッドが、きちんと整えられていた。
 知香は、ベッドの向う側へ回ると、
「今朝、ちゃんとこうしておいたの」
 と、言った。「いつもは、飛び出して来ちゃうから、こんなにきれいじゃないのよ」
「ねえ——」
「黙って」
 と、知香が遮《さえぎ》る。「もう、口をきかないで。その必要、ないわ」
 確かに、その必要はなかった。知香が、黙って服を脱いで行く。——それには、何の説明もいらなかった……。
 
 知香が、そっとベッドから出たのを、良二は気付いていた。
 疲れて、眠りかけていたのだが、毛布が動いて、目が覚めたのである。しかし、眠っているようなふりをして、薄く目を開けていた。
 知香は、絹のガウンをはおって腰にキュッと紐《ひも》をゆわくと、鏡台の方へと歩いて行った。
 良二は、不思議な気分だった。——幸せか?
 もちろん幸せだった。
 ただ、何だかこれが現実のことと思えないのだ。すばらしい体験だった……のだろうが、何もかもが、光のもやに包まれているみたいで……。
 何をしてるんだろう?
 薄く目を開けて見ていると、知香は、鏡台の前にじっと座って身じろぎもしない。そして、鏡台の引出しを開けると、ドライヤーを取り出した。いや——ドライヤーじゃない。拳銃だ!
 知香は、拳《けん》銃《じゆう》を手に立ち上ると、ゆっくりとベッドの方へ近寄って来た。殺す気かな?
 知香が、ベッドの二、三歩手前で足を止める。——良二は、銃口が真直ぐ自分の頭へと向けられるのを見た。
 何を言う気にも、する気にもなれなかったのは、やっぱり、これが現実だと思えない気持が、半分はあったせいだろう。
 知香は、キュッと唇をかみしめて、引金にかけた指に力を入れようとしていた。——撃たれる!
 しかし——銃声はしなかった。
 どれくらいの間、そうしていただろうか。知香は、拳銃を持つ手を、静かに下げた。
 息を大きく吐き出す。体の緊張が、一度に解けたようだった。
 殺すのはやめたのかな?
 知香は、しばらくその場に立ったまま、動かなかったが、やがて、手の拳銃を見下ろすと、クルッと振り向いて、寝室に付属しているシャワールームに入って行った。
 やれやれ……。助かった。
 良二も、ホッと息をつく。
 助かった、か……。良二は、シャワールームのドアが閉まる音を聞いた。
 良二は、ベッドに起き上った。——彼女は? シャワールームで、何してるんだ?
 突然、良二には分った。
「やめろ!」
 と、叫ぶと同時にベッドを飛び出していた。
 シャワールームのドアを開けると、知香がびっくりして振り向く。
 知香は、自分の胸に、銃口を当てて、引金を引こうとしているところだった。
「やめろよ!」
 と、良二は言った。「どうしてもどっちかが死ななきゃいけないのなら、僕を撃てよ!」
「良二君……」
「君を代りに死なせるなんて……。一生悔《くや》むことになる。そんなこと、僕にさせないでくれよ」
 これは、良二の生涯でも、「名言集」の筆頭に入るべき文句だった。
「良二君!」
 知香がワッと抱きついて来る。良二はひしと知香を抱きしめた——だけで終れば良かったのだが、良二はあまり体重のある方ではなかったので、抱きつかれて、仰《あお》向《む》けに引っくり返った。
 ゴン、と鈍《にぶ》い音がして、良二は後頭部をシャワールームの床のタイルに打ちつけ、気を失ってしまったのだった……。
 
「——気分は?」
 と、知香が訊《き》いた。
「天国にいるみたいだ」
 と、良二は言った。「ちょっとした頭痛を除けば、ね」
「うんと食べてね」
 夕食の支度ができていた。——知香の手料理である。少々の頭痛ぐらいで文句言ってられるもんか。
「——旨《うま》いよ、凄《すご》く」
 と、良二は言った。
「そう? 嬉しいわ」
 知香と良二は、今はちゃんと服を着ていた。
 何といっても、良二の方はシャワールームで気絶した時、パンツもはいていなかったのだ。知香が、かなり苦労して、パンツとシャツをつけさせたのである。
「——これから、どうするかが問題ね」
 と、知香は、食べながら言った。
「君が泥棒を続けるのなら、僕も仲間に入ろうか」
 と、良二は真《ま》面《じ》目《め》に言った。「でも、不器用だから、却《かえ》ってすぐ捕まっちゃうかもしれない」
「良二君をこの仕事に引きずりこんだりはしないわよ」
 と、知香は言った。「でも——私があなたを殺さなかったと分ったら、きっと他の子分たちが、あなたを殺しに行くわね」
「他の?」
「宍戸とか、何人かの、父が昔から可《か》愛《わい》がってた子分は、私のこと信じてくれてるし、だからこの間は、あなたのことも助けられたのよ」
「じゃ、他の子分は、どうしても僕を殺せ、と……」
「そうなの。そうしないと、組織がバラバラになりそうで、仕方なく、私も承知したのよ」
「そうか。困ったね」
「でも、もうふっ切れたの。大丈夫」
 と、知香は首を振って、「あなたが死んだら、私も一緒よ。愛してるんだもん」
 良二は感激した。「死ぬほど愛してる」なんて文句は、珍しくもないが、この場合は極めて「リアルな言葉」なのである。
「どうしたらいいんだろう?」
「逃げるのよ」
 と、知香は言った。「二人で身を隠すの」
「でも……どこに?」
「どこか、遠くね。でも——私自身が手もとに持ってるお金なんて、大したことないし」
 と、知香は考え込んだ。
「逃亡生活ってのも、楽じゃないだろうな」
「あなたにとっては、苦労をしょいこむようなもんね」
「君と一緒なら楽しいさ。ただ、現実的に考えると、ここや僕のマンションはだめだ」
「そう。——東京ってのは人が多いから、隠れるには便利だけど、でも、お金を稼ぐのがねえ……」
「大学にも行けなくなるか。——親《おや》父《じ》が嘆くだろうな」
「仕送りはあるの?」
「うん。バイトもしてるけどね。でも、仕送りだって、行方不明になったらストップだ。——二人で暮すとなると、食費だけでも結構かかるだろうね。学食みたいに安い所は、どこ捜したって……。どうかしたのかい?」
 知香が大きく目を見開いて、
「大学よ!」
 と、声を上げた。
「大学がどうかした?」
「大学の中に、隠れるのよ!」
「何だって?」
「あの広さ、それに食事もできるし。ね、どう、このアイデア?」
 良二は呆《あつ》気《け》に取られて、
「うん……。しかし、そんなことができるかな?」
「やってみましょう! 荷物をまとめて、毛布とか、最小限、必要な物を持って」
「大学に居候か」
「いい場所がないか、捜してみるわ。たとえ誰かが捜しに来ても、あのキャンパスの中を全部調べて回るのは、容易じゃないわよ」
「なるほど。——よし、やろう!」
 良二と知香は、固く手を取り合ったのだった……。
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