キャンパスは深夜営業12

12 良二の人助け

 
 知香がドアをノックしようとした時、
「約束が違うじゃないの!」
 と、甲《かん》高《だか》い女の声が、ドア越しに研究室の中から聞こえて来た。
 知香は手を止めて、良二の方を振り向く。——もちろん、安部助教授の研究室へやって来たところなのだ。
「はっきりしてよ! 一体あなたはどっちの味方なの!」
 女の声は甲高いから、ドアを通して聞こえて来るが、相手の声は一《いつ》向《こう》に聞こえない。
「どうする?」
 と、良二が囁《ささや》いた。
「もちろん」
 と、知香が肯《うなず》く。「立ち聞きするのよ」
 しかし、それ以上は、話も洩《も》れては来なかった。
「——出て来るとまずいわ」
 知香は、良二を促して、廊下の曲り角まで戻った。
 ドアが、ちょうど開いて、女が出て来た。
「あれかな……」
「たぶんね」
 小西紀子の言った、平田千代子だろう。二八歳といっても、見た目はもっと若い。小柄なせいもあるが、大体少し童顔なのである。
 それでも、夫との年齢のバランスを一応考えているのか、服装は、至って地味なスーツ姿だった。
 その女性が、出口への階段を下りて行ってしまうと、知香は、
「ね、良二」
 と、つついた。
「何だよ」
「あの女《ひと》の後を尾《つ》けて」
「尾行するのかい? どうして?」
「どうしてでもいいから。早く!」
「分ったよ」
 何だかよく分らなかったが、良二は言われた通りに、急いで階段を下りて行った。
 知香は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いしてから、安部の研究室のドアをノックした。
「どうぞ」
 という返事に、ドアを開けると、安部がにこやかに、
「やあ、すまないね。入ってくれ」
「何ですか、ご用って?」
 知香も精一杯、「可《か》愛《わい》い女子大生」の顔をして見せる。
「うん。君、アルバイトをやる気はないかい?」
「どんなアルバイトかによりますけど」
「そりゃ当然だな——実はね、今度の学部長選挙のことなんだよ。知ってるかい?」
 知香は何くわぬ顔で、
「そんなものがあるってことは知ってますけど」
「それなら大したもんだ」
 と、安部は笑って言った。「僕は忙しくてね、充分に手伝いもできない。君に、ぜひ事務的なことを手伝ってほしいんだよ」
「大したこと、できませんけど」
「英文タイプができたね、君?」
「一応は」
「じゃ、充分さ。そんなに時間は取らせないよ」
「講義が終ってからでいいんですか?」
「もちろんさ。さぼってやれなんて、僕の口からは言えない。もっとも——」
 と、安部はニヤリと笑って、「僕の講義を君が自主的に休んで、そのアルバイトに精を出しても、僕は欠席とはしない」
「話が分るんですね」
 と、知香は持ち上げた。「で、先生、誰の応援をなさるんですか?」
「もちろん金山先生さ。僕にとっては恩師だからね」
「分りました」
「ただね……」
 と、安部は顔をしかめると、「君、今、ここへ上って来る時、女の人とすれ違わなかった?」
 知香は、ちょっと考えて見せ、
「ええ。誰だか知りませんけど、二四、五ぐらいの——」
「二八だ。金山先生と争ってる平田先生の奥さんなんだよ」
「へえ! 若いですね!」
「僕の教え子でね、彼女。僕にご主人の応援をしてくれと頼みに来た。困ったもんだよ」
 どうして、訊かれもしないのに、こんなことを話すんだろう? 知香は、奇妙な印象を受けた。
「じゃ、お断りになったんですね」
「そうするしかないからね」
 と、安部は肩をすくめた。「——じゃ、具体的な仕事の内容を説明しよう」
 
「あっ!」
 と声を上げて、急にその女性はよろけた。
 尾行していた良二は、ちょっと、どうしたものかと迷ったが、そばには人もいない。
 裏手の、駐車場への道の途中だから、あまり学生も通らないのだ。だから、良二も用心して、少し距離を取って歩いていたのだった。
 どうやら、足をねじって、足首を痛めたらしい。放っておくわけにもいかず、良二は、足を早めて彼女に追いつくと、
「大丈夫ですか?」
 と、声をかけた。
「あ、悪いけど……。ちょっと手を貸して下さる? ——痛い!」
 と、顔をしかめる。
「捻《ねん》挫《ざ》じゃありませんか? 保健室へ行った方が——」
「いいえ、大丈夫。車が駐車場に……。痛い……」
 と、良二の肩につかまって歩き出したものの、かなり痛むようだ。
「やっぱり手当した方がいいですよ」
「そうね。じゃ、悪いけど、保健室まで……」
「すぐそこですから。おぶってあげましょうか」
「でも——」
「大丈夫ですよ。ほら、どうぞ」
「ありがとう……」
 小柄なので、おぶってもそう重くはない。
 良二は、誰にも見られないといいな、と思いながら、保健室の方へ歩き出した。
「あ、その入口から入った方が近いわ」
「そうですね。——よく知ってますね」
「ここの卒業生だもの」
「そうですか」
「あなた、何年生?」
「一年です」
「一年か。——一八?」
「一九です」
「一九。いいなあ、若くて」
 良二は笑って、
「まだ若いでしょ」
「私? ——私はもうおばあさん」
 と、いやに寂しげな調子で言った。
 保健室へ運んで行って、そこの女医に任せると、
「あら、平田先生の奥さん」
 やっぱりこれが平田千代子か。知香の勘は当ったわけだ、と良二は思った。
「じゃ、これで——」
 と、良二は出て行こうとした。
 あんまりここでぐずぐずしているのも妙なものだ。
「あ、待って」
 と、平田千代子が言った。「あなた、名前は?」
「久保山です。久保山良二」
「久保山君ね……。どうも親切にありがとう」
「いいえ」
 良二は保健室を出た。
 やれやれ。——あれが安部の恋人?
 あんな奴のどこがいいんだ、と良二は首をかしげたのだった。もちろん安部のことである。
 平田千代子は、確かに、ちょっと男心をときめかせるような魅力を持っている。もちろん、知香とは比べものにはならないが。
 しかし、二〇歳以上も年上の平田教授と結婚し、安部とも関係を続けているなんて……。どうなってるんだ?
「——ちょっと」
 と、少し歩いたところで呼び止められた。
 保健室の女医が、追いかけて来ている。
「何ですか?」
「ね、あなた悪いけど、今の人、送ってあげてくれない?」
「僕が?」
「平田教授の奥さんよ、若いけど」
「そりゃまあ……。でも、ちょっと用事が……。それに、車があるって」
「あの足じゃ、運転できないわよ。平田先生、今日は学会でいないし。自宅まで送ってあげてよ。私、あそこを空けられないの」
「はあ……」
「いいでしょ? タクシーを呼んで。平田先生、次の学部長かもしれないから、親切にしとくと、いいことあるわよ」
 そんなの関係ないや、と良二は思ったが、しかし、成り行き上、断るわけにもいかなくなってしまった……。
 
「——悪かったわね」
 と、タクシーの中で、平田千代子は言った。
「いいえ、別に……」
 と、良二は、ややそっけなく答えた。
「急ぎの用事があったんでしょ?」
「できたらですけど……。クラブの用で。でもすぐ戻れば大丈夫です」
「このタクシーで戻って。料金は払っておくから」
 それぐらいはしてもらっていいかな、と良二は思った。
 ただ——この女性を尾行して、という知香の注文に、これで応じたことになってるんだろうか?
「私のこと、聞いた?」
「え?」
「平田教授の妻。——妙な気分よ」
 と、千代子は窓の外へ目をやって、「大学院には、学生のころの知ってる人も残ってるわ。それでいて、私は教授夫人」
「平田先生には、ならってないんです」
 と、良二は言った。「安部先生ですから、西洋史は」
「安部先生?」
 千代子は、ちょっとドキッとしたように、良二を見た。「そう。——私も、あの先生のゼミにいたことあるわ」
 タクシーは、やがて、広い邸宅の前に停った。
「凄《すご》い家だな」
 と、思わず呟《つぶや》く。
「古いだけよ」
 と、千代子は言った。「悪いけど、家まで支えて行ってくれる?」
「ええ、もちろん」
 タクシーは門の前で待たせておいて、良二は、千代子に肩を貸して、屋敷の玄関へとゆっくり歩いて行った。
「——奥様、どうなさいました」
 玄関の戸が開いて、初老の和服の女性が、急いで出て来る。
「捻挫したらしいの。この学生さんに、助けていただいて」
「まあ、それはどうも。じゃ、床をお敷きしましょう」
「ええ。——久保山君だったわね」
「はあ」
「ちょっと上って。せめてお茶一杯でも」
「いえ、僕、もう失礼しないと……」
「そう」
 千代子の顔に、はっきり落胆の表情が浮かんだ。
 ——大学へ戻るタクシーの中で、良二は、平田千代子の、あの表情は、どういうことだろうと考えていた。
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