キャンパスは深夜営業02

2 真夜中の恋人

 
「恋におちるのに、大して時間は必要ないんだな……」
 と、良二は呟《つぶや》くように言った。
「何だって?」
 面食らって、危うくメガネがずり落ちそうになったのは、良二の親友——というより悪友か——で、高校時代からずっと一緒の小《こ》泉《いずみ》和《かず》也《や》である。
「お前、突然変なこと言い出すなよな」
 と、小泉和也は呆れ顔で、「お前に詩人は似合わないぜ」
「冗談じゃないよ。本気だ」
 良二は、ゴロリとベッドの上に寝転んだ。
 ここは良二のアパート。——いや、一応は狭いながらも、マンションという名がついている。
 次男坊で、高校入学の時、独りで上京して来た良二のために、両親がここを借りてくれた。一人住いなので、和也のように親の家から通っている男は、気楽に年中ここでゴロゴロしているのである。
「何だよ、例の『馬鹿林』か?」
「若《わか》林《ばやし》だ! 若林知《ち》香《か》。——しょうがねえだろ、好きになっちまったんだから」
「そりゃ、個人の自由ですがね」
 見たところ秀才タイプの小泉和也。ヒョロリと背の高い良二とは反対に、和也は、昔から小柄で丸っこい体つきだ。顔も丸くて、かつ丸ぶちのメガネをかけているので、ますます丸い印象を与える。
「で、何を悩んでんだ? 彼女が鼻も引っかけてくれないのか?」
 と、和也が訊《き》く。
「いや、必ず週末には会ってる」
「じゃ、彼女の両親が猛反対?」
「両親いないみたい」
「いつも、いざ、ってところで逃げられる」
「いざ、ってほど、切《せつ》羽《ぱ》詰った仲じゃないよ。こっちもそこまでする気ないし」
「ふーん。じゃ、何を悩んでるんだ?」
「うん……」
 良二は、何となくはっきりしない。
「お前は、そういう優《ゆう》柔《じゆう》不《ふ》断《だん》なところが良くない」
「しょうがないよ。性格ってもんだ」
「何を悩んでるんだ?」
「うん……」
 良二は、ぼんやりと天井を見上げながら、「あの子なあ……。どうも、よく分らないところがあるんだ」
「女なんて、みんなそうだよ」
 と、和也が、分ったようなことを言った。
「いや、そういう意味じゃなくってさ」
「じゃ、何だ?」
「どうも、他に誰か付合ってる男がいるんじゃないか、って……」
「へえ」
 和也が、メガネを直して、「要するに、振られるのが心配なわけか」
「そうじゃない。——いや、別に、僕だって彼女を独り占めにできるとは思ってないさ。まだ大学一年生だ。色々と付合ったって当り前だと思う」
「じゃ、いいじゃないか」
「ただなあ……。毎晩、彼女が家にいない、となると——」
「毎晩?」
「うん。彼女、ここよりはもうちょっと本格的なマンションに、独りで住んでるらしいんだ」
 ——らしい、というのは、いつもデートの帰り、若林知香を送って、そのマンションの前までは行くが、中へ入ったことはないからである。
 知香は、会っていて疲れるところのない子だった。のんびりしていて、良二が気をつけてやらないと、一回のデートで、必ず二度はバッグをどこかへ置き忘れそうになる。
 妙に気取ってもいないし、といって、ベタベタくっつくわけでもない。
 会っていれば楽しく話も弾《はず》むし、まだ「恋人」というところまでいっていなくても、良二としては今の関係で充分満足だった。
 だから、いつも、マンションの前で、
「じゃ、また」
 と、爽《さわ》やかに別れる。
 だが、その夜は、別れて歩き出してから、良二は知香に、貸してくれと頼まれていた本を、渡さずに別れてしまったのを思い出したのである。
 この週末に読むの。——そう言っていたのに、当人もうっかり忘れていたのだ。
 良二は、迷ったが、戻って本を渡そうと決めた。別に部屋へ上る必要はない。何なら、マンションのロビーへ下りて来てもらえばいいのだから。
 良二は、彼女のマンションへ戻ると、一階の、インターホンのボタンを押した。——一応、インターロックシステムになっていて、中でロックを解除しないと、ロビーから奥へは入れないのである。
 知香の部屋は、六〇一。——ボタンを押してしばらく待ってみたが、一《いつ》向《こう》に返事はない。
 帰ったばかりで、シャワーでも浴びてるのかな……。
 少し待って、またボタンを押してみた。
 結局、二十分近くも、それをくり返し、良二は彼女が部屋にいないと結論しないわけにはいかなくなったのである……。
「——電話もかけてみたよ」
 と、良二は言った。「でも、誰も出ないんだ」
「ふーん」
 和也は、肯《うなず》いて、「それで悩んでいるのか」
「それから、僕は彼女を送って行ってから、少しして電話をかける、というのを三回くり返したんだ。——彼女が部屋にいたのは、一度だけだった」
「なるほどな」
「気安く言うなよ。——彼女、一体どこへ行ってるんだろう?」
「俺《おれ》が知るか」
「どうしたらいいかな。正面切って訊いてみるのも何だか……」
「ふむ」
 和也は、腕組みをして、「そんなに気になるのか」
「気になる」
「今度の週末は?」
「うん、映画」
「じゃ、帰りは送って行くんだな」
「そうなるだろうな」
「じゃ、簡単だ」
 と、和也は言った。
 
「じゃ、またね」
 と、知香が手を上げて、マンションの中へ入って行く。
 良二は、知香が自分のキーでインターロックを開け、中へ入って行くのを、マンションの表から見送って——これがいつものパターンだった——それから、歩き出した。
「おい、良二。——良二」
 暗がりから、声がする。
「和也か?」
「こっちだ!」
 和也が手招きする方へ、良二は急いだ。
「どこに——」
「裏だよ、裏!」
 細いビルの隙《すき》間《ま》を抜けて、二人はマンションの裏手に出た。
 いささかパッとしない軽乗用車が置いてある。
「借りて来たんだ。乗れよ」
「お前、いつの間に免許取ったんだ?」
 と、良二はびっくりして訊いた。
「安心しろ。もう十日も前だ」
 ともかく——しょうがない。
 良二はまだ免許を持っていない。ここは和也の腕を信頼するしかないのである。
「——あの車、見ろよ」
 と、和也が言った。
 二人の乗った車も、マンションの裏口から少し離れて停《と》めてあったが、そのワゴン車は、いかにも、ものかげに身を潜《ひそ》める、という様子で、目が暗いところに慣れて来ないと、気付かないくらいだった。
「あの車が……?」
「中年の男が運転してる。二十分くらい前に来て、ずっとあそこにいるんだ」
「そいつも車の中に?」
「うん。もしかすると、あれが例の彼女を待ってるのかもしれないぜ」
「そうかなあ……」
 でも、中年男と深夜のデート、というには、あの黒塗りのワゴン車ってのは、何だか——。
「どんな男?」
「よく見えなかったけど、ちょっとこう——髪が白くなりかけてて、いかにも渋めだったぜ」
 良二は内心穏《おだ》やかでない。
「でも、彼女、年上が好みなんて、言ったことないけど……」
「しっ!」
 ——誰かが、マンションの裏口から出て来た。
「違うな」
 と、和也が言った。「彼女じゃない」
「うん……。いや——知香だ!」
 良二は、目をみはった。
 あれが知香?
 ほんの十分ほどの間に、知香は、まるで別の女になっていた。
 歩き方も、いつもののんびりした気まぐれなものでなく、きびきびと、まるで運動選手のようだし、それに——黒のジャンパー、黒のジーパン。まるで、オートバイにでも乗ろうか、というスタイル。
 いつも肩に長く垂らしている髪も、後ろに短くまとめている。
「どこに行くんだろ?」
「知らないよ」
 と、良二は言った。
「少なくとも、中年男とデートって格好じゃないな」
 と、和也は言った。
 知香が歩いて行くと、例のワゴン車から、中年男が出て来て、ワゴン車の後ろの扉を開けた。知香の姿が中へ消える。
「——行くぞ」
 和也がエンジンをかける。
 ワゴン車が走り出すと、少し間を置いて、良二たちの車はそれを尾行して行ったのだった……。
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