インペリアル22

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  22 失《しつ》踪《そう》

 
「由利!」
 
 懐しい声が飛んで来た。
 
「千《ち》加《か》子《こ》!」
 
 かつての同僚と、TV局の廊下で会うというのは、予想もしていないことだった。
 
 沢《さわ》田《だ》千加子は、垢《あか》抜《ぬ》けしたブレザー姿だった。
 
「千加子、どうしたの、その格好?」
 
「私、この局に勤めてるんだ」
 
「え? じゃ——」
 
「辞めたの、あそこ。あんまり陰気くさくってさ。忙しいでしょ」
 
「そうね。でも——今は待ち時間」
 
「じゃ、喫茶に行こう!」
 
 もちろん、由利も拒むわけがない。
 
 昼下り、TV局はやっと活気を呈してくる時刻である。
 
「食券、私が買う」
 
 と、千加子が言った。「社員用のカードがあるから」
 
 二人は奥の少し静かな席についた。
 
「——あの課長、憶えてるでしょ?」
 
「三《み》浦《うら》さん?」
 
「そう。TVで由利のコマーシャルが流れ出すと、ひどいの。昼休みとか宴会とかで由利の悪口ばっかり。由利、すっかり『体を武器にタレントになった女』にされてるわよ」
 
 由利は苦笑した。
 
「放っとくしかないわ。面白くないんでしょ。自分以外の人間の幸運はね。でも、私は特別幸運とも思ってないけど」
 
「でも、すてきよ、あのCF! 私、その三浦課長のこともあって、頭に来て辞めちゃった。ちょうど、叔《お》父《じ》がこの局にいてね」
 
 コネの多い子なのである。「今日は何の仕事?」
 
「スタジオでインタビュー。ピアノも何か弾かなきゃいけないの」
 
 由利はため息をついて、「早く忘れられないかしら」
 
 と、言いつつ、紅茶を飲んだ。
 
「変ってるわねえ。もう『有名人』よ、由利。うちの局でも、知らない人はいないわ」
 
「そうでしょうね。ともかく、ドラマに出てくれ、とまで言われたわ。セリフ一つ、学芸会でだって、言ったことないのに」
 
「いいじゃないの」
 
「人のことだと思って、気楽に言わないでよ」
 
 と、由利は顔をしかめた。
 
 ——TVで放映された、あの「白いピアノとキタキツネ」のCFは、大反響を呼んだ。それは同時に、
 
「ピアノを弾いてる子は誰だ!」
 
 という問い合せとなって、スポンサーや、佐田のもとへ殺到したのだ。
 
 あの中山部長や佐田は得意満面だが、由利にとっては命の縮む思いだった。
 
 中山との約束もあって、何から何まで、いやだとは言えない。どうしても出たくないものは、中山に頼んで断っているが、今日のように、断り切れないTVの出演や雑誌、新聞などのインタビューが、毎日のようにある。
 
 由利は、世の中に雑誌がこれほど溢れ出ているのだと初めて知った。
 
「——そうだ」
 
 専ら、TV局の「内幕話」を聞かせてくれていた千加子が、ふと思い出した様子で、「由利、工《く》藤《どう》さんのこと、知ってる?」
 
「え?」
 
 由利はドキッとした。佐田との付合いは続いていた。工藤とは連絡も取っていない。
 
「知らないわ。どうかしたの?」
 
「工藤さんとはお付合いしてたんでしょ?」
 
「少しね。でも……今は全然」
 
「そう。工藤さんね、クビになったのよ」
 
「どうして?」
 
 由利はびっくりした。工藤は、よく仕事をする男だった。よそから来てくれと言われていたはずだが。
 
「三浦課長がね、酔って、しつこく絡んだの。由利に振られたのか、って。で、我慢できなくなったんでしょうね。ポカッて」
 
「殴ったの?」
 
「当然だよ、あんな奴」
 
 と、千加子は肯いた。
 
 では、工藤は、話していた友だちの所へ行ったのだろう。——寂しい気もしたが、それは身勝手というものだ。正直、ホッとしてもいたのである。
 
「やあ、ここにいたのか」
 
 と、声がした。
 
 佐田がやって来る。思いがけないことで、由利は戸惑った。
 
「佐田さん。——どうしたの?」
 
「打ち合せでね」
 
 と、佐田はさっさと同じテーブルについて、
 
「君が来てる、って聞いたから」
 
 千加子がポカンとしている、由利が紹介すると、千加子は、目を丸くした。
 
「あの佐田さん? びっくりした!」
 
「じゃ、千加子、またね。ここにいるなら、また会えるね」
 
 千加子は、敏感に佐田と由利の間を察したらしい。
 
「じゃ、また」
 
 と手を振って、出て行った。
 
「——可愛い子だ」
 
 と、佐田がごく自然に言う。
 
 そう言って、由利が不安になるとは考えないのである。——もちろん、由利もそんなことは言わない。
 
 しかし、佐田の頭には、この局の「沢田千加子」という名がしっかりおさめられているだろう。ふと、胸が小さく痛んだ。
 
「そうだ」
 
 と、佐田は言った。「いつか話してたリサイタル、あれはあさってだろ?」
 
「え?——ああ、姉の? ええ、もう受験生の追い込みよ」
 
 と、由利は言って笑った。「それがどうかしたの?」
 
「いや、僕もうっかり忘れててさ。だめだな、そんな大事なことを」
 
「何か仕事? でも、あれは出ないわけにはいかないの」
 
「分ってる。そうじゃないんだ」
 
 と、佐田が口を開きかけたとき、
 
「松原由利さん。お電話です」
 
 と、呼ぶ声がした。
 
「私? 何だろ。——待ってね」
 
 由利は急いで立って行った。
 
「——はい、松原です」
 
「由利さん? 良かった! 佐竹弓子ですけど」
 
「あ、どうも」
 
 何だろう? 姉がどうかしたのだろうか。
 
「実はね、今日ホールの上司から呼ばれて、あさっての、そのみさんのリサイタルに、あなたの名前も入れろって。ジョイント・リサイタルにして、あなたのソロも入れてくれないか、って言われたの」
 
「何ですって?」
 
 由利は唖《あ》然《ぜん》とした。「あれは姉のリサイタルですよ」
 
「分ってるわ。でも、そういう形にしてほしいってスポンサーが——。うちのホールに、TV局のお金が入ってること、知ってるでしょ?」
 
「ええ……」
 
 由利には分って来た。同時に、顔から血の気がひいて来る。
 
「それで困っちゃって。由利さんを捜してたの」
 
「でも、チケットは売れちゃってるんですよ。今さらそんなこと——」
 
「私もそう言ったわ。でも、そのみさんの弾くのを減らさなければいいだろうって」
 
「そんな……」
 
 由利は、ため息をついた。「まさか、その話、姉には?」
 
「もちろん話してないわ」
 
「良かった。言わないで下さい。私が何とかして止めます。絶対に姉には黙っていて」
 
「分ったわ。お願い」
 
「ええ。また連絡します」
 
 由利は、電話を切った。
 
 そうか。——そうなのか。
 
 席へ戻る由利の表情は厳しかった。
 
「僕も話があるんだ」
 
 と、佐田は言った。「簡単に言うけど、あさってのリサイタルをね——」
 
「やめて」
 
 と、由利は言った。
 
「え?」
 
「今、聞いたわ。私の名前を大きく出せって。あなたのアイデア?」
 
「いや、局の人間が飛びついて来てね。ちょうど今注目されてる君のリサイタルだ。もちろんメインは姉さんでも、君が出るとなれば、話題になる。それにね、君がTVでピアノを弾いても、『果して本当に弾いてるのか』って思ってる人間が多いんだよ。本当の君の腕前を知らせる絶好の機会だ。そうだろ? TV中継ってわけにはいかないが、当日の朝から始めて、リハーサル、本番と、ずっと取材して、後でビデオでまとめる。絶対に話題になるし、君の姉さんにとっても、損な話じゃないよ」
 
 損な話じゃない、か。——損か得か、それしかこの人たちの判断の基準はないのだろうか。
 
 由利の胸の中に、冷たい風が吹き抜けて行った。
 
「聞いて」
 
 と、由利は言った。「ジョイント・リサイタルなんて、どっちも同じくらいの力のある人同士がやるものよ。私と姉じゃ、天と地ほども差があるの。そんなの不可能だわ」
 
「何言ってるんだ。人気だよ、人気! 今は君の方がずっと人に知られてる。客だって姉さんの何倍も集められる。人気のある人間が表に立つのは、どの世界も同じさ」
 
 佐田は気楽な口調で言って、「じゃ、もう行かないと。——その話はまた今夜ゆっくりしよう」
 
 佐田はウインクして見せると、席を立った。
 
「どうしてもやるのなら」
 
 と、由利は大声で言った。「私、リサイタルに行かないわよ」
 
 佐田は、顔をしかめた。
 
「何言ってるんだ? 子供じゃあるまいし。もう話は進んでる。今さらやめるわけにいかないんだよ」
 
「今さら? 私に一言も言わずに、進める方がおかしくないの?」
 
 由利は立ち上った。「そんなことをして、姉のプライドがどれだけ傷つくか、分らないの?」
 
「そんなこと心配いらないよ。君の姉さんだって、『どうぞ』と言ってくれたんだ」
 
 ——由利は、佐田の言葉を分りたくなかった。しかし、その意味は、はっきりしている。
 
「姉に……話したの?」
 
「ああ」
 
 と、佐田は肩をすくめて、「さっき電話でね。説明すると、『ああそうですか』って。向うはそんなに気にしちゃいないのさ」
 
「私が承知してるのか、訊いたでしょう」
 
 佐田が詰った。
 
「——うん。だから……もちろん承知してますって……。いいじゃないか、ちゃんとギャラも出す。姉さんの分を君の倍にしよう。それでいいだろ? 困らせないでくれよ、そんなに?」
 
 佐田はもう、由利の前で創造の火を燃やしつづける男ではなかった。すべてがソロバン勘定で決って行く、つまらないレジスターにすぎなかった。
 
「何てことしてくれたの」
 
 と、由利は言った。「もう二度と私の前に現われないで」
 
「何だって?——おい! つけ上るなよ、君は俺《おれ》がスターにしたんだ!」
 
 佐田が興奮するほど、由利は冷め、落ちついて来る。今はともかく、一刻も早く、姉の所へ行かねばならない。
 
「じゃあ、いつでも『スター』はあなたにお返しするわ。ついでに、あなたを山口真理さんにね」
 
 と言うと、由利は駆け出した。
 
 喫茶の客たちが、興味津《しん》々《しん》という様子で、その光景を見守っているのだった。
 
 
 
 そっと病室のドアを開ける。
 
「——由利?」
 
 暗いベッドから、母の声がした。
 
「お母さん……。起きてたの?」
 
 もう夜中だ。由利は、静かにドアを閉めると、暗いまま、ベッドのそばへ行った。
 
「お姉さん、来なかった?」
 
 と、由利は言った。
 
「そのみ? いいえ」
 
「そう……」
 
 由利は両手で顔を覆った。「どうしよう……」
 
「何があったの」
 
「いなくなっちゃった。——リサイタル、あさってなのに。私のせいなの」
 
 多美子が、そっと手を伸ばして、
 
「泣いてちゃ分らないわ。どういうことなの?」
 
 と言った。
 
 由利は、TVのCFのことから始めて、佐田のことも隠さずに話した。
 
「——急いでお姉さんのマンションへ行ったけど、いなかった。あちこち、音大時代の友だちとか、今井君の所とか、電話してみたけど……」
 
「むだよ。そんなとき、友だちの所に行ってグチをこぼすそのみじゃない」
 
「そうね……。私のこと、怒ってるわ」
 
 由利は手の甲で涙を拭《ぬぐ》った。
 
「あんたのTVは見たわ」
 
 母の言葉に、由利はギクリとした。
 
「何も言わなかったじゃない」
 
「そうよ。批評するレベルじゃないからね。でも、ああいうものがあってもいい。——そう思うようになって来たの」
 
 と、多美子は言って、息をついた。「キツネは可愛かったわよ」
 
「私は?」
 
「まあまあね」
 
 由利は泣き笑いの顔で、
 
「ひどいなあ。——あんなもの、出るんじゃなかった」
 
「すんだことは仕方ないわ」
 
「うん……。でも、どうしよう? あさってのこと。お姉さん、きっと戻らないわ」
 
「さあね。——あんたは、予定通りに準備していなさい。今になって中止ってわけにはいかないよ。急病でもなければね」
 
「そうね。もし当日——」
 
「そのとき心配すればいいわ」
 
 母の手が、いつになくやさしく、由利の手に重なって、手の甲の涙を、かわかして行った。
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