800-06

 6

 
 腕時計のモードはストップ・ウォッチにしていた。
 針が2分に近づくと苦しくなる。ぼくの八〇〇メートルのタイムを超えた。ソファの上でうつぶせになってこらえる。胃がびくんびくんと上下する気がする。
 激しく息を吐き、次に思いっきり吸い込んだ。
 右手で瞬間的に握りしめた腕時計は、2分28秒だった。
 まずまず、といったところ。
「お兄ちゃん、また、やってるの?」
 妹は、スリッパをパタパタさせると、木の床の上にぼくがほうっておいた新聞をひっくりかえしてテレビ欄を見る。ピンクのマニキュアの手を床につく。
「新記録は出たの?」
 かがみこんだ妹の短いスカートから、同じようなピンクのパンティが見えてしまい、ぼくは目をそらす。
「だめだった」
 妹は振り向くと、仰向《あおむ》けになっていたぼくの頬にキスし、
「九時から二時間。6チャンネルね、お願い」
 と言うと出て行ってしまった。
 しかたがないので、ぼくはビデオの予約をはじめる。新記録ではないけど、結構いいタイムだったから、訊《き》いてほしかったんだけど。
 リビングには、妹が通り過ぎたあと、ぼくがなんと呼んでいいのかわからない香りが残っていた。
 妹は、ぼくが家にいつもいると言ってあきれる。そんなことはない、朝も夕方も外に出てるよ、と言うと、それは走ってるだけじゃない、と八割がた正しい指摘をする。二割分は、走る以外に、ストレッチとか補強運動もしているから。
 最後にリモコンのボタンを押すと、予約画面の表示が消える。九時になってビデオが動き出すときに、それでは妹は何をしているのだろう。
 春休みの妹は、よく出かける。だから、自分と比べて、家にいることが多いぼくにあきれるのだ。その点に関しては、きっと、斎藤と話が合いそう。
 斎藤だけでなく、ぼくの友だちは、よく妹のことを聞きたがる。まあ、単純に、人気があると言っていいのだろう。
 ぼくとしては、最近、長時間鏡に向かったあと、目のまわりがくっきりしてたりする、ひとつ年下の妹の評価をするのはむずかしい。うちの学校の購買部でノート売ってたりしたら、たいへんだとは思うけど。
「奈央《なお》ちゃんがだめなら、是非、是非、友だち紹介してもらいたい」
 とも、よく言われる。
 妹の通ってる女子校は、偏差値は、まあ適当に高い。それよりも、センスがよくて遊びかたがうまい子が多いんで有名、というのが斎藤たちの話。
 妹の学校の子を連れてたら、それだけで自慢できるらしい。
 たしかに、遊びかたがうまくないのかもしれないぼくの、いちばんの趣味は「息こらえ」なのだろうか。もともとは、趣味というよりトレーニングのつもりだった。大きく息を吸い込んで、止め、そのまま何秒耐えていられるか。一日に数回している。
 むしろ、それは毎日の練習の成果のチェックと言うべきかな。
 ぼくは、八〇〇メートルは、結局は、最大酸素負債量の勝負なのだと思う。理論書では、同時に最大酸素摂取量も大切だ、と書いてあるけど。
 酸素負債量というのは、簡単にいってしまえば、酸素を取り入れないで、からだとしては借金しながら、どのくらい運動が出来るかという能力。酸素摂取量というのは、決まった時間、一分ならその一分間に肺から酸素を取り入れる能力のこと。
 八〇〇メートルでは、スタートしてからの二〇〇メートルで、最大酸素負債量の70%に達して、そのあとの六〇〇メートルで残り30%がだんだんと増えていく。だから、二〇〇メートルから先は酸素摂取能力が重要になる、というのが運動理論。
 限界に近い酸素負債、つまり、もう借金で酸素が欲しくてたまらない状態でハイスピードを維持しながら、酸素をこんどは思いっきり取り入れていかなければいけない、だから、八〇〇メートル走者(TWO LAP RUNNERS)は、つらい。
 でも、ぼくの実感からいくと、なんといっても最大酸素負債量だな。
 酸素を吸収する能力も当然いるだろうけど、走っている間、それはそう意識してることではない。感じるのは、筋肉のなかに老廃物がたまって、悲鳴をあげているのを、おさえて、がまんして走り続けてる、そのイメージ。
 理想を言うとね、訓練して最大酸素負債量をものすごく大きくしてしまえばいいって思う。からだが、全然酸素なんか必要としないで運動できる。
 八〇〇メートルを走ってる間に一度も呼吸しないで、ゴール・インしてからはあはあ[#「はあはあ」に傍点]して取り戻す、それだけの能力があればいいわけじゃない。
 もちろん、そんなのは夢だけど。
 だから、ぼくの趣味は「息こらえ」。ひとに言わないけどね。
 変かなあ。
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