クライマーズ・ハイ54

  • A+
所属分类:日语阅读

      54

 
≪身元確認四分の三に≫≪ボイスレコーダー解析・「油圧全部だめ」と機長≫≪操縦室の苦闘まざまざ≫≪長引くか補償交渉≫≪群馬県警・検証を開始≫≪笑顔戻り、食欲も・多野病院の三人≫≪「くじけず頑張りたい」生存少女が会見≫
 その日の夕方から夜に掛けて、悠木は、岸と田沢の同期二人に挟まれたデスクで、赤ペンを走らせ続けた。
 亀嶋のどら焼き顔が寄ってきた。
「そろそろ出るかい?」
「五分で社会面は出します」
「了解。頼むよ」
 大部屋は昨日と少しも変わらなかった。誰もが普通に振る舞っていた。時に冷たいと感じ、また温かいとも思った。幸福な時間。そうだったかもしれない。
 心は凪《な》いでいた。
 やはり辞めたがっていたからか。そのきっかけを与えられ、組織の呪縛から解き放たれたということか。
 胸に、安西の台詞があった。
 下りるために登るんさ──。
 安西も同じ気持ちだったのだろうか。自らを縛る場所から下りるための儀式。衝立岩登攀をそんなふうに考えていたか。
 クライマーズ・ハイ……。
 安西に言い当てられたのかもしれなかった。入社して十七年、人込みを掻き分けるかのように記者の道を突き進んできた。「下りる」ことなど考えたこともなかった。だが、安西は見抜いていたのかもしれない。下りたがっている悠木の内面を。いや、下りることも、下りないこともできずにいる半端な生き方に苛立ちを覚えていた。だから、下りることを決意した安西は悠木を衝立岩に誘った。選択を迫っていた。いったいお前はどう生きたいのか、と。
 午前零時が近かった。
 大半の紙面は降版した。
 悠木は一面の大刷りに目を通していた。二度読んで、亀嶋に顔を上げた。
「OKです。降版してください」
 亀嶋は返事をしなかった。悠木の顔を穴の空きそうなほど見つめていた。
 悠木は腰を上げた。
 一つ息をした。
 外したペンバッジをそっとデスクの上に置いた。胸のポケットからボールペンと赤ペンを取り出し、バッジの傍らに添えた。
「家族はどうやって食わすんだ」
 隣の岸が、前を見たまま言った。
「なんとかする」
「無責任なことを言うな」
「景気はいい。職は幾らもある」
「嘘だったのか?」
「何がだ?」
「前に飲んだとき言ったろう」
「俺が何を言った?」
 尖った目が悠木に向いた。
「この仕事が好きだ。俺は一生書き続ける──そう言った」
「若い頃の話だ」
「俺はこの耳で聞いた」
「事情が変わった」
「変わってないだろうが!」
 怒声とともに襟元を掴まれた。凄まじい力だった。
「山にでもどこにでも行けよ! 飼い犬が嫌なら野犬にでも山犬にでもなればいいじゃないか。そこで書き続けろ。桜便りや夏祭やアユの放流や、何でもかんでも書けって!」
「放せ」
「放さん!」
 シャツが甲高い音を立てて裂けた。
「頼む。放してくれ」
「ダメだ。こんなことで辞めるな! 辞めるなら、本当に辞めたい時に辞めろ!」
 脳がぐらりと揺れた。
 本当に辞めたい時に……。
 岸は歯を剥き出しにして言った。
「同期じゃねえか。俺たち同期だろうが。一人で勝手に辞めるな!」
 言葉が、胸を貫いた。
 知らぬ間に周囲に人垣ができていた。亀嶋が頷いている。吉井が両手でシャクを握り締めている。共同原稿を抱えた赤峰は首を垂れていた。稲岡は胸を張っているように見えた。
 内勤だけでなく、外勤記者の顔も混じっていた。佐山の真顔があった。神沢は目を真っ赤にしていた。依田千鶴子は両手で顔を覆い、指の間からこちらを見つめていた。川島もいた。玉置もいた。その人垣の隙間から、不貞腐れたような田沢の横顔が覗いていた。
「悠さん──」
 佐山が進み出て言った。
「どこへ行ったって、俺たちの日航デスクは悠さんですから」
 思わず落涙した。
 叩きつけるように両手をデスクにつき、顔を隠した。
 きっといま自分は幸せなのだろう。こんな幸せな男はどこを探したっていないのだろう。
 音がした。
 目の前のファックスが作動した音だった。
 ぼやけた視界の中を、見覚えのある字が動いていた。
 
  悠木さんへ
  どうもありがとうございました。
  私、新聞記者を目指します。
weinxin
官方微信公众号
扫一扫关注官方微信公众号